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index > fanfiction > evangelion > あの夏、緑の下で僕たちは〜re-start,1989〜 > 8/10

「ごめんなさい」
「え?」
「ただ……——————たの……」 彼女の言葉はとても小さくて。
稲穂に浮かぶ蛍の光に沈み、彼の耳までは届かなかった。
それは小さいけれど、とても大切な想いを乗せた言葉だったのに。

はじまりは、ここから。

——— 8月14日

いつもの坂道を今日は自転車で上る気にはとてもならなかった。ただでさえこの一週間というもの、真夏日が続いていて大変だったのに今日は更にその記録を更新したらしい。
……とは言え、更新したのはここから40kmも離れた都市だから、こんな田舎町がどうであるかはわからないけれど。
彼の部屋には温度計などという日常生活にとって確実に不要であると思われるものなど存在しておらず、だからこれは体感になるわけだけれども、それでもやっぱり今日の気温は昨日を遥かに超えていると思う。
「だからって、歩いてもおんなじなんだよなあ、結局」
単純に疲労度で計ればどうなのだろう。
自転車でぜえぜえと息を切らせて上るのは平地より時間がかかるとは言え、歩くことよりも短時間で済むだろう。歩けば凝縮された疲れはないけれど自転車よりも長時間この炎天下に居なければならない。どっちがいいか、そんな愚にもつかないことを考えながら時折足元を暗くする場所もないことを知っている彼は、殆ど諦めに近い気持ちをやるせなく胸に抱えていた。
途中の、まるで展望用に設えたかのように左手の眼下に広がる町並みの向こう、海へ張り出している場所には大きな欅が緑の枝を広げている。坂の頂点にある図書館まで、そこまで行けばもうあと500mほどだ。何とかそこまで歩いて、とりあえずさっき坂の下の商店で買った缶ジュースで休憩しようと、気持ちを切り替えて足を動かす。
見上げる気にもならないが、空は今日も青く……いやむしろ白く、そして遠く瑞穂島を望む崖側から吹き寄せる海風が心地よく……汗に濡れたシャツが貼りつくから気持ち悪いだけだが……とにかく、どうにもならない気分で青年は歩を進めた。
そして、その「やるせない気持ち」がこの暑さから来るものだけではない、ということも、彼にはわかっていた。

——— 1989年8月10日,木

「碇君。来週の飲みには来るの?」
不意に横からかかった声に、営業日報を書く手を止めて顔を上げると、そこには少し目尻の垂れた大きな目があった。
「ん……どうしようかな。えーと、いつだっけ?」
つ、と不自然にならないように視線を避けたつもりだったが、彼女は気がついたようで訝しげな表情を見せた。もちろん、視線を避けていた彼がそのことに気付くわけもなかったが。それでも気を悪くしたわけではないらしい。
「火曜日。15日だね」
きれいに整頓された机の、『明日香工業株式会社』とでかでかと取引先名が書いてある、実用性と広告性だけを重視したような安っぽいカレンダーの日付を指しながら言う彼女に、伸治は呆れたような声を出した。
「15日って……お盆じゃないか。みんな帰らないのかな」
肩を竦めて同意する彼女に、
「霧島さんは帰るの?」
「私も悩んでるところ。帰省ラッシュとは関係ないんだけどね、最近帰ると煩いのよ」
彼女の出身が東京であることを思い出しながら、前半はああ、と頷いた彼だったが後半で首を傾げる。煩い?両親が、だろうけれど何が煩いんだろうか。
そんな彼の仕草を読み取ったのか、
「結婚しろ、って」
「ふうん。でもそんな年でもないんじゃないかな。霧島さんって、浪人してないよね」
「うん。だから碇君のいっこ下よ」
「ってことは26歳?」
うん、と頷く。
「それで結婚?」
「男と女じゃ違うんじゃない?実際、うちの兄には何も言わないもの。碇君は言われな……あ、ごめん」
慌てて口元に左手を当てて隠すような仕草。
けれども伸治自身は慣れたもので顔を顰めるわけでも、さりとて露骨に愛想を作るわけでもなく、
「気にしないでよ。僕自身が気にしてないんだからさ」
軽く笑う。

これは事実。母親のことは覚えていないし、父親とももう何年も会っていない。最後に会ったのが17歳の時だから、かれこれ10年になる。今ではどこで何をしているのかすらわからない状態だ。
—— 17歳、か。
ずくん、と痛んだ胸を彼は故意に無視した。忘れたくても忘れられない思い出は、こうして無視するほかにない。それがどれだけの救いになるのか、それはわからなくても。
だから無理に思考を元に戻す。捨てられた訳ではない、そう思う。
今でも年に1回くらいは手紙が来るし、彼も律儀にそれに対しての返事を出している。音信不通ではないのだから、それをもって『捨てられた』と言うのは可笑しいだろう。
それでも、妻——父、厳堂からすれば——に死に別れた傷心から立ち直れず、幼い彼を親戚の教授に預けて会社も辞め、暫くは自堕落な生活を続けていた父を恨んだこともある。
伸治も小学生だったし、そんな子供にその頃の父の気持ちをわかってやれというのも無理な話だ。だから彼が父を恨んで『捨てられた』と感じたのは仕方のないことだったろう。元来人付き合いのよくない父親のせいか、預けられた親戚の家も迷惑でしかなかったようで伸治の扱いは客でもなく親戚でもなく、ましてやわが子のようになどとはとんでもない、といったものだった。
母の死を理解していないわけではなかったが、子供だった彼には目の前の現実——叔父・叔母から受ける半端な扱いと、けして暖かくない視線——の方がよほど辛かった。
だから高校に上がると同時に厳堂からの養育費全額を家賃に当てるように言い、彼を体よく追い出そうとした叔父や叔母の言葉に唯々として従い、授業料をアルバイトで稼ぎ出した頃にはすっかり現実的で悲観的な人間になっていた。
けれど、その経験と……彼女との出会いが、彼を少しだけ大人にした。
厳堂の悲嘆も何となく理解できたし、むしろそんな中にあっても養育費の仕送りだけは忘れなかった父に感謝の念を浮かべさえした。たとえ親子であっても『自分ではない』点では他人なのだから。他人のために自分が稼いだ金を使うということはある意味慈善事業ですらある。
だから、更に年を重ねて27歳になった今では、父親というのは時折思い出す程度でしかなく、それも家賃分くらいの仕送りは欠かさないでいてくれたことに感謝する、そんな気持ちしか持ち合わせていない。

「それよりもさ、霧島さんは出た方がいいんじゃない?」
気にするなという言葉にもかかわらず、その瞳に悔悟の色を浮かべながら居心地悪く立ち尽くす麻奈に、話題の転換を提供する。
「あ、うん……え?どうして」
少し引き摺っていたようだが、彼の言葉にようやく本来の調子を取り戻して尋ね返す。
自分が気にしていないことについて気に病まれてしまうことくらい、落ち着かないことはない。だから彼もほっとして続ける。
「だってさ、霧島さんが出ないと出席者が減っちゃうと思うよ。ほら、あの1課のえーと、誰だっけ……例えば、鈴原とか相田とか」
事務所の奥、家庭用器具を担当する、もう灯りも消えて薄暗い一角となった1課の方へ視線を流しながら言う伸治に、麻奈はあからさまに嫌そうな顔をした。
「あー、えっと……ほ、他にもほら、加持係長とかさ」
別に伸治のせいではないのだが、何となく気まずくなって他の名前を出す。
今度の表情は『呆れ』。
「はぁ。あのさ碇君、わかってる?今度の飲みは同期会なんだってば」
「あれ?そうなの?営業部の飲みだと思ってたよ」
「回覧で回ってないでしょ」
「あ、確かに」
「同期会を覚えてないくらいに仕事に集中してた、ってことだと思っていいのかしらね」
「意地が悪いなあ」
苦笑する。飲み会などの集まりがあまり得意ではないから、できるだけ記憶から削除しようとしていたとはさすがに言えない。営業部の飲みだと思っていたから参加しなきゃいけないか、と思っていたのだが同期会なら欠席しても問題はなさそうだ。その意味ではほっとした。
安堵と呆れ。
それぞれを浮かべるそんな2人の背後から、良く透る声が落ちてきた。
「バカね、会社の飲みをお盆にするわけないでしょ」
振り返った目に映ったのは、制服の麻奈とは違い、グレーのスーツに身を包んだ、男なら誰でも振り返ってしまいそうなプロポーション。
「まだ帰ってなかったんだ。3課は忙しい?」
台詞の無礼さには慣れてしまった伸治が、自分の島を挟んで1課とは反対にある、蛍光灯が煌々とつけられ事務員までが残っている3課の方を見ながらわかりきったことを口にした。
「当ったり前じゃない。お気楽な1課や2課と違って、法人担当は忙しいのよ」
忙しいならこんなとこまで来なきゃいいのに。
恐らく麻奈も同じことを思ったのだろう、自然と視線が合って苦笑いする。
「なによ?」
「いや、確かに3課は忙しそうだなって思って。だけど、惣流さんはどうするわけ?」
「なにが?」
「だから、同期会。行くんだろ」
「何で私が行かなきゃならないのよ」
どうしてそんなことまで偉そうに言うんだろう、そんな疑問を胸中に浮かべたが、賢明な2人は口に出したりはしない。
同期入社でこの営業所に配属されている碇・霧島・相田・鈴原・惣流5人のうちで、霧島は一般職で営業支援課へ、公共施設の設備管理・販売を担当する2課には伸治1人、そして相田と、元は支社にいたが昨年転勤してきた鈴原は、家庭用器具を小売店に卸す1課に所属している。支社からも数百キロ離れた、市ですらない場所に存在するこんな営業所にも一往花形と言える課はあるわけで、企業に直接売り込みする営業3課がそれに当たる。
山や海ばかりで、僅かに開けた平地にしがみつくようにして作られたここに営業所があるのは、支社がカバーしきれない広大な地域を担当するために、その中心に位置する町に営業所を置いているわけだが——要するに田舎すぎて効率が悪いからせめて国道が通っていてそれなりに人口がある町に若手を配し、体力と気力で回れ、というだけに過ぎない。そんな営業所では当然、利益で言えば1課がトップだが、売り上げだけを見れば法人営業の3課になってしまう。
……伸治の所属する営業2課はそもそも課長1人に係長1人、そして営業員が彼を含めて3人しかいないのだから、恐らく、はなから相手にされていないのだろう。
ともあれ、鈴原と同様、入社時は東京本社の東日本営業統括部にいた惣流明日香は、例え左遷されてきたのだとしてもこの営業所内の同期ではやはりエリートだと言えなくもない。常に「あんたたちとは違うのよ」オーラを、下げ伝や稟議書を書きまくる2課よろしく景気よく振り撒いている。
ただ、東京本社や支社の同期はどうだか知らないが、この営業所ではそんな威嚇や虚勢は殆ど意味を成さない。体育会系で社内営業や出世を気にしていない鈴原や、趣味が全てで給料を貰うためだけに勤務していると割り切っている相田、そんな主義主張すらない伸治に一般職な麻奈では、明日香も張り合いがないことだろう。……こうしてふんぞり返っている姿を見ると、そうでもないのかも知れないけれど。
「でも、いち早く主任になった渚君なんかも来るらしいよ」
「渚……そう言えば彼も同期だったね。あ、惣流さんは本社で最初の頃は一緒だったんじゃなかったっけ」
麻奈は多少の皮肉を込めて。
そして伸治は何の気もなく。
2人からそれぞれ言葉を繋がれた明日香は、不機嫌さを隠そうともせずに、
「あんなナルシストになんか会いたくもないわよ。それで?あなたたちは行くの、行かないの」
もしかしたら彼女はこうして僕たちと息抜きをしているのかも知れない。彼は初めてそう思った。
ここへ異動になった理由は知らないが、確かに彼女は優秀で、3課では異動初年度の第4四半期で既に売り上げトップをとっていたような気がする。3課でトップということは営業所内でも売り上げ1位ということなわけで、合同朝礼で表彰されていたように思う。
それは常に彼女が何か——同期だったり同僚だったり、或いは上司や他社の営業、その他にも考えられるあらゆる環境や社会と戦って勝っているということなのだろう。自尊心の強い彼女が、営業という頭を下げてなんぼの職業でやっていけるのは、どこかで息抜きをしていなければならないわけで、それがこんな時間なんじゃないだろうか。
東京の本社では全員が全員ではないだろうけれど、恐らくこんな時間を持つこともできなかった、だからどこかでボロが出てしまった、そしてそれが人間関係の悪化に繋がり……
そこまで考えて彼は、推測を止めた。
どうであれ彼女自身の問題だし、あくまでも推測でしかない。曖昧な情報と推測だけで他人を定義付けることほど危険なことはない。
彼女がこうしてくだけてくれるのなら、それは自分たちには多少なりとも心を許してくれているのだろう、そう好意的にとっておく。だから彼は向けられた言葉の内容だけに対して返答することを選んだ。
「僕はやめておくよ」
明日香はその答えに対して、予想通りだとでも言うかのようにまったく表情を変えなかった。
「麻奈は?どうするのよ」
「うーん、私もやめておこうかな。あんまり話したこともないし、特別会いたいとも思えないしね」
「うちの営業所は出席率悪いわね。鈴原君と相田君しか行かないってことじゃあ、出席率半分以下よ?だいたい、碇君は顔だけでも出して向こうの連中と繋げておいた方がいいんじゃないの」
「……意外」
「は?」
思わず口にした彼の言葉に、今度は反応した。
「何がよ」
訝しげな瞳を向ける彼女にまだ少し呆然とした様子で、彼は口を開いた。
「いや、惣流さんがそんなこと言うなんて思ってもみなかったからさ。他人のことなんてどうでもいいんじゃないの?」
「基本はね」
「でも、他人って定義にもよるんじゃない?」
「ん?」
「は?」
麻奈の一言に疑問符を浮かべながら伸治と明日香は同時に声を発した。
2人の反応に、ちょっと引きながら、
「あ、いやその……自分以外のことを他人って呼ぶのが最も狭義な他人だろうけど、それが家族以外を指す場合だってあるだろうし。親友までを含むのか、それとも友達までか。うーん、あとは知り合いまで含めるとか、碇君が言ったのが同僚まで含めるんだったら、惣流さんにとっては他人じゃないってことになるんだろうし」
「ふむ。まあ確かにそうね」
一気に喋ったが、明日香が腕を組んで同意に近いことを述べたのに安心したのか、麻奈はほっと胸をなでおろした。それは同意でもなんでもなく、単に一般論として麻奈の発言を肯定したに過ぎないのだが。伸治はもちろん、そのことに気付いていた。
「でもさ、じゃあ惣流さんの基本って何かな?僕が他人ではない、ってことを肯定したわけじゃあないんだろう?」
「ま、ね。でも碇君だけじゃないわよ。私にとっては自分以外が他人ってことなわけで——そうね、麻奈の言葉でなら『最も狭義な他人』の定義を採用しているってことね」
「じゃあ、明日香にとっては自分—他人—家族—友達?」
「う〜ん……自分—他人—家族—知り合い—友達ね」
「あれ?知り合いと友達に分かれるんだ。そういえば恋人ってのが入ってないけど、惣流さんって彼がいなかったっけ?」
「な、なんであんたがそんなこと知ってるのよ!っていうかいないわよ、悪かったわね」
別に怒らなくても、いや照れてるのかな?
そう伸治は思ったが、これもまた口には出さない方が賢明だろうと判断した。彼女が伸治や麻奈などを「あんた」と言う時は大概本気なことが多いから。
それに、最後の「悪かったわね」が何となく、突っ込むなと暗に言ってるような気がしたし。
そんなことをぼんやりと考えている間にも、明日香から(とばっちりに過ぎないが)麻奈への切り返しがあり慌てた麻奈が両手をぶんぶんと振りながら返事をする。
ここらで会話は彼女たちに任せて、営業日報の続きをさっさと終わらせようかと思いながら愛用の100円ボールペンを握った彼を、けれど彼女たちはそう簡単に解放はしてくれなかった。
「で、碇君はどうなのよ」
「はい?」

彼女たちの帰宅によって同期の美女2人から解放された時には、既に3課の灯りすら消えていた。
「はぁ〜、まったくもう。霧島さんも結局は何だかかんだ言いつつおしゃべりが好きなんだよなあ」
ぼやきつつ書類を鞄に詰めるとデスクの蛍光灯を消す。経費削減だか何だか知らないけれど、デスクスタンドだけで残業させられるのはどうかと思う。テレビを見ていると世の中は好景気だそうで、ドラマでしか見たことないようなオフィスで経費も使いまくって仕事をしている会社が実在する——それどころか、東京の方では一流と呼ばれる企業の大半がそうなっているらしいが——ということで、それを見た時には心底羨ましいと思った。
広い事務所なだけに窓も大きく、外の明かりが入ってくるから問題はないと言え。それでも暗い中で1人、帰り支度をしているというのも何だか淋しいものだ。
とにかく早く帰ろう、そう思っていちおう消し忘れたものがないか確認のために、非常口の緑のライト以外の電気がなくなった事務所を見渡し……いや、他にひとつだけあった。
はあ、と溜息をひとつついて、彼はその唯一の灯りを消そうと加持係長のデスクに手を伸ばす。
が、直前とはた、と止まった。
一体、どうやって消せばいいんだろうか。
間抜けな話だが、事務所でただ1人だけしか使っていないし使えもしない。そんな機器の消し方なんて彼には当然、わかるはずもなかった。ワープロくらいなら使えないこともない。実際、課に1台ずつ文豪が入っているし、確か惣流もOASYSを使っていたはずだ。夏のボーナスで自分も買おうかどうか悩んでいる。
だが……
「係長ぉ〜、ちゃんと消して帰ってくださいよ」
とほほな表情で愚痴るが、考えたって使ったことのないものの消し方なんかわかるはずもない。電源らしいボタンはあることにはあるが、無闇に押して壊れるのもまずい。新らしモノ好きな係長にも困ったものだが、ここは仕方ないだろう。
そうして伸治は鞄を持って薄明かりの中、ドアを出て行った。
後にはPC-98DOと書かれた白い箱だけが、微かな明かりを点していた。

こんな田舎だ。当然だが街灯の数も少なければその間隔も広い。それ以前に舗装されていない道があること自体がどうかと思う。
ぽつぽつと遠い間隔で並ぶ明かりの下を歩きながら、伸治は明後日からの休みをどう過ごすかという不毛なことを考えていた。
とはいえ、どう過ごすかも何もない。学生時代に時折遊んでいたゲームなんて「ディグダグ」か「ギャラガ」くらいなものだし、今ゲームセンターに行ったところであるかどうかも怪しい。そもそも、ゲームセンターに行くには隣町まで行かなければならないし。
「洗濯しないとな。晴れればいいんだけど」
誰もいない夜道で呟いて、そのおかしさに思わず苦笑を浮かべる。7月からこっち、ずっと週休1日だったから久しぶりの連休になる。それなのに、やることが掃除・洗濯などの「やりたいこと」ではなく「やらなきゃいけないこと」でしかないというのはどうだろう。とは言っても、休みの間に仕事をする気分ではない。実際、書類は溜まっているけれど。
15日にあるという同期会に出るという気分ではない。出たとしてもたった1日の暇な時間が潰れるだけだ。
車でも持っていれば少しは違ったのかも知れない。こんな地方では車が必需品だということはわかってはいるのだが、薄給ではなかなか簡単に買うというわけにもいかない。鈴原も相田も自分の車を持っているし、惣流などはもちろんローンなのだろうが、真っ赤なMR2を買ったのだと自慢していたような気がする。時々、3人が車の話をしている時に疎外感を感じてしまうのは、自分と霧島の2人だ。とは言え、霧島も「幾らなんでも、ここで足がないのは困るから」とスクーターを使っている。
通勤も車が許されているのだから買った方がいいことはわかっているのだが、彼はバスの車窓を流れる景色を眺めるのが好きだった。切り立った崖の多い海岸線を走る国鉄—— 一昨年、JRに名称が変わったが——ではトンネルが多く、風景を楽しめない。終電が早いこともあって、バスの交通費も許可されていることから、彼はバスを利用していた。
海岸沿いを走る国道の路線は、眺望だけならば素晴らしい。……その代わり右に左にとハンドルを切るので、乗り物酔いはするが。
朝の霞んだ空気、薄い緑の中をゆっくりと走る。
途中で乗ってくるのは駅まで距離のある住民たちだけ。
乗客の少ない車内の最後尾座席に座り、朝は右手の緑を。そして夜は波間に漁火が瞬く黒い海を。
同期の4人には「変わってる」と一笑に付されてしまうような気もするが、せめて通勤では自分の気持ちが癒えるようにしたいと思ってもいいだろう。

真っ直ぐ歩いてきた道が国道に突き当たり、右に曲がる。すぐそこにあるバス停で数分を待つことになるが、交通量も少なく空気もきれいだからさして苦にはならない。
錆びた停留所名の看板を見ながら、彼は何となしに聞いていた彼女たちの会話を反芻した。

『麻奈こそ、どうなのよ。あんた地元に彼氏置いてきたんじゃなかったっけ』
『あー……まあほら、遠距離恋愛なんて続かないってのが普通じゃない?』
『案外冷たいわね、あんたも』
『明日香だって。聞いてるわよ、大学時代から続いてる彼氏の話』
『……時間も距離に似ているわよね』
『なに遠い目してるのよ』
『う、うっさいわね』
『そう言えば鈴原君はもうじきらしいわよ』
『なにが?』
『結婚』
『結婚ん〜〜〜?』
『そんなに意外かな。大阪の人らしいからあれじゃない?ほらいつだったか同期会で言ってたって言うか、自慢してた人』
『んー、ああ、あれね。中学の時から付き合ってるってやつ?』
『凄いよね、中学からって言ったらもう何年?えーと……10年以上!?』
『よく飽きないわよね。まあ人のことなんかどうでもいいんだけど』
『まあ、確かにたかが5年で時間が〜とか言ってる明日香には真似できないよね』
『う……煩いわね』

惣流の言うとおりだ、そう思う。
時間も距離に似ている。どちらも対人関係にとっては障害となり得る点で。
そして、その逆がまたあり得ることも事実だ。
心情的には鈴原に近いかも知れない。
この営業所に配属されたことを、喜べばいいのかどうか悩んだ入社当時にことが思い浮かぶ。彼が中学時代を過ごしたのはここから少し行った山側だが、高校で1人暮らしをしていたのは今のアパートに程近い。
逃げるようにして東京の大学を受験し、そのままここへは帰って来なかった。
そう、逃げたのだ、自分は。
何から?
それは彼女からなのか、それとも心という曖昧なものに巣くう痛みや思い出といったものなのからか、或いは痛みを感じてしまう弱い自分からなのか。
それはわからないけれど、逃げたことだけは確かな事実だと思う。
大学で何人かと付き合う機会はあったけれど、誰とも1年以上は続かなかった。それも結局は、自分のせいで。逃げている自分の弱さのせい、と言い換えてもいいかも知れない。
忘れるために東京へ出たくせに、忘れたいと思っていたくせに営業所がここにあることを知りながら面接を受けた、そんな自分の脆弱な心のせいで。
そして、少しでも土地観のある営業所に優先配属される会社の方針で、この営業所に決まった時に感じたのは痛みだったか悦びだったか。
今でもこうしてバスを選んでいることすら、結局はあの頃の想いを忘れずにいるからなのかも知れない。いや、多分そうなのだろう。
朝の緑が見たいわけじゃない。夜の海が見たいわけじゃない。
ただ、あの頃の彼と彼女を、もう一度見たいのだ。
月に数度、「たまには」と言い訳しながら自費で電車を使っているのも、国鉄がJRに変わってしまったことに淋しさを感じるのも、すべて『あの頃に戻りたい』という気持ちから来ているのだから。
未来ではなく、過去を振り返ってばかりいる自分。
その弱さが彼をこうしてこの土地に縛り付けている。
いや、自分からしがみついているのかも知れない。
楽しいことなんてなかった少年時代、その中にあって唯一、輝いて感じていたあの頃の……高校時代の、ほんとうに短いたった5日間の出来事に。嬉しい、楽しい、という言葉では表すことのできない彼女との出会いに。

「そのためだけに、今こうしてここにいるのかも知れない……」
近づいてくる最終バスのヘッドライトを見ながら、彼は呟いていた。