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index > fanfiction > evangelion > あの夏、緑の下で僕たちは〜re-start,1989〜 > 8/14

彼女の目が苦手なのは確かだ。
なぜか、と言われても困るのだけれど。
ただ、そう——見透かされているような気がする。会ったことなんてなかったのに、弱かった、いや今でも弱い自分を、弱くなってしまった自分を、そしてその理由を。
そして何に対して弱いのか、をも。
それだけではなくて。
きっと。
あの時の彼女の瞳を思い出させるからかも知れない。あの時の彼女の瞳が、その更に前の彼女の瞳を思い出させることから逃げ出した、あの時の彼女の瞳を。

だけど。
仕方ないじゃないか、怖いものは怖いんだから。
誰とも関わらずに生きていくことなんて、できやしないんだから。
そのことを、あの日に知ってしまったのだから。

あの時までは、そうやって自分を慰めていた……

だいきらい。

そうなんだ。全然知らなかったわ。
私も驚いた。すごい偶然ってあるものなのね。……ならちょっと、お願いしたいことがあるんだけど。
———
え、でもそんなこと私には……
いいのよ、思ったままを伝えてくれれば。先生もそれを望んでいるんだから。
それは私の思ったまま、ではないでしょう。
大丈夫、信用しているから。あなたの思ったままで構わないわ。

——— 1989年8月13日,日

昨日、図書館から借り出した2冊の小説は読み終わってしまった。
これはいよいよ本格的な暇に苦しみそうだなあ、とどこか他人事のように妙なことを考えながら、伸治は坂道を上っていた。
「太陽はどこまでも高く、空はあくまでも広い」
思わず呟いてしまった自分に、こりゃ重症だなあと苦笑い。別に意味なんてない。ただ何か言葉を口にしていないと気が遠くなりそうな感覚だっただけだった。言葉と行為に意味はなくても、吐き出されてうだるような暑さと湿気で重たい空気の中を流れっていった内容は、間違ってはおらず、その通り太陽は彼に対して垂直に突き刺さり雲ひとつ浮いていない空は、見上げるのも嫌になるほど高かった。
こんな暑さの中だ、好き好んで坂道を上らなければならない図書館に行く人間なんていないだろう、そう思ったのだが他にも物好きがいたようだ。
右の眼下に広がる町並みと、その向こうに太陽を反射する海を見下ろしながらカーブを曲がると、ようやく大木が木陰を作る張り出した場所に到着する。いつもなら。ただでさえ住民の少ない町で、更にこの暑さを図書館に通う彼以外には誰にも出会わないのだが、今日は先客がいた。
一休みしていきたかったのに、そう思って溜息をつきながら仕方なく通り過ぎようとしたのだが、その人影に見覚えがあったために彼の足が止まる。
「あれは確か……」
誰だっけ、と首を捻る。あまり手入れしていなさそうな黒髪、けれど学生ではない。彼とほぼ同年代に見えるが記憶の中で薄れ掛けている同級生ではない。気になったせいか、少し足早に近づくとどうやら1人ではないらしい。その姿を確認した途端、動かしていた彼の足が再び止まる。
人影に隠れて見えなかったが、少女——白いワンピースにツインテールに結わえた高校生くらいの女の子が隣に立ち、青年と一緒に海を見ていた。特に会話があるわけではなさそうだ。あまり動かないその2つの影に、けれど炎天下で彼の足を止めたのはそんなことではなく。
その少女の髪の色が、あまりに似ていたから。
記憶に……彼の思い出からいつまでも消えてくれないあの夏の残滓に、どこまでも彼を捉えてしまっているあの少女に。
時折吹く海からの風に、少女の長い髪が揺れる。
その髪の色のせいか、光を反射しているように見えて伸治の眼の奥が痛くなる。
これは、ダメだ。
このまま動かずにいたら鮮明に思い出してしまう。
それはいけない。まずい。

右手を強く握り込み、彼は何とか足を踏み出す。足元がふわふわとしてアスファルトを踏んでいるのかどうかもわからないのは、陽炎のせいだろうか。ぼんやりとした視界とは裏腹に、喉の奥から何かがこみ上げてくるような感触だけがはっきりとしている。
大丈夫。
もう大丈夫。
忘れられる。
あの日から何度も繰り返してきた言葉を心中で唱えながら、できるだけ視線を上げないようにして足早に——果たして本当に早く過ぎることができたかどうかはもう彼の中で判然とはしていなかったが——何とか通り過ぎる。
カーブを過ぎ、彼らの姿が完全に見えなくなる、そして彼らの視界からも自分がまったく隠れてしまう場所まで来てようやく安堵の息をはく。けれども後ろを振り返る勇気だけは持てなかった。見えないことはわかっているが、どうしても背後を気にしてしまう。
……大丈夫。
もう一度繰り返して足の動きを早める。
既に彼の中で、暑さやシャツを濡らす背中の汗、蝉の合唱などは消え去っていた。
あれは彼女ではない。彼女であるはずもない。そしてそのことはもうこの12年という年月の中で自分でも納得していることだ。
完全に音と熱気の消え去った8月の下を、彼は歩く。
大丈夫、僕はもう忘れられる。彼女のことを。
あの夏の自分を。
そう呟きながら。

——— 1982年8月13日,金

「……どうして何もかもが忙しないんでしょう」
呆れたように言う伸治に、隣で苦笑する気配がした。
けれど同意とも謝罪とも取れない、なんとも言えないような言葉が返って来たのは彼らの頭の上からだった。
「まあまあ。何とか間に合ったんだし、ね」
何度も言うようだが、彼らのゼミでは4年生は神である。だから当然ながら彼もそれ以上強く言うこともできず不満を表情だけで押し留める。それは啓太も同様で、苦いんだか笑っているんだかわからない微妙な表情のまま、
「伸治の不満もわかるけど。麻耶さんの言うとおり、間に合ったんだから良しとしようよ」
「別に怒ってるわけじゃなくて。嫌な予感がするってだけだよ」
言いながら、時刻表を開く。
ちなみに茂と誠は先ほどのホームでの爆走に疲れ切ったのか、誠が麻耶の隣に、茂は伸治の背後でぜぇぜぇと荒い息を吐き出すだけだ。
「茂さん、暑いです」
「はあ、はあっ……くっ、……はあ、う、うるせぇ……」
伸治の痛烈な批難を込められた台詞にも喘ぎつつ答えるだけ、しかも彼の背中にもたれかかっている状態では迫力のないことこの上もない。
「プラン作ったの、茂さんじゃないですか。あれだけ早く集合時間設定していたから、てっきり大垣夜行が混むってことは知ってたんだと思ってましたよ」
伸治の目の前でカシュッと心地よい音を鳴らしながら缶を開け、話しかけた啓太にぐったりしていた茂は言葉よりも音に反応する。
「……はっ、はあっ……け、啓太……ふぅ。それくれ、くれ」
「はあ。いいですけど」
目の前で啓太の手から茂に手渡される缶を見て、伸治は眼を見開いた。
「啓……」
「うぐっ!ナンだ、これ」
そのまま思ったことを口にしようとした途端、茂の言葉に邪魔される。
「何って、コーヒーですよ」
「お前、全力疾走で乾ききった喉に、コーヒーかよ。しかもコレ、見たことないぞ」
「そうですか?」
そこへ息を整えた誠がティシャツの胸元をパタつかせながら覗き込む。
「お、VIVOじゃないか。しかも夜の珈琲とは洒落てるな」
「誠くん、知ってるの?」
「もちろん。麻耶も知らないのか」
缶を見ながらこっくりと頷く麻耶。
「伸治は?」
「いや、僕も知らない。初めて見たよ、こんなの」
啓太の質問に伸治が答えてる間に、「俺は大丈夫だから、くれないか」と言いながら手を伸ばす誠に缶を渡す。手渡されたそれに、温いと文句をつける誠に、
「文句言わないの。だいたい私と伸治くん、啓太くんが列取りしてなかったら誠くんだってこうして座席に座るなんてことできなかったのよ。もう、何だってこんなぎりぎりになったのよ」
麻耶が少し顔をしかめながら嗜める。恐らく彼女には、誠が胸元に送っている風の戻りがかかって汗臭いのが我慢ならないのかも知れない、声がだいぶささくれ立っている。
「あー、いやそれについては悪い。昨日の夜、ちょっと茂と遊びすぎて」
「朝まで飲んで、夕方まで寝てたってことですか」
時刻表を繰りながら伸治が問う。げー、とか、うー、とか煩い背後はこの際無視だ。どうせそのうち麻耶がお茶をあげるんだろうし。
伸治の問いかけに返って来たのは、あははという乾いた笑いと、まったくもう、と呆れきった麻耶の声だった。

「それで、伸治は何をしてるわけ」
誠からコーヒー代の100円を受け取りながら尋ねる啓太はやや窮屈そうだ。伸治の方は背中の茂がぐったりと暑苦しいものの、知り合いだからまだ気兼ねする必要がない分ちょっとだけ余裕があるけれど、同じように通路に座り込んでいる啓太の後ろは同じような学生グループがいる。どうにも気になるようで体を少し揺すらせて落ち着かない。
「うん、接続を調べておこうと思って。代わろうか、啓太」
「あ、大丈夫、うん。そっか、確かに茂さんの計画じゃあちょっと心配だしね」
頭の動きだけで答えると、そのままページを繰りながら小さな数字に視線を走らせる。どうせ夜行快速だから早朝にしか着かない。すぐには電車も動いていないだろうから、そこで立ち食いソバかなあと思いながら顔を上げ、
「麻耶さん、旅館って何時までに入れば良かったんでしたっけ」
「旅館ってほどいいものでもないんだけどね。明日の夕食は外してあるから、連絡さえ入れれば深夜でない限りは大丈夫だと思うわ」
暑さのためか、それとも旅館と呼べないほどの宿の衛生状態を気にしたのか。麻耶は浮かない表情で答える。
するとここからこれに乗って、とぶつぶつ言いながら再び時刻表に目を落すが、はっと気がついた。
「ちょっと誠さん、いいですか」
「ん、どうした伸治」
「よく考えたら夜行を使う必要って、ないですよねぇ……」
「えっ?」
反応したのは麻耶と啓太だった。覗き込んでくる麻耶の後ろで誠が苦笑している。2人に時刻表を見せながらその顔を見た伸治は、やっぱり確信犯か、と諦めを感じていた。
「そうか、明日の夜までに旅館に入ればいいんだったら」
「……確かにわざわざ夜行で行く必要はないわね。朝早く出れば十分来られるんだから」
「ははは」
「ははは、じゃないわよ。どうせ考えたのは茂くんなんでしょうけど」
「いやあ。まあいいじゃないか、こんな時でもなけりゃ麻耶は夜行なんて使わないだろ」
「そんな問題じゃないわよっ」
「すっかりやられましたね……まあ、早朝出発より時間的に余裕があるのはいいかも知れませんけど」
「おっ、啓太いいこと言うね。そうそう、時間には余裕を持った方がいいじゃないか。それに向こうに着くのが朝早ければ色んなとこ回れるしさ」
そう、思い出してみれば。
大学に合格して引っ越しをする時は確かに夜行快速を使ったけれど、それは荷物の到着時間にアパートにいるのが難しかったからで。入試会場の下見の時は普通に出発だった。直近で使ったのがその引っ越しの時だったこととか、会場の下見よりもやはり新しい生活を始める緊張感があったためとか、理由はあるだろうけれどそのことをすっかり忘れていた伸治だった。
「まあ気付かなかった僕も悪いんだけど」
「あれ、伸治?気付くって……知ってるの、この場所」
しまった、と思ったが後の祭。
耳聡く聞きつけた啓太の言葉に、茂や誠、麻耶も反応していた。
「そういや伸治の出身がこっちの方だとは聞いてたけど、場所までは知らなかったな」
「そういやこの辺りじゃ方言もそれほどないだろうし」
「で、この近くなの、伸治くん」
視線を集めてしまったことに溜息をつきながら覚悟を決める。出身地の話になると、どうしても高校生活や昔の話題になる。当たり障りなく答えることもできないでもないが、彼にはわずらわしかったのだ。
けれど、次の答えで伸治は更に失態を重ねてしまった。
「はあ。まあこの近くって言えば近くですけど」
「マジ?じゃあ景色のいいとことか、知ってるよな」
曖昧な答えに茂が早速喰らいつく。嘘でもいいから周辺の適当な地名を答えておくべきだったのだ。曖昧な言い方だからこそ、もうこうなったら明確になるまでどこまでも話題の中心になってしまう。
「あ、いやまあ……あることはありますけど」
「へぇ。海もきれいそうだよね」
「俺は山の方にも行ってみたいな。伸治、その辺どうなんだ、どっちも行けそうか」
「山にも海にも行ける場所なのか、伸治の出身地は」
これはもうダメだ。誤魔化しようがない。
それでもあがく。
「あることはありますが」
「待てよ、だとすると、伸治の家に泊めてもらって宿泊費を浮かすって手もありなわけだ」
茂の言葉に、ぎょっとする。が、何とか洒落で済ませてしまえ、と開き直った。
「茂さん、勘弁してくださいよー、あまり親と仲良くないんで」
「何だよ、お前もか」
「まあそんなもんじゃないですか?」
「うーん、まあそりゃそうか」
誠はいざ知らず、茂は高校時代から音楽活動をしており両親と折り合いが悪いことは聞いている。それで何とか同情をひいて誤魔化そうとしたのだが、うまくいったようだ。
「ま、仕方ないよ。とりあえず伸治の知ってるポイントだけ教えてくれないか」
誠がタイミングよく入ったことで、ようやく話が伸治自身の過去から離れていきそうだ。そのことに安堵しながら地図を広げて海岸、山を指し示していく。乗り出した誠や茂、興味深そうに聞いている啓太。
けれども、麻耶だけは話に加わっているように耳を傾けながらも、何かを探るような目で伸治を見ていた。

——— 1977年8月13日,土

目覚めは悪くなかった。
朝の涼しさは変わらないし、近所の野原から聞こえてくるラジオ体操もいつも通り第二に入ったところだ。
朝早いだけあって、蝉の声もない。少し締めが緩かったのだろうか、単調な間隔で一定のリズムを刻む水滴の音が部屋の中に届いてくる。その音を耳にして、起きて締め直さなきゃ、と思った彼はうっすらと目を開けた。
「……知らない天井だ」
天井そのものは知っている。見飽きたと言ってもいいくらいだ。高校に進学してこの安アパートで暮らすようになって1年半、毎日見てきたのだから。
違うのは、電灯の位置や薄暗さだろう。ラジオ体操の音から目覚めた時間がいつもと同じことはわかる。だが、こんなに暗かっただろうか。或いは自分の目がまだはっきりと目覚めていないせいで視界がぼやけているからなのか。
「あれ?」
おかしい。
視界が暗いのはそれでいいとしても、やけに水滴の音が近い。ラジオ体操や蝉の声であるならば、寝起きでぼんやりしているから、という万能の言い訳を使うことも可能だろうが、音が近い、というのはその言い訳でどうにもならないのではないか。
しばらくぼんやりとした頭で天井を見つめていた彼は、ようやくはっきりしてきた意識で情報の整理と理解を終えると呟く。
「そっか」
ここは台所で、いつも寝ている布団には彼女、そう昨日突然しばらくぶりに見た父親の厳堂に連れられてやってきた不思議な色の髪と目をした彼女に占領されている。いやまあ、自分から譲ったのだからその言い方は妥当ではないのだが。
ごろり、と部屋に向き直ると視界を埋め尽くすのは茶色い、ところどころベニヤの板が剥がれかけている机の裏。親戚の家を出るときに物置から発掘して譲ってもらった年代物だから仕方ないのだが、そろそろ接着剤か何かでくっつけておいた方がいいような気がする。新しいものを買おうという発想にならないところに、貧乏性が完全に身についたなあ、と苦笑する。
覚醒が進んでくると、単純なリズムを刻む水の音が気になる。のっそりと起き上がるとのびをひとつ。んっ、と小さく、すぐそこに机ひとつを隔てて眠っているだろう少女を起こさないように小さく声を出すと、押すとべこりとへこむ安っぽいシンクを打つ水滴を止める。
きゅっ、と高い音に、起こしてしまったかなと部屋を振り返るが、雰囲気は未だ動きを見せていなかった。
台所で水道に向かったまま、顔を洗ってしまいたくなるがこの時間に起こしてしまうのもかわいそうな気がして、踵を返すと布団を静かに畳み昨夜のうちに枕元に置いておいたジーンズとティシャツに着替える。
衣擦れの音がラジオ体操の終了間際の音に静かに重なり、やがて最後の深呼吸の音楽と共にベルトの留め金の音が止まる。途中、財布を持つ習慣のない彼のポケットがちゃり、と軽い金属音を響かせたがそれ以外に目立ったこともなく着替えを済ませると、後ろポケットをまさぐり紙の音を確認する。確か500円札があったはずだ。
ポケットの小銭を数えるのは煩そうだから、さっきの音と重さで何となく数百円くらいはありそうだと思うことにする。2人分の朝食くらいは買えるだろう。
足音を立てないようにサンダルをつっかける。
ノブを押さえながら鍵を回し、最後の難関をいつもの数倍の時間をかけて捻ると少しの隙間からすべりでて静かにドアを閉める。
握ったまま掌で音を吸収するように鍵を閉め終わると、ふうっと軽く息を吐いて階段へ向かう。
今日は過ごしやすくなりそうだ。
深い青から水色へと変わりつつある東の空を眺めながら、早朝の空気を肺に満たし、彼は幾分軽い足取りで雀の声の中を歩き出した。

「今日は何かあるかな」
アパートの1階に降りて101号室の横、空き地前にある共用の水道で顔を洗い、水滴を乾かす涼やかな風を受けながら300メートルほど木々の下を歩くと無人鶏卵売場に着く。基本的には卵だけだが、時々野菜が置いてあるので楽しみにしているのだが、崩れかけたバス待合所のような雰囲気を持つそこあったのはトマトだけだった。卵はそれほど減っていないし、もうひとつの段ボールが空のまま置いてあるから恐らく胡瓜か何かはあったのだろう。
「珍しいな、こんな時間に」
普段の学校がある時ですらこんなに早く起きたりしない。それでも野菜が幾許か残っているものなのに、こんな時間に売り切れているとは。
ちゃんとしたサラダは作れそうにないな、と口の中でもごもご言いながら2つほどトマトを選び、代金を横にかかった缶の中に放り込む。卵2つ分も忘れずに。
冷蔵庫にはレタス、冷凍庫には食パンが残っていたはずだ。せめて胡瓜があれば何とか格好のつくサラダができそうなものだったが、ないものは仕方がない。レタスは昨日買ったばかりだからまだ保つ。今日のところはトマトと目玉焼きだけにしておくか。
「そういや、好き嫌いを聞いてなかったな」
ふと不安になるが、よく考えてみれば食パンにトマト、卵だけだ。今までのところその3つが食べられない人間に出会ったことはない。それが何の根拠にもなりはしないのだが、とりあえずのところはそれで自分を納得させることに成功した彼は、そのままもと来た道を辿る。

夏は白み始めてから朝になるのが早い。
天蓋を作るかのように高く繁る木々の隙間から覗く空は既に光を満たし始め、足元からのぼる湿った土と草の匂いに視線を落すと、朝露に木漏れ日が輝く。
彼のサンダルが草を踏む音、合奏の呈を相してきた小鳥の囀り、風にそよぐ木々のざわめき、ようやく夏の一日を始める音が満ちてくる。「はじまり」の湧きたつような、落ち着かないようでいてそれなのに心の芯に静謐が横たわっているような、そんな不思議で心地よい感覚に身を任せながらアパートへ向かう。
いつものようで、いつもと違う一日の始まり。
普段であれば手にしているトマトだって卵だって1つずつしかない。毛布を敷いたとは言え、堅い板敷きで寝たからだろうか、少し凝った体の違和感に改めて少女の存在を思った。
「綾波玲、か」
半日をかけても彼女のことを理解することはできなかった。彼女のこと、どころではなく、彼の置かれた状況を理解することすら不可能だった。事実は事実として受け入れる他に手はなく、何とか少女の同居(なのか、一時的な滞在なのかすら彼はまだ知らないけれど)を認めることしかできないままに昨日は終了してしまったのだから。
あまりよく知らないとは言っても血の繋がった父親だ。その厳堂が連れてきて託したわけだから、犯罪だとか何とか、そういったいわゆる「やばい」関係でないことは確かだと思う。というか思いたい。
半日あったにも関わらず、大した会話をしていない。
わかったことと言えば、とりあえず父と関係のあるということ、あまりその辺の事情を話したくないということ、それに少女の名前が「綾波玲」であること、ただそれだけである。
そんな少ない情報のみでよくまあ同居を容認したな、と自分のことながら感心してしまう。
もちろん、同じ空間で過ごす以上、必要最低限の情報を取得しようと健闘はした。
健闘はしたのだが、ただそれだけだ。頑張ったからと言って結果が必ずついてくるというものでもないんだな、と妙な現実認識を得たのが昨日の唯一の収穫だったと言えなくもない。……あまりにも情けないが。
会話としてまったく成立していないわけじゃないんだよな。
彼女との一連のやりとりを思い出す。どうしても答えられないこと——父との関係、どうして自分に会いたかったのかなど——以外の質問には、言葉少なながらも答えてくれるし、彼女から言葉をかけてくることもあった。その言葉自体は圧倒的に文字数が足りないものではあったけれど。
十分とは言えないコミュニケーションを取りながら彼の中で決定した対応は、「彼女について知らないことばかりなのだから、距離を置いて接するしかない」ということだった。周囲に比べても他人と親密になることが少ない自分ではあるけれど、そのことを差っ引いてもこの対応はごく当たり前のことではないかと思う。寧ろこの現実を受け入れただけでも、普段から冷静沈着を心がけていた甲斐があったと自分を誉めてやりたいくらいだ。
そうだ、つまりはいつも通りでいればいい。
見慣れたアパートの灰色の壁を見ながら、彼は思う。
向こうが必要以上の情報を教えてくれないのなら、こちらも必要以上に接しなければいい。中学校でも叔父の家でも、そして高校に入ってもそうしてきた。相手の自分への対応に合わせて臨機応変、相手の態度に合わせて近すぎず遠すぎず、適切な態度をとっていればいい。人間の関係なんてそんなものだ。どちらかが一歩的に歩み寄ったって適切な関係の構築なんてできやしない。
別に冷めているとは思わない。斜に構えているわけでもない。
ただ、臆病であることを認めるに吝かではない。
下手に踏み込んで荒らすのも嫌だし、踏み込まれるのも遠慮したい。その考え方を冷めているというのならばそうだろうし、臆病だと言うのならそうだろう。そんなことは彼にとってどうでもいいことなのだから、そう思われたところで何も変わりはしない。
傷つけるのも傷つけられるのも嫌だし、ハイリスクハイリターンも自分の性格には合っていない。だからローリスクローリターンで、出来る限り人間関係で失うものと得るものをゼロに近づけたい、だから必要以上に接触しない。
彼女ともそうするつもりだった。

『君と僕とは他人だっていうルールをね』

昼下がり、風鈴もならない暑さの中で彼女にそう宣言したのはまさしくそのことの表れに他ならない。
そうなのだ。
父が何の説明もなしに去って行ったのならば仕方がない。
ここで暮らすというのならばそれで構わない。
説明できない事情があるというのならばそこには目を瞑ろう。
外に向けて閉鎖しなければ自我を保てないほど狭量で病的な人間ではない。彼の絶対的な境界は外への境界の薄皮一枚の裡にある。そこを超えられるのは自分1人であり、外的などんな環境に因っても破られるものではない。
彼にとって外の定義とは、他人という大枠で括れる範囲とそれを意識することが余人よりも強い、ということだ。知人・友人・情人、といった他人の構成素材のカテゴライズが狭い、或いは別化を曖昧なまま放置している。彼の世界に対する態度はもっと安易で、好きと嫌いと無関心で定義した方が早いかもしれない。
要するに。
そう、臆病なだけだ。わかっている。
誰かに踏み込まれることによって、誰かと接することによって自分という定義が明確になってしまうのが恐ろしいのだから。傷つける、傷つけられることよりも、その経過を踏んで個が成育され「碇伸治」という人間の形がはっきりと認識できるようになることが、怖い。
そこにあるのがどんな形をした「碇伸治」なのか。
その「碇伸治」は彼を取り巻く矮小な世界と、どう関係していくのか。
自分が卑小な存在であることをわかっていながら、その卑小さを改めて他人から突きつけられることが怖いのだ。

なんてちっぽけでくだらない存在か。

けれどそのことを他との関わりで認めていない今は、そのことを恐れて世界に踏み出せない今は、そのことすら認識できない更に卑屈で賤小な存在でしかない。
わかってはいる。けれど、どうしようもない。
いつの間にか、彼の足はアパート前の空き地への林の出口で止まっていた。
太陽はまだアパートの屋根を越えていないから、それほど長い時間ではなかったようだが、あまりよくない。こんなに考え込んでしまうことがここ最近あったろうか。2年生になる前、ここよりも学校に近いアパートに引っ越すかどうかで悩んだ時くらいしか記憶にない。
考えて好転することなんて、世の中には大してない。
だからと言って直情径行でうまくいく保証だってないけれど。
どちらにしても、こんなに爽やかな朝に面倒なことをあえて考え込む必要性なんてない。
「ま、いいか」
とにかく。
彼女とはお互いに踏み込まないルールを昨日のうちに確認してある。彼女も一瞬だけ瞳を翳らせはしたものの、拒否はしなかった。家主である彼からの条件なのだから当たり前なのだが。
問題は、それを先に、それも当日のうちに破棄してしまいそうになったのが提案者であるところの彼自身であったところなのだが。
そのことを思い出して再び足が止まり、慌てて首を振る。
今気にしなければならないのは朝食の準備と、彼女が起きているかどうかだ。昨夜のことは確かに彼の落ち度、というか彼自身が認めたように単なる言いがかりで突っかかってしまっただけなのだが、それについては彼女に謝罪もしたし、今後気をつければいいことだ。
アパートの階段が立てるカンカンと高い音を耳にしながら、彼は意識をこのほんのすぐ先にあることに向けた。
で。
「……着替えてもらう間出てなきゃいけないんだったら、その時に買い物行けばよかったじゃん」
手にしたトマトと卵を見ながら、とほほな伸治だった。

幸運なことに少女は彼が部屋に戻った時には既に目覚めており、着替えも済ませていたため彼が外で時間を潰す必要はなかった。
早速買ってきたトマトを洗ってスライスしながら、最も食べられない可能性が高いと思われる卵について尋ねた彼に返って来たのは、「問題ないわ」だったので、その返答内容よりもやっぱり妙な話し方をするな、ということに気を回しながらもさっさと朝食の用意をしていく。
トマトのスライスには塩を用意、皿の端にふっておく。卵は面倒なのでそのまま2つともいっしょにフライパンに投入して目玉焼き。
さっきまで静かだった部屋に、明るさと共に音が満ちていく。冷凍庫から食パンを取り出したところで、背中がやけに気になった。
何気なく振り返ってみると、彼が出て行った時のまま立てかけてある机の向こうで少女が赤茶色の瞳をその壁を睨みつけるようにしている。
なにやってんだか。
そう思いながら次第に彼女の不可思議な行動にも慣れてきた感じのある彼は、苦笑しながら声をかける。
「綾波……さん、悪いけどその机、元に戻しておいてくれないかな」
はっとしたように彼を見つめる目にちょっと驚きながらも、彼は言葉を続けた。
「部屋の真ん中にでも置いといてよ。ご飯はすぐにできるからさ」
それでも彼女は彼を見つめる瞳を離さない。
言った内容がわからないわけじゃないよな、そう思いつつさすがに何度も言うのは躊躇われ、そのうちやってくれるだろうと自分を射抜くような目に居心地の悪さを感じながらも朝食の準備に戻る。トーストをセットし、押下げたところで小さな呟きのように、
「……言い難いのなら」
「え?」
振り返ると、机はそのままでさきほどと変わらず彼をじっと見つめる彼女がいた。
「名前、言い難いのなら呼び捨てでかまわ……いいわ」
ああ、と納得する。
自分でもどうしてつけたしのように「さん」をつけたのかわからなかったが、何となく不自然さを感じてはいた。どうしてだかを考え始めると、また妙な方向へ思考が向かいそうなのでやめておくが、ここは素直に彼女の好意を受け入れることにする。
机を戻してもらいたいし。
「うん、わかったよ。じゃあ、綾波、机を戻しておいてもらえる」
「わかったわ」
今度はすぐに反応して机を部屋の真ん中に置く。彼女の表情にも言葉にも変化はなかったけれど、気のせいか昨日よりも少しだけ雰囲気が落ち着いてきた気がする。それは彼自身にも言えることだったから、きっと単に時間の問題だろう。一晩眠って、というよりも夜を共に過ごしたと言っても過言ではない状況ではあったが、それで彼らの中で状況の整理と理解が自然に行われたのかも知れない。
悪いことではない。
特に昨夜、八つ当たりのように彼女に理不尽な言葉を投げかけてしまった彼には、この雰囲気は昨日に比べればずっと居心地よく感じられた。
そこでこの流れに乗って、昨日の非礼のお詫びを一緒にしておく。
「あのさ、綾波。昨日あんなこと言っておいて何なんだけど……『構わない』って言ってくれていいよ。ほんとに言い過ぎたと反省してるから」
反応は返ってこない。
だが、彼も慣れたもので、きっとこの少女は自分の中で他人の言葉を完全に解釈できるまでアクションを起こさないのだろう、と判断して補足する。
「さっきもそうだけど。口癖なんだったら直さなくても。無理して言葉が途切れてしまうくらいだったら、そのまま使ってくれた方が僕としても助かるし」
お互いに干渉しないのであれば、そんなことを指摘すべきではなかったのだ、本来は。
自責している彼としては、だから昨夜の前の状況に戻したい。それでなかったことにする、というほど狡猾ではないけれども。
「……わかったわ」
しばしの間が空いたが、彼女が同意するのを見てようやく彼の胸にも安堵が広がる。
いつまで続くのかわからない生活。関係を深めようという意欲もない。あるがままを受け入れて互いに距離をとりながら適切な位置で時間を眺めていく。
そんな関係であっても、ぎくしゃくしているよりはいい。
どうしてあんなことを言ったのか、昨晩のことは彼自身にもわからない。言いたいことを言ったというのでもなく、ただ心に浮かんだ苛つきをそのまま吐き出したような、そんな情動に身を任せることなどなかったはずなのに。
「助かるよ。ほんとにごめん」
わからない。彼女の何かがそうさせるのか、わからないけれどもとりあえず最後の謝罪を口にして彼はいつもの微笑みを口端に乗せた。
「じゃ、朝食にしようよ。綾波って、嫌いなもの何かあるかな」
「肉が食べられないわ」
「肉?それって、加工したものも駄目?ソーセージとかベーコンとか」
「……わからないわ」
「わからない?」
彼女の答えを繰り返す。わからない、とはどういうことだろうか。まさかソーセージやベーコンといった一般的な食品を知らない、ということではないだろう。かと言って、食べたことがないからわからない、というのも変な気がする。17歳まで生きていてベーコンを口にしたことのない人っているんだろうか。
そんな疑問を胸中に広げながら彼は彼女に問い返した。
「食べたことない、ってことはないよね」
だが、返ってきたのは意外な答えだった。
「食べたこと、ないから」
「……えーと、それは加工した肉類全部?」
今度は彼の言葉の前にしばしの沈黙。言葉にして聞いたものの、まさかあり得ないだろうと思ったことを肯定されて戸惑ってしまった。
「ええ。肉そのものも、加工したものも食べたことないから」
「あー……それは食わず嫌いとかじゃないよね。何か理由でも?」
「理由はないと思う。低アレルギーの部分でも駄目らしいから」
「思う?らしい?」
小首を傾げるが、確かにあまり聞かないながらも肉アレルギーが存在しないわけではない。低アレルギーということは、牛ももやランプ、鶏ももでも駄目なのだろう。思うとからしいとか言っているということは、恐らく子供の頃にアレルギー検査で引っかかったのかも知れない。
とにかく彼はそれで納得することにした。あまり深く聞いても仕方がない。今はただ、一緒に暮らすうえで必要な情報だけを得られれば問題ないのだから。
彼女が動物性たんぱく質を摂らずにどうしたのだろうという疑問は残るけれど。
「なら大丈夫かな。トマトと卵だから。あ、卵は……」
「大丈夫」
「そ。じゃあ食べようか。昨日の今日で碌なものを用意できなかったけど、明日からはもうちょっとマシなものにするよ」
「問題ないわ」
相変らず妙な口調だけれど、いい加減に慣れてきた。反応が返ってくるだけでもマシというものだ。昨日の夜は彼の質問に全く答えがないことだってあったのだから。
そう思いながらテーブルに皿を並べ、ちょうどいい音を立てながら飛び出してきたトーストを置く。
万が一を考えてフォークを2つ用意しておいて良かったな、などとぼんやり考えながら彼女を促すといつもと違う食卓を囲んだ。

———1982年8月13日-14日

心地よい揺れと振動、単調なレールの音に身を任せているのは悪くない。
通路で座ったまま寝るのは、翌朝のことを考えると気が重いけれど。茂と誠が遅れてぎりぎりになったことで文句はあるけれど、こんな旅行もたまにはいいかも知れないと思う。今まで旅行なんてしたことはなかったし。
彼の目の前では啓太が同じように通路に座り込んで荷物に身を預けながら、それでも辛いのか時折もぞもぞと体を動かしながら眠っている。
背後では茂も熟睡しているようだが、こちらはこういった旅行には慣れているのか、身じろぎする気配はない。さすがに計画者だけはあるな、と思いながら視線を上げると、車両のずっと先、3号車との接続部分では彼らと同じように大学生のグループだろうか、若い数人が酒を煽りながらしんみりと何かを語っている様子が垣間見えた。そこまで見通しが良いということはその間にいる客は皆眠っているわけで。若者の集団が多かったから、彼には少し意外だった。
狭い空間で隙間を作り、右腕を上げて時計を見ると時刻は0時少し前を指している。居辛いけれど何とか一眠りしておこうか、そう思いながらごそごそとなるべく音を立てないように座りやすいスペースを作っている彼の頭の上から声が降ってくる。
「伸治くん」
囁くような小さな声。けれど、伸治にはそれが麻耶のものであることはすぐにわかった。
「あ、起こしちゃいましたか。すいません」
首を上げるとそこには眠ってはいない、ということを示すようなはっきりした表情の麻耶が、彼を見下ろしていた。
「ううん、寝られないのよ。こういうのって初めてだし。直角の背もたれで寝ろって言われてもね」
苦笑しながら言う。
彼でさえ慣れなくて眠れないのだから、多少潔癖症でお嬢様気質な麻耶ならば尚更だろう。
同意を表情で表すと、伸治も声を落として提案をしようとする。
「通路の方が寝やすい……ってことはないですよね」
「うーん、それは伸治くんの好意だと受け取っていいのよね」
悪戯っぽい表情で微笑まれると、ちょっとだけどぎまぎしてしまう。年齢の割に童顔な彼女はそのことを知ってか知らずか、よくそういった表情を浮かべては周囲を黙らせる。
……絶対知っててやってるよなあ。
そう思うけれど、それを口に出すような愚かなまねはしない。代わりに苦笑を微笑に変えてお返しとばかりに麻耶へ向けた。茂や誠によく「微笑み合戦かよ」と呆れた調子で言われるもので、彼と麻耶の間ではよく行われている。意味なんてない、ただお互いになんとなくやってるだけのコミュニケーションだった。誠に言わせれば、「虚ろで中味のない笑顔は恐ろしい」となるし、もちろん2人ともそのことを承知であるけれども。
今日もそろそろどちらともなく終了させるのか、という時になって麻耶の表情がいつもと違うことに気がついた。
「麻耶さん?」
伸治の呼びかけにも答えない。視線はこちらを向いているが、何か考え事でもしているのかぼんやりと焦点が合っていないような気がする。いや、それよりも伸治の考えていることを見ようとしているかのような、彼にしてみれば落ち着かない視線を向けられていた。
「あの、どうしたんですか麻耶さん」
「え、なに、伸治くん」
訝しげに問いかける伸治に、はっとしたように麻耶はいつもの笑顔に戻した。
「いやなんだか、ぼうっとしていたみたいですけど」
「あ、うん。眠かった、のかな?」
「や、聞かれても」
「眠かったらしいわよ」
「伝え聞いたんですか」
「眠くない、眠くて、眠い、眠いとき、眠ければ……」
「活用されても困るんですけど」
「……いじわる」
「そう言われても」
拗ねたような顔で見つめてくる麻耶に答えながら、伸治は自分の方が下で良かったと心底思っていた。これで上目遣いで見られてしまったら、きっともっと困っていたに違いない。というか確実に困る、色々と。
3,4年生集めても5人しかいないゼミに、女性が1人。だからという訳ではないことは、時々学食でゼミ員全員で食事している時にすら麻耶に声をかけてくる学生が少なくないことでも明白だ。
おっとりした性格、その割にしっかりしている所や、とても大学4年生には見えない童顔。茂や誠がどう思っているかはわからないが、少なくとも啓太は気にはなっているようだ。
かく言う伸治も、気になっていることは否定できない。好きなのか、と言われればそうだとは答えられないが、この人だったら自分を受け入れてくれるかも知れない、と淡い期待を持ってしまうくらいには。
「……くん」
自分を受け入れてくれる人。それを彼はずっと探しているのかも知れない。だとすると自分はまったく成長していないのか、と少し落ち込んでしまうのだけれども。
「……治くん」
相手を傷つけてしまうことがわかっているくせに、それでもどこかに彼女を探してしまう。こじつけでしかないことも理解していながら、彼女の面影を見つけたような気がして。そんなことはうまくいくはずがないのに、その思い込みが強ければ強いほどに愁嘆が深いものになることはわかっていたのに。
「伸治くん」
それでも彼女を探し続けなければならなかった。探してどうしたかったのか、それはもうどうでもいいことであるような気すらする。ただ、会いたい。それだけの思いで自分は彼女を探し続けているのだ。
「伸治くんってばっ」
「……えっ?あ、麻耶さん」
「え、じゃないわよ、えじゃ。どうしたの、ずいぶん真剣に考え込んでいたみたいだけど」
「すいません」
重症だな、と自分を笑う。こんなちょっとの時間でも今までのこと、彼女のことを考えてしまうなんて。少しのきっかけですぐに過去に浸ってしまうのは、あまりいい癖だとは言えない。
「別に構わないけれど。伸治くんって割とよく自分の世界に浸るわね」
「哲学してるわけじゃないですよ」
そうですか、とすっとぼけるわけにもいかない。麻耶の指摘は自覚していることだし、そもそも今目の前で実行してしまったのだから。代わりに笑って流すことにしたが、麻耶はそれほど甘くはなかった。
「何か、さ」
「はい?」
折悪しく電車がトンネルに入り、麻耶の呟きが聞き取れなかった。
聞き返した伸治の声も彼女には届いていないだろう。だからそのまま2人は黙ってトンネルを抜けるのを待つ。
薄暗い中に轟音が響き渡り、ところどころで起き上がる人たちがいる。恐らくタイミング悪く、浅い眠りの途中でトンネルに入ってしまったのだろう。彼の前後にいる茂や啓太、それにさっきまでは起きていた誠は起き上がる気配を見せない。このまま目的の駅まで眠っていればいいのだが。
そんなことを考えて伸治は自嘲した。
彼らが起きなかったらどうだと言うのか。
麻耶と話すことがそれほど嬉しいことなのだろうか。いや、さっきまでの会話の流れと麻耶の表情を考えると彼にとって楽しい話になるとは限らない。出身地をぼやかしたことといい、振り返ってみても今日の自分が少し変であることはわかっている。うっかりと傷を自分で広げて曝け出すようなまねばかりしているのだから。
麻耶の反対の座席にもたれかかりながら、直接ではなく暗くなった窓ガラスでそっと覗う。さっきまでの彼がうつったのか、何かを思い込んだような表情で前を向いている麻耶からは、このトンネルを抜けた後にどんな話をするつもりでいるのかを窺い知ることはできなかった。

列車はトンネルを抜け、再びレールの音と振動、少しのさざめきが車内を満たす。
それでもしばらくの間は麻耶も伸治も口を開こうをしなかった。
伸治にとっては決して居心地が悪いわけではないが、どこか座りの悪いような、すっきりしない気分で麻耶が続きを——決してさっきの続きを話したいわけではなかったけれど——話し始めるを待っていた。
「……何か、さ」
「はい」
ようやく言葉が麻耶の口から洩れ、伸治はほっとして返事をする。
「無理にとは言わないけれど。言った方が楽になることもあると思うよ」
ありきたりの言葉。今までも何度か言ったし、聞かされもした言葉。
それなのに麻耶に言われただけで揺らいでしまうのはどうしてだろう。
「あ……」
声にならない声を上げながら、伸治は窓に向けていた視線を上げた。そこにあったのは、いつも通りの麻耶の顔。だが、何も変わらないことが優しかった。
「……大丈夫ですよ」
「そう」
だからこそ、彼にできたことは曖昧に笑って誤魔化すことだけだった。
「麻耶さんは優しいですね」
「え?……ええええっ?!」
「ちょ、ちょっと麻耶さん、周りが起きちゃいますって」
思ったことをそのまま言っただけなのだが、先ほどまでの穏やかで包み込むような麻耶はどこに行ったのかというほどに狼狽して座席から腰を浮かせかけたが、伸治の言葉に慌てて口を両手で押さえるときょろきょろと周りを見渡す。そんな様子が可笑しくて、
「麻耶さんって、そういう仕草の時の方が麻耶さんっぽいですね」
くすくすと笑いながら言う伸治に、麻耶はむうっと口を尖らせた。
「なによー、伸治くんまで子供っぽいとか言うわけ?侮辱だわ」
「だから、そういうところがですって。それに別に子供っぽいなんて言ってませんよ。ただ、麻耶さんっぽいって言っただけで」
「う」
「それを子供っぽいと解釈するあたり、自覚はしているんですね」
「あうう……」
更にむくれる麻耶に、伸治は胸の底のほう……いつもは痛みしか感じないその部分が、少しだけ暖かくなっていくのを感じていた。
彼女とは似ても似つかない。時折見せる子供っぽい仕草や普段の落ち着いた態度、どれも彼女にはなかったものだ。いい加減、そういう見方しかできない自分に呆れ果てるが、今度は彼女から離れられるのかも知れない。
何か特別な関係であるわけでもないし、伸治を劇的に変えるようなきっかけがあったわけでもない。だけれど、人との関係なんてそんなものなんだ、ということも彼はあの夏の経験でわかっていたから、今はこのまどろみに似た関係に流れに身を委ねてみてもいいのかも知れないと考え始めていた。
「麻耶さん」
だから、素直にこう言うことができた。
「ありがとうございます」
「え?あの、んー……どういたしまして」
訳がわからない、という風ではなかった。きっと麻耶は伸治の心に残っている拘りに、それが何であるかはわからないながらも気付いているのだろう。
困ったような照れたような、複雑な笑いの中に麻耶の余裕を感じて、伸治は微笑み返すとゆっくりと瞼を閉じた。

レールの単調な音は続いている。
けれども、その先にある時までが単調であるとは、誰にも断言できないことだった。

図書館の赤茶けたレンガ壁が見えてきたところで、ようやく彼は一息ついた。
こうして落ち着いてみると、シャツは汗でびっしょりだし濡れた手のひらのせいでしっかりと握りしめていた返却本も、文庫本の表紙などはふやけてしまっている。
「あーあ……まあ、仕方ないんだけど」
深く嘆息して入り口に向かう。
建築されてから50年以上の歳月を過ごしてきた洋館と和風建築を掛け合わせたような、不思議な調和をとっている図書館は、3段ほどの石の階段を上るとまだ自動にされていない両開きの扉があり、そこを潜れば広い1階ロビーになっている。
ぎしぎしと鳴る板を踏みながら正面に誰かがいた試しのない受付跡、その両脇から背後にかけて階段が2階へと続いていく。ちょうど中間で階段が1つになり、受付の上を通るように伸びていく。
開架書庫へ続くその階段を上れば2階に現在の受付カウンターがあり、貸し出しや返却はそこで行われるのだが、彼は視線を走らせただけで素通りし、正面受付を右に曲がっていった。ロビーから対称になっている左手には図書館の事務所、右手には休憩室や自動販売機が置いてある。廊下の壁、高い位置にある大きな窓から夏の陽射しは容赦なく差し込み、クーラーのよく効いているその部屋までの道のりを異様なほど長く感じさせる。
やっとのことで辿りついた入り口で、ほっと息をつきながら扉を開けると珍しい光景が彼の目に飛び込んできた。
「……霧島さん?」
「あ、碇君。珍しいね、こんなとこで会うなんて」
頷きながらいつもの習慣で来る途中に買った、すっかり温くなってしまった缶ジュースを手にどうしようかと迷ったが、結局新しいのを買わずに自動販売機を素通りして麻奈の隣に腰掛ける。
「今日はどうしたの、って返却?」
「はは、暇なんで他にすることがないんだ」
目聡く彼の手にした返却本を見つけた麻奈の問いに、伸治は苦笑で応じる。実際、本を読むくらいしかやることがないのも確かなのだし。
「寂しいねぇ。ま、私もこんなとこにいるんだから人のことは言えないんだけどね。碇君はよくここに来るの」
「よくって言うか……まあ一週間に一度くらいは来てるかな。ここってこんな田舎の図書館の割に歴史があるせいか、蔵書だけは凄いしね」
「何か興味あるの?」
「ん?」
かしゅ、と小気味いい音を立ててプルトップが開かれるが、飲み口に口をつけた途端に彼の脳裏は『後悔』という言葉だけで埋め尽くされた。生暖かいオレンジジュースなんて、最低だ。
顔をしかめながら口を離すと、麻奈が笑っていた。
「あはは。碇君、すっごい不味いって顔で表してるよ」
「実際不味いからねぇ……霧島さんも室温もしくは体温と同じになったオレンジを飲まないよう、忠告しておくよ。経験者として」
「ふふ、ご忠告痛み入ります」
「どういたしまして」
「……明るく、なったね」
「え?」
「なんでもない。それで?どんなの読んでるの」
不意に小さくなった麻奈の声に問い返すが、彼女は笑顔のままではぐらかせて質問を続けた。何と言ったのかをもう一度確認しようと思ったが、オーバーアクションで覗き込んできた麻奈の様子に伸治は回答を求めることを諦めた。
惣流と同じで、これ以上聞いちゃいけないって境界がはっきりしてるんだよな。
苦笑いを心の中に押し留めると、あまりに近すぎる彼女の顔からのけぞるようにして距離をとる。やっぱり極端な接近は慣れない。
「特に決まったものってのでもないんだけどね」
そう言いながら視線を落として表紙を麻奈に目線だけで示しながら、見えるように持ち上げた。
「G.カルマンの『神話と民俗学』、それに山口大吾の『紫陽花の咲く頃に』……決まってないっていうか、適当?」
「適当は酷いなあ。否定はしないけどさ」
「面白いの?」
「あるひとつの事象を主観で評価することは困難である上に危険が常につきまとう、とだけ言っておくよ」
「つまり読む人による、と。まあ、だいたいわかったわ」
「わかってくれて嬉しいよ。半日で読み終わっちゃったしね」
興味なさげに表紙から目を離し、手にしていた紙コップの中身を飲み干すところから、麻奈にも伸治の言いたいことは明確に理解できたらしい。ハードカバーで下手な辞書顔負けの『神話と民俗学』を半日で読み終えるのだ。相当な飛ばし読みか途中で諦めたということでない限り無理なことは一目瞭然だろう。
「それにしても」
麻奈はじろじろと伸治の姿を上から下まで見回して、
「碇君の私服って、初めて見た気がする」
「お互い様じゃないかな。霧島さんって、何となくワンピースとか着そうなイメージあったんだけど。意外だよ」
「そうかな。それこそお互いさま。碇君こそ、休日は袈裟に草履とかだと思っていたもの」
「禁欲的だなあ、僕って」
顔を見合わせて笑う。
明日香とはあまり視線を合わせられないのだが、麻奈とならばそれほど苦痛ではない。ジーンズにサマーセーターといったラフな服装の麻奈とチノパンに半袖シャツの伸治は、それからしばらくこの図書館で最も涼しい休憩室で談笑を続けた。

ロビーにかけられている、時代のかかった時計が正午を告げる。
以前は周辺一帯の地主の屋敷だったこの建物には、そういった旧主の資産をそのまま使っているものが多く、こうして話でもしていなければ独特の風と時の中に漂っているうちに時間が経つのも忘れてしまう。
そのことを言うと、
「そうだね。でも現実に時間は正午。お昼でも一緒する?」
「何か予定とかはないの?大丈夫なんだったら、僕の方は今日はこれを返しにきただけだからまったく問題ないんだけど。霧島さんは何か借りに来たとかじゃないんだ」
麻奈が本らしきものを持っていないことを気にしながら尋ねる。
「ん、別に借りたくて来たわけじゃないの」
「ふうん。でも図書館以外に用事のありそうな場所じゃないけどね」
「あーなんていうか……ほら、ここって涼しいじゃない。家で扇風機回してだらだらしてるくらいなら、涼みながら雑誌でも読んでようかな、って」
確かに休憩室には雑誌コーナーがあるが、彼がここにやってきた時も麻奈は何も読んではいなかったような気がする。彼が来る直前にここに着いたのかも知れないし、別段詮索するほどのことでもないな、と判断すると、伸治は腰を上げた。
「じゃあ行こうか。返却だけしちゃうから、つきあってもらえるかな」
「うん」
休憩室を出ると、全館冷房のはずなのに暖かく感じる。それだけ今までが利き過ぎていたということなのだろう。伸治は暑がりなので気にしなかったが、女性にはきつかったんじゃないかと思う。
「大丈夫だった?」
「え、何が?」
「いや、休憩室って冷房強すぎたんだなって思ったから。霧島さんって寒いの大丈夫だったっけ」
「明日香はダメみたいだけどね。私は大丈夫よ。寧ろ事務所の経費節減にむかついてるくらいだもの」
「それはアレだよ、部長のアレがね」
「まあねぇ。廊下の方が涼しく感じる時なんか、冗談だとわかっていながらもそう思いたくなっちゃうもん」
「あれだけ禿げてればね……」
「そうそう、ほんとに眩しいんだよ、この間なんてちょうどうちの課長のところに来た時にね、逆光が反射して……」
軽口を叩きながら2人で2階の受付へ向う。
が、返却を済ませ、再び階段を降りようとしたところで麻奈が急に立ち止まった。
「どうしたの」
「外は灼熱地獄よ」
「??そうだろうね」
意図がつかめず、伸治は疑問符を浮かべる。ここに来るまでで散々汗をかいたのだから、それくらいは言われなくてもわかっている。
そんな伸治を見て、麻奈は呆れたように、
「そうだろうね、じゃなくて。外に出る前にどこへ行くか、考えておいた方がいいと思わない?」
「あー……ご指摘の通りで。そうだよね、で、何かリクエストは」
同期とは言え、多少は多く貰っている自分の方が出すんだよなあやっぱり、と思いながら今日の財布の中身を思い出す。そう言えば財布を持つことも自然になってきた、と関係ないことを考えながらも万札がないことは思い出せた。確か札では千円と五百円が数枚だったはずだが、この近辺で食事をするとなると坂道を降りたところにある売店か更に歩いて500mほど先の喫茶店くらいだ。商店街がないことはないけれど、自転車でなければとても行けたものではない。麻奈の態度からも商店街はなさそうだから……すると定食にコーヒーをつけてもお釣りがくる。
手持ちがなければないで割り勘を言い出せないほど見栄っぱりではないけれど、それは通常勤務時の昼休みや呑みでの話だ。休日での食事代くらいはなんとなく見栄をはってみたい。
「そうねぇ……って考えるまでもないんじゃない?坂の下の店でお好み焼きか、欅でランチセットかってことでしょう。暑いからお好み焼きはパスかな。碇君は?」
「概ね霧島さんの意見に賛成」
「おおむね?」
「ランチセットじゃなくてナポリタンとコーヒーにしておく、ってこと」
「なるほど。じゃ、決まったことだし行きましょうか」
「お供いたします」
おどけて答えながら、伸治はここへ来る途中までの鬱とした気分——いや、原理的にあり得ない、存在するはずのない空想を現実化されたような酷いショック状態から完全に抜け出していることに気がついていた。
けれどもそれは喜ぶべきことなのか。或いは自分はそれほど冷たい人間である、とそういうことではないのかと疑ってもいるのだが。
どっちにしても、今は食事を楽しんだ方がいいに決まっている。
そう考えて麻奈と並んで階段を降りる。階上から微かに誰かが貸し出し手続きをしている声が聞こえるが、それ以外に音はなく、ただ2人の踏みしめる木の音だけが響く。
が、下りでは2つに別れる踊り場の所まで来て、階下のロビーから2つの声が聞こえてくる。

—……見たいです—
—なら、案内するよ—

踊り場で足が止まる。
気付かずに数歩先を降りた麻奈が彼を見上げて怪訝な目つきをした。
「……碇君?」
少女と青年の会話。
青年の答えた声は、ドアを開ける軋んだ音に紛れて最後がよく聞き取れなかったが、けれど2人の後姿ははっきりと確認できた。
——彼女だ。
図書館に来る途中、崖に張り出した大木の下で見た、変わった髪の少女。
いけない、さっきと同じだ。

急に踊り場で立ち止まった伸治を訝しげに見ていた麻奈も、その視線の先を追う。ちら、と後姿しか見なかったが、その背中がどこかで見たような気がする。一緒にいた少女のツインテール、しかも銀と表現した方がいいようアッシュブロンドの髪も気になったが、彼女にはそれよりも青年の方だった。
どこかで見たことあるんだけど。
そう思うけれどもなかなか思い出せない。仕方なく伸治の方を見ると、出て行った2人がまるでまだそこに佇んでいるかのように視線を固定して離していなかった。
「碇君、碇君」
答えはない。彼は相変わらず視線を留めたまま踊り場に立ち尽くしている。
けれど数回の呼びかけの後、ようやく凝固していた焦点に正常な光が戻り始め、そこではじめて麻奈に気がついたように少しぎこちない動きで首を回した。
「あ、ごめん。行こうか」
傍から見ていてもまだ少々足元が覚束ない。伸治に心配の視線を送ると、
「ごめん、別に何でもないんだ。ちょっと見たことがあるような気がしただけで」
笑顔で答えるものの、それがちゃんとした笑いを作れているかどうかはかなり怪しいものだった。
「そう?ならいいんだけど……ほんとに大丈夫?何だったらこのまま帰っても」
「大丈夫、大丈夫。ほんとに平気だから。ごめん」
「謝らなくても……でも確かにどこかで見たことあるような気はするわね」
「え?霧島さんも」
「うーん、どこだったかなあ。会社のような気もするのよね。っていうか、会社以外で人に会うことなんてそうそうないんだけど」
伸治がどれほど無理をして普通に話そうとしても、堅い雰囲気になってしまったのは否めない。それを吹き飛ばすかのように麻奈が無理矢理明るく話しているのを察して、伸治も調子を合わせた。
「まあ、こんな田舎じゃね。休日に会ったとしても結局会社の人間だったりするんだよね。そう言えば先週の日曜に惣流さんが商店街……」
「あっ」
伸治の会話の語尾を捉えて麻奈が思い出したように両手をぱん、と合わせながら小さく叫ぶ。器用なことするな、と思うほどには伸治の余裕も回復していた。
「どうしたの」
「思い出したの。やっぱり会社で見かけてるのよ」
麻奈の顔に伸治は複雑な表情を浮かべた。
会社であえるはずがない。もし会社であっているのならば彼が気付かないはずがないのだから。こうして図書館でちらっと見ただけでもこんな状態になるのに、その原因が会社にいたりしたら週に4,5日は仕事にならない日があったろう。
そんな疑問を知ってか知らずか、
「明日香の取引先の人よ。よく電話もかかってくるのよね」
「取引先?明日香のって、惣流さんの担当ってこと?それとも、明日香工業のこと?」
「どっちも。明日香の取引先の明日香工業の人、だから」
ああ、男の方か、と納得する。
「でもどうしたの?あの人がどうかしたの?」
もう一度伸治に尋ねるが、笑って首を振ると、
「霧島さんと同じだよ。どこかで見たことあるなと思って」
納得したわけではないけれど、麻奈は彼の表情からそれ以上のことを聞き出すことは今は無駄だと思った。それだけでないことはわかっているし、彼女からも少女の後姿は見えていたけれども。
だから、
「じゃ、行こうよ。その前に」
「その前に?」
「碇君、明日って空いてる?」

食事が済むと、特にやることもなくなってしまった。バイトが入っている普段の日と同じ感覚で、随分と早い時間になってしまったがお盆期間は仕事がない。このままのんびりと時間を過ごすのも悪くはないけれど、それはあくまでも独りでゆっくりと、という場合のみであった。
「何かしたいこととか、行きたいとことかってあるかな」
干渉しないと決めたのだから、別に彼がどこかを案内する必要もない。そうは思うのだけれども、だからと言って彼女を放って出かける気にもなれない自分が不思議だった。
「海とか山とか……町を案内してもいいけど、何もないんだよね」
それともお互いが他人であるルールを確認してあるからなのだろうか、するすると言葉が出てくることもまた、彼の中では今までにないことで。しかもそれが、自分から話しているのだから、これは自分的七不思議のひとつに入れてもいいんじゃないか、などと冷えた麦茶を2つ用意しながら愚にもつかないことを考えていた。
グラスを置いて昨日と同じように彼女の前に座る。相変わらず彼女は何を考えているのかわからない無表情でこちらを見ているが、昨日のような居心地の悪さはなかった。
しばらくの間、窓から流れてくる蝉の声に耳を傾け、彼女の返答を待つ。急ぐ必要はない。一日は始まったばかりだし、彼女との時間もすぐに終わるということもないのだろうから。
グラスに浮かべた氷が音を立てるほどの時間が過ぎた後、ようやく彼女が口を開く。
「海、見てみたい」

水平線に霞むようにして浮かぶ瑞穂島は、周囲1Kmしかない無人島だ。隣町の漁師に頼めば船を出してくれるが、高校の釣りが趣味の友人によればそれほど良いスポットでもないらしく、釣り人も滅多に訪れることもない。彼自身もまだ行ったことがない。泳いで渡れないこともないだろうが、遠泳どころではないから水泳部の連中でもやっと辿り付けるかどうか。
そんなことを話しながら町を抜けて行く。
彼の説明に軽く頷いたり、時にはじっと彼を見つめて話の先を促すような素振りを見せたりする彼女は、途中で河や湖は見たことがあるが海は初めてだということをぽつりと呟いた。
狭い砂浜しかないこの町は、海水浴スポットでもなければ漁業の町でもない。ただ、生活廃水などを流すための川も作られていないため、海は周辺に比べてもきれいな方だと思う。
道路も町中を通っているものが主道であるため、海岸を通る狭い道は殆ど使う人もいない。
「ここを抜けると海が見えるよ」
商店街を右に折れ、多分私道であろう狭い小道に入る。家々に遮られて見えなかった青が突然目に飛び込んでくるこの通い道を、彼は気に入っていた。今まで行ったことがないという彼女のために、できるだけドラマティックな見せ方をしてあげたいと思ったのだが、それは十分に達成されそうだ。
「あ……」
小さく口の中で呟いた彼女の声が耳に届く。
朽ちかけた木造建築に囲まれた小道を少し登ると両脇の家がなくなると同時に目に入ってくる青と白のコントラスト。正午近くで暑い時間のためか、普段はちらほらと見える海水浴の子供たちの姿も見えない。
一歩砂浜に踏み出すと、海風が彼女の足元を舞い、砂を飛ばす。
それほど変わったとは思えない表情でも、彼女が喜んでくれていることは何となく彼にも伝わってきた。
「どうかな、初めての海は」
横に並んで立った彼が話しかけると、視線を水平線に向けたまま、
「きれい、とても」
「そう、よかった」
言葉少ない会話で成立する彼と彼女の時間。
砂浜と海の美しさを堪能した彼女が、波打ち際へと足を踏み出す。
折からの風でふらつく細い体を抱きとめて、彼は赤面した。
「あ、ご、ごめん……」
「……いい。ありがとう」
小声で、けれど潮風に紛れないくらいの声で聞こえてきた声に、彼は驚いたように目を見開いて彼女を見つめる。
「なに」
はっとして抱きとめていた腕を離すと、彼女を見る。少女は言葉の通りのイメージで、わからない、という風に彼を見上げていた。
「いや、お礼を言われたのって、初めてじゃないかと思ったから」
「そう。わからないわ」
彼女の言い方にも慣れたような気がする。言葉が少ないのは冷たいからではない、ということがわかったから。
だからその言い方も気にとめるでもなく、彼は自然と彼女の小さな白い手をとった。
「あの、飛ばされるといけないから」
それでも言い訳がましく視線を明後日の方向へ向けながら言う。心中では、振りほどかれたらどうしよう、と蚤の心臓でばくばく言っていたが。
こんな積極的な行動に出るなんて、今までにあったろうか。考えるまでもない。部活の知り合いなどと来たことはあるし、その時は吹奏楽部全員だったから人の目もあったとはいえ、彼女よりも体格的に劣る少女たちに対してもほとんど意識しなかった。たとえ彼の目にそういう姿が入ったとしても、こうした対応をすることはなかったろう。こんなことが自然とできるほど、彼は異性に対して洗練されてなんかいないから。
それどころか、ふらつく少女を抱きとめようが手で掴もうが、どちらにしても嫌がられてしまうのではないか、という本能的な恐怖の方が強かった。
だから次に出てきた彼女の言葉は、驚いたと同時に。
とても嬉しかった。

「……うん、ありがとう」
握った彼女の手はひんやりと冷たくて、気持ちよかった。
その体感温度とは違う何かが、逆に暖かくて心地よかった。
しっかりと握った指先から、触れ合ったてのひらから彼の求めていた何かが流れ込んでくるような気がして。
「どうしたの」
彼女の言葉にはっとする。
「どうして泣いているの」
「え?」
慌てて目の下に空いた手をやると、指先に水の感触。
「あ、え?あれ……」
ナゼ?
わからない。
問答を自分の中で繰り返す余裕もなく、彼は呆然と涙の跡を指でなぞる。わかっている。ほんとうはきっと、わかっているのだ。
他人に触れ合うことを恐れて何もしてこなかった、無難に人との関係をすり抜けて来ようとしていたことが強がりでしかなかったことを。誰かに見て欲しくて、知って欲しくてたまらないのに臆病な心を柔軟さと偽って来たことを。
こんな言葉ならいくらでも言われたことはある。「ありがとう」「サンキュー」「ありがと」日常生活で何気なく言われる言葉でしかない。何十回、何百回と彼に向けられてきた言葉たち。そして彼が受けてきた言葉の群れ。
何気なく口から放たれる言葉だからこそ、受け入れる彼の心に何も残すことはなかった。それはまた逆も同じで。
けれども、彼女が言ったそれはいつものそれらとは違う。
どうしてそう思うのか、と問われても返答に窮するけれど、17年間生きて受けてきた言葉の中で初めて心の奥底にまで響いた言葉だったことだけが事実だ。理由なんてどうでもいい。感じたことだけが、彼がそう思ったことだけが事実なのだから。
彼を彼女が受け入れてくれた。ナゼ、ドウシテを抜きにして、きっと彼女はありのままの彼をそのまま受け入れてくる。そう感じたことだけが、今の彼のすべてだった。
「ありがとう、綾波」
だから彼の口からも素直に言葉が溢れ出た。
彼女はどうしてそう言われるのかわからないまま、彼の涙を見つめていた。

太陽が高い位置からじりじりと焦がす砂浜からの反射熱は風に飛ばされるけれど、いつまでも直射日光の下で立っているわけにもいかない。
しばらくじっと彼女の手をとったまま立ち尽くしていた彼は、彼女からの言葉でようやく落ち着きを取り戻した。
「……大丈夫?」
「……うん。ありがとう、綾波」
「そう。もう、いいのね」
「うん。もう大丈夫」
ふうっと大きく息を吐くときょろきょろと辺りを見回し、一軒の廃屋の前に立てかけてある破れかけた簾を見つけた。
「綾波、あれを日除けにしようか」
そう言って彼女の手を引いたままゆっくりと砂浜を歩く。
簾の傍にはお誂え向きに竹竿が数本あり、使えそうなものを見繕って手にすると波打ち際から距離をとって砂浜に射し込んでいく。3本ほどさして簾の今にも切れてしまいそうな紐を頂点と竿の根元に結わえ付けると、ある程度の風には何とか耐えられそうな日除けができた。
その間もずっと彼は彼女の手を離さず、彼女もまた時々つながれた手に視線を落としながらも離そうとはしなかった。
「あとは……何もないなあ」
再び周辺を見渡すが、流木などの椅子代わりになりそうなものはなかった。諦めて彼女に、
「ごめん、このままでもいいかな」
「ええ」
答えるや否や、彼女は砂浜に直接腰を下ろした。手をつないだままの彼も、引っ張られるようにして座ると、そのまま2人、海を眺めながら口を噤む。
けれどそれは決して沈黙ではなく。
つながれた手はやはり心地よく。
少し強い風と潮騒を聞きながら水平線に浮かぶ雲を眺めたまま、言葉はないまま優しい時間が流れていった。

それから。
商店街で買っておいたパンとジュースで昼をとり、また水平線を眺めて。
涼しくなった砂浜を歩いて。
風に翻るワンピースのスカートをおさえてあげて。

夕方になって赤く染まった海と砂浜を後に、夕食の買い物に商店街へ向かうまで、ずっと2人の手はつながれたままだった。

——— 1989年8月14日,月

「そう言えば戻ってきてからすぐに来て以来かな、ここに来たのは」
「そうなんだ。まあ、近くに住んでれば住んでるほど来ないものだよね。私も東京を案内してくれって言われて困ったこと、あるもの」
麻奈はそう言って視線を上げた。
目の前には白い砂浜と青い海が広がっている。視界に広がる色を見ながら彼女は、どう表現したって思ったままを言うのが一番事実に近いよね、と考えていた。
白い砂浜。青い海。それだけだ、目の前に広がる事実なんて。
そんなことを考えながら海を見つめる横で、伸治は落ち着きをなくしてそわそわしていた。
「どうしたの、碇君。落ち着きないね」
無邪気に——もちろんわかってて言っている辺り麻奈も相当だが——尋ねる麻奈に、一層落ち着きをなくした伸治が答える。
「いやだって……霧島さんこそ、急に海に行きたいだなんて……いやそれはどうでもいいんだけど、なんで水着なんだよ」
情けない表情でちらちらと横目で彼女へ視線を遣りながら言う伸治に、
「だって、海って言ったら普通は泳ぐものでしょう。碇君こそ普段着のままで来るから私の方が浮いちゃうじゃない」
ちっとも批難がましくなく言う。実際、麻奈の言う通り浮いていることは浮いているが、それはどちらかといえば伸治の方だろう。
ここ数年で少し人口も施設も増えた町には近県からも海水浴客が来るようになっていた。漁港もなければ排水用水路も注いでいない海岸が注目されるのは当然で、2軒だけだが海の家も立っている。今日も家族連れが数組とカップルが何人か泳いでおり、ジーンズにティシャツ、足元はサンダルではなく普通のスニーカーで座り込んでいるのは伸治くらいのものだ。
「浮いてるのは僕の方じゃないか……」
「そりゃねぇ。今から水着でも持ってくる?」
「いいよ、泳ぎたいわけじゃないし」
「それとも泳げない、とか?」
「そっ、そんなわけ、ないじゃないか」
「……怪しいわね」
「人間の祖先は海から出て陸上で暮らすことを選らんだ、それは進化なんだよ。今さら海に戻るのは退化と言うべきであって」
「母なる海に還る、と言ってもいいわよね」
「……すいません、泳げません」
伸治の敗北宣言に麻奈はにたり、と笑うと、
「じゃ、尚更着替えてきて練習でもする?手取り足取り教えようか?」
「すいません、勘弁してください」
「むぅ……なんか、そこはかとなく屈辱的な気分になったのは気のせいかなあ」
「気のせいだよ」
麻奈と話していると楽しくなってくる。こんな気分で接することのできる人間というのは、もの凄く貴重だ、と伸治は思った。振り返ってみても、同じような人には1人しか出会ったことがない。
昨日もそうだったが、1人の時はあんなに苦しくなったのに、麻奈と2人でいた時はすぐに自分を取り戻すことができた。未だに引き摺っていることを再認識してしまうのは何だが、それはもう仕方のないこととして、麻奈の存在が陰鬱さを吹き飛ばしてくれるのは純粋に嬉しい。もちろんそれが、恋愛感情とはお互い無縁であることをわかっているから、というのも大きいのだろうが。
「じゃ、まあ少しだけ付き合ってもらおうかな」
「え、何に?」
「まあまあ、ほら、裾あげて」
「うわっ」
勢いよく伸治の足を上げ、ジーンズの裾を捲り上げる。後ろに倒れこみそうになったところを、慌てて手を出して体を支えたが既に片足は完全に海仕様にされていた。
「わかった、わかったってば。お付き合いしますよ、姫」
「わかればよろしい。じゃ、いこっ」
手をひかれて腰を浮かせ「やれやれ」と呟きながらも、彼の顔は笑っていた。

寄せては返す波。
さっきまでいた家族連れもカップルも消え、人影もなくなった砂浜に佇むのは2人だけ。
あちこちにまだ風に飛ばされて消えない足跡だけが、昼間の喧騒を物語っていた。海につかって濡れたジーンズの裾もすっかり乾き、隣に立っている麻奈も今はもう私服に着替えている。
「今日はありがとう」
海を見つめた視線は動かさないまま、彼が言う。
「どういたしまして」
何についてのお礼なのか、明確に言わなかったけれども麻奈には言いたいことは通じていた。彼女だってわかっていたからこそ連れ出したのだし。それでも麻奈は素直にそれを受け取れない気持ちを感じていた。これから彼に聞くこと、それはそのお礼を返さなくてはならないことだと思っていたから。
聞かなければならないことでは、決してない。義務ではないのだから。
聞かなくてはならない、ではなくて聞きたい、のだ。彼女にとっては。
どうしてこんな気持ちになったのかは覚えていない。覚えているのは4年前に入社してからの彼の態度だけだ。
同期の惣流明日香は自分に絶対の自信を持ち、常に孤高であろうとしている。最低限の周囲との調和を保ちながらも自己を完全に確立し、馴れ合いはしない、という態度を維持し続けているのは凄いと思う。
鈴原藤次は仕事にも恋愛にも一生懸命で、あらゆることに全力で当たろうとする。きっと彼にも抱えているものはあるのだろうが、そういったことを表に出さないことはやはり凄いのではないだろうか。
完全に趣味の世界に没頭し、仕事は生活の糧を得るためだと上司にすら言い切る相田健介もある意味で尊敬に値する。それでいて明日香と同じように課でトップの売り上げを叩き出し、上司に口を挟ませないのは立派としか言いようがない。実際、同期で最初に昇級の話がきたのは渚ではなく彼だった。それを「まだ責任ある立場になりたくない」の一言で断ったのには、誰もが絶句した。
同期5人のうち、では自分はどうだろうか。
別段何も変わった歴史はない。普通の家庭に生まれごく普通に育ってきた。両親とも東京生まれの東京育ち、祖父母もそうだったから江戸っ子と言って構わないだろう。蔵前小学校から浅草中学、近いからという理由だけで忍岡高校へ進学し、短大を進める両親を振り切って私立の4年制大学へ行ったが、これとて特別な理由があるわけでもない。ただ何となく4年間は何も考えずに過ごしたかったからだけだ。
しっかりとやりたいことを見つけて進学した従姉妹とは比べようもない。ゼミの先輩に勧められた会社を受けて入社したが、一般職であるにも関わらずなぜかここの営業所に飛ばされてきた。入社前の面接で「できれば遠い営業所を」と言ったことが、本当に受け入れられるとは思わなかったら驚きはしたけれど、独り暮らしをしてみたかったこともあって、喜んで来た。
ここでの生活には満足している。同期の4人とはそれなりにやっていけているし、課の中でも軋轢や問題はない。大学時代に付き合っていた彼とは入社した途端に、切れた。まあこんなものだろうとショックも受けなかった自分は冷血なんだろうか、と思ったりもしたけれど。

わからないのはこの碇伸治だ。
配属からずっと一緒の営業所で見てきたが、彼だけはよくわからない。何かを隠しているという風でもない。聞かれたことには答えるし、かなり重い過去は持っているようだがそれについても黙して語らないというほど頑なではない。
それでも何かを隠しているような気がする。それはもちろん、人が皆、すべてを明るみに出して生きていけるはずもない。隠し事のない人間なんて存在しない。
だが、彼のはそれとは少し異なるのだ。
すべてを語って欲しいわけじゃない。家族であろうと恋人であろうと、きっとそう思うだろう。自分だって今まで相手の全てを知りたいと望んだことはないし、家族に対する隠し事だってある。ただ、そういったものと違う、何だろうか……彼の、何事に対しても一定の興味を持たない、その基準に対する線引きというようなもの、それが何に起因しているのかが知りたいのだ。
お節介であることは重々承知している。余計なお世話であることも。そしてこれが単なる自分の興味でしかない以上、彼にとってはこれほど迷惑なものではないだろうと思われることも。そしてこれが恋だの愛だの言われる生温いものでないことも、やっぱり迷惑以上のものではない。
だから、はっきりと言っておかなくてはならない。
「碇君」
「ん、なに?」
彼はずっと水平線に向けていた視線を、初めて麻奈に向けた。夕陽を受けても尚黒いその瞳の奥には何があるのだろう。常に一定の距離を測ることのできる、いったい何が。
「何が碇君をそうしているの」
「……え?」
「お節介どころか、迷惑でしかないことはわかっているの。だから、答えなくてもいいし、絶対に話して欲しいだなんて言わない。でも、ずっと気になっていて……だから聞いてみたいと思っただけなの。できたら話して欲しいとは思うんだけど、それで私が何かの力になれるかどうかなんて保証ないし、だから、えーと……」
「ちょ、ちょっと霧島さん、君が何を言ってるのか僕にはわからないよ」
慌てて彼女の台詞を遮る。確かにこれでは何のことやらわからないだろう。
麻奈はすぅっと大きく息を吸うと、一息に言った。
「碇君には他人との境界を明確にする基準があるでしょう」
驚いたように目を見開く伸治。けれど麻奈は、それに気付いていながら口を差し挟む余裕を与えず、更に続けた。
「休みに入る前、明日香と私、それから碇君とで話したことあったよね、他人の定義について。それほど堅苦しく話したわけじゃないから忘れてるかも知れないけど。あの時、明日香は自分—家族—友達—知り合い—他人で分けていた」
言葉を止めて、じっと伸治を見る。
夕陽に照らされたその顔からはそのことについて何も窺い知ることはできなかったが、彼がその話を覚えていることだけはわかった。
「あの時、私は自分—家族—友達—他人だと考えていたんだけど、碇君が話を逸らしたから言う機会がなかった」
敢えて挑発する言い方をしたが、それに対しても彼は困ったように笑っただけだった。
予想はしていたけれど、今の彼の表情はまったくもって他人に対するそれで。さっきまでの少し踏み込んだ笑顔でないことに少しの痛みを覚える。後悔はしていない。いずれにしてもいつか聞いてしまっていただろうから。どうしてこんなに気になるのかわからないながらも、知りたいと思う気持ちを抑えきれなくなっただろうということだけはわかる。
昼間の楽しかった時間を思い、胸の疼きを誤魔化しながら俯く麻奈に、けれども口を開いたのは彼だった。
「よくわかるね、霧島さん」
はっと顔を上げると、能面に笑顔を張り付かせたような表情の伸治がこちらを見ていた。思わず腰が引けてしまったが、自分が言い出したことに彼が反応したのだ。今更後に引けない。
「わかる……わけじゃないの。ただそう感じただけ」
「そう」
ふっと顔を伏せる。次に顔を上げた彼は、いつもの曖昧な表情だった。
「知りたいなら話すよ。別に隠したいことでもないしね。ただ……長くなりそうな気がする」
「無理して話してくれなくても」
「言い出したのは霧島さんだよ?それに別に僕は無理なんかしてない。今まで誰もそこに気がつかなかったから……いや、1人だけいたけど、会社に入ってからは誰も気がつかなかった。それほど他人に対する線引きが僕の中で無意識になっていたのかも知れない。気がついてくれたのは、むしろ嬉しいんだ」
伸治の言葉に偽りがないことは、その表情からもわかった。言いたくなかったわけじゃない。他人と一線を画すことがあまりにも自然になりすぎて誰も気付くことすらできなかっただけ。だから伸治の言葉に嘘はなかった。
少年から青年への過渡期。
それを免罪符にできない彼は、誰かに断罪して欲しかったのかも知れない。
麻奈が答えないのを見て、彼は踵を返すと波打ち際と反対方向に歩き出す。
「碇君?」
怒ったのかと思って恐る恐る声をかけた麻奈に振り返ると、今度は心からの笑顔を見せた。
「長くなると言ったよね。ちょっとコーヒーでも買ってくるよ」

——— 1982年8月14日,土

「散々でしたね」
苦笑混じりに言うと、砂浜に腰を下ろす。
「でも、面白かったことは確かね。たまには羽目を外すことも必要でしょうし」
「それは否定しませんけど。羽目を外しすぎるとああなる、ってことも覚えておいた方が良さそうですよね」
ちら、と視線を背後に流す。
それだけで麻耶も伸治の言いたいことを理解した。もちろん背後にあるのは彼らが宿泊している民宿で、もっと言えば彼の言葉の対象は現在、その一室で3匹のマグロのように転がっている。安酒をあれだけ呑めば、まあそうなることはわかりきっているのだが。
「大学生活で最後だから。こんなことができるのも。茂くんと誠くんは仕方ないかも」
「付き合わされた啓太が不憫ですが……それに麻耶さんだって、最後の合宿でしょう」
「うん、まあね」
声音に寂しげな響きが含まれていたのは、夜の海のせいだけではないだろう。
「そういえば、茂さんも誠さんも内定貰ったみたいですけど、麻耶さんは」
せめてこれから先のことを話そうと話題を振る。茂はレコード会社に、誠は千葉の第二地銀のひとつに内定が決まっていた。2人ともぎりぎり駆け込みで先月に決まったばかりだった。それまでは随分と焦っていたので伸治も啓太もそれなりに心配していたのだが、そう言えば麻耶の就職についてはあまり話をしたことがないのを思い出したのだ。
それとなく切り出したつもりだったが、麻耶にはお見通しだった。
にっこりと笑うと、
「ありがと」
「……それはどうも」
妙な返事をしながら苦笑する。
「私ね、もう一度大学行こうと思ってるの」
「もう一度?転部ですか」
ううん、と首を横に振る。
「全く別の大学。大学入る時はこれといってやりたいこともなかったの。サークルだって友達が入るっていうし、試験や教材で得するからって理由で入っただけだった」
伸治は黙って聞いていた。
「私のサークル、知ってたっけ」
「いえ……文化系でしたよね」
頷いて、
「Living。知らないかな、ボランティアサークルなんだけど」
「知ってます。名前だけですが。外語で同じクラスだったやつが入ってました」
「そう。Livingって名称から、特に養護や看護関係のボランティアをやってるんだけど、最初は話した通り何気ない気持ちで入ったの。何気ないっていうよりも、打算的って言った方がいいかな」
「打算的って言うなら、サークルなんてみんなある程度計算して入ってますよ」
自嘲気味に話す麻耶に、思わず伸治は声をかけていた。
「うん、そうだよね。私もそう思うし、入ったきっかけについて何か含んだり思うところがあるわけじゃないよ。
ん、まあそれはいいとして、入ってから色んな養護ホームや老人ホーム、後は養護学校とか色々回ったんだけど、あんなに気楽に入ったクセにそうやって現場を回ってみると医療とか介護の実態がすごくよくわかって、実感できて。私たちって法学部じゃない。去年の先輩で福祉政策と法についてをゼミ論のテーマに選んだ人がいたんだけど、それを聞いていて思ったのね。
国の施策についてあれこれ言うのは間違っていないと思う。医療費や医者に対する偏見や羨望などの人間学的な問題を論じるのも善悪を言うことなんてできない。でも、今現在看護婦は足りていないし介護を必要としているところに何の助けもない。なら、今の私にできることって何だろう」
言葉を止めて、真っ暗な水平線を見つめる。
釣られて視線を向けた伸治の目にも、ただ暗い海と星しか見えなかった。夜空と海の境目が溶け込み、宙に星が浮いているような感覚に襲われる。
思わず目を逸らして麻耶の方を向いた瞬間、彼女も視線を戻した。
「私にできること、やりたいことをやろうと思ったの。時間がかかる議論をする人も必要、今すぐに手当てできることをやる人も必要。……私にできるのは後者だから」
「じゃあ、福祉系の学部に行くんですか」
「転部だったら楽でいいんだけどね。多少なりとも単位の互換が利くし」
笑いながら言うということは、彼の回答は間違っていたのだろう。うーん、と悩んだ伸治に何でもないかのようなあっけらかんとした声で麻耶は答えた。
「行くのはね、看護大学」
「看護大学、ですか」
聞き返してしまったのは、驚きからではない。看護大学というものの存在を知らなかったせいだ。高校時代に看護短大へ進んだ知り合いはいたが、大学ということは4年制だろう。
「あの、4年制、ですよね」
自信なさげに問う伸治に、
「うん、4年制。正看護婦になりたいしね」
「そう、ですか……」
看護婦に正だの何だのがあることすら知らなかった。小声になってしまった彼に麻耶は、
「それだけ。私には18年間やりたいことがなかった。そしてそれを4年かけて見つけた、だから今度はそれに向かっていく」
「凄いですね、麻耶さんは」
「あら、そんなことないわよ。伸治くんだってやりたいこと、あるでしょう」
「僕には……何もないから」
「そうかな」
少しだけ声音に堅いものが混じる。え、と思って麻耶の顔を見る伸治に、さっきまでとは全く違う真面目な表情で麻耶は問いかけた。
「伸治くんにもあるわよ、やりたいことが」
「……どうして」
「どうして私にそんなことがわかるのか、自分のことを何も知らないくせに、そう言いたい?」
図星だった。思わず俯いてしまう。
麻耶といると穏やかな気持ちでいられる。何となく気にはなっている。けれどもまだ彼は自分の中に他人が入ってくることを良しとしていなかった。
「伸治くんって」
俯いて黙り込んでしまった伸治に、いつもの口調に戻って麻耶が話しかける。
「他人と自分の間に明確な境界線を引いてるよね」
「えっ?」
「それに誰かが踏み込んでくることを嫌がっている」
「……麻耶さん……」
どうして彼女にそんなことがわかったのだろう。驚く彼に、けれども次の言葉は更に驚愕を与えた。
「そして、伸治くんは誰かに認めてもらいたがっている」
今度こそ、驚愕で言葉も出なかった。
認めて、と彼女は言った。それは言葉としては間違っているが、きっと内容的には合っている。ニュアンスの違いだけの問題で、きっと彼女はわかっている。
彼が、許してもらいたがっていることを。
同時に、決して許されないままに後悔を背負いながら生きていかなければならないと思っていることを。
許しが欲しい。けれど、彼を許せる人とはもう永遠に会えない。
だから彼は決して許されることはない。
そしてそれは彼にとって、当たり前の断罪であり贖罪。

「……どうして、わかるんですか」
やっとのことで口を開いた彼の言葉も、また重かった。声は掠れ、ともすれば潮風に飛ばされそうになるくらい小さな、けれど重い声だった。
麻耶はそれに直接は答えず、手元の砂を両手で掬い上げる。
砂はさらさらと彼女の掌から毀れ、そして両の手には何も残らなかった。
「まだ22年しか生きてないけど。人生って砂みたいなものだな、って」
「どういうことですか」
「これだけだとあっという間になくなってしまって。何も残らない。でも、赤色粘土を加えればレンガになるし、石英や鉄を加えればセメントにだってなる」
「……セメントの原料は石灰石ですけどね」
「茶々入れないの。でもちょっと元気になったかな」
「……麻耶さんの的確なボケのおかげですよ」
声や笑う表情は力がなかったが、それでも彼女の話を聞くくらいのゆとりは何とか取り戻していた。
「人間1人なんて砂みたいに脆いものだから。だから沢山の人と出会って、沢山の意見や考えを聞いて色んなことを混ぜ合わせながら生きていくんだと思う」
「人は群体でしか生存できない生物……ミッシェル・ハーバーの『生物と生命体』の13章ですね」
「伸治くんも読んだのね。そう、それはだから私も正しいと思う。でも伸治くんは群体で生きているようで、その実そうではない。決して人に心を開こうとしていないし、他人との境界線を自ら決めてしまってその中には伸治くんしかいない」
もう一度砂を手にとり、ぎゅっと力を入れる。
ゆっくりと手を開くと、それでも砂は風に飛ばされ光るものを混じらせながら闇に溶けていった。
昼間響いていた彼ら5人の声は、今2人だけとなって静かに黒い海へと消えていく。あれだけつけた足跡も全て消え去り、幾つかの流木や海草だけが砂浜を賑わせていた。
そして2人の声も止み、揺らぐ波の音と風が砂に当たる音だけになる。

「それはどうして?」
静かな時間を止めたのは麻耶の問いかけ。
まるでエコーがかかったかのように彼の耳に何度も寄せては返す。
そう感じたのはきっと、その質問がすべての根源だからだろう。彼にとって。
麻耶が何を聞きたいのか、それはわかっていたけれど彼はこう答えた。
「麻耶さんに言わなければならないことですか」
「……言わなきゃいけないことなんてない。ただ、私が知りたいの」
「お節介ですね」
「そう……いいえ、違うわ」
消え入りそうだった声が、途中で急に大きくなる。
えっと彼が見つめると、麻耶は剄い意思の光を湛えた瞳で彼に対した。
「砂がいくら寄り集まったところで、所詮は砂ですよ。さっき麻耶さんも見たでしょう」
「違うわ。今の伸治くんがいくらいても、それは確かに砂の集まりでしかないかも知れない。でも私は、伸治くんが望むのなら水にでも土にでもなる。同じ人間なんていないんだから」
受け取り方によっては麻耶の発言は大胆だった。だが、2人ともそんなことに気付く余裕はとっくに失っていた。
「違いません。第一、麻耶さんの質問の意味がわからないですから」
「ならはっきり言ってあげる」
「結構です」
「どうしてあなたは誰とも打ち解けようとしないの。どうして」
「やめてください!」
彼の声が夜の静謐を破る。
同時に大切な何かを壊したような気も、彼にははっきりとしていた。
取り繕うように、
「はは……あははは、やだな麻耶さん。だから僕には何も」
「誤魔化さないで」
いつもは穏やかな麻耶だが、今はしっかりと正面から彼の目を見ていた。曖昧で腰の砕けた彼の言葉など、簡単に粉砕してしまいそうな強い口調で言う。
「どうしてあなたは……認められたいの」
そんな麻耶に、彼は俯いてぼそぼそと言い訳のように呟くことしかできなかった。
「……そんな……認められたいんじゃない、ただ許して……」
「誰に許して欲しいの」
失言だった。彼にしても麻耶にしても。
ここで問いかけなければ、彼は全てを麻耶に話していたかも知れないし、彼にしても言わなければまだ誤魔化せていたかも知れない。
けれど、既に生まれ出た言葉を殺すことはできなかった。
「……何でもありません。忘れてください」
「何でもないって表情じゃなかったわよ、伸治くん。あなたは誰に許されたいの」
「だから、何でもないんです。品行方正に生きてきましたから」
あくまでも頑なな伸治に、麻耶は別の方向から質問をした。
「ここ、伸治くんの故郷よね」
「……違います」
「大学には一浪してたっけ。なら、その時までに何かあったってことね」
「違いますって」
「そんなに深い傷を負って未だに引き摺っているんだから、高校の頃」
「麻耶さん!」
ばっと立ち上がる。口を継ぐんだ麻耶に、
「もう寝ます。麻耶さんも遅くならない方がいいですよ」
そう捨て置いて踵を返した。
ぎゅっと足元の砂が軋む音が一回。
二回目は鳴らなかった。
「ま……麻耶さん?」
彼の足を阻んだのは、しっかりと背中にしがみついた麻耶だった。慌てて振り向こうとするが、両先から胸に回された彼女の腕は堅く振りほどくことはできなかった。
「麻耶さん、ちょっと?!」
「……ごめん」
「えっ」
「ごめんね、伸治くん。言いたくないのはわかってた」
背中から聞こえてくる麻耶の声はくぐもっていて、けれどはっきりと彼の耳には届いた。
「でもどうしても聞きたかった。伸治くんが誰とも長続きしないのは、きっとあなたのその心の中にある何かが邪魔をしているんだと思った。だから……」
「……そう……ですね」
小さく呟いた彼の言葉は彼女に届いたかどうか。
「だからそれを聞いておきたかったの。だって……」
伸治は耳を塞ぎたくなった。
その先は聞きたくなかった、いや、聞いてはいけないような気がした。
けれどもそれは叶わず、彼女の言葉ははっきりと彼の元に届いたのだ。

「好きだから」

——— 1977年8月14日,日

昨日と同じように朝食を済ませる。
違うところと言えば今朝は胡瓜があったから、昨日買ったレタスと一緒に少しはまともな体裁のサラダを作れたということくらいだろう。
彼女が来てまだ3日しか経っていないが、こうした日々にも慣れて来た。むしろ彼女がいることが当然のように思えてくる。環境に対する順応力という問題ではないだろう。波長が合う、というと軽々しいけれどもその表現の方がしっくりくる。
昨日まであった机の壁も彼女の例の「構わない」で取り払われ、実際は台所で寝ているのだから変わるはずもないのだが、何となく距離が近くなったような気がする。それは今までならば鬱陶しいこと、或いはどうでもいいことでしかなかっただろうが、今の彼にはどこか心が軽くなるような湧き立つ軽快さを伴っている事実だった。
日常となってきているその距離の近さが彼女にも影響しているのだろうか、洗い物をするために台所に立つ彼に、「私も手伝う」と、例のぶっきらぼうな言い方で隣に立って手伝いを始めた。とは言ってもどうやら彼女にはこういったスキルの部分でも少し現実離れしているところがあるようで、手つきが危なっかしくて見ていられず、結局は洗い終わった食器を——皿が3枚にフォークが2本、それにコップが2つとフライパンだけなのだが——布巾で拭いてもらう以外に仕事はなかったけれど。
たったそれだけのことで自分をこんなにも変えてくれるこの風景を、彼はどこか外からの視点で眺めては悦に入っていた。
今まで、頑なに他者の介入を拒んできた。そのことに確たる理由もなければ意味もない。あるのはそう、ただ臆病な自分という事実だけだった。
それが昨日の涙ですべて洗い流されたような気がする。
いや、すべてと言うと語弊があるかも知れない。まだ他人に胸襟を開くことができるとは思えないし、だいたい17年間の積み重ねがいきなりなくなるものでもないだろう。ただ、彼女といることで他人に対する恐怖が少し消えるように思うのだ。大袈裟かも知れないし、そもそも彼のことにしたって対人恐怖症と呼べるようなものですらなく……ただ、その分悪質ではあるのだけれども、どちらにしても言うほどの問題ではなかったと言われるかも知れない。
それでもいい。
ただ、彼が感じていること、思っていることが今この世界の全てなのだから。

朝食の後片付けを終えると、昨日より幾分優しい声で彼女に話しかける。
「綾波、今日はどうしようか」

「面白くないんじゃないかな……」
「でも、碇くんはいいって言ってくれたわ」
そう言われると確かにその通りなので、彼に抗弁のあろうはずもない。
彼としては彼女のためを思って言っているのだが、それすら彼女本人の意思でここへ来たいと言ったのだから、これもまたどうにもならないことだ。
「それにしても」
抗うことを諦めて彼女の指定した場所——小学校の校舎を見上げる。
木造2階建て。今時珍しい古い校舎は、来年には立替が決まっているらしい。
「よく通ったよなあ。今にも崩れそうだしさ」
隣に立つ彼女に話しかけるでもなく感慨を口にする。彼女もまた、聞いているのか聞いていないかわからない様子で立ちつくし、校舎を見上げていた。
ここに通ったのは母親が死んで叔父に預けられてからだから、小学校2年からか。あまりいい思い出はない。叔父の家では自分を殺していたし、学校でもまたそれは同じだった。そう考えると、彼のこの性格はもしかしたら母親の死によって預けられたことが原因なのではなく、初めからそうだったのだろうか。
それはそれで嫌な子供だな。
考えて思い直す。嫌な子供だった、のだ。そしてそれは現在進行形で嫌な子供でもある。賢しらぶって他者との間隔を取り、それなのに自分を知って欲しがっている。得られないから欲しがる子供のようなものだということは彼自身認識している……いや、認識した。
それが手に入るまでは認識できないものなのだろう、と思う。彼も彼女によって与えられて初めて気がついたのだから。
「ここが、学校……」
校舎を見ていた目を校庭に移して、うわ言のように呟く。
「綾波の学校はどんな感じだったの」
何気なく聞いた言葉だったが、それは失言だったと次の瞬間には理解した。俯いてしまった彼女に慌てて取り繕うように言葉を重ねる。
「あ、いや別に言いたくなければ言わなくても……」
彼としては、どうやら彼女には学校に対して暗い記憶しかないのではないかと思っていたのだが、もしそうならば「碇君の通った学校を見てみたい」などと言うはずがない、ということをすっかり失念していた。それも仕方ないことかも知れない、短期間とは言え初めて気になった少女が辛そうに顔を伏せているのだから、それで冷静に対処できれば彼はもっと大人だったろうから。
だが、あたふたと言葉を繋ぐ彼にかけられたのは、まったく違う内容だった。
「いいえ、知らないの」
「え?」
何だか彼女と出会ってから、聞き返してばかりいるな。
そう思いながらもほとんど境遇などを話してくれないし、また雰囲気と合わせるかのように小さな声で無駄のない——というよりは必要なことすら言ってくれない気もするけれど——ことしか話さないのでそれも止むを得ないかもと思う。
だけど、と。
いいことなんだと思う。
今までの彼だったなら、誰かの言葉を聞き漏らしたとしても聞き返したりしなかったろうから。聞き取れなくても曖昧に返事を返してうやむやのまま話を流してしまっていた。周りの内容なんて彼自身の世界にとっては大した問題ではなく、生活を送っていく上で必要最低限の情報さえ収集できればよかったのだから。
彼女は違う。正確に言えば彼にとっての彼女の存在は違う。
彼女のことを知りたいと思うし、けれどそれは強引に聞き出すものではなくて。彼女の一言一言に彼が耳を澄ませて聞き逃さないようにしたいという願望。話してくれる内容をすべて聞き、少しでも彼女に近づきたいという想い。それが今の彼と彼女の、この曖昧で現実感の薄い生活を支えている。
だから少し寂しくもあるけれど。
彼が彼女を知りたいと思うくらいに、彼女に彼を知りたいと思って欲しい。人間の欲望は果てしないものだから。いつの間にかこんなに大きくなった気持ちを彼は幾分持て余しながら、だから彼女が彼のことを知りたがっていることに気がつかないでいた。彼女は彼女で、彼の歴史とでも言うべき足跡のすべてをその目に焼きつけ、胸に刻んでおきたいと思っているのに。
「知らない、ってどういうこと?」
彼は尋ねる。何も知らないままでいることができないから。他人との関係がこんなにももどかしくて痛いものだと思っていなかったから、初めて知った子供のように貪欲に彼女を求める。
「……知らないの。学校がどんな所なのか」
「……そう」
けれど彼が自分の気持ちをを持て余しているように、彼女もまた彼女自身のことをうまく説明できなかった。他人との関係を不器用にしか築けない2人が、お互いの煩悶を胸に、たどたどしい日常を営んでいく。周囲から見れば笑うしかないそんな状況も、彼らには真剣だった。
「中、入ってみる?」
けれども、幼い曖昧なたどたどしさでも、彼らは彼らの求めるものに手を伸ばす。
いつかその手に欲しいものをつかめるのだと信じて。

今は欲求のままに手を伸ばせばいい。
差し出されたものを、必死でつかめばいい。
子供たちの時間は、ようやく動き始めたばかりなのだから。

「子供だったんだ」
彼の声はその年に似合わず老成しているような、そして逆に幼い子供のような響きを持っている、と麻奈は思った。
海と空の境目が溶け合う時間に、彼は手にした缶コーヒーに口もつけず言葉を紡いでいく。
麻奈はただ、それを黙って聞いているだけだった。

僕は欲しいものがやっと見つかったと思っていた。
けれども、それまで大人だと思っていた自分が実は他人との関係を満足に構築できないだけの子供だと気づいたのもその時で。
だから、どうすればいいかわからなかった。
ただ子供みたいに彼女を求めて、彼女にも求めてもらいたくて。
そのくせ変に大人ぶってどこかで格好つけていた。
見栄……とか、そんなものなのかも知れない。
それもまた、今までの僕にはなかったものだった。他人との関係を無視していたから、誰にどう思われようと気にしていない『フリ』をしていたから。
……求め方がわからなかった。
彼女に自分と同じ気持ちになってもらうことを強要していたんだと思う。僕は君を見ている、だから君も僕を見て、って。
そう、まるで子供が母親に甘えているような、そんな感じだったと思う。そしてそれは彼女も一緒で、だけど僕たちは2人とも子供だったから、彼女は母親になれなかったし僕も父親になれなかった。
もちろん、これは比喩に過ぎないんだけれど。
初めて知った喜びに僕らは夢中になった。
それはとても静かな……穏やかに過ぎていくとても気持ちのいい時間だった。
夢中になり過ぎてそんな時間が永遠に続くと思って。彼女も僕も、ずっと一緒なんだと錯覚してしまうくらいに。

どうしてそんな風になったのかなんて覚えていない。
何かきっかけがあったのかも知れないし、なかったのかも知れない。
でも、そんなことはどうでもいいことだった。
あの頃の僕らには、ただ目に映るものが全て。感じられることが全て。そこにいるお互いの存在が世界の全てだったから。

話したくない?そう、そうかも知れない。
あまりにも幼かったせいで彼女を傷つけた。そうだね、霧島さんは笑うかも知れないよ、その時の僕の言動を聞いたら。いや、呆れるかな。
でも、問題は。僕の本当の罪はそれだけじゃなかった。
その後もずっと、他の誰かを傷つけてきた。
他人との関係を構築する方法がわからなかった、それが言い訳にしか過ぎないということはわかっていたんだ。
距離を測ることばかり考えていて、いざそれが近くなったらどうにもできないなんてね。
高校3年の時はもうどうにもならなかった。彼女を失った痛みから立ち直ることもできなくて、ただ毎日を悲嘆の中でまるで日常が夢の中のように過ごしていた。
それでも大学入試に失敗して一浪している中で、何とか夢遊病のような日々から戻って来られたのは時間のおかげかな。時が万能だと言うつもりはないけれど。
ただ、そうして彼女を失ったくせにそれでも生きている自分を呪ったりしていた。
こんなに冷たい人間だったのか、って。
彼女だけを苦しめて。自分は苦しんでいると言ってもこうして日々を生きている。それが許せなかった。

それでも僕は生きていた。少しずつ痛みを忘れながら。
大学に入って逃げるようにして思い出の土地を離れ、そこで新しい人たちとの絆を作りながら。
でもね、やっぱりダメなんだよね。
彼女のことを忘れることなんてできやしなかったし、それに自分自身を許すことも無理だった。
子供っぽいからこそ、後になると許せなく思えることってあるよね。
大学のゼミでそれなりに楽しい時間を過ごしながら、だからこそ僕は自分の罪を思い出し、繰り返し自分を責めていった。
……さっき言ったよね、霧島さん以外に1人だけ気付いた人がいたって。
ゼミの先輩で、一緒にいると安らいだ。この人なら僕を許してくれるかも知れないと思った。
でもね。
やっぱり違うんだ。
僕を許せるのは……いや、僕を断罪してくれるのはやっぱり彼女じゃなきゃいけなくて。
先輩が僕に優しくしてくれればくれるほど辛くなって。
そうして、結局彼女を傷つけてしまった。
僕が変われたのは、こうして彼女を想い続けて生きていけるのはあの人のおかげなのに。
あの人の言葉がなければ僕は、生温いだけの人間関係の中で満足しきっていたはずなんだ。
霧島さんから見れば、今でもそうなんだろうけど。
ただ、彼女の言葉が少しでも僕を変えてくれた。
中途半端な言葉だけで付き合いを終わらせてきた僕にとって、無関係じゃない、ときっぱり言い切ってくれたあの人の言葉はとてもありがたくて。
あの人は僕を理解してくれた。だから教えてくれた。
その言葉があったから、僕は彼女をほんとうに待とうと思えた。
ほんとうの気持ちに気付くことができた。
本気で彼女のことを想うのなら、どこまでもそうあらなければならないと思えたから。

霧島さんは僕が「人間関係の線引きをしている」って言ったね。
半分当たっていると思うし、半分はそうじゃないと思うんだ。
確かに僕はまだ臆病で、みんなのことを完全に理解できていないから一線を画している。そうだと思う。
でもね、誰も彼女の代わりにはならないから。
彼女に許してもらわなければ、ほんとうの僕の人生は始まらないから。
あの人に叱ってもらったのに情けないんだけど、でもあの人に叱ってもらえたからこそ、偽りの上っ面だけの理解ではダメなんだって気付けたから。
だから……僕はまだ他人をほんとうに理解できないんだ。
うん、霧島さんの言う通りだと思うよ。
そこまで堅苦しく考える必要なんてないって、僕だってそう思う。
でもダメなんだ。
もう一度彼女に会えるまでは……僕はただの抜け殻なのかも知れない。
そんなままで誰かを理解したふりをすることは自分が許せないし。でも、理解する努力だけは絶対にしたい。その結果が、こんな中途半端な自分でしかないんだけれど。

うん、ありがとう。
でも、こんな程度では苦しんでいるなんて言えないよ。
彼女の受けた傷に比べれば。

——— 8月14日

夜の海は静かで。
波音だけが小さなうねりのように彼らの足元を削っていく。
小声で呟いた彼女の声が、彼の耳朶を撫ぜ……そして波間に消えていく。

「自分を理解して欲しいのね」
「そう……きっとそうなんだと思う」
「あなたは誰かを理解しようとした?」
「した、と思う」
「自分を理解できない人が、他人を理解できるわけがないわ。それはあなたも同じ」
「わかっているんだ、ほんとうは」
「ほんとうに?」
「……うん」
「ほんとうにわかっているの」
「わかっている」
「なら、もう大丈夫ね」
「……ありがとう」
「ううん、いいの。でも、私はあなたが」

「だいきらい」