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どうして?
問いに答えるは沈黙。

わかってる、わかってるから。
それ以上、私を責めないで。
苦しめないで。
両の耳を塞いでも、金の双眸を閉じても、どこからか湧き上がってくる問い掛けから逃げ出したくて、けれど逃げ切れないこともわかっていて。

『あの火の玉が。蛍のようで、ただ、きれいな光だと』
そんなことは思っていない。それでもそうだと言い切れない自分が嫌で。
『所詮、あの子に人の気持ちなんてわかりゃしないのさ』
そうじゃない。どうしてわかってくれないのだろう、あの時の私は、ただ目の前の事実から逃げ出したいだけだったのに。
『逃げればそれで済むと思っているんだから……世話が焼けるわ。これ以上手を煩わせる子なんて、私預かれないわよ』
なら教えてください。私はどうすればよかったんですか。
『本人のせいじゃなくて。今までの環境のせいだって思いたいけど、無理よね。あんなんだとは思わなかった』
どうすればよかったのだろう。
『やり切れねぇよな、あいつらもさ。あれだけ可愛がってこれじゃよ。浮かばれねぇよ、まじで』
泣けばよかったのだろうか。
『所詮は』
泣けなかった。
泣けなかった自分が一番嫌だったのは、私。
私なのだから。

所詮、人形に涙なんて、なかったのだから。

幻想の庭〜盂蘭盆に還る魂〜

8月14日

薄青い空が、濃い緑の上に広がっている。
昨日はやはり疲れていたのだろう、千夏が朝食だと起こしに来てくれるまで眠ってしまったのだが、今日は夏の陽が森を透かして縁台を照らし始める前に目覚めた。
障子を透かすようにして感じられる清涼な空気に喚起され、蚊帳を潜り抜けると冷たい木張りの廊下に出る。ひんやりとした空気が微かに流れ、誘われるようにカラカラと網戸を開けると、天蓋の濃い青から森の向こうにかけて次第に薄くなっていく空と、時を止めたように静かな庭が彼女を迎える。
朝の冷気に包まれてじっと身を佇ませていると、少しずつ音が動き出す。
遠く森の奥で鳴いている鳥の声が冷気を震わせ、右手の母屋との間、渡り廊下の下を流れていくせせらぎが瑠璃の耳で踊る。
初めての風景、初めての音、初めてのこんな朝。なのに懐かしく感じてしまうのはやはりあの人たちと暮らした1年と少しの時間が、そしてその短い時間を濃密に埋めていた会話や触れ合いが、知らず瑠璃に影響を与えていたのかも知れない。

朝は和食に限るよね
お前が和食派だったとは思わなかったよ
ホントですよね
そおかな〜、私結構和食も作れるし……
ま、まてっ!作るのはやめろ
そうですっ、ていうか既に包丁の持ち方が変です
大丈夫、私料理してて怪我したことないし
いや、お前が怪我する云々じゃなく、こっちが……
……体験者は語りますね

昨日は見られなかった、薄靄のかかった庭。
東屋と池が暗い森を背景に幻想的な雰囲気で佇んでいる。
これは紛れもなく現実、現実の朝。ならば、この胸の奥にくすぶっている気持ちは現実なのだろうか、それとも。
あの頃、世界は明るかった。明るくて、希望に満ちていた。過去は思い出に、今は実在に、未来は可能性に見えていた。
楽しかった、そう言える時間がこれまでの短い人生の中でどれほどあるのだろう。たった15年だけれど、そのうちの14年、自分の周りは静止したまま、何も瑠璃に語りかけてこなかった。そして瑠璃もまた、語りかけようとしなかった。目は開いていてもその金色には何も映さず、聞こえていても、それはただ音を拾ってはその時の瑠璃にとって意味のあるものを繋げているだけだった。
そんな彼女に、何かが響くはずもなかった。
空洞に流し込まれる外部の情報は、単なる情報にすぎず。蓄積されることはあっても顧みられることはなく、瑠璃の心に影響せずにただ流れ、選別され、積み重ねられていった。
それは過去でしかなく、情報でしかなく。
けして彼女自身の思い出にも気持ちにもなるものではなかった。

それが変わっていったのは、やはりあの2人と暮らしてからなのだろう。
些細なことにで笑ったり泣いたり。
朝焼けに微笑んで、夕焼けに感動して。
そんなことが全て、瑠璃にはわからなかった。最初の頃は汚染物質で赤く染まった空を見て、どうして2人が悲しいような、それでいて心を洗われたように清々しい顔つきをしているのか全く理解できなかった。
それでもいつの間にか泣いたり怒ったり笑ったり、そんな2人と変わらない表情を日常的にするようになったのだから、自分も案外素朴なもんだ、そう思った。
そして、そう自覚した瞬間から、彼女は変わったのかも知れない。それは彼女自身が働きかけたものでなく、いつの間にか周囲の景色が風景が、彼らと同じようにその瞳に映り始めた、そういうことなのだから。
流れ行く情報のひとこまが生きた時間の刻みとなり、刹那の美しさをこの胸に留めておこうという感慨になり。流れていく時間を惜しむ気持ちがあらゆるものを慈しむ気持ちに変わることを、初めて知ったのもその時だった。

夏休み。
それがどういうものかは知っていたけれど、実際に体験するのは初めてのことだった。
「瑠璃ちゃん、初めて?」
「はい」
言葉が短いのは、ほんとうに初めてのことだったから。
あまりの光景に、人の作った言葉がなんて無力なのだろうと、ただそれだけしかなかった。
垂直に突き刺さる陽射しも気にせず見入っている瑠璃はだから、由梨歌がそっと被せてくれた麦わら帽子にも気づかなかった。

「火星もこんな風になればいいね、明人」
「そうだな。早くこんなきれいになれば……いいな」
暫くして耳に入った2人の会話にようやく反応して、
「……い」
「え?」
「どうしたの、瑠璃ちゃん」
日光に当たりすぎて気分が悪くなったのかと勘違いした明人と由梨歌が慌てて尋ねる。
そんな2人にゆっくりと振り返った瑠璃は、微笑んでようやく見つけた自分の気持ちを表す言葉を紡ぐ。
「海みたい、です」
どんな言葉でもよかった。
それが瑠璃の心から出たものであるのなら。
気抜けしてしまうほど、ただ目の前の漣のように光る稲穂を例えただけの言葉であっても、それは瑠璃が自身の裡から見つけてきた、いやあふれ出てきた言葉なのだから。
そして明人も由梨歌も、そうして迸った気持ちと言葉が何より今の瑠璃には必要なものであることを知っていたから。

だから。

「そうだね」
「海みたいだね」
明人も由梨歌も、並んで瑠璃と同じ風景を目に焼き付ける。
時折稲穂の間から陽光に輝く水面が彼らの瞳を刺す。
暑い夏。
けれど不思議とその光線が涼しく感じた。

夏の風に腹を見せてそよぐ水田を見つめながら、明人が故郷への思いを。
それはほんとうに、溢れ出すように呟いた。

「いつかこんな風になるといいね……」

森の奥から聞こえてくる音が次第に増えていく。
薄青い空は変わらず、夏の朝日が顔を出すでもなく未だにその色をゆっくりと紺から藍、青へと変えていくだけだった。
せせらぎに混じって聞こえてくる鳥の声だけが、心地よい夏の朝を告げ、瑠璃はいつまでもその情景を愛惜するかのように佇んでいた。

1人だけの夏。
はじめての、寂しい気持ちを忘れたいかのように。

朝食が済む頃になると、ようやく夏らしい気温に近づいてくる。
昨日着いた明人と2人で食卓を囲んだ後、庭から入ってくる風の心地よい居間で寛いでいると千夏が珈琲を運んでくる。行き届いたことだ、ふと口寂しく感じたちょうど気温の上がった頃に、天然氷を浮かべた冷たい飲み物を持ってくるのだから。
改めて感心しながら水滴を浮かべたグラスを口に運ぶ。
少し顔が上向きになって、瑠璃の腰掛けていた籐網の椅子がきしりと音を立てた。
グラスの中で氷が触れ合う音と重なって、気持ちがいいと思った時、更にそれに重なるように耳をくすぐる笑声が微かに響く。
「なんですか?」
見ると、明人は手にした本を閉じてしまってくすくすと笑っていた。
「いや、瑠璃ちゃんって変わらないよね」
どうにもよくわからない。
笑われているのが自分だということはわかるが、ツインテールにしていないのは休みの日ならいつものことであるし、服装も由梨歌に選んでもらった仕立てのいいワンピースである。どこか可笑しいところがあるとも思えない。
小首を傾げる瑠璃に明人はようやく笑いを納め、それでも頬を軽く歪ませながら答える。
「飲み物飲むとき、必ず顔ごと上に上がっていくんだよね、瑠璃ちゃんって」
「え」
どういうことなのか一瞬わからずにきょとんとしてしまったが、すぐに今の自分の仕草を思い出して一気に頬が紅潮する。
そんな瑠璃の様子にまた可笑しくなったのか、明人は目を細めて見つめている。
最近の明人は手ごわい。何か余裕のようなものを感じる。以前のナデシコで出会った頃の彼とはまるで人が違ったような落ち着きと風格を身に着け始めている。そんな彼に慌てて喰ってかかっても軽くあしらわれてしまうだけだから、瑠璃は少しむくれたものの何も言わずに再びグラスに口をつけた。
「うーん、瑠璃ちゃんは隙がないなあ」
その通り。
言われたからと言って気をつけて飲めばまたからかわれる。だから瑠璃はあえて顔を上げながら珈琲を流し込んだ。
「薬を飲む時って、やっぱり上を向くよね」
「もういいじゃないですか」
ちょっとむくれて睨むが、その視線に眼力はない。こんな他愛のない会話を楽しんでいる自分がいることも否定できないから。
「ごめん、瑠璃ちゃん。怒っちゃったかな」
微笑みながら言われてしまっては、こう答えるしかない。
「別に……怒ってはいません」
「そう」
ほんの短い一言だけで、明人は再び視線を手元の本に落とした。それだけで終わってしまったのが寂しいようなほっとしたような複雑な気持ちで瑠璃はそんな明人を眺める。
黒髪は相変わらずぼさぼさだが、少しだけ鼻梁や目元に2年前のナデシコ時代には感じられなかった大人びた雰囲気が現れ、どことなく変わったな、と思う。「ばかばっか」今では口にしなくなったその言葉が明人に向けられることもあったのだが、たとえ今でもそう言い続けていたとしても彼女が彼にそれを使うことはないのだろう、そう思えるくらいに。

再び沈黙が流れ、時折グラスの氷が鳴らす音と木立が風にそよぐ音だけが2人の間を抜けていく。
明人は本をを眺めつつ風がそよぐ度にふとその匂いを嗅ぐかのように庭に視線を軽く投げ、瑠璃は時折文庫から目を上げるとそんな明人をそっと眺める。窓の向こうに広がる緑と白の世界を背景に、切り出した絵のようにきれいな光景だった。いつもの四畳半では決して見られない、落ち着いた雰囲気に溶け込んだその姿を見ながら、用事で来られない由梨歌には悪いと思いつつも、この時間を独り占めにしている幸福を味わっていた。

「瑠璃ちゃん」
何度目かの鑑賞でふ、と明人と視線が出会う。
慌てて視線を手元の文字に落とした瑠璃に、明人は軽く苦笑しながら呼びかけた。
「はい」
何故か激しくなった動悸を落ち着かせようと努力しながら、できるだけゆっくりと返す。そんな瑠璃の様子に合わせてくれたのかどうか、明人は苦笑を微笑みに変えて提案をした。
「庭、広いんだってね」
「え?」
一瞬何のことだかわかりかねたが、東京の自分たちのアパートのことを言っているはずがない。そもそも広い庭など、彼女や明人の経験ではここが初めてなのだから。
「ああ、そうですね。千夏さんの話ですとこの森の奥に沼があって・・・そこら一帯まで敷地に含まれるそうです。私も昨日、明人さんが来る前ちょっと行ってみましたが」
「どうだった?」
「きれいで、静かでした。別の世界にいるみたいで……」
目を遠くに、昨日の場所を思い出す。
薄暗い森、黒い沼、昼間とは思えない静かな場所で佇んでいると決して大げさではなく、自分のいる場所がわからなくなる感覚に陥る。それが今の瑠璃には心地よくて時間の経つのを忘れてじっと沼を見つめていた。
誰もいない、音もしない、ただ静かに時間だけが通り過ぎて行く。沼の水面を波立たせるものは何もなく、それが自分の心に投影されてささくれだった心が落ち着いていく、そんな錯覚を受けていたのかも知れない。
夕方になって森を出た時に湧いた疑問が頭に残っている。
どうして心地よかったのだろうか、と。
見たことのない風景、そして決して明るい気持ちにさせてくれる爽やかな場所とは言い難い。涼しいけれど、それは爽快というには遠すぎて。どちらかと言えば冷気の方がしっくりくるかも知れない、そんな雰囲気がどうして落ち着けたのだろうか。

「案内してくれないかな、そこに」
考え込んだ瑠璃の耳に、明人の声が届く。
「暑くなる前に。昼過ぎまでに帰って来られる場所だよね」
別に異存はない。
ただ、何となく明人と一緒に行くのが躊躇われたのだが。
「はい。じゃあ、行きましょうか、明人さん」

庭の池に注ぎ込む小さな流れを遡って、庭の入り口……いや出口と言った方がいいかも知れない、木立の中へ入って行くと、辺りは不意に暗くなる。下草は未だ露に濡れ、スカートの裾を絡め取る。ひんやりとした涼感が頬を撫で、立ち止まって視線を流す。
「瑠璃ちゃん」
見ると明人が、瑠璃の仕草を勘違いしたのだろうか、手を伸ばしてくる。それほど歩きにくい道ではないので大丈夫だったが、甘えておくことにした。
久しぶりに繋いだ大きな手は、ひんやりと冷たくて気持ちよかった。
『心があったかいんだよ』湊の手が冷たかったのを指摘した時、彼女はそう言って笑っていた。今はもう、彼女が自分に笑いかけてくれることはないけれど。

どうして?
どうして、湊は自分にもう笑いかけてくれないのだろう。

「こっちかい?」
先に進む明人が空いている手で示す。
思考に囚われていた瑠璃ははっとして、
「あ、はい」
「どうかした?疲れたのかな」
「え……いえ、別に。大丈夫です」
瑠璃の言葉に納得したのか、明人は再び歩を進める。

あれはいつだったろう。
どうしてだろう。
様々な疑念が次々と浮かび上がってくるが、どれも明確ではなく当然ながら答えも出てこない。
それでも疑問だけは尽きず増え続けて瑠璃を混乱させる。
急に不安になって視線を上げる。
先を行く明人の姿を見て安心したのも束の間、また直ぐにどうしようもない不安と無力感に襲われる。

「……瑠璃ちゃん?」
明人の声で見上げると、いつの間にか森を抜けていた。
目の前に広がるのは、黒い沼。木立に囲まれて風に漣も立てず静かに広がっている。
「ここでいいんだよね」
「あ、はい」
明人が手を離すと、少しだけ胸に波が立った。
けれど、そんな様子をおくびにも出さず、先に立って一箇所だけ木で作られた桟橋のような場所へと降りて行く。
木立の枠に被せる天蓋のような空は青く澄み渡っているのに、沼は辺縁を木陰で黒く縁取り、中央にぽっかりと空いた穴のように陽光を受け止めている。近づくと次第に澄んだ水の姿を現し、水底の小石を透き通らせる。
「へぇ……意外ときれいだったんだね。不思議だな」
一歩遅れて桟橋に立った明人が、底を覗き込みながら呟く。遠目では黒しか映さない水は、こうして水際に立つと澄み切った姿を見せるのは、確かに瑠璃も不思議に思った。けれど、思っただけで考えるのを止めてしまったのだ、昨日は。
なぜ?
ここでも疑問が立ち現われる。
昨日のことはぼんやりと靄がかかったように、彼女が思い出そうとする努力をあざ笑う。どうして自分はこんなにも自分の言動を思い起こすことができなくなっているのだろう。それとも、昨日のことは全て夢で、もしかしてここへは来ていないのだろうか。一昨日の疲れが取れず、あの部屋で眠ったまま千夏に言われた風景だけを想像して夢を見ていたのかも知れない……。
瑠璃の頬が、自嘲気味に歪む。
どうかしている。こうしてここへ間違わずにこれたこと、そして昨日見た風景と寸分違わないことが昨日の自分の存在を明らかにしているではないか。
けれど、それでも彼女の心に覆いかぶさる不安は消えない。
ふ、と横に視線を流すと、傍らで沼面を見つめる明人の表情が無表情に感じることも、彼女の恐怖心を助長した。
「明人さん……」
知らず、瑠璃は明人の半袖をぎゅっと掴む。
その瞬間、能面のような無表情は消え、明人にいつもの穏やかな微笑みが広がっていく。それは、波紋を立てるように。
「どうしたの、瑠璃ちゃん」
明人の言葉に答えられない。

ゆっくりと広がっていった明人の微笑みの波紋が、そのまま瑠璃の心に漣となって寄せてくる。
それは、不安という名の恐怖であり、恐怖という名の不安であり。

これは明人じゃない。

どうして?

私の知っている、明人さんではないから。

そんなわけがない。昨日の夕方に着いた明人と一緒に夕食を摂り、蚊取線香の匂いを懐かしいと言い、2人で濡れ縁に腰掛けて涼を取り、夜の池にかかる月の美しさに東屋へ誘われ。
明人は確かにここに存在し、そして瑠璃が今掴んでいるこの袖も幻ではない。
なのに。それなのに、何かが瑠璃を急きたてるのだ。
これは違う、と。

「瑠璃ちゃん」
明人の声に、びくりと反応して肩を震わせる。
ノースリーブでむき出しになった彼女の白い肩に優しく手を置いて、明人は正面に瑠璃を見据えた。その黒い瞳はあくまでも優しく、それは瑠璃の経験する限りで紛れも無い明人のものだった。
「瑠璃ちゃん、不安かい」
「え……」
言い当てた明人に驚いて目を見開く。
そんな瑠璃から視線を逸らし、再び沼に向き直ると明人はゆっくりと口を開いた。
「この沼みたいなもんなんだね。遠くからでは見えなくても、近くに寄れば見えることもある。思い切って手を伸ばして、近づいて……そうしなければお互いが解り合えない」
「明人、さん?」
何の話をしているのかわからない瑠璃が尋ねるが、明人は沼を見つめるだけだった。
「遠くから、離れてみないと気づかないことだってある。でも、人は人と接してみないと、本当の姿なんてわかりっこないよね。いや、心って言った方がいいかな。ほんとの心なんて、その人に触れてみないとわからない」
瑠璃も明人の視線を追う。そこには黒々とした水面が広がるだけだった。陽光の照り返しを受けた中央ではなく、彼らの視線は辺縁の森と溶け合う部分へと吸い込まれていく。陽の光を受けていようと陰に覆われていようと、確かにこの沼の底は見えないのだ、ここからでは。ただ足元だけが、清冽な流れを湛えてゆっくりとそうは見えないくらいの速度で彼らの足元を抜けて流れていく。
「誰も君のことを見てくれていない。ナデシコの元オペレーター、15歳になった昔の同僚、乏しかった表情が、俺や由梨歌と過ごすようになって少しずつ増えていった少女、市立中学の3年生……そんなことは誰でも見える、わかっている。だけど……」
明人が再び視線を瑠璃に戻した。

いけない。
警鐘がざわめく心で鳴り響く。
この先を聞いてはいけない。
そう思うのだが、瑠璃の耳は静かな森の中で、明人の言葉だけを拾い続けていた。

「独りで心を閉ざしてしまった悲しい君の姿を、誰もわかってくれない」

明人の瞳が瑠璃の金の双眸を射抜く。
言葉を搾り出そうとするが、口は開いてもそこから何も発せられることはない。
どうして。
どうしてそんなことを言うのか。
私はここにいる。明人さんもここにいる。由梨歌さんはヨーロッパ支部へ出張している。家に帰れば、3人で暮らしている生活の跡がある。
……そのはずだ。

「瑠璃ちゃん、君が悲しんでいると……」

それ以上は言わないで。
わかっている。ほんとうはわかっているのだから。
今朝、明人は食事を摂っていたか。並べられた食事は本当に2人分だったか。
あの居間で、千夏は明人の珈琲を運んできたか。

……あの文庫本は、本当に手元にあったろうか……

ぱらぱらと、風がページをくくる。
流れていく文字は瑠璃の脳裏を掠めていくだけで、記憶されることはなく。

「明日の夜、ここで待っているよ」

「明人さん」
ようやく搾り出した声は、折からの風に揺れた木々の葉擦れと漣の音で、掻き消されていった。

涙は出なかった。
出なかったのだ。
それが、自分が自分であるという証だとしたら悲しすぎる。
悲しすぎて……心を閉ざすこと以外に、できることはなかった。
「瑠璃、大丈夫なの?」
「何がですか?」
「だって、あんた……悲しくないの?」
「どうして私が悲しくならなければならないんですか。それより雪菜さん、遅刻しますよ」
「瑠璃……」

忘れることなどできない。
ならば、なかったことにするしかないではないか。
泣けない人形ならば、それができるはずなのだから。

「お嬢様、明日はお祭りがありますよ」
夕食を並べていた千夏が、手を休めて言う。
「お祭り、ですか」
「ええ。盆踊りと言った方が端的かも知れませんが」
微かに笑いながら、
「村の唯一の楽しみなんです」
「でも私、盆踊りなんて知らないですから……」
口ごもる瑠璃に、千夏は再び手を動かして夕食を並べていく。
大川が作った料理は素朴な郷土料理を盛り込んだ、簡素だが素晴らしいものばかりだ。余程の料理人であろうと思うが、この3日間会った事はない。
並べられていく皿を見ながらぼんやりと考えていた瑠璃に、
「……そうですね。今となっては盆踊りでお面が売られている理由を知っている人も少ないでしょうし。消え去っていく行事なのかも知れません」
並べ終わった千夏が、珍しくそのまま立ち去らずに独り言のように呟いた。
「お面の意味、ですか」
瑠璃も少し興味を引かれ、千夏に尋ねる。
お盆を両手で前に持ち、やんわりと微笑む。
「昔はお面をつけて踊ったそうです。輪の中の誰かは、お盆に還って来た仏様だからって。だから誰かわかっても声をかけちゃいけない、そういう行事だったそうですよ」
「お盆に還って来る人……ですか」
「ええ。そう考えると、悲しいお祭りのような感じもしますね」
それだけ言うと、「ではごゆっくり」と千夏は下がっていった。
独り残された食堂で、瑠璃は箸をつけるのも忘れてぼんやりと千夏の言葉を反芻していた。

「お盆に還って来る……たましい……」

夏の夜は、静かに更けて行く。