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遠くから祭り囃子が流れてくる。
濡れ縁に立ち尽くして彼女は、暗い森を見つめている。
約束。
その二文字だけが、彼女をここにとどめていた。
幻想の庭〜盂蘭盆に還る魂〜
8月15日
宵闇が迫ってくる。
夏の昼は長く、夜はゆっくりと天蓋を覆っていく。
「明日の夜、ここで待ってるよ」
爆炎が輝いているのを、遠い世界の出来事のように眺めていた。
それは余りにも現実から離れすぎていて。
現実ではないと思いたくて。
認めてしまうことが今までの自分の否定であると、どうしてそう思ったのだろう。
喧騒が潮騒のように。
そして私は、現実から逃げ出していた。
「千夏さんは、お祭り行かないんですか」
ようやく蝉の声が現実に鳴り始めた夕暮、冷たい麦茶を運んできてくれた千夏に瑠璃は尋ねた。
「祭りの時間は7時から9時までですから」
静かにそう言うと、踵を返そうとする。慌てて瑠璃はその背中に声をかけた。
「私のことなら気になさらないで下さい。その時間はちょっと庭の散歩でもしようと思ってますから」
「ですがお嬢様、そんな暗い時間に庭を散歩なさっては……万一怪我などなさったら……」
「大丈夫ですよ。それに後藤さんや大川さんはいらっしゃるんでしょう?」
そうは言ってみたものの、この3日間でその2人に会ったことはない。瑠璃が接するのはいつでもメイド服の乱れのない千夏だけだった。
それを慮ったのか、千夏は少し複雑な表情をしたが、
「わかりました。では少しお時間を頂いて宜しいでしょうか」
にっこりと微笑むと、瑠璃に許可を求める。
「もちろんです。気にしないで楽しんできてください」
千夏は無言で軽くお辞儀をすると、トレイを抱えて台所の方へ消えた。
後姿がなくなると、瑠璃は籐編みの背もたれに体を預けると、大きく息を吐く。
別に、千夏がいて不都合なことは何もない。いつものように独りで……けれど、それは本当にいつものように、なのかが解らないから大事をとったのだ。
この夏。
明人と過ごした2日間は自分の見た白昼夢だったのだろうか。
食事をして、庭で涼んで、居間で読書をした時間。
瑠璃は右手を見つめる。学校の行き帰りに気をつけたわけでもないのに、自分ひとりがいつまでも生白いのが嫌だった。学校の友達が「日焼けしないなんて羨ましい」と言う度に疎外感を覚えた。
あの、ピースランドで会った元の研究所長の言うように、結局は遺伝子操作の成功作で11歳で戦艦のオペレータをして。中学生という人格、中学校というコミュニティでは溶け込もうとしてもどうしても異質な存在は浮いてしまうのだろうか、周りも自分も気づかない程度に。
そう思った瑠璃を救ってくれたのは、やはり明人だった。
「異質な存在?」
「はい。やはり遺伝子操作は禁止されてから久しいですし、そもそも実用化が認められていた短期間の間でそれを行おうとしたのは少数の機関だけです。だから実際、殆どいないんでしょうし、そんな少数派の人間はどうしても……」
「周りから浮いてしまう存在になってしまう、と?」
「そう、ですね」
「その間が全てを物語っているなあ、瑠璃ちゃんは。あのさ、俺って火星出身じゃん」
「はあ」
「だからIFSをつけてたことで色々不都合とか……ありていに言えば差別とかもあったけど、それで自分が地球では異質な存在なんだと思ったことはなかったな。IFSをつけたことを後悔したこともなかったし」
「明人さんは自分で決めてしたことだから」
「そうだね。確かにIFSをインプラントすることは自分で決めた。だから後悔していない。でも、火星出身てことは自分で決めたことじゃあない」
「……だけど、火星出身でIFSをつけてない人だっているじゃないですか。明人さんだって、火星市民だからってことで」
「あったよ。ていうか、IFSをつけてることイコール火星市民、そういう認識だってことくらい瑠璃ちゃんも知ってるだろ?」
「……はい」
「サイゾウさんとこの前に働いた食堂だったかな、その頃は木連の襲撃も少なくて。厨房に立たせて貰ってたんだけど、たまたまIFS見たお客さんに『火星人の料理なんか食えるかよ』って言われて。そんでクビ」
「そこまで……」
「そこまでだったんだよ、以前は。今はあの戦争とエステバリスのおかげでそんなことないけどね。それはそれでショックだったけど、でも異質だとは思わなかったな。火星に帰りたいというのはあったけど、それは単純に望郷の念からであって。だから今は地球にいるだろ?俺」
「どうしてですか」
「自分は地球でも異質なものではないと思ったから」
「それだけで、ですか」
「うん、それだけ。だって、地球では自分は異質な存在なんだって思っちゃったら自分の居場所は火星しかなくなっちゃうからね。火星市民であることと地球市民であることは、それは確かに違うかも知れない。重力だって微妙に違うわけだし、風土病に罹らないよう、ある程度のナノマシン処理による遺伝子改造も行われてる。でも、……」
「お嬢様」
昔日に思いを馳せていた瑠璃は、はっと顔を上げた。
いつか空は夕焼けに染まり、蝉の鳴き声も蜩に変わっている。
「あ……お祭り、行かれるんですね」
視線をあげると、心配しながらも控えめに瑠璃を窺う千夏と視線が合う。
「はい。本当に宜しいでしょうか」
不安げに尋ねる千夏が、少しだけ身近に感じた。だから瑠璃は微笑んでこう言った。
「ええ、もちろんですよ。浴衣、とても似合っていますね」
盂蘭盆。
それは死者との逢瀬。
暗い森の中を、けれど通い慣れたかのようにしっかりと歩く。
足元で踏みしめる土は、木々の葉に水分を含んでスポンジを踏みつけたような音を鳴らす。
この音と目を閉じても続いている道が、彼女と現実を、そして幻想とを繋げるか細い証明であるのだ。そして、
「明日の夜、ここで待っているよ」
この約束だけが。
この約束だけが、彼の存在を辛うじてこの世界に留めている。
それは、彼のいない世界に繋がりを持たない、瑠璃とて同じことであるのだが。
薄暗い森が突然切れ、目の前がぼんやりと光る。
黒い沼が月を映して、仄青く周囲を照らす。
音ひとつしない閉じた世界で、ふ、と瑠璃は息苦しさを覚えた。
青く黒い世界。
望んでいた、月明かりに照らされている彼の姿はない。ただ、墨を流したような沼面が桟橋に佇む瑠璃の足元に沈殿している。
この水は流れているのだろうに、流れているようには見えない。浅いはずなのに沼底が見えないせいか、じっと見つめていると引き込まれそうな錯覚を覚えて、彼女は浴衣んぼ併せ襟をぎゅっとつかんだ。
それはただそれだけのためだったろうか。
祭りの囃子も聞こえない森の中で、息づいているものが自分独りであるという孤独。
それは、周りに人がいようといないものと同じであったあの感覚に似ているのかも知れない。
「瑠璃ちゃん」
振り返ると、いつの間にか周囲に溶け込んでしまいそうな真っ黒な服を着た彼が、静かにこちらを見つめていた。
月明かりは彼の表情を青白く染め上げ、背景の森に溶け込んだ体からその穏やかな微笑みだけを浮かび上がらせる。
脳裏を彼の言葉が、彼との生活が次々に流れては消えていく。
四畳半、何もない日常。
初めて着た浴衣を誉めてくれたこと。
学校からの帰り道、夕焼け。
かじかんだ手をそっと温めてくれた大きな手。
繋がれた片手、紡がれた言葉。
照れ隠しに吹いた、チャルメラ。
手作りのチョコレート。形はいびつな。
長く伸びた影に寄り添う、小さな影。
それだけで嬉しかったあの頃。
ああ、そうか。
私は、明人さんが好きだったんだ。
逢瀬は刹那。
盂蘭盆に還る魂を、引き止めてはならない。
誰かわかっても、声をかけてはならない。
ただ、彼女に残ったものは、あの頃と同じように暖かい、大きな手の温もりだけだった。
何を話したのか、何を聞いていたのか、そんなことはどうでもいいことだったろう。
ただ、彼が自分に逢いに来てくれた、そのことだけが彼女にとっては大切なことだったのだから。
沼は変わらず、黒い姿を月光に晒している。
遠くから祭りの囃子が聞こえてくる。
色と音を取り戻したこの世界で、これからどうやって生きていくのだろう。
けれど、どうやって生きていけばいいのか、それすらわからなかった昨日までの自分ではないことは、はっきりとわかっていた。
そっと、明人の触れた頬を撫でてみる。
瞬間、周囲に光が灯り、驚いた瑠璃は目を上げて見回す。
「蛍……」
点々と灯る微かな燐光が、瑠璃を取り巻いていた。
仄白い月光と、黒い沼。
静かに瑠璃を照らす蛍。
微かに笑みを零すと、
「明人さん、きっといつかまた……逢えますよね」
その言葉は光に吸い込まれ、森の向こうへ消えていく。
風が運ぶ水の匂い。
祭りの音、光の舞。
静かに横たわる黒い沼、森。
瑠璃はその中で、いつまでも佇んでいた。