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6月19日は嫌いだ。
多分これは来年になっても、いやこれからずっと変わらないだろう。
青から赤へ、そして黒へと変わっるターニングポイント。誰を恨むこともできず、現実と幻想を混在させる転機となった記念日。
2ヶ月経って、それは好転の兆しもなく却ってその深い世界をますます混迷の渦へと落とし込んでいくだけだった。
もう、その瞳には誰を映すこともなく、ただその場にあるものを事象として認識するにすぎないスクリーンと化し、どこまでも深く暗い溝を刻み込んだ心の奥に、投影された人々と世界を網膜を透過させて落とし込んで行く。

私はどうすればいいのだろう。
幾度となく繰り返された問いかけに答えはなく。

ただ、見つめるだけで夏を過ごすことしかできなかった。

幻想の庭〜盂蘭盆に還る魂〜

8月16日
もう少しここで

「こんにちはー」
大きな玄関の前で、彼女はそれに負けないくらいの大きな明るい声で家の奥へと呼びかけをする。チャイムは鳴らしたから、今家政婦がこちらに向かっているのだろうから、待っていればいいものを、そこは彼女の性格だろう。

「ああ、いらっしゃいませ」
ガチャガチャと玄関の鍵を外す音が鳴り、顔を出したいつもの家政婦が笑って声をかける。彼女のこんな態度にももう慣れたようで、ドアが開ききる前に言ったということは、先ほどの彼女の挨拶で既に来訪者の予測はできていたようだ。
「どうぞ、お嬢様はいつものように居間にいらっしゃいますよ」
「じゃ、お邪魔しまーす」
降り注ぐ、というよりも地表に突き刺さるような陽光の白さから、一転する。突然薄暗くなったように感じるが元よりそれは気のせい。
靴を脱いであがり込むと案内を待たずにずんずんと奥へ進んでいく。
廊下を通り幾つかの部屋のドア前を過ぎ、突き当たりを右に折れると目の前にこれもまた屋敷に見合った大きなドアが現れる。両開きの片方のノブを掴むと、今日もまたいつもの繰り返しかな、という不安に襲われるが、それを振り払うように頭を軽く振ると勢いよく扉を開ける。
「やっほー、瑠璃。元気してたー」

「雪菜さん。昨日も会いましたよ」
非難めいた口調ではなく。柔らかい雰囲気を纏いながら、リビングのソファで彼女は手にした本から目を上げずに答える。
「それは言わないお約束だよーん」
ふざけた言葉で返すと、雪菜もまた向かいのソファに腰を下ろす。ドアを左に、大きな硝子窓を左手に瑠璃に向かい合うように座ると、そこでようやく彼女は視線を上げた。
「昨日の続きをやりますか」
「あー、今日はいいの」
そう毎日宿題をやるのは勘弁して欲しい。やらなければいけないことだけれど、数学は湊に教わりながら既に終わっているし、苦手な理科も昨日瑠璃に手伝ってもらったおかげで半分はクリアした。急いでやらなければならないものは今のところない。
がっしりとしたローテーブルからパネルを引き出し、スイッチを押すと目の前にウィンドウを表示させる。
「あれ。カナガワ代表負けちゃってる……」
20世紀から続いている高校野球、雪菜が受験しようと思っている高校が今年の代表だったため、放送時間を気にしながら来たのだが。
慌てて時計を見ると、時刻は午後の1時を回っている。
「時間、間違えたんですか」
ウィンドウに軽く目を走らせながらも、瑠璃は興味がなさそうだ。
「うん。ま、しょーがないか」
他愛のない会話を続けながら、実際のところ雪菜は高校野球の結果はどうでもよかった。問題はその後。昨日犠牲者の追悼式典があったから、今日ならまだニュースでやるかも知れない。リアルタイムで見せればよかったのだが、昨日はつい宿題に熱中して時間を過ぎてしまったから。
それで何かを期待しているわけではない。
けれど、湊や他のナデシコクルーのように諦めてしまうなんてことは、雪菜にはできなかった。
人が人を助けるということは、そんなに軽いものではないのだと、少女にはなんとなくわかっていたから。

「ああ、すいませんね、今は準備中で……おや、珍しいねぇ」
カランという音に褒明が振り向くと、そこには制服を着た少女が立っていた。
「こんにちは」
「どうかしたのかい、元気がないようだけど」
「わかっちゃうかな」
「ま、ね。何か食べるかい」
目線でカウンターを示すと、紺の短めのスカートに白い半袖シャツ、襟には細いスカートと同色のリボンを結んだ生徒は大人しくカウンターに座り頬杖をついた。
「チキンライスがいいかなぁ」
ぼそっと呟くように言うと、その注文に少しだけ翳りを見せたが褒明は黙って調理を始めた。
人影のない店内に、包丁の音だけが響いていく。

「褒明さんは瑠璃が心配じゃないの」
材料の下準備が終わって中華鍋を火にかけたところで雪菜が呟く。
「お前さんがいるからね」
くいっとグラスの水を流し込むと、雪菜は再び尋ねる。
「どうして」
その質問には答えず、鮮やかな手さばきで鍋を操る。
小気味いい音と食欲をくすぐる匂いが店内に広がり、特に空腹ではなかった雪菜のお腹も音を立てそうになる。

「はいよ、お待たせ」
目の前に出されたチキンライスを見ながら、それでも何となく手をつける気になれなくて褒明を見ると、彼女は笑って雪菜の無言の質問に答えた。
「どうしてか、早く言って欲しいって顔してるね」
無言で頷く雪菜。
答えてくれるまで安心して食事ができないとでも言いたげな雪菜の様子に、褒明は、やれやれといった調子で腰に手を当てると、
「お前さんは近しい人の死を見てきている。それも感受性豊かな頃に体験してきて、その上で乗り越え、湊さんまでちゃんと立ち直らせてきた。ああ、わかってるよ、それはもちろん無意識の上でだろう。そんなあんたなら瑠璃坊の気持ちもわかってあげられるだろうし、結果を性急に求めることもないって思うからさ」
未だよくわからない、という顔をする雪菜に重ねて言葉をかける。
「大人たちに対するあんたの怒りはわかるよ。心配そうなフリして、もう瑠璃坊を見捨てるのか、ってそう言いたいんだろう」
その通りだった。
あの時、放心したような瑠璃を懸命に慰め、立ち直らせようとしていた彼らはけれど、涙を流さず葬儀でも淡々としていた彼女を見て次第に憤るようになっていった。
それはあの、湊でさえも。

どうして自分たちの「悲しい」基準で人を見ようとするのか。
どうして彼女の「哀しい」気持ちを誰も理解してあげようとしないのか。

彼らの憤りは雪菜の中で増幅されて怒りとなっていった。
大人たちの中では、近親者が死んだら泣かなければならない、悲しみを外に向かって表さなければならない、そういった基準でも存在しているかのようだった。
悲しくないわけじゃない。
彼女自身ですら気づいていない瑠璃の気持ちを、傍で見ていた雪菜は知っていた。
仲良くしている明人と由梨歌を追う視線が、痛いほど瑠璃の気持ちを表していた。
だから、雪菜にはわかっていた、瑠璃がどれほど悲しんでいるかを。
それでも感情を素直に出せない彼女が、そんな自分にどれほど絶望しているかを。

「瑠璃坊は、悲しくないわけじゃない。ただ、感情を押し殺すことに慣れすぎて涙を流せなかった。そんな自分が哀しくて現実から逃げてしまっただけなんだろう」

そう。
悲しくないわけがないのだ。初めて好きになった人が、突然手の届かない所へ逝ってしまったのだから。
どうして大人たちはそれをわかってあげられないのだろうか。

「でもね、大人はお前さんたちより長く生きてしまった分、人の感情の在り方も多く見てきてしまっている。固定化されてしまった基準はなかなか直せないものなんだよ。無理かも知れないけど、せめて湊さんに対してだけはわかってあげなよ。あの年でお前さんを預かることを通してくれたあの人にだけはさ」

褒明の言葉は、今すぐには納得できるものではなかったけれど、雪菜の胸にわかってくれる人がいたという事実を伝えるには十分だった。
「……うん」
自分でも聞こえるか聞こえないかというほどの小さな声で頷くと、雪菜はスプーンを手にした。

チキンライスは、ちょっぴり塩の味がした。

幻想と現実が奇妙に同居している。
言葉の端々に明人や由梨歌の存在を感じて、雪菜はそう思った。
いや、これはわかっていたことなんだけれど、少しずつでも彼女を現実の側に引き寄せたいと思っている雪菜には、相当骨の折れる作業なんだと改めて実感した。
「結局明人さんが買い物に行くことになったんですよ」
明人。
2人の名前が出るけれど、明人の名前を呼ぶときの微妙な感情の揺れを雪菜は見逃さなかった。
ほんの少しだけ、誰にも、それこそ本人ですら気がついていないほどの微妙な声調の違い。由梨歌、明人、浩一郎、雪菜、イネス、オモイカネ、今の彼女の会話で出てくる言葉は大概これで済んでしまう。
その中で唯一、他の名前と違った感じで言葉に出される「明人さん」という名前。
その変化を耳にするたびに、雪菜の胸はちくりと痛んだが、焦って「明人さんはもういないんだよ、瑠璃。しっかりして」と言うことだけは絶対に、しない。
彼女がこんな風に、幻を織り交ぜながら生活するようになったきっかけが、その言葉だったから。
そしてそれを言ったのが、他ならぬ湊であったことが、それから2ヶ月続く雪菜の怒りの原因でもあるのだが。
「そうなんだ、相変わらず大変だねぇ、明人さんも」
苦笑しながらそう言う。
ゆっくりと彼女に合わせながら、少しずつ現実を増やしていく。
その作業をまだ中学生である雪菜がやるのだから、大変だった。
けれど、このままでいいとは思えないから。
目の前の少女は未だ目覚めない。
いつになるのかわからない、それでも雪菜はその時が来るまで、瑠璃を見つめていようと思う。

「ふぅん、なら瑠璃はそれに着いていったわけだ」

夕焼けがポーチを赤く染めている。
オオイソ・シティ、いつもの……我が家。
ふ、と視線を脇に逸らすと庭に部屋の明かりが漏れている。どうやら湊は帰ってきているらしい。

……自分のこともしっかりできないようじゃ、瑠璃のこと言えないよね。
雪菜は大きく息を吸い込む。
引き戸の取手に手をかけると、思い切り引く。
戸がからからとスライドする音に重なるように、夕食の支度をしている小さな家に雪菜の声が響いた。

「ただいまー、湊さん」

2199年、夏。

明人と由梨歌のいない、初めての夏。
まだ、3人の軌跡は交差することはなく。

もう少しだけ、このまま過ぎていくことを、蜩と赤い太陽だけが知っていた。