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「お嬢様、またいらして下さいね」
玄関で手を振る千夏に微笑みで返すと、車は走り出した。

緑を車窓に流しながら、早瀬がちらと助手席に目を流すと、そこには行きと同じ少女がちょこんと座っている。ただ、どことなく以前と違う雰囲気に思わず、
「お嬢ちゃん、何かあったかい」
瑠璃は顔を向けて微かに笑った。
「はい、とっても嬉しかったです」
自分の質問に対する答えとしてはちょっと変だな、そう思ったが早瀬もまた笑い返した。
「そうか、よかったなあ」

開け放した窓から緑の匂いが入ってくる。
緑を抜けて村の家々を流し、再び森を向こうに車は走る。
全ての景色が少し違ったものに、瑠璃は思えた。

幻想の庭〜盂蘭盆に還る魂〜

8月18日

「じゃあ、気ぃつけてなあ」
「はい、本当にありがとうございました」
電車の時間よりだいぶ早く着いた瑠璃を下ろし、早瀬のトラックは再び走り出して行った。後には蝉の声と風が稲穂を掠める音だけが残り、何となくそのまま立ち尽くしていたい気分に襲われたが、ふと千夏の言葉を思い出して微苦笑する。
『お嬢様、お入りになられた方がいいですよ。お肌が痛んでしまいますから』
「そうですね」
呟くと瑠璃はバッグを持ち替え、駅舎へと足を向ける。
小屋と呼んだ方がしっくりくる駅舎の中は、ひんやりと涼しく、切符回収用の粗末な木箱が手すりのような木枠に掛けてあるだけの改札の向こうには真っ白に光るホームの景色がある。
ホームから駅前へと吹き抜けていく風の通り道になり、瑠璃の下ろした髪を撫でて行く。そのまま目を閉じると、あの日の約束を思い浮かべる。

「笑顔だよ、瑠璃ちゃん」
月光を背負って、頬に触れた手を離すと明人がゆっくりと言葉を繋ぐ。
「……できません」
瑠璃はその姿を見て、いやシャトル事故で死んだと思っていた明人が目の前に現れたその瞬間からもう何も考えられなくなっていた。
「崩れそうな瑠璃ちゃんを、俺も由梨歌も望んでいない」
「なら、傍にいてください。明人さんを、由梨歌さんを返してください」
明人に願っても仕方ないことはわかっている。けれど、そう言わざるを得なかった。今明人がその願いを叶えることができないことも、目の前にいる、この人にしかその願いは叶えられないであろうことも、確かなのだから。
明人は困ったような色を瞳に浮かべ、もう一度瑠璃の頬に手を触れる。
「どうしたらわかってくれる」
責める調子はない。
ただ優しい響きを含んだ明人の言葉に、瑠璃は答えた。

ふ、と目を開くと右手の運行予定表の下、これもまた体を預けると崩れそうな張り出しがあるだけの、簡素な台に、何か小さなメモが残されている。
立ち上がって傍に寄ると、少しの高さがありメモにはこう書かれてあった。
<8月12日、横江—千垣間でのお忘れ物です>
メモを避けると、その下にあったのは失くしたと思っていた文庫本だった。
「これは……」
手にとってじっと見つめると、行きの車内以外でも見覚えのある風景が蘇る。
「明人さんが読んでた……」
あれは幻だったのだろうか、今でもそれは定かではないけれど、瑠璃の後に屋敷に着いた明人が居間の籐椅子で読んでいた本だった。
見つめていた瑠璃の瞳に光が戻り、曖昧な記憶は思い出に変わっていく。
「明人さん、やっぱり夢じゃ……ないんですね」

「明人さんも、約束をください」
「約束?」
少しだけ当惑の色を見せる明人を正面から見据えて、瑠璃は一言一言をはっきりと紡いでいく。
「いつか、明人さんと由梨歌さんを返してください」
願い。
叶うことはないと思っていた、諦めは彼女から生気を奪っていった。
キェルケゴールの言葉は正しい。
けれど、幻であろうと現実であろうと、彼女に必要だったのはエルンスト・ブロッホだったのだから。「原理がある。それは希望だ」キリストの教えでなく、たといそれを敷衍していようと彼女の胸に鳴り響かねばならなかったのは教えでなく、ホルン5度、B-Des-Ges-As……。

「そうしたら、私は笑って生きていけますから」
沼は黒く、明人の瞳の色は映し出す。
瑠璃の金の瞳に篭められた、希望を。

「約束するよ」

風が手にした文庫本の項を捲る。
はっと気がついて後を追うように項をくくっていくが、浩一郎のメモはなくなっていた。
けれど、それでいいのではないか、とそうも思う。
あの屋敷にいた千夏も、後から来た明人も、沼での邂逅も蛍も月の光も。
東屋で涼んだ夕暮、祭り囃子、涼しげな氷の音。

幻かも現実かも知れないけれど、どちらにしても瑠璃の心に思い出として残っているのだから。
そして、あの時交わした約束がここにあるのだから。

ホームの向こうに、山を背にして広がる水田が波頭を立てる。
まだ少し時間はあったが、瑠璃は荷物を手に待合室を出た。すぐ目の前に富山行きの線路が赤茶けた姿を横たえ、目前のホームは2両編成用に短く、線路を渡るとすぐにホームの端、7段の低い階段になる。
中ほどに、申し訳程度に待合所のような小屋があるが、瑠璃はその脇に荷物を置くとそのままホームに立ち尽くした。
線路に挟まれた箱舟のようなホームに立って小さな駅舎を背にすると、目の前には水田が波を作り、ほんとうに船に乗っているような気がしてくる。
風に身を任せたまま海原を見つめていた彼女の耳に、微かに声が届く。

「海みたい、です」

「そうだね」

「海みたいだね」

去年の夏、初めて見た海。
明人と由梨歌、3人で並んで白い泡沫と水平線をいつまでも眺めていた。

きっと、また会える。
約束はいつまでも生きている、そして瑠璃も、その約束がある限り希望を捨てずに生きていける。
「いつかそうなればいい」そう言った明人。
瑠璃はどこかで、明人とはまた火星で再会できるのではないかと思っていた。地球で暮らしていても忘れなかった彼の故郷。

「……でも、同じ人類であることに変わりはないし、俺は……よく知らないけど祖先に地球人を持つ火星市民、火星だろうが地球だろうが同じ人間。そう思ってる。もちろんそれは木連だって同じだし」
「火星は明人さんの故郷じゃないんですか」
「はは、そりゃそうだよ。火星は俺の故郷でかけがえのない思い出が沢山ある場所。結局は、どこかで心の拠り所にしていると思う。ただ、いつでも地球と火星で分けて考えているわけじゃないってこと。……瑠璃ちゃん」
「何ですか」
「瑠璃ちゃんの心の拠り所となる居場所はちゃんとあるんだよ。瑠璃ちゃんの家族はヨコスカ出身の由梨歌、火星出身の俺。この家族が異質なものだなんて思うかい」
「……いいえ。大切な……家族、です」
「うん。そうだよね」

自分が明人と由梨歌を常に自分の支えとしているように。彼もまた、火星という故郷を支えにしているから。
だから、きっといつか、火星であえるだろう。

目の前の水田は海になる。
打ち寄せる波は思い出を運び、苦悩と衷哀を乗せて沖へと還って行く。
船に佇み約束を反芻する瑠璃の目に、悲しみの色はなかった。

会えるから。
いつか必ず、家族の再会が待っているから。

だからその日まで、自分も約束を守っていこう。
笑顔で過ごせるように、過去を捨て去らないように、思い出を絶望と共に流してしまわないように。
くすり、と瑠璃の唇があの日以来、いや生まれて初めての悪戯っぽい笑みを浮かべる。
「そうしたら由梨歌さん、明人さんを取り合いましょうね」
風に流されることなく彼女の言葉はしっかりと結ばれる。それは自分への約束。想いを胸にしまっておくだけでなく、自覚して生きていくための。

線路が微かに音を運んでくる。
カタタン、カタタンとリズムを刻む錆びた鉄の先、緑の奥を見つめながら。

帰ったらまず、湊さんたちに謝らないといけませんね。それから、小父様にお願いして宇宙軍に仕官させてもらいましょう……

いつか約束を果たせる時に、出来る限り早く再会の地へ向かいたいから。
宇宙軍の戦艦であろうと、そんな時くらい私用に使ってもいいだろう、と、明るい光を湛えながら金の瞳は再び悪戯っぽく笑う。浩一郎の困った、それでいて何処となく嬉しそうな表情を思い出しながら。
森の奥から富山電鉄の黄色と緑、ツートンカラーの車体が小さく見えてくる。

夏の休暇は終わろうとしている。

そして、約束の日に向かって瑠璃の時は動き始めていた。