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「きれいね」
月明かりに透けるような青い髪が、彼女の言うそれより余程きれいだと思った。
けれどそのことはおくびにも出さず、僕はこう答えただけだった。

「うん。そうだね」

それが、彼女と交わした最後の言葉だとは気付かないままに。

幻想の庭〜盂蘭盆に還る魂〜

8月16日

dramatized "evangelion"

月の蛍

2017年7月。
その日も朝から快晴だった。
高校進学を期にミサトのマンションを出、一人暮らしを始めたシンジは土日となると忙しい。
生活能力のない同居人がいないとは言え、家事がなくなるわけではない。
洗濯に掃除、買出しも自分の分は当然やらなければならないし、それに加えて第3新東京市の進学校でもある市立高校に通う彼には、宿題や講習等でそれらを行う時間を平日にとることもできない。
勢い、家事は全て休日にやることになる。

何となく中学の時から習慣になってしまっているエプロンをつけて溜まった洗いものを片付けた彼は、今度は掃除に取り掛かろうとエプロンを外してベランダに寄っていく。
サードインパクトを免れた地球には相変わらず四季がなく、常夏の日本という状態にも変わりがない。
陽射しは一年中人々の上に降り注ぎ、洗濯に困る季節などあり得ない。
特にセカンドインパクト以前の世界を知らない人間にとってはそれらは辺り前のことで、暑さに文句は言うものの、寒い冬や物悲しい秋に憧れることもなく寧ろ大人たちに聞かされる、雨の多い梅雨がないことに感謝したいくらいだった。
彼、碇シンジもまたその一人であり、暑いことには辟易しながらも気温がピークに達するお盆前以外でエアコンをつけることも滅多になかった。
汗がじんわりと滲み出てくるくらいなら、窓を開け放して外の風を呼び込むくらいで問題なく過ごせる。
付け放しのTVから流れるアナウンサーの抑揚のない声が、今日の気温を告げる。
その平坦な喋り方は暑苦しくならないよう、意識してやっているのだろうか、そんな愚にもつかないことを考えながらシンジは開けていた窓の外、網戸までを開放して埃を逃がす準備をした。
からからと小気味良い音を聞きながら、ふとベランダに出てみたシンジは何気なく眼下の小道に視線を落とす。

夏の陽光に眩しく反射する白光に目を細め、自分の姿に驚いた雀たちが飛び立つ羽音を耳にする。
一瞬の喧騒、その後に訪れる静寂。
暑さにうだる街が息を止めるかのような静けさでなく、もっと無機的で涼やかな静謐が刹那の感覚を彼に与えた。

既視感?
シンジの胸に浮かんだのはそんな言葉だった。

いつだったろう、そう、あれは彼が初めてこの第3新東京市に降り立った暑い夏の日。
ハトの羽ばたきに揺れる陽炎の向こう。
そこだけがやけにはっきりとした形を持っているかのような、少女の姿がどれほど拭っても消えない陰影を彼の脳裏に焼き付ける。
ゆらめきの中に、決して消えない制服の少女。

「あやな……み?」
光に慣れた彼の瞳に飛び込んできたのは、道路の向こうで佇む白い少女だった。

「そう、それでこんな所にいたんだ」
「……ええ」
幾ら木陰の下とは言え、これから午後にかけて気温が上がることはわかっていたし、知り合いの姿を見かけて見なかった振りをするほどシンジは粗い神経をしていない。
彼にしかわからない、綾波レイの困ったような表情を驚異的な視力で見抜いた彼は、声を掛けて少女の顔がこちらに向いたことを確認した次の瞬間にはもう、玄関でサンダルをつっかけていたのだ。
8畳の部屋と申し訳程度のキッチン、ユニットバスにトイレが並んだ廊下。玄関から部屋のドアを開け放していれば全てが見渡せる程度のワンルームマンションにレイを招きいれたシンジは、掃除道具を隅に押しやって小さなガラステーブルの前にクッションを敷いた。
「ミサトさんの方向感覚なんて当てにしちゃダメだよ、はい、お茶」
招じられるままに上がりこんだレイは、相変わらず表情を変えないまま素直に彼に従い、差し出されたグラスを受け取って答えた。
「そう、ね」
受け取ったグラスには、茶色の液体と何故こんなことに拘るのか、彼の性格が見えるような気がする透き通った大きな氷片が浮かんでいる。
口をつけたレイを見て、自分も喉を鳴らしながら一息に飲み干したシンジは、この部屋でレイが目の前に座っているという初めての状況にも意外と落ち着いていた。

レイから借りたミサト作の地図を見て、がっくりと項垂れる。こんな地図でよくもまあ行こうと決めたものだ。ミサトの作画能力のなさにも驚くが、それを信じようとしたレイの決断力もちょっと疑わしくなってしまう。
「でもさ、綾波はどうしてそんなとこに行こうと思ったの?何もないと思ったけど」
一往間違いではない。シンジのマンションからほど近いことは確かで、彼自身何度か足を運んだこともあるが、この暑い中をわざわざ訪れるような価値があるのかどうかは首をひねってしまう。確かに自然は残されているが風光明媚とまではいかないし、そもそもこの第3新東京市にはその程度の自然なら数多く保存されているはずだ。
「……何となく」
だが、レイは無表情のまま曖昧な返事でお茶を濁し、それきり黙ってグラスの中を見つめていた。
暫くの間流れる沈黙が何故かシンジには穏やかなものに感じられて、彼はふっと心中で微笑む。
以前の……そう、ネルフで心を閉ざしていた2年前までの自分ならこんな沈黙には耐えられなかっただろうと思ったし、そんなことを考える余裕までできた自分が可笑しかったから。
レイの口ぶりと態度はいつもと変わらない。
物静か、そう言えば聞こえはいいのだが要は何にも興味を持っていないだけなのかも知れない。
それは周りの誰にもということでもあり、自分自身に対してもということでもある。
でなければこの陽射しの中で帽子も被らず、ぼんやりと佇んでいるはずがない。

綾波は自分のことをどう思っているのだろう、そうシンジは考える。
18番目の使徒、その群体の一人でありながら単独で存立できるリリスに近い存在。
彼女が望めば、彼女はただ独りでもあの赤い海で生きていけた。
シンジとレイ、2人だけが体験したサードインパクト、あの世界で彼は望み、そしてレイはそれを叶えた。
その結果はサードインパクトを経験したけれど元のままの世界であり、何が原因なのかは彼自身にもわからないけれど、ほんの少しだけ心の空洞を埋めることができたように感じるシンジ。
崩壊した自我境界が人を補完し、けれどもその補完された心を元に戻したことで人は再び過ちを犯すことになるのかも知れない、いや寧ろ遠くない未来にそうなるだろう。
それでもシンジはこの世界を望んだ。

それはいい。
それは自分自身が望んだことだから。
碇シンジが碇シンジであるために、もう一度ここへ還りたい、そう思ったのは自分であるのだから。
群体の中で欠けた情緒を抱えながら生きていくことが、18番目の使徒としての人間の宿命であることをシンジはぼんやりとわかっていた。
あの赤い海にたった一人で存在するレイの姿を見てから。
相互も絶対もあり得ない世界で、ただひとつの矛盾としてのレイ。
それは美しくも神々しくもなく、ただ異質なものとして彼の瞳に映っていた。
だから相対を求めたシンジは、絶対の存在に願ったのだ。

人として生きたい、と。

それがどのような形で叶えられるのか、シンジの預かり知るところではなかったが、絶対であるところのレイもまた、シンジの願いの本質を把握していた。

だが、それならレイの願いはどこにあるのか。
レイが自分をどう思っているのかなんて、シンジが考えても仕方のないことだ。
それは2年前も今も変わらない。
元々感情を表に出すことをしないし、内に秘めたものがあったとしてもそれをシンジごときに悟られるようなことはない。
以前より活発になった気のするアスカに言わせれば、
『同級生の気持ちにも気付かないアンタが、ファーストの考えなんてわかるわけないじゃない』
だそうだが。
アスカの言う同級生の件は、語るまでもないこと。
シンジが生まれて初めて告白された、ただそれだけのことだ。
それが中学3年のただ一回きりで、その後にも先にも一回だけであるというのが少し悲しいことではあるが。

そのアスカは何故かドイツには戻らず、日本の大学院で研究を続けている。
シンジもここのところ会っていないが……いや、会っていなくとも彼女は彼女なのだろう、そんな気がする。
彼女がミサトとの同居を続けているのも、人間が人間のままでいたことの証。
そんな世界になぜかほっとしてしまう。

「碇くんは……」
「え?」
しばしの間黙考していたシンジの耳にようやく搾り出したような声が届く。
焦点を合わせた先には、紅い瞳があった。
「綾波?」
「碇くんの向かう先には、何があるの?」
シンジは困惑した表情を浮かべる。
レイが何を言いたいのか、全く見当がつかない。
とにかく彼女の意図の欠片を見つけようと覗き込んで見るが、2年前から変わらない表情から何かを読み取ることはできなかった。
アスカの言う通りなのだろう。
あの激動の14歳を越えて少しは成長したかと思っていたが、結局自分は何もわからない、いやわかろうとしないで殻に閉じこもっていただけなのか、と少し落ち込むシンジに、
「ごめんなさい、変なことを言ったのね、私」
シンジの沈んだ表情に気付いたレイが、視線を落としながら言う。
慌てて両手を振りながら、
「い、いやそんなことはないよ。綾波の言ったことって言うより」
「なに」
「綾波の言葉より……僕自身の問題だよ。結局、少しも成長していなかったんだな、と思って」
シンジの言葉に、今度はレイが怪訝そうな表情を浮かべる番だった。

レイにはわからなかった。
シンジの気持ちが、考えが、想いが、痛みが。
初めからわかろうとしなかった、それは認める。
レイはシンジを理解しようと思ったことなどなかった。
あの使徒戦役においてシンジの一端に触れ、少しでも興味が湧いたのは確かだが、あれは単にシンジを通してゲンドウを見ていたのだとも思う。
2人目のレイが何を考えてあの行動を採ったのか、それは今のレイになら何となくわかる気がする。
彼女は自らを魂の容器と思っていたわけではなく、死を怖れなかったわけでもなく、ただ目の前で自分を助けるために命を賭すレイをシンジが見ることによってゲンドウに伝えることができればそれでよかったのだ。
何を?
それはわからない。
ただ、こうまであなたのことを想っているという陳腐なメッセージでないことだけははっきりしている。そんなことを伝えるために自爆を選ぶ人間などいるわけがない、レイが幾ら通常の中学生とはかけ離れた思考回路を持っているとは言え、そこは変わらない。
ありきたりなメッセージなのか何なのかわからないが、彼女が何かをシンジを通したゲンドウに伝えようとしていたことだけは、彼女にもわかった。
内容までを、
「知っても仕方のないことだから」
「え?」
思わず口をついて出た言葉に、シンジが反応する。
それきりその問い返しを無視して、レイは再び思考の海に沈潜する。まるでシンジなどそこに存在しないかのように没入する様子を不思議そうに眺めながらけれど、シンジは軽く微笑む。
そこには、あの学校で読書をしたり時折何を見つめているのかわからない不思議な表情のレイではなく、行動の意味が傍目から見てもわかる—これが適当な表現かどうか、シンジにはわからなかったが—愛らしいレイがいた。
だから思わず微笑んでしまった。今の自分達と以前の自分達を比べて、何て幸せなんだろうと思いながら、そしてこの世界に居られることに今更ながら感謝しながら。

開け放した窓から入る風と蝉の声にぼんやりとした時間が過ぎて行き、レイは何かを考え込みシンジはそんなレイを見つめている。
グラスの氷がカランと鳴り、それを合図とするかのように彼の唇が動く。

「ねえ、綾波。僕も一緒に行っていいかな」

「レイが?」
いつもの執務室で頬杖ついてにやにやしている友人に、リツコは尋ねた。
「どうして、また」
「さあ?でもそれ聞いた時、あ、そう言えば昔はこの辺にも結構いたって聞いたなあって思って」
「そうね、確かに今でもいる所にはいるみたいだけれど……あなたがその場所を知っていたなんて、意外だわ」
饗されたコーヒーを口に、心底意外そうだという口調で言う。
「しっつれいねー。私にだって情趣を感じる日本人の血が流れてるのよ?」
「あらごめんなさい、そうだったわね。私はてっきり、ミサトの体内にはビールが流れているんだとばかり思っていたわ」
「あんたねー」
「で、ほんとに大丈夫なの?」
「大丈夫って?」
「ちゃんと教えてあげられたのかどうかってことよ。どうにもツメが甘いから、ミサトは」
背もたれに体を預けると、安物のパイプ椅子がぎしっと音を立てる。作戦課長の執務室にしては随分安物の設備だと思うが、使徒の攻撃がなくなった今、作戦ではなく「策戦」へとその存在意義を変えたこの部署に以前ほどの予算が回らなくなったのは仕方ない、と納得して口には出さなかった。
「だ〜いじょうぶよん。何たって、周辺住民からの聞き込みまでして裏はとってある場所なんだから」
にへら、と笑いを浮かべながら片手をひらひらさせて言うミサトに、
「そうじゃなくて。場所をちゃんと教えたのかどうかってことよ。っていうか、あなたそんなことに諜報を動かしたんじゃないでしょうね」
「いいじゃない、別に。たいして仕事もないんだしさ」
「あのね」
はあ、と溜息をつくが、今更そのことを責めても仕方ない。しかもミサトの言う通りではあるのだから。
「まあ、それはいいとして。情報をインテリジェンスにするところまでは心配してないわよ。ツメって言うのは、レイに教える段階になって、きちんとした地図を書いてあげられたのかどうかってこと」
リツコの脳裏に、苦い思い出がよみがえる。
穴場の海水浴場を見つけてきたミサトに誘われて3人で出かけたはいいが、帰りの道がわからず右往左往した挙句、日帰りが1泊2日の旅行と化してしまった。行きの道はきちんとわかっていたのに、どうして同じ道が帰りになるとわからなくなったのかということは、聞くまでもなかった。
本能だ。
単純に彼女の本能、というか「早く遊びたい(浜辺でビールをかっくらいたい)」という欲望だけがミサトを突き動かしていたに違いない。「絶対に大丈夫だから」という言葉を信じて行きの車で眠ってしまったリツコと加持も悪いのだが。

「心配性ねぇ、リツコったら。えーと、確かこの辺に……」
リツコの不安を笑い飛ばすと、ごそごそと書類の山をかき回す。
「えーとね、シンちゃんたちにも教えてあげようと思ってコピーとっておいたんだけど……あ、これこれ」
引っ張り出した紙くずにしか見えないそれを手にする前に、リツコはめまいを覚える。
裏からでもわかるくらいに大雑把な線で構成されたそれには、ネルフからの真っ直ぐな一本線と四角がひとつ、「シンちゃんあり」と書かれたその少し先にざっと丸がつけられ「ここら辺」とあった。
くらくらしてきた頭と揺らぐ視界に耐えつつ、とりあえずシンジの元には辿り着けただろうから後で電話してみよう、そう決める。このままミサトに小言を言ったところで埒があかないだろうし。
リツコがシンジの電話番号を思い出していると、
「大丈夫よ、きっと。シンちゃんの部屋の場所が書いてあるんだし」
口調の中に真摯なひとかけらを感じて、リツコは顔を上げた。
相変わらず笑ってはいるが、いつものような嬌態は見えず、言葉の内容と相まって少し不思議に思った。
「あら、シンジ君の部屋さえわかれば問題ない、と?」
わかりきった結果を予定していたようなミサトの行動と同様、リツコの問いかけもまた予定調和を先見している。
リツコの問いかけには答えず、ミサトはふふ、と軽く笑った。
あんたもわかってるんでしょ、と言わんばかりの表情に苦笑しながら、リツコもまた黙って紙面に目を落とした。

めちゃくちゃな地図だけれど、そこから2人の景色が浮かび上がってくるようだった。
そしてそれを、悲しい光景に感じてしまう自分の立場がとても憎らしかった。

「性、なのかしらね……」
口をついて出た言葉に訝しげな表情をするミサトを無視して、コーヒーを流し込む。
「……にが」
「ん?コーヒー?」
ミサトの問いかけには答えず、黒い水を一気に流し込んだ。

夏休みに入り、約束の日を前にしてシンジは落ち着きなく灼熱の昼を過ごしていた。
どうしてあんなことを言ったのだろう、と自問してみたり、その答えは簡単なことだと自答してみたり。

昼前からじわじわと上がっていく気温が、シンジのシャツにじんわりと汗を染み込ませていく。風が吹けば気持ちいいのだろうが、生憎と無風状態、乾き始めたハンカチですら少しも靡いていない。
じりじりと窓からその勢力を広げつつある日向を避けて、シンジは気晴らしにミサトへの苦情を口にしてみたりする。
「南向きがいいのよって……そりゃ昔はそうだったかも知れないけどさ。こんな常夏の世界じゃあ北向きの方がマシだよ」
誰も聞くことのない言葉は、ただの逃避。
ミサトは彼にとって現実以外の何者でもないのだから。
となると、彼は今、現実逃避ではなく現実への逃避をしていることになるのだが。
「正しい、よな……」
自覚しているシンジはそれすらを肯定する。
そしてごろり、とフローリングの床に仰向けると、高さが低くなったと思える分、少しだけ涼しい感じがした。実際にはシンジの座高くらいの高さで気温が変わるわけもない。これすら、どうでもいいことだけれど結局逃避なのだろう。

波のようにうねる油蝉の合唱が部屋に満ちては引いていく。
それは潮のようにシンジを包み込んだかと思うと、ふっと浮遊感を伴って引いては、再び思い出したかのように満ち溢れる。
圧迫と解放感のリズムに身を任せながら、真っ白に光る外をぼんやりと眺める。
今回の期末テストは散々だった。何をしていてもレイのことをつい考えてしまうから。それはきっと、以前から、そうサードインパクト前から全く変わっていない。
人ではない、何か。
知っている今ならまだしも、知らなかったあの頃なら尚更彼女のことを異質な存在に感じ取り、意識してしまったのはわかる。
けれど、全てを知った今でもこうしてレイのことばかりを考えているのはいったい何が原因なのだろう。

高校生になって一人暮らしを始めたばかりの頃、忘れ物を取りにミサトのマンションに行った時たまたま家に帰っていたアスカと少しだけその話をしたことがある。
『あんた、ほんとにバカね』
そう言ったアスカはさも詰まらないモノを眺めるかのように薄く笑っていた。
怒る気にはならなかった。アスカの言っていることが何を意味しているのかわからない程子供ではないし、そしてそれは違うのだということもシンジは自分でよくわかっていた。
違う、そうじゃないのだ。
レイは確かに興味を惹かれる存在ではあったが、それはあくまでもゲンドウと親しい、いやゲンドウが唯一優しい目で見つめる存在として、そしてこれまでの人生で出会った人間ともネルフという特殊な環境に身を置いている職員とも異なる、どこか浮いた存在として気になっただけ。
あの頃の自分のことなら、今は客観的に見ることができる。問題は今の自分を自分では客観的に判断することができないということなのだ。

だから、今こうしてレイのことを気にしていることが、あの頃と違うのかどうか、それをアスカとの会話から見直したかったのだけれど。
「違うんだよね……」
呟いてみても、何が違うというのか、実のところシンジにもよくわかっていなかった。アスカやレイ、身近にいた同い年の少女たちを、それも『超』『美』のつくほどの彼女たちを恋愛の対象として全く見なかったのか、と問われればそうでないとはっきり言えるほどの自信はない。
けれども、自分があの年で大学まで出て何をやらせても一流のアスカに相応しいとも思っていないし、そもそも自分たちが一緒になったところで決して幸せにはなれないだろうということもわかっている。アスカもきっとそうだ。彼女が戯れにキスをしたのも、それこそ本当に彼女にしては珍しいほど年相応の『戯れ』に過ぎなかったのだし、根源的なところで2人は全く相容れない存在でしかない。
いや、寧ろお互いがお互いを不幸にするだけの存在、そう言ってみても大して間違いではないだろう。
どちらかが大人になれば。
『私はあんたたちみたいなお子様とは違うのよ』アスカの言うそれではなく。
そうすればきっと、上手く行くのかも知れないけれど。
それが絶対に敵わないこともまた、2人はよくわかっていた。
ではだからと言ってレイとはどうなのか、と問われるとシンジは頭を抱え込まざるを得ない。
レイの中にシンジが感じる安らぎと平穏は、彼の母、碇ユイの魂の欠片。

この第三新東京市に始めて来た時に見た陽炎は幻ではなかった。が、その中に佇んでいたあの少女は幻だった。陽炎に揺らめく、第壱中学校の制服を着た彼女、綾波レイ。
いたのかも知れないし、いなかったのかも知れない。
はっきりとわかるのは、今彼女はいない、ということ。
2人目の綾波レイは、今この世界にはいない。
今この世界にいる綾波レイは……

はっ、と起き上がる。
何だろうか、この胸騒ぎは。
「綾波?綾波だよ、な……」
真っ白に光る真夏の世界から潮が引くように音が消え。
静寂の中でシンジは、どこからともない焦燥を覚えた。

「綾波……」
呟いた声は光に吸い込まれていく。
どこに届くでもなく。

音はない。
だからここに来るのは嫌なのだ。

「待っていたわ」
暗闇の向こうから気配と共に、音がやってくる。
「何か」
聞き返す声にも抑揚がない。別に意図して出しているわけではない。そもそも彼女にはそういう言い方しかできないのだから。
「立ったままでいいわね」
「はい」
必要最低限。
「シンジ君とは会ったの」
問いかけも様々な装飾を省いているが、この場ではこれで十分だった。
「はい。夏休みに入る前に」
「あの地図では、シンジ君の家に行くのが精一杯でしょう」
「はい、ですから……案内してくれるそうです」
「そう、それなら大丈夫かしら」
「それが本題ですか」
そんな話でわざわざここへ呼び出すことはない。お互いにとってあまりいい思いのできないこの場所で。
ネルフの実行組織が分離解体されて軍事・諜報色を弱めたと言え、それなりの内規や機密は存在する。放棄されて久しい、つまり盗聴の可能性が最も少ないこの場所を選んだということは、そんな現在のネルフ内においてもできるだけ2人きりで内密の話をしたいということだろう。
「もちろん、それだけじゃないわ。でも、それを気にしていたことも本当よ」
リツコは金髪の前髪を掻きあげながら気まずそうに視線を逸らす。
信じてもらえないかも知れないけれど、そう加えて。
「別に……疑ってはいません」
出来る限り感情を込めて言ったつもりだが、届いたろうか。

薄暗い部屋に、未だ通っているのだろうか水道の水滴がシンクに響く。
目の前の少女に視線を戻すと、何ら感情を見せず静かに佇んでいる。
ふ、と微苦笑が浮かんだ。

憎んでいたはずなのに。
それなのに、憎み切れない。あの人の中に強固に存在するあの女の面影、いや遺伝子そのものを残す少女やシンジを、どこかで憎んでいたはずだった。
どこかで、というのも欺瞞かも知れない。
はっきりと憎んでいた。
だとすると、こうして彼らのために心を痛めているのも、偽善、若しくは自己満足なのだろうか。
人が人に優しくなれるように。他人を受け入れられるように。
その変化をミサトは、「サードインパクトで補完されたからでしょ」とばっさり切り捨てる。ただ、彼女の口端に苦々しげな歪みが見えたのは気のせいではないだろう。

もちろん、リツコもそうだとは思っていない。市井の人間がどうであるかは知らないが、彼女が子供たちを受け入れられるようになったのは今に至るまでの経験だと思っている。補完されたからではなく、自ら時間の中で経験を積み上げてきた結果なのだと。
「それで、お話とは」
不意に飛び込んできた言葉に、意識を戻す。
レイは表情を変えずにその場に立ち尽くしている。自分の中に没頭し始めたリツコを不審気に見るでなく、話を急かすでもなく。
そんなレイに、自分たちの「成長」を当て嵌めることはできないのだろう。この世界で何も変わっていないは彼女だけ、それは当たり前のことなのだから。
神である彼女には、過去も未来もないのだから。

「レイ、簡単に言うわね」

その日を迎えて、蜩の声を聞きながらシンジは落ち着いていた。
オレンジに染まり始めた空を見つめながらアパートの前でレイを待つ。
時折彼の前を子供たちが歓声を上げながら走りぬけ、けれどそんな風景を見ても今の彼に母との思い出や父への懊悩を喚起させることはなかった。
そして同様に、もうレイのことで悩むことはない。
あの赤い海で流した涙の意味と、この数日悩んでいたことの答えは、既に出ているから。
レイと会う前に、自分の中で答えを出したかった。どんなに考えても永遠に出ない問いもある。けれど、ふ、としたことで浮かび上がってくるものもあるのだから、このことについてはそれでいいんだと思う。

『わからないんだ、父さんのこと』
『あなたはわかろうとしたの』
わかろうとすること自体が意味のないことだと言っていたのは誰だったろう。

『わかろうとすることと、わかること。それは同じではないわ』
『意味がないってことですか』
笑って首を静かに横に振ったのは……あれはミサトだったろうか。

『あんたばかぁ?完全に人を理解することなんて、できっこないじゃない』
それはそうなんだろうね、アスカ。でも、僕はわかりたかったんじゃない、わかろうとしたかっただけなんだ。

結局誰のこともわからなかったんじゃないだろうか。
けれど、それでいいんだと思う。不完全で心に隙間があるからこそ人間であるのだろうし、それを埋めようとするのは神の力ではなく人間同士がお互いにわかろうとする努力であるべきだと、わかったから。
だからシンジはサードインパクトの世界で望んだのだ、そこにあったもの、そこにあるものの姿に戻してくれ、と。
生命のスープが広がる世界で欠けた心を埋めてくれるのは綾波レイ、ただ一人だった。それが嫌だったわけではない。ただ、そうなってしまったレイが悲しくて涙を流した。
ただ独りで完結した存在、そう『なって』しまった綾波レイが悲しくて。

あの夏。
陽炎に揺らめいた幻は幻でなく。
あの時の少女が2人目の綾波レイだと、そう思っていたことこそが誤りだったことに今になって気がついたのは我ながら遅すぎる、そう苦笑する。
陽炎の向こうに佇んでいたのはシンジの願いを叶えた綾波レイ。2人目でも3人目でもなく、今こうしてシンジが待っている綾波レイでもなく。
碇ユイの魂を抱えたまま、ずっと彼女はシンジを見ていてくれたのだと。
そして、だからこそシンジにはわだかまりが燻ぶり続けていたのだ、レイの持つユイの魂に対してのわだかまりが。それを認識した今、シンジはレイに対しての自分の気持ちがくっきりと形を伴ってきたことがわかった。

誰もが、レイを疑っていない。
ミサトも加持もアスカも、リツコや日向、青葉たちも。
皆が皆、レイを3人目のレイ……サードインパクトで全てを呑み込みひとつにし、それを再び元に戻したレイであると信じている。だが、あの世界でレイと触れ合ったシンジにはわかった、今の綾波レイがあの時のレイではないのだと。
もはや何人目だと数えるのは、それこそ無意味だろう。
レイはレイなのだから。
第壱中学校を卒業し、シンジと同じ市立高校に入学し、一学期の中間・期末テストを無難にやり過ごして夏休みに突入した、ただの高校生。
学校の行き帰りの駅で会って挨拶を交わしたり、昼休みの食堂で一緒になったり、放課後の図書館で書架の本を取ってあげたり。
そんな小さな思い出を少しだけ積み重ねた、ただの高校生なのだから。

夕陽が小さな町並みを赤く染め上げる。
蜩の声も小雨になり、涼風が彼の伸びた前髪を揺らして通り過ぎる。
乳母車を押していく若い母親も、額に浮かぶ汗を拭うことなく影を長く引いていく。

約束の時間ちょうどに彼女はやってくるだろう。
いつものように彼の姿を見ても歩調を変えることなく。
そして誰も気づかないくらいの微笑みを浮かべて言うのだ、「こんばんは、碇くん」と。
だからシンジもそれに、こちらははっきりと見た目にもわかるように微笑んで言うだろう、「こんばんは、綾波」と。
いつもと同じで、けれどいつもとは少しだけ違う想いを込めて。
通りの向こうに視線を伸ばしたシンジの視界に、沈み行く夕陽を背に小さな影がひとつ、入ってきた。

長かった影が薄くなり、自分の中に納まっていく。
堂守のモシュの言葉を誰も聞かなかったのは、人間の奥深くにある心の影を明確に理解することができなかったからだと言う。ならば、自分の心にもそれは存在するのだろうか。
いつか読んだ、エリ・ヴィーゼルの体験を思い出しながら、レイは斜め前を歩くシンジの後ろ姿を見つめていた。肩が触れるほどではなく、と言って離れすぎもせず。この距離感は2人の距離だった。触れ合うには遠くて、壁を作るには近すぎて。
この距離が、とても心地よいと感じている自分の心は、やはり影なのだろうか。
今までは他人に対してそう考えることすらなかったのに。

今まで。
一体、自分にとっていつからの記憶が『今まで』に該当するのだろうか。
あの時からだろうか、それとも、あの時か。色々なシーンが浮かぶが、そのどれもがどこか現実離れしていて頼りない。記憶が経験に結びついていないから、エリのような真に迫る過去、血の通っているからこそ恐ろしい影というものも想像ができない。
結局、残滓のようにこびりつく記憶を頼りに『今まで』の自分を想像することしかできない自分に、微かにため息をつく。
「どうかしたの、綾波」
聞こえたわけではない、雰囲気で感じ取ったのかシンジが歩みを止めてレイを振り返る。
「いえ、何でもないわ……」
首を僅かに傾げるシンジだったが、それ以上は何も言わず歩を進める。
寄り添うように歩きながら、レイは再び思考に沈む。
碇シンジ。
どうして彼の許まで行けば何とかなると思ったのだろう。
どうして彼を助けようと思ったのだろう。
どうして彼を大切な人と思ったのだろう。

答えは出ない。自分の記憶ではあっても体験ではない問いに答えが出るわけはないし、今答えても意味はない、そんな気がする。

それなら。
草と夜の匂いが混じり、心地よい夜気に包まれてシンジの横顔をちら、と盗み見る。
どうして、本を取ってもらった時、嬉しいと感じたのだろう。
どうして、彼と同じ電車に合わせてマンションを出たりしたのだろう。
どうして、昼休みの食堂が楽しみに感じたりしたのだろう。

ここ数日の間、ずっと考え続けてきた答えは、すぐそこにある。
図らずもリツコが教えてくれた……いや、彼女の話がきっかけとなったに過ぎないのかも知れないが、いずれにせよ自分はその答えに近づいた。
……それも違う。
レイは自答する。
答えはもうこの手にある。

すぐにすり抜けていってしまう、儚い想いと共に。

「碇、くん……」
「綾波、着いたよ」
搾り出した声は、夜風とシンジの声にかき消されてしまった。
いつか2人は住宅街を抜け、人家はおろか街灯すらない開けた空き地に立っている。月灯りが周囲を青白く染め、ちらちらと月光を反射するのは水田の稲の隙間。向こうには黒い森が聳え、背後は抜けてきた木立で覆われている。
「でも、どうしてここを……あ」
疑問を口に出しかけたシンジが小さく声を漏らす。
その声につられて彼の視線をたどった先には、水田が広がっているだけだ。
自分の期待していたものがそこにはないのだろうか、軽い失望を感じながらレイはゆっくりと目を慣らしていく。
「綾波……蛍だよ」
彼の言葉とともに焦点が光を捉え始める。

ぼんやりと。
そして、ちらちらと月光に消されない、暖かい光。
小さく、ゆっくりと動く光が、レイの赤い瞳に映し出されていった。

「リツコ、あんた……」
「何も言わないで。もう、これしかないの」
ミサトが本気で嫌悪しているわけではないことはわかっている。彼女だって、これしかないことはわかっているはずなのだから。けれど、それでも止めようとしてしまうのは、倫理的問題というよりは寧ろ自らの記憶によるところが大きいのだろう。
忘れたいのに、忘れられない。
目にする度に記憶を揺り起こされ、心の襞に触れるように込み上げてくる。

それが嫌なのだ。
「準備はいつでもできてるわ。後はレイを」
「でも、リツコ」
「わかってる、あなたにとってもシンジ君にとってもこれが最良の手段だとどうしても思えないことは。けれど、本当にもうこれしかないのよ」
それでも、と口を開きかけるミサトを右手で軽く制して、
「お願い、わかって」
リツコにとっても気持ちのいいものではない。寧ろ嫌悪する。
こんな自分を。
こんなことをしていた自分を、そして、それに縋るしかない現実を。
それを知ってか、ミサトはそれ以上何も言わず、黙ってリツコの手元を見つめた。
苦しそうに吐き出した疑問は、
「どうして……こんなことになるのよ」
曖昧だけれど明確な、
「代償、なのかも知れない。神になるための……」
リツコの言葉によって答えられた。
黙ったまま、ミサトの視線はなぞって行く。
唇をかみ締めて、そこに書かれている文字を。

『Planing Seriel.E04-10996283 / Dummy Plug System』

目の前を、蛍が二つ、三つ。
目の前に、蛍が二つ、三つ。
目の前へ、蛍が二つ、三つ。

ふ、と一学期末テストで出された問題が頭を過ぎる。
楽しかった生活。
ずっとシンジの傍にいたわけではないけれど、同じ校舎で同じ時間を共有できた。
それだけでいい。
そして、こうして2人並んで蛍を見ることができた。
レイは満足気な微笑みを浮かべると、シンジを見上げる。以前は並んでいた彼の背は、いつかレイを遥かに追い越して彼女に上を向かせるようになっていた。

月と蛍。
青白く照らされた彼の顔にも、嬉しそうな微笑が浮かんでいる。
黒い瞳に映っているのは、自分が見つめているのと同じ風景。
蛍。
黄色い光がゆっくりと静かに飛び交う世界で、2人だけなんだと。
それはあの赤い海で過ごしたどうしようもない寂寥感を伴う2人ではなく、ただ静かで穏やかな、お互いが胸の裡にある世界。

だから、満足だった。
視線を感じて、シンジがゆっくりと振り向く。
見詰め合い、交錯する瞳に映るのはお互いの姿だけ。

どこかで虫が鳴いている。
微かな音は、透明な風に運ばれて、彼らをふわりと囲む。

「碇くん。私は碇くんが好き」

シンジはレイの言葉に答えて、そっと彼女の白い手を握る。
そして。

「僕も綾波が好きだよ」

ただ、夜風が。
夜風と月と蛍だけが、愛し合う2人を見つめていた。

そのまま黙ってお互いを瞳に映し、それから視線を戻す。
並んで手を繋いだシンジとレイは、黙って蛍の光を見つめていた。

「きれいね」
「うん。そうだね」

あれから2年が経った。
ミサトさんとリツコさんは、例のダミープラグ、あれに使われていた技術を復活させて再び綾波を生み出すことを勧めてくれたけれど、僕はそれに頷くことはできなかった。
綾波は生み出すものではないから。
彼女は僕と一緒に短い高校生活を楽しんだ、あの綾波レイしかいないから。
保存されていた魂の記憶も、全てを削除してもらった。
綾波との記憶、いや思い出は、全てここにあるから。
僕の胸の中に。
あの夏の夜、蛍の記憶と共に。

綾波は笑っていた。
それは僕にしかわからない、微かに嬉しそうな笑みを浮かべて。
そして、僕の前から永遠に去っていった。

涙は出なかった。
悲しかったけれど、彼女はあの短い人生を精一杯生きて、楽しんでいたと思ったから。
どうしてそう思うのかはわからない。ミサトさんもリツコさんも僕を不思議そうに見ていたけれど、僕には、あの夏の夜、ひとつになった魂が彼女の幸福を伝えてくれたと思えた。
彼女の姿は、もう僕の目の前に現れることはない。
けれども、彼女の魂まで永遠に去ってしまったわけではない。

一緒にいる。
そう、いつまでも、永遠にひとつになった僕たちの魂は、もう二度と引き裂かれることはない。

草むらに足を取られながら、しっかりと踏みしめて歩く。
僕は高校3年生になり、来年の4月には第三新東京大学を受験する。

目の前の風景は、あの夜と同じ姿を現している。
風に稲穂が靡き、海原に光る飛沫のように葉を煌かせている。
ここに並んで蛍を見つめた夏。

あれから二度目の夏。
これから何度夏を迎えても、僕は忘れない。
月光の下、蛍がきれいだったあの時の光景を。
繋いだ手を通して、綾波を感じた喜びを。

忘れない。

いつまでも。

開けた草むらの中、水田を見渡せる中央で僕は足を止める。
夏草に埋もれて静かに横たわる石碑の前で跪き、そっと言葉をかける。

「綾波、僕たちは幸せだよね」