fanfiction > evangelion > Until
声が聞こえた。
足元で砕け散って水泡となる海の青さに溶け込んでしまいそうな。
背後から迫ってくる緑の匂いに紛れ込んでしまいそうな、そんな微かな揺らめきが。
それは幾つかの真実と彼だけの事実の上に成り立っていた。
けれど、だからと言ってけして脆弱なものではなく、それはもう厳然たる現実であり地球という星やそこに住む人や獣の営みを確固たる基盤としたものであると言ってよかった。真理がそれ単体で成立しなければならないものであるとしたら、今、この瞬間を切り取ったすべてが真理である、そう言っても問題はないだろう。
もちろん、「切り取った瞬間」の一つずつが真理であるからと言って、それらを繋ぎ合わせて延べたものまでが真理であるかどうかは別問題であるし、この世界においては殊更そう断言することは難しい気がするのだが。
と、そうやってカッコつけたところで誰も聞いてはくれないし、そもそも誰かに聞いてもらいたいとも思っていない、そう少年は思った。いや、思っただけでなく口にもした。
「誰かに聞いてもらいたいなんて、思っていないし」
その言葉は果たして誰かに届くことがあるのだろうか。少年は恐らくそれすら期待していないだろうが、けれどそれならば口に出す必要すらないはずだ。
だからきっと、彼はどこかで期待している。
誰かに聞いてもらいたい、だけど誰にも聞いてもらえなかった時の淋しさから自分を守るためにそれを期待しない。期待していない振りをする。期待していないのだ、と自分に暗示をかけるかのように思い込ませる。
何度も何度も、口に出しては。
「誰かに聞いてもらいたいなんて、思ってない」
口にすればするほど、思い込ませようと努力するほどに願望は膨らみ、そしてその事実を抑え込むようにまた口にし、思い込ませる。
癖なのだろうか、握ったり開いたりを繰り返す掌に汗が滲んできていることにすら気がつかずに。
そしてまた声がする。
彼が聞きたいと望み、けれど聞くことによってまた縋ってしまいそうな自分の脆い心を認識することを嫌がって耳を塞いでしまうその声を。
だから別の言葉で覆い隠す。
「どうせ誰にも聞こえやしないんだ」
ばかシンジ
シンちゃん
シンジくん
シンジ
碇
…
……
………
そして彼はまたひとりごちる。
もう手を握り締めてはいないし、その黒い瞳に映る雲ひとつない青い空を眺めているわけでもない。ただ視線を彼方に投げかけて、弛緩させた指先に力を込めることもしないままに。
「何も聞こえないし、誰にも聞こえてないんだ」
……碇くん
それでも誰かに、彼女には届いて欲しいという願いを込めて、彼は口にする。
Lyrics:01『聞こえますか、僕の声が』
「誰か、聞いていますか」
Neon Genesis Evangerion"Until"
Lyrics:02『君のことを そっと想う季節が続く』
2016年、第三新東京市。
サードインパクトの混乱もようやく収まった感は強く、ほんの少しだけ補完された人々は以前と変わらない生活を営めるまでに復旧していた。勝者であるネルフはもちろんのこと、敗者であるゼーレに踊らされ、その面目を潰された格好の日本政府も複雑な経緯を経てジオ・フロントから第三新東京市までの復興を担い、以前よりも合理的かつ機能的でありながらもメンタルに配慮した、真の意味での『新』東京市として生まれ変わった。産業インフラが4割、生活インフラが2割ほど手付かずで残ってはいるものの、それらも来年中には第三次都市計画が終了する予定で、既に3台の第7世代コンピューターMAGIによる都市機能統制も順調に推移している。
ネルフは未だに活動を続けており、MAGIを所有・管理してサード・インパクト以前と同じように実効支配を続けているが、以前とは公開化されたことと日本政府の公認の許である、という点で大きく異なっている。
小さな違い、いやそもそも実質的には殆ど変化がないと思われがちだが、公開されたことによって公的に国連機関として認められたため、日本政府もまた堂々と彼らの存在を国民に認知させられるということは大きな意味を持つ。公開されていなければその存在を隠蔽せざるを得ず、当然のことながら彼らに対する予算を日本政府から捻出することはできない。国家会計には監査制度が存在し、ひと昔前に流行った「秘密資金」やら「特務基金」などはあるはずがないのだから。
そして、国連の正式な機関であるということが日本政府の潰れた面子を修正させる余地を与えた。ゼーレは国連と何の関係もない、単なる秘密結社のひとつに過ぎないとされている。これは人類補完委員会もまた同様だ。そしてゼーレ程度の秘密結社などは世界中に多く存在し、たまたま裏死海文書を手に入れた先鋭的な連中が持てる財力を注ぎ込んで国連に工作し、ネルフを特務機関として認めさせたというのが実情である。彼らが一般に流布されているような巨大結社であったのならば、国連を介すなどという危険な真似をせず、彼ら自身の財力でエヴァやネルフの維持を行っていたはずなのだから。
要するに、葛城ミサトやチルドレンたち、また事情を知る人間たちが考えるほど事は大きくはなかったのである。ただ、ゼーレという根本は小さなものであったものの、彼らが国連に行わせた成果自体は非常に大きく危険なものであった。その危険性故と実際に起こった事柄の巨大さから、ゼーレや補完委員会については信憑性を感じさせるほどのデータから荒唐無稽な噂話まで、いたるところで相当な話題を提供している。
これはゼーレに関係していた企業や組織にとっては死活問題だった。
前述したように、ゼーレそのものは大した結社ではない。どこにでも存在する程度のものだから、諜報や隠蔽工作にしても程度が知れている。調べられれば関係企業の一覧など、現代のマスコミの全力を挙げなくとも究明されてしまうだろう。事実、幾つかの企業は倒産の憂き目に会っている。
そして日本政府は、呆れたことに一国の政府がたかがどこにでも転がっている宗教団体程度の秘密結社に踊らされ、A801を事もあろうに国連の組織であるネルフに対して発令してしまったという謗りを免れることはできない。これはもう、失態どころの騒ぎではない。
それに対して国連はそのゼーレを叩き潰して世界をサードインパクトから救ったネルフを、最終的には支持したという強みがある。事実がどうあれ、こういった言説が流れれば世界世論が日本叩きと国連擁護に走るのは当然の趨勢である。
後は一言で済むだろう。日本政府としてはその失態を糊塗するために国連を必要とした、つまりそういうことだ。
その国連直轄地が日本にある。
それが現在のネルフを取り巻く情勢のひとつである。
そうは言っても国連の意思を反映することは許されておらず、あくまでも日本国の第三新東京市であってローマにおけるバチカン市国のように「他の国」が存在しているわけではない。住民もまた日本国民であり国籍は日本に存するし、徴税権をネルフが持っているわけでもない。付け加えるならば、ネルフの各支部は解体され、勤務していた人材は例外なく解雇された。そして日本のネルフ本部に外国籍を持つものは元から存在しない。
固有の行政権を持っているのみであって、言ってみれば「財源を国連に持つ行政権を強化された地方自治政府」のようなものであると考えればいいだろう。これは機関そのものを国連に、土地と行政権、勤務する人員を日本政府に、と危険なエヴァとそのパイロットを抱える組織を分割統治しているかのような体制に見える。
しかしながら、ネルフが第三新東京市を実効支配していることと、チルドレンと呼ばれた少年少女たちとはここでは全く関係がない。エヴァ建造に関するデータは失われ、エヴァそのものも弐号機しか稼動状況にない。量産型エヴァのデータはゼーレが持っていたからネルフではその欠片すらも手に入れることはできなかったし、それらのパイロットはセカンド・チルドレン、惣流アスカ・ラングレーのみである。唯一稼動できる弐号機1体では全力で5分しか動かないのだから、第3新東京市を壊滅状態に追い込むことすら不可能だろう。
このように、現在のネルフに対して世間が恐れる何ものも存在しない。故にエヴァ弐号機やパイロットたちについて制約や条件もあり得ない。彼らがネルフの切り札ともならないし、つまり彼らの存在と現在のネルフの在り方とは何の関係もありはしない。
あるとすれば、そう、上述のような特異な行政形態が許されているのが彼女たちの功績とサード・インパクトの副産物であることくらいだろう。
サード・インパクトの副産物。
それは、人々を補完したファーストチルドレン、綾波レイの魂の欠片によるものであり、それを取り込んで補完された人類は彼女を魂の母たる存在として無意識下であれ認識せざるを得ず、本能として彼女の意向に逆らうことができなくなった、ということ。
それだけだ。
そう、ただそれだけのこと。
綾波レイにとっては。
「おはよう、鈴原」
第3新東京市立第壱中学校、3年C組の教室で少女は想い人たる『ジャージメン(セカンドチルドレン命名)』に朝の挨拶をする。
HR前の心地よいざわめきの中にいた彼、鈴原トウジは以前と変わらない似非関西弁で答えた。
「おはようさん、イインチョ。何や珍しいな、イインチョがこんな時間やなんて」
言葉は少ないし、かつ幼い。けれど心の中ではこうして呼びかける度に『今年も委員長やったからよかったものの、来年委員長やなかったらどう呼べばいいんや?』と心配しているところだけでも、まあ少しは成長したのかも知れない。もちろん、来年の心配などそもそも彼女との成績の差が著しく開いており、彼女がレベルを落すかしなければ奇跡でも起こらない限り必要ないものであるという現実など、この少年の頭には欠片も存在していない。
「うん、ちょっとね。アスカがなかなか来なかったから」
斜め後ろの彼に視線をやったままで廊下側から2列目、前から3番目の席に鞄をかけ、椅子を引いて腰掛ける。彼に視線を固定したままで一連の動作を済ませられる辺り、彼女、洞木ヒカリが常に誰を意識しているかなんてわかるようなものだが、中学生にそれを汲めというのはちょっと酷なのかも知れない。特にこのジャージメンには。
「ほうか、で、その惣流は来とらんな」
「うん、ぎりぎりまで待ったんだけど結局来なかったのよ。どうしたのかしら?」
「またネルフやないか」
「それならいいんだけど」
ちょっと首を傾げる。
その動作が、アスカが来なかった理由をネルフだと思っていないことを現していることくらいは察したのか、
「なんかあったんか?」
表情は変えず、けれど言葉に真剣さを含めて尋ねる。
「何かあったってわけじゃないんだけど……最近、元気がなかったみたいだから。ちょっと気になって」
「ふぅん。わしにはいつも通りに見えたがなあ。お、ケンスケ」
「よおトウジ。委員長も、おはよう」
「おはよう相田君」
教室の前扉から入ってきた制服の眼鏡をかけた少年が2人に挨拶しながら入ってくる。
そのまま教室の廊下側前から3番目、つまり委員長たる洞木ヒカリの隣の席に鞄を引っ掛けてどかっと腰を下ろす。その彼の目の前に、タイムラグなくジャージの尻が落ちてきた。
「何かあったのか?」
むっさいなあ、そう思いつつも文句を言うこともなく、机に腰掛けたトウジの顔を見上げながら彼は言葉を続けた。
「トウジが真面目な顔してるなんて、珍しいじゃないか。去年の……」
続けようとしてふ、と考え込む。
何時だったか。そう、去年の今頃だったような気がする。確かトウジが昼食前に校内放送で呼ばれて校長室に……でもあれはどうしてだ。なぜトウジは呼ばれたんだ。いやそれは覚えている、家族のことで何かあったはずだ。妹の入院先を変更するとかそういったことだった。悩んでいるようだったが翌日には結局入院先を、面倒見てくれる親戚のいる甲府に決め、その手続きやら何やらで2,3日休んでいたが出てきた時にはすっかり割り切った顔をしていた。
でも、おかしい。
何かが引っかかる。自分もトウジも、あの使徒戦が佳境に入った頃の疎開先は甲府だった。その時も彼の妹は入院が長引いていて、それでもこれからは毎日面倒を見れるとあいつは喜んでいた。だから自分もお見舞いに行ったはずなのだが……いや問題はそこじゃない。もっと前、そうトウジが校長室に呼ばれた前後だ。トウジが休んでいた間、何かあったような。何だ。何があったんだ。いや待てよ、屋上で……。
これだけのことを短時間に考えていた彼は気づかなかったが、ヒカリとトウジの話は進んでいた。どうやらケンスケが言い淀んだことは気にされなかったらしい。
「……そんなわけでな、イインチョが惣流に何かあったんやないかって心配しとって」
「別に何かあったんじゃないかとまでは思ってないんだけど。鈴原の言うとおりネルフに行ってるのかも知れないし。ただ、そういう時って大体事前に連絡くれるのよ、アスカは」
「急だったからかも知れへんやろ?何かの実験で電話もでけへん状態かも知れんしな」
「うん、まあそうなんだけどね。何となく胸騒ぎがするのよ」
「取り越し苦労ちゃうか」
「うーん……って、相田君?どうしたの」
ここでようやくケンスケがぼんやりしていることに気付いたらしい、ヒカリが声をかける。
「ああ、いや何でもないんだ。で、惣流だったか」
「うん。ここのところアスカ、元気なくなかった?相田君はどう思う」
「どうかな。確かに以前のような女王様風は少し収まったような気がしてたけど、それは惣流もやっと大人になったってことなんじゃないの」
「ふざけて聞いてるんじゃないのよ、真剣に答えて」
別にふざけてるつもりじゃないんだけどな、とケンスケは苦笑いをかみ殺しながら真剣な表情を作る。
「ま、確かにちょっと元気ないようには感じたな」
大人しくなっていいけど、という言葉は胸にしまっておく。
「というか、何か考え事でもしているって言った方が近いか。時々ぼんやりしていることがあったろう」
「何やケンスケ。よう見とるな」
「これが綾波だったら絶対気がつかないだろうけどな。ああでも、あいつなら……」
そこでまた彼は考え込む。
あいつ?
あいつって誰だ?
そうだ、あいつだよ、ほら……くそっ、もうちょっとで思い出せそうなのに思い出せない。確かこう、大人しいやつでぼんやりしているけど綾波のことだけはあいつしかわからなくて。そう、そうなんだ、綾波の乏しい表情の変化に気付けるやつがこのクラスに1人だけいて、そいつだよ。
「……相田君?どうしたの」
今度は彼の様子に気付いたらしい。ヒカリとトウジが眉間に皺を寄せる彼を、怪訝そうな表情で見下ろしていた。
さすがにあからさまだったよなあ、そう思いながら苦笑する。
どうせ考えたってわからない。きっと忘れた頃に不意に思い出したりするのだろう。
「いや悪い。何でもないんだ」
「大事なことなんやないか?あいつって……あいつやろ」
「トウジ?」
「鈴原?」
驚いて見つめる2つの視線を意に介さないように、トウジもまた宙を睨んで何かを思い出そうとしているようだった。
思わずヒカリと目を合わせてしまい、今度はトウジがケンスケの立場になる。
「そうや、あいつや……綾波、うん、綾波が機嫌わるうなった時でも唯一気がつきよった、あの……誰やったか……惣流と……」
ぶつぶつと呟き続けるトウジの姿に、もう一度目を見合わせると恐る恐ると言った風にヒカリが声をかけた。
「あの、鈴原。どうしたのよ、いったい」
「……違う、あいつやない。あいつは小学校のやつやしな。すると……」
「ちょ、鈴原ってば」
「マテ、あいつの可能性……あるわけないやろ。ほんなら……」
「鈴原ってばっ!」
「ぅをうっ?!あ、い、イインチョ」
「あ、じゃないわよ。どうしちゃったのよ、相田君だけでなく鈴原まで。いったい何がそんなに気になっているの」
「イインチョはこう……ほら、なんや、アレ」
「誰か忘れてるような気がしないか」
「そうそう、それや。それ」
「え、って言われても……」
「綾波」
「え?」
「綾波さ。委員長は綾波の表情の変化って気付けるかい」
「それはちょっと無理かも」
別に彼女が悪い訳ではないのだが、何となく声が小さくなり俯きがちで答えてしまう。こんなところが委員長の委員長たるゆえんなのかも知れない。もちろんトウジもケンスケも、そんな彼女の性格は熟知しておりわざわざ慰めの言葉をかけることもしない。
「それを把握できたやつがいたような気がする、ってことさ」
「気がする、って」
「そや、気がするだけでどーしてもそれがどいつなんか、さっぱり思い出せへんのや」
「だから単なる思い過ごしなのかも知れないんだけどね」
交互に答える2人に、けれどヒカリはわからないという顔をするだけだった。
「委員長はそんな気、しない?」
「うーん……綾波さんの表情に気がつく人、ねぇ」
ちら、と背後の窓際2列目、後ろから3番目の席に視線を流す。始業3分前なのに未だ空席のそこはなぜか寂しげにぽつんと主を待っていた。
もうすぐ先生来ちゃうのにな。
そう思いつつ、けれどいつも静かで何を考えているのかその紅い瞳の奥を決して他人に見せない彼女にとって、そんな瑣末なことはきっと関係ないんだろうとも考えていた。そんな委員長の口から出たのは、結局この言葉だけだった。
「いるのかな、そんな人」
「……またなの」
苛立ちをふんだんに塗した刺々しい声で、彼女は呟く。
ここのところ朝の目覚めが良くない。寝入りも悪いし、夢見も最悪だ。ついでに言えば寝相すら酷くなっているような気がする。
もちろん寝相が急に良くなったり悪くなったりするわけではないのだが、だから寝相というよりは……
「あらアスカ。あんたまぁ〜たシーツしわくちゃにして」
ガラリ、と戸を開けて不躾な声と共に彼女の部屋に侵入してくる同居人、兼保護者。葛城ミサト当年とって3○歳は呆れたような楽しげなような、何だか微妙な声音を含ませてぼんやりしているアスカの傍に立った。
腰に手を当てるアスカお得意のスタイルで見下ろすと、
「まったく、アスカもまだ子供ねー。あ、そうだ。何なら今日から私が一緒に寝てあげようか。そんな夢見が悪いんだったら添い寝すれば」
「はっ?!冗談じゃないわよ、誰がミサトなんかとっ!」
「あらら。覚醒しちゃったか」
「どこぞのボンクラ作戦部長様のおかげでね。ったく、ヘンな夢は見るわ、朝からミサトの声を聞くわで、今日はきっとロクな日じゃないわね」
「……もの凄く失礼というか無礼な言葉だけど、とりあえず私も朝の貴っ重〜なひと時をアスカごときのせいで台無しにされたくないから何も言わないでおくわ」
「……ふん」
鼻を鳴らしてベッドから起き上がると苦笑しているミサトの脇をすり抜けて浴室へ向かう。こんなのも彼女らの朝のコミュニケーションのひとつに過ぎず、今まではミサトの口の悪さだってどこかで嬉しく感じていたのになぜだろうか、最近は寝付きや夢見が悪いせいなのかどうか、今ひとつ乗り切れない。むしろ鬱陶しくさえ感じ始めている自分がいる。
こんなことは自分の15年間の人生の中で始めてだ。その自覚が余計に彼女を苛つかせ、寝間着を脱ぎ捨てる仕草まで乱暴にさせる。
……ダメだよ、アスカ。せめてちゃんと洗濯カゴに入れてって言ったじゃないか。
こんなことはなかった。短気なことは認めるし、どこか情緒不安定なことだってあった。それを補って余りある魅力と才能が自分に備わっていることもわかっているし、それに頼るだけでなく努力だって人一倍してきた。才能と努力で、叶わないことも理解できないこともないのだ、と信じて来た。これまでは。
これまで……
これまで?
アスカはシャワーに手をかけた状態で、ふ、と動きを止める。
これまでは、そうだった。自分にわからないことだってたくさんあるけれど、それはいつか学ぶ努力と知る姿勢でもって解決し、明晰になるのだと信じて来た。霞の向こうにある真理に、いつか手は届くのだ、と。
だから例えば、リツコの話している内容がうっすらと煙っていても、その先に自分の到達すべき真実が輝いていて、そこに辿り着いた自分が想像できていた。戦略・戦術論を話しているミサトと日向、彼らと自分の間に靄があってもそれはいつか晴れるものだとわかっていた。
けれども。
どうしてもはっきりとしない。靄が晴れない。これまでのことを思い出そうとすると、ではない。生まれてから15年、思い出すのも嫌なのにも関わらず母親が死んだことやドイツ支部で訓練を受けていた頃のことはくっきりとした輪郭を伴って彼女の脳裏に蘇ってくる。日本で使徒戦を戦ったこと— 自分が参戦した第六使徒ガギエルは珍しくミサトの指揮が当たり戦艦による零距離射撃で殲滅、 分裂に悩まされた第七使徒イスラフェルはユニゾン攻撃で撃破した。使徒戦の初期の頃のことだって明確に思い出せる。その前の第伍使徒までのことは自分はドイツにいたのでよくは知らないが、来日してすぐに記録を見た。苦戦しながらも辛うじて勝利を納めたファーストに初めて会った瞬間に、嫌味を言ったことも思い出せる。
けれど、何かが違う。それが何か、は思い出せないが、今の一連の中で前後関係が怪しいところも自分の記憶にも、そしてNervに残っている、例えば来日してすぐに記録を見たという閲覧記録さえも正しくアスカの記憶を裏付けしているのに、どこか抜けているような、足下がはっきりしないような不安な揺らぎを覚えるのだ。
どこが、も誰が、も判然としない。目の前にかかった靄が晴れることはない。そんな不安。
はっきりとそれとわかるほどの霞であればまだいい。けれど最近のアスカを悩ませるそれは、明確にその存在を誇示しないくせにいつまでも離れようとしない、粘着質なまとわりつくそれなのだ。
何もおかしくない。自分の記憶は間違っていない。
そう思えば思うほど何かが違う、どこか整合性がとれていない、不安と揺らぎをアスカにあえて認識さえる靄。時折記していた日記を読み返しても、Nervの記録や学校の写真を眺め返してもどこもおかしくないのに、小さなピースが欠け落ちているような不安定な思い。
「……ッ!何なのよ、いったい」
よって立つ地平を失ったかのような不安感に、ますますアスカは苛立つ。蛇口や風呂桶に当たってみても解決できることでないことは彼女自身がよくわかっている。ミサトに喧嘩を吹っかけても仕方ない。クラスメイトやNerv職員など尚更だ。彼らは何もわかっていないし、何も感じていない。ただ阿呆のように今日と同じように明日がやってくると信じているお目出度い人種なのだから、自分の不安を打ち明けたところで何の解消にもなりはしない。
だからこうして苛つきを抱えたままで過ごさざるを得ない。いや、得なかった。
「ファースト……」
そう。
この苛つきを解消してくれるのはただ一人なのだとわかっている、わかっていた。ファーストチルドレン、綾波レイ。彼女だけだ、このぬるま湯のような世界の中で唯一凛としているのは。
なぜだかはわからない。この苛立ちの原因がわからないように、彼女、ファーストだけがなぜこうもこの世界でアスカの目についてしまうのか、それはアスカの怜悧な頭脳をもってしても皆目見当がつかないし、恐らく考えてもわからないであろう。それらの答えを出せるのは綾波レイただ一人であり、あの人形のような女にこちらから頭を下げて頼みにいくなど慚愧の極みではあるが、事実はたったひとつなのだ。
そう、この世界のゆるさ。それを知っているのが彼女だけであるという事実。
だからアスカの混乱を止められるのは綾波レイだけであり、アスカは彼女に「お願い」をしなければならない。
なぜだかわからないけれど、あのファーストはこの世のすべてを呪っているような顔をしているから。ミサトたちはただ無表情だとしか思っていないようだが、アスカにはわかる。ファーストはNervを、人を、世界をすべて呪っているのだ、と。
誰も彼女に問いかけたことはないだろう。「どうしてこの世界は欠けてしまっているのか」と。
疑いを持たなければ解答への姿勢など表しようがないのだから。そして当然のことながら、解答者を探すことなどしやしないのだから。更には、その解答者がファーストチルドレンだなどとは、夢にも思わないのだから。
だから彼女はそれをいいことに、ただ呪うだけ呪って、誰にも回答しないことをある種の復讐だとでも思っているのだろう。
「でも、お生憎様。私は他の連中のように緩み切ってはいないわ」
呟きながら、ようやくシャワーの蛇口を捻る。身を切るような冷たさの水が、アスカの体を容赦なく叩くが彼女はその一切を気にしていなかった。
誰も気づいていないだろうとタカを括っているあの能面に、必ず罅を入れてやるわ。
もはや彼女の脳裏に、回答をお願いする自分は存在していない。いつものように強気で傲慢な、世の中のすべてが自分の思う通りに回ると信じて疑わない、元セカンドチルドレンの勝ち気な表情がそこにあった。
ただ少しだけ、暗い愉悦を含んではいたがそれも冷水がいつか洗い流してしまっていた。
Lyrics:03『それはけして悲しいものじゃなく、強くて優しい』
思えば悪い過去ではなかったと思う。「過去」だったのかどうか、「過去」であるのかどうかは別としても。
『あなたは人に誉められる立派なことをしたのよ。胸を張っていいわ』
『あなたは死なないわ。私が守るもの』
『決まってるじゃない。弐号機でアレをやっつけるのよ』
『つらいことを知ってる人間の方が、それだけ人に優しくできる。 それは弱さとは違うからな。』
『わしのこと、おもいっきし殴ってくれ!』
『他人の俺たちには見せない本当の姿だろ。それって家族ってことじゃないか』
悪くなかったと思う。
けれど、その中でじゃあ、自分はいったい一生懸命生きたのかと問われれば、彼は「わからない」としか答えようがない。つまり、自分の努力で「悪くなかった」と言えるものだったということではないのだ。
それが今でも彼を苛む。
こういう結果になったことはだから、一言で言うのなら自業自得。それ以外の何ものでもない。けれどこの世界が嫌なのか、そう問われるとこれも「わからない」。
考えることを放棄しているわけではないけれど、それでもこうとしか答えようがないのだ。ここには彼しかいないのだから。動くものも色彩もある世界、けれどそこに生きているものはない。そんな世界にただ彼ひとりが存在していることが罰。
そう、これは罰。
悪くなかった過去を振り返ることしかできない、明日のない世界でひとり存在しなければならないことが、自らの力で運命を変えるチャンスに何も為さなかった神の児に与えられた罰。
それから……
喧騒は好きじゃない。レイは教室に足を踏み入れた途端、今日ここへ通学してきたことをいきなり後悔した。
だが、それも日常に過ぎない。結局のところ日本国民であるところの彼女が義務教育から逃れることはできず、毎日やってきてはこうしてこの瞬間に同じ感慨を浮かべているのだから。
「ファースト」
そして今日は、彼女の憂鬱を更に深める存在がいた。
「……なに」
言葉少なに答えるのも仕方ないことだろう。ここ数日の弐号機パイロットの様子を見ていれば、彼女が何に思い悩んでいたのかわかるのだから。
そしてそのことに答えることができないことも、綾波レイに惣流アスカ・ラングレイからの予期される質問から続くこの会話を、何とか始めさせないことはできないものかと考えさせる一因であった。むろんそんな努力が稔る猶予を与えてくれるほど、アスカは甘くなかったけれども。
「あんた、知ってるんでしょ」
彼女が、セカンドチルドレンが言いたいことはわかっている。言葉は足りないし、尚且つその表情も態度も口調も、誰かにものを尋ねる様ではなかったが彼女が何を知りたいと思い、そしてそれが自分でも見当がついていないこと故にどれだけ苛立っているのかも、よくわかっていた。
「知らないわ」
その答えがすべてを知っていると彼女に伝えてしまっていることがわかっていても、他に答える術を持たなかった。沈黙は消極的な肯定、ならば逃げ道としてであってもなにがしかの回答を行う必要があったのだから。
「嘘。あんたは知ってる」
さっきまでの憂鬱そうな表情に隠されていた鋭さが表面に現れ、アスカはレイをその眼光で刺し貫くかのように睨みつける。その紅い瞳の奥には、憤りや無表情といったアスカの予想するアスカの知り得る限りで当たり前の綾波レイはおらず、代わりにあの使徒戦で心ならずも共に戦っていた頃からは想像もつかないような哀しみと、それからそれが何なのか全く洞察し得ないほどの深みのある感情を深奥に湛えた鈍さがあった。
「あんた……」
「知らないわ」
容易に予測し得たはずの相手の思いがけない変化に戸惑うアスカに、レイは同じ言葉を繰り返した。その声に何の感慨も含ませずに。
じっと見詰め合ったまま、教室の前のドアを挟んで対峙する二人に誰が最初に気がついたのか。滅多に話さない2人が向かい合っているということだけなら、別にどうと言ったこともない。1年間同じクラスにいても一言も会話を交わさなかったなどということは誰しも経験していることなのだから。
普通のクラスメイトであったのなら、綾波レイと惣流アスカ・ラングレイ、この2人だってそんな同じ経験をするだけだった。普通のクラスメイトであったのならば。
普段なら朝の短い時間を、どうしてたった数時間離れていただけでそれほどの会話を成立させることができるのかと疑うくらいに、前日の放課後から今朝までにあったことなどで潰すことのできるクラスメイトたちも、何かを感じたようで声をかけることもなくそんな様子を見守っている。
微妙な沈黙が降りる。
周囲の教室からこぼれてくる、このクラスでも昨日までは常態であった雰囲気も、今この教室では霧散してしまって跡形もない。誰もが何とかならないものかと思いつつも、あまりにも異常な2人の様子に自分が動こうとはせず、ただせわしなく視線を動かしてこの場を修正してくれる人間を探そうとする。そんな願いは叶うはずもなく、結局は今この学校の朝としては異様な雰囲気を作り出した綾波レイと惣流アスカのどちらかが動くことでしか、解決策はないのだと彼らが半ば諦めの中で気づくのにそう時間はかからなかった。
「……どいて」
そして先に口を開いたのは、大方の予想を外してレイの方だった。
彼女の言葉を聴いて、もっとも驚きが大きかったのは恐らくアスカだったろう。他の生徒たちはきっと、何度か繰り返されたレイとアスカの衝突からはアスカの怒鳴り声を予測していたに違いない。こうした睨み合いで折れるのは結局、アスカだったのだから。
それはアスカも同様だったらしく、今にも声を上げようとして開きかけた口をそのままに固まってしまっている。
「おい、トウジ……」
「ああ、言いたいことはわかっとる」
「え。なに、どうしたの2人とも」
しん、と静まり返った教室で、小さく言葉を交し合うトウジとケンスケの会話を耳に捕らえることができたのは、近くにいたヒカリだけだった。そろそろ割って入らなければならないかと思っていたところに入ってきた言葉だっただけに、自分の代わりにこの場を収拾しようとしているのかと意外に思ったのだが、彼らはそのまま動く気配がない。
どうしたのか、と疑問を続ける。
「なにがわかったの、鈴原」
彼らと同じく小声で尋ねるヒカリに、
「……綾波や」
「え?」
斜め後ろから声をかけたヒカリに振り向くこともなく、彼は独り言のように小さく呟く。
「あれは、知ってて言えないんちゃうわ」
「だな」
「知ってて、『言いたくない』んやろな」
「ああ」
「さすがやな、ケンスケ」
「……伊達にあいつらを見てきてないよ」
「ちょ、ちょっと。あなたたち、何を知ってるのよ」
会話とも言えない応酬を続けていた彼らに業を煮やし、ヒカリが口を挟む。既に声が普段の大きさに戻っているのは、呆然としたアスカを横目にレイが教室を出て行ったことで空気が変わり、普段の教室光景が戻ってきたからだった。
そのせいなのか、それともヒカリの声のためかわからないが、ようやくトウジが振り返って彼女に視線を向けた。
「何も知らんで」
「え?……だって……」
「僕らは何も知らないよ。ただ、綾波が何かを知っているということだけが事実として認識できた。綾波が何かを知っていることを知っている、というところかな」
「綾波さんが?」
「ああ。惣流が何も言い返せなかったのも、多分気づいたからだと思うよ。言えないんじゃなくて、言いたくないんだってことに」
「どうして、あなたたちはそれがわかったの?」
「目、さ」
ここ、とでも言うようにケンスケは眼鏡を右手で上げながら言う。ヒカリが何かを聞き返そうとする前に、彼はそのまま席に戻ってしまい、トウジもまた、腕組みをしたままそれきりヒカリを見ようとしなかった。
仕方なくため息をついた彼女は、教室の前のドアで未だ固まって歯をくいしばり拳を握り締めている友人に声をかけるべく、足を進めた。
「どうしようもないわね」
窓の向こう、今はもう兵装ビルが降りなくなって見通しの良くなった景色を眺めながら、技術部の部長は呟いた。
言いながら置いたカップがソーサーに当たって軽やかな音を立てるが、隣に座っていた彼女の部下である伊吹マヤは軽く眉根を寄せ、音になのか上司の発言になのか、或いは両方になのかも知れないが口に出さずに反意を示した。
「冷たいわねリツコ。でもさぁ、落ち着かないのよ」
マヤの反意は前半に賛同するものであったが、更に後半を付け加えてリツコの正面に座ったミサトがため息交じりに言った。
「何かを忘れてるような……違うわね、忘れてるなんて生易しいものじゃなくて、何か大事な記憶がすっぽりと抜け落ちてるような気がするのよ。私だけならまだしも、アスカが苛ついてるのも同じ原因らしいし、あの子のシンクロ率が下がるのはあんただって困るでしょう」
ミサトの主張は最もであったが、リツコは肯じなかった。
「パイロットのケアは作戦部の仕事よ。それにだいたい、あなたとアスカだけじゃないの、そんなこと言ってるのは。司令から末端の職員まで全員が同じことを言っているのならサードインパクトの影響も考えられるから調べようと思うけれど、同じ部屋に住んでる2人だけというのでは、MAGIや、ただでさえ足りない人材を動かすことなんてできないわよ」
「そりゃそうかも知れないけど……」
リツコの言うことはもっともだった。それはミサトにだってわかっている。こうして一服するのだってここ数日を考えれば珍しいことなのだ。それくらい技術部は多忙を極めている。減ってしまった人材をやりくりして、エヴァ弐号機の維持やMAGIの調整、独自の行政機関を持っているとは言えそれすら少ない人員で行わなければならない現状において、関係各部から要請される書類やデータの供出、効率的に治安を維持するための技術開発など、作戦部が絡むものもあるが業務の多様さや量は比べ物にならない。
顔を合わせる機会は多いものの、それはほとんどが公務や会議であり、ミサトにしても私事の悩みだから、こうして休憩中を狙ったのだが、それすらリツコのスケジュールを確認し始めて5日目にしてようやくのことだった。
そんな貴重な休憩を邪魔するのも悪いとは思うのだが、どうにも落ち着かない。
「でも葛城さん、そういうことってよくありませんか?ついさっきまでは覚えていたのに、ど忘れしてしまうというか」
我関せず、とばかりにコーヒーを味わい始めた上司に代わってマヤが口を挟む。彼女とて疲労度で言えばリツコと同じだろうが、Nervの良心というよりは単なる苦労人なのかも知れない。
「んー、ちょっち違うのよね。インパクト直後の混乱してた頃は忙しさで気にならなかったんだけど、それでもその頃から何かが消えてしまっている感じはしてたのよ」
「消えている、というのが妙ですね。忘れている、ではないんですか?」
「そう、そこなのよ」
「どこよ?」
「……リツコ、年がばれるようなギャグは止めた方がいいと思うわよ、私は」
「……わ、悪かったわよ」
マヤはきょとん、とした顔をしているが、さっきまでは興味なさそうにしていたくせに、突然割って入ったリツコに不愉快になったのか、ミサトがため息を混じらせながら言う。
「で、リツコはどう思うわけよ」
要するに自分を放置して話を進められるのも嫌なのだろう、そう思って彼女に話を振る。リツコも見抜かれたことが悔しいのかどうか、片眉をひくつかせながらも内心の動揺を隠して「とりあえず」と前置きをしてから自分の考えを開陳した。
「さっきも言ったけれど、あなたがた二人だけってところからサードインパクトの影響である可能性は低いわね。考察するに当って、二人に共通する事柄を整理してみることだけれど、まず居住環境は全く同じね。それから職場、現段階ではこれだけ。家については考察の余地はあるかも知れないけれど、Nervのチェックを受けているマンションに何らかの、あなた達に影響を与えるような物質が散布されているなどということは考え辛い。職場も同様、こちらは更に多くの人が勤務しているのだし、寧ろアスカはレイ、ミサトなら日向君たちの方が一緒にいる時間は長いわよね。すると、この2点はとりあえず消していいと思うわ」
結局喋りたかったんじゃない、という言葉をミサトは辛うじて呑み込んだ。ここでリツコにへそを曲げられても困るし、実際自分達も割と困っているのだから。
日常生活に支障があるほどではないけれど、精神衛生上かなり悪い。自分の部屋の衛生の方がより一層マズイ状況にあるのだが、それを考えてみても、なぜか忘れているような記憶がすっぽりと抜け落ちているような妙な感覚に今も囚われる。
だから彼女は黙ってリツコの考察を聞くことにした。
「物質的なものではなく精神的なものだと思われるから……となると、原因の可能性として最も高いのは、サードインパクト時のあなたたちの状況ね。あれは誰もが何だかよくわからなかったみたいだけど、ミサト、あなたはどうだったの」
「サードインパクト、か……」
思い出すよう促されて、ミサトはちょっと顔をしかめる。
無理もないだろう。ミサトにとって『インパクト』という単語は自らの過去やトラウマ、父親の死に密接に関連するものだし、それがなくともインパクトに繋がる使徒戦の記憶は未だ生々しく彼女の脳裏に焼きついている。大学を卒業していようと、一般的な少女像からかけ離れた存在だろうと、アスカとレイは14歳であったのだし、どんな理由があれ彼女たちを戦場に投入したという事実が消えたわけではない。
彼女たちは戦いに生き残った。サードインパクトも回避できた。
だがそれは彼女たちを戦場に送り出した、しかも最前線で彼女たちだけを戦わせたということの免罪符にならない。
「……だけ?」
そこまで思い至って、ミサトは違和感に首を傾げた。
「ミサト?」
「どうしたんですか葛城さん。思い出したくないのなら無理に……」
動きを止めて宙を睨み始めたミサトに、リツコとマヤの声が重なる。
ミサトは慌てて手を振って、
「ああ、違うのよ。何か思い出したかけたような気がするんだけど……『だけ』、そうよ、そう、あのコたち『だけ』ってのが何か引っかかるのよ、『だけ』……」
「ミサト、何が『だけ』なのよ。ちゃんと話しなさい」
再び没頭し始めたミサトに、そうはさせじとリツコが声をかける。なんだかんだで面倒見がいいのか、それとも単に一度手をつけたものを中途半端で放り出すことが嫌なのか。恐らく後者なのだろうけれど。
だが、それ以上ミサトが何かを思い出すことも、気づくこともなく。
ただミサトのうんうん唸る声と、リツコの呆れたため息を含んだ温い時間だけが流れていった。
Lyrics:04『こんな遠い場所から歌ってるよ』
この世界はとても居心地が良い、と彼は思う。
あまりの心地よさに自分の存在、自我の境界を意識しなくても済むくらいに。けれどもだからこそそれはとても危険な世界で、同時にここに居続けることに対して警鐘を鳴らす存在が、自分の中に明確に存在しているのだ。
それが何であるのか、はわからないけれども。
ただ、その存在のおかげで彼はこうして自分という存在をまだ認識していられる。右腕を持ち上げて目の前に掲げれば、この年代にしては細くて白い、華奢な右手を視覚できる。視線を下に下げればいったいいつから着替えていないのかわからない黒い制服のズボンと、その先にある白い通学用スニーカーを目にすることができる。
左手を胸に当てれば心臓の鼓動を感じ、耳を澄ませば周囲を埋め尽くす微かな水の音も聞こえてくる。
獏とした不安はある。
ここが何処であるのか、今がいつであるのか。
淡い水の微かに青い揺らめきの中にいるために、自分と世界を切り分ける基準は存在している。水でないもの、それが自分であるという途轍もなく曖昧で、けれど単純であるが故に確固として強固な存在の境界。
では、自分を定義するものは何であるのか。
答えは明白である。だから彼はこうして彼は今でもそれを思う。
「そう、あれは……」
いつもの朝。いつもの昼、いつもの放課後。
夕暮れで赤く染まった教室に残っている生徒はいない。ある場所にあるべき存在である、教室という場所にあるべき存在である生徒。その生徒がいないという不安。
ドアを開いたまま無人のそこを眺めるアスカの青い目に映るものは、そういう類のものだった。恐れてはいない、そこに何か感慨を込める訳でもない。けれど境界の一歩外に立ち尽くしたまま踏み出せない。
その理由が、そう、不安。
そこに足を踏み入れれば、自分もまたその世界に埋もれてしまうという不安。その薄らとした不安は、彼女を拒絶しながらも彼女を誘うという矛盾への不安なのかも知れない。
「赤い教室は嫌い」
そう呟いてみたところでこの世界がどうなるわけでもないのに、アスカはいつまでも立ち尽くしてその赤に沈んでいく教室を見つめる。
こんな感覚は初めてではない。近いところで言えば、今朝ファーストチルドレンと会った時にも感じた。何かを忘れているようで、けれどそれが何かはわからない。そしてそれを一歩踏み出せば知り得る可能性があるのに何かが自分を躊躇させる。
そうだ。
知っているはずなのに、知らないと言い張るファーストチルドレンの感覚に似ている。
あの目はきっと、アスカが問い詰めることを諦めるほどに深い瞳の赤は、この教室の色に似ている。そしてそこに触れれば自分の望んだ何かが得られることはわかっているけれども、恐ろしくて踏み込むことができない。ファートが何を知っているのかわからないけれども、彼女がすべて知っていることはわかっている。
そしてそこに誰かが触れることを拒絶する、完膚なきまでに完全に拒絶する赤。
アスカは教室の入り口に立ったまま、誰も通らない廊下に目をやる。
そこに洩れている、教室からはみ出した赤が、ぬっとりと廊下を濡らしている。その様子は、波のない海のようだった。
「……海」
海。そう、赤い海。
窓から入り込み教室を満たし、ドアを通って廊下を浸すのは静かな赤い水。
泳ぐ魚もなく、戯れる波もなく、潮騒の音もなく存在する静かな海。
忘れている何かを——それは恐怖かも知れないし憧憬かも知れないし、愛情かも知れない——わからない何かを、そしてなぜわからないのかを、すべての謎と想いと記憶を含有する成分でできている海。わからない。なぜかわからないけれど、アスカには今この目の前で展開している赤い海が、急に、さっきまでのファーストチルドレンの赤い目ではなく、何か別のものと重なってくるように思えた。
同時に襲い掛かる不快感。
鼓動を跳ね上げ、脈拍を乱す。立っていられないほどの眩暈と、穏やかな安らぎが交互に、やってきては引いていく波のようにアスカを覆う。
息切れなのか過呼吸なのかわからない、それが自分のものとも思えない呼吸音だけだったアスカの音の世界に、不意にやってくる音たち。
水の音。
打ち付ける鉄の音。
沸騰した蒸気音。
レールの音。
ガンガンと襲ってくる音の洪水に、アスカは耐え切れずしゃがみこむ。どこかで聞いたことがある。エヴァの中、ファーストのマンション……。
けれど、
「あれは……なに」
横溢する音の中で、聞きなれていないはずなのに聞きなれた音が、一定のリズムを刻んでいる。それは周囲の音に紛れ、それでも消えることなくアスカの耳に届く。
不快ではない。むしろ心地よい。
とんとん、と緩やかなリズムと軽いけれども湿った木を叩くような優しい音が、この赤い世界の中で唯一アスカの身方だった。
「これはなに?」
唇から零れる疑問は、けれど決して答えを得られることはない。そう、ファーストチルドレン、綾波レイがそれを望まないから。そのことだけが頭に浮かび、同時に柔らかい音で収まりかけていた不快感が再び強烈になる。
どこかで聞いた音。
どこかで見た色。
どこかに忘れてしまった何か。
それらすべてに答えを出せる存在と、この騒音と赤で満たされた世界でのアスカを苦しめる。
何かをつかめそうで、けれど決してつかめることがないことを理解している。
喘いでいたアスカの苦しみも、いつか終わりがやってくる。
溢れていた赤は最初の星の瞬きとともに急速に引き、それと動きを同じくして音もまた去っていった。
後には、呆然とした表情で薄暗くなった教室を眺めるアスカだけ。
「……気持ち悪い」
思い出というのは、いいものだと思う。
決して汚されないし、決して忘れられない。忘れてしまうようなものは、それは記憶であって「思い出」とは区別していた。もちろん純粋に言葉の意味では違うけれども、シンジだけの基準として。
今だからこそわかることだけれども、最初に戦った使徒、あれが第参使徒だったという。こうして共に漂っていると、彼——彼女かも知れないが、性別はさして重要なことではない——から害意も善意も感じられないから、ひょっとするとそれがサキエルであるかどうかすらわからないし、またわかったところですぐに失念してしまう。
その辺りにあるのがガギエル。なんとなくあそこにあるのはシャムシエル、右手らしき部分に触れていそうなのはバルディエル。
もちろん、使徒以外の何かもあるのだが、それらの存在はあまりにも希薄すぎて、まさしく還元されてしまった果汁飲料のように何だかわからないものと成り果てている。
今、成り果てている、という表現を使ったが、シンジ自身にはむろんそのことに対する感慨などありはしない。そんなものすら必要ないし、表現が妥当かどうかすら論じることなど無駄以外の何ものでもない。いや、今こうして考えていること自体が、この状態においてはどうでもいいことだ。
そう、無駄なのだ。何もかもが。
ただこうしてきれいな「思い出」だけを抱いて、誰にも邪魔されずに漂っていれば幸福なのだ、きっと。でなければ何も考えてはいけないのではないだろうか。
彼が何かに思い至ったり考えたりする度に、何とかその存在を感じることができる使徒たちの存在がふわふわと反応するのだから。恐らくそれらは、いや実際はこの中にいるすべてのものが唯一の固体として実体化することが可能なほどの自我を保っているシンジに依存もしくは共存しているのではないか。
存在以外に観念という定義を持ち得るシンジが悪意を起こせば、この世界全体が悪意に染まり、穏やかであれば波も立たない静かな海になる。
そんな、たったひとつに由来する奇妙な世界。
心地よい、そう思うことだって可能だ。彼ひとりが完結した存在なのだから、他の何者にも邪魔されることはなく、完全な自由だと捉えることもできる。
諦めという観念すら存在しないこの海の中で、シンジは諦念に満たされていた。
Lyrics:05『君のことが忘れられない』
最初にそれに気づいたのはどちらだったか。
「なあ、ケンスケ」
「ん?」
呼びかけられた少年は、端末に打ち込んでいた手を休めずに曖昧な返事をする。トウジはそのことをさして気にもせずに話を続けた。
「綾波のやつ、最近変やないか?」
「……トウジ」
「なんや」
ケンスケは今度は手を休めてトウジを真剣な眼差しで見返しながら、
「もう気にするのは止めた方がいいよ」
どうして、そう尋ね返そうとしたトウジの言葉は、そのまま出ずに終わってしまう。何気ない会話のつもりが、あまりにも真剣な表情のケンスケに呑まれてしまったからだった。
思わずケンスケの表情に見入ったまま固まってしまうが、傍から見ればにらみ合っているような状態は、先にケンスケ視線を再び手元に落とし、キーを叩き始めたことで終わった。
「綾波は綾波さ。彼女を理解することなんて結局できやしないんだし、彼女から何かを聞きだそうとすることは不可能だ。聞いても無駄なんだから」
カタカタとキーを打つ手を止めず、ケンスケは呟くように続ける。
「それで何かわかったからと言って、どうにかなることでもないんだろうし」
「そ、そやかて、気にならんのか」
視線が外れたことで、ようやくトウジの緊張も解けたようだ。
「……ならないと言ったら嘘になるだろうね。でも」
「なんや」
「例えば綾波が僕たちの質問に答えてくれるとして」
再び手を止めて、前の机に腰を下ろしているトウジを見上げる。今度の彼の視線にはさきほどの真剣さ、というよりは諦めに近い色が見てとれた。
「トウジは綾波に何か聞こうと思うかい?」
「それは……」
「質問を変えるよ。何を、どう聞くつもりなんだ?」
普段のバカ話をするかのように、何でもない風にケンスケは聞く。けれどその内容はトウジを困惑させるのに十分なものだった。
いつだったか、アスカとレイのにらみ合いが教室の入り口で行われた時にわかったことだが、綾波レイは知っている。彼らの疑問に答えて余りあるほどの事実を、彼女はきっと自分ひとりの中に蓄えている。
けれど、それをどうやって尋ねるか、よりもケンスケの言う通り、何をどう聞けばいいのか、の方がより問題であることも確かだった。
『何か忘れてるような気がするんだが、それが何なのか教えてくれ』
『綾波は何を知っているのか、それは自分たちに関係するのか』
そんなことを聞いたところで彼女は何も答えてくれないだろう。それどころか何も耳に入らなかったかのように、何事もなかったかのように流されるのがオチだ。何しろ、あの日のアスカの方が、言葉は少なかったけれどもっと核心をついた明快な尋ね方をしたのだから。
「そりゃそうやけど……」
考えて溜息交じりの返事を返す。トウジにだってそれくらいはわかっている。サードインパクト以来、以前にも増して他の何者にも興味を抱かなくなったような綾波レイに彼らの言葉が届かないことくらい。
そしてケンスケの言う通り、レイが万が一答えてくれたとしてその答えが彼らにとって何の救いにもならないことくらい。
その答えが何か、は知らない。
けれど、聞いたところで彼らに何もできないこと、それだけは何故か明確にわかっていた。本能なのか、意識の奥底のどこかなのか、無意識のうちになのか、それすらわからないけれども。
好奇心に過ぎないのかも知れない。何もできないことを知りながらも、そのことについて知りたいと思うことは。
だから恐らく彼らは忘れていく。楽しかった日々もいつか思い出に変わるように、悲しいこともきっと笑って話すことができるように。この毎日も、卒業アルバムの中でしか思い出さなくなるように。
「でも」
思考に沈み込んでいたトウジを戻したのは、ケンスケの独り言のような呟きだった。
「綾波は……きっと」
後は聞かなくてもわかった。トウジが考えていたことと同じだから。
それでもケンスケのは独り言だ。トウジが同じことを考えていようといまいと、言葉は吐き出される。
「いつまでも抱えているんだろうな。一生忘れずに」
時間の感覚がない。
何時間、何日、何年、いやもしかしたら何万年経ったのだろうか。
生理的に眠るということをしないシンジであるから、そして生物的に人間であるのかどうか、むしろ生物として存在しているのかどうかすら怪しいのだから、体内時計などというものはもうとっくに狂っている。
誰かが思い出してくれなければ、きっとこのままたゆとう存在として永遠に生きているのか死んでいるのかわからない時をさ迷うのだろう。
それで本当にいいのか。
そんなことを最近、最近という時間感覚が未だ有効ならば、だけれども、そのことについて論じる必要も今更ないだろう。とにかく最近、そんなことを考えるようになった。
いい、と悪いの違いはわからない。だから、シンジにとってそれが自分自身で納得し受け入れることができるかどうかが基準でしかない。だとすると、最近の彼は今の状態を、そして今までの状態とこれからの存在を許容できなくなってきているということなのだろうか。
「そんなはずはない」
誰も聞くもののいない中で、けれどシンジは呟く。
その行為そのものが、「そんなはずがある」ことを示していることに気づかず。
ファースト・チルドレン、綾波レイがネルフのゲートを潜ったのは実に3週間振りだった。
「ご苦労様です」
受付で認証カードを提示したレイに、新人だろうか、前回までは見たことのない若い女性が労いをかける。それに軽く頷いてカードを受け取ると、すたすたと真っ直ぐに発令所へ向かう。
使徒戦のなくなった現在では、命令を発することなどないのだが混乱を避けるためとわざわざ改名する必要がなかったことから、今でも発令所と呼ばれている。実態はネルフという機関の本部事務所に過ぎないし、司令塔は取り壊されて平坦なオフィス風景に変化してしまっているけれども。
今歩いている通路も、以前あったどこか殺伐とした雰囲気はなくなっている。無愛想なのは相変わらずだが、通路を照らす光が刺すような白ではなくどこか柔らかさを感じるのはレイ自身の心境と境遇が変わったせいだけだろうか。
この場に葛城ミサトか赤木リツコがいたのならば、そんなレイの感慨に恐らく妙な顔をしただろう。もちろん蛍光灯は取り替えられて間接照明になっているし、壁面や天井だって不要となった緊急回線用電話や無線、非常警告灯に対侵入者用の硬化ベークライト噴出装置なども取り外され、いち研究機関としておかしくないものとなっている。ただ、そこにはあの最後の戦闘の記憶−戦略自衛隊による無差別殺戮−の傷跡を消し去りたいという思いも含まれているのだ。
だから、その記憶を持つ彼ら、ミサトやリツコ、マヤ、青葉、日向など古参の連中が今のNervのどこにいても逆に温かみのある内装に塗り込められた痛みを思い出してしまうことの方が普通であり、同じように記憶を持つレイがそこに柔らかさを感じるというのは彼らからしてみれば異常でしかないのだ。
ただし、そもそもそんな感傷をレイが口外することなどあり得ない。だからきっと、「雰囲気が変わった気がする」などとレイが口にしたら、驚くのは「あのレイが感傷を」ということに対してだろう。もちろん、彼女たちがそんな驚きを感じることは永遠に来ないだろうけれども。
通学用の靴が湿った音を立て、レイの足は更に奥の区画へと向かう。
時折すれ違う職員たちも真っ直ぐ前を向いて視線を揺らすことすらしないレイに違和を感じることもなく、久しぶりに見たという程度の目線を送って通り過ぎていく。それくらいがちょうどいい、と彼女は思っている。誰に意識されることもなく、いや認識すらされない彼のいる場所に、少しでも近づいているような気がするから。
誰に認識されることもなく、ただ永遠の時間を漂うだけの存在。いや、永遠という言い方は生ヌルいかもしれない。なぜなら、そこにはただ現在があるだけなのだから。
それは積み重ねられる現在ではない。
そして、流れ行く一瞬の現在ですらない。
ただそこに『在る』だけの、それ故にまたとなく純粋な時としての現在であり、過去や未来と言った他の時間概念と並列して認識されるものではない。
そこに在るだけの現存在、任意に存在する多種多様な意識を統合せしめる唯一絶対として、流去する時間とは完全に乖離した、限りなく永遠に近い一瞬。
自分もそこに『在る』ことができれば良い、そう綾波レイは心から思う。
彼女の魂は常に永遠の一瞬を求めており、そしてそれを実現できるのはただ碇シンジ、彼の傍らにしかない。
そこにあるのは安らぎだけ。恐らく彼とともにそこに存在する使徒たち、最後の使者たる第壱拾七使徒、渚カヲルを含めた彼の兄弟たちは肉体どころか心も持たないただの魂だけの存在として彼の傍らに在る。
それがレイには妬ましい。
ヒトに用意された、限りなくある選択肢のうちそこに辿り着く可能性は宇宙に散らばる星屑のひとつを選び取ることよりも更に難しい。例え神の児たる碇シンジ、彼が望んだとしても様々な要素の偶然とも言える結合によらなければならないのだから。
だから彼女はそこに辿り着くことはもう、できない。
シンジがそう望んでいない限り、彼女が彼のある場所へ辿り着くことはできず、こうして永劫とも思える苦痛を流れ行く時間の中で過ごし、いつか一握の塵芥となる。故に彼女はこの世界のすべてを呪う。
来世あるいは死後の世界というものは存在しない。だからといって彼女は固体生命体としての死を恐れたりしない。レイの中にあるのは、ただ碇シンジのある場所への羨望だけなのだ。
それは果たして、碇シンジの傍らにありたいと思う願望なのか、それともあの場所への憧憬なのか。
その疑問が彼女を苦しめたこともあった。だがあの最後の瞬間、彼女が選び取ったのは世界に戻ることではなく碇シンジの願いを叶えることであり、そしてこうして日々を過ごしているのもまた、彼の願いに他ならない。
更に付け加えるのならば、人々の認識外にいることによってあそこに在る彼を、こちらへ戻さないこともまた。
あの空間そのもの、もっと言えば時、認識、存在、空間、対象すべてにおいて『そのもの』であるシンジを呼び戻すことは簡単だ。彼だけは、あの場所において他のものとは完全に異なる——彼と同じ属性を持つ使徒たちとも、そこにある他の存在、つまり元来の属性が生命である存在たちとも違う存在である。
あらゆるものであり、あらゆるものでない碇シンジはそれだけにこちらに対する影響力も大きく、溢れ出てくる認識のひと雫を彼女が拾えばいいだけだ。
それをしないのは、ひとえに彼、碇シンジの願いをレイが叶えているからに過ぎない。そして彼女が叶えているのはシンジの願いだけ。使徒たちはシンジともその他の存在とも異なるためにこちらへ戻ることは不可能だし、他の存在などはレイにとって気にかける価値すらない。
それはつまり、彼とともにある存在たちを唯一認識できる綾波レイ、彼女がこの世界に想起させない限り、彼らは決して戻ることはないということを意味している。例えば霧島マナ。彼女を知ることができる存在はこちらにもいる。彼女がサードインパクトまでに出会い、関わった人間すべてが彼女を戻すための鍵となり得る。浅利ケイタ、ムサシ・リー・ストラスバーグ、加持リョウジ、ネルフや戦略自衛隊で彼女に関わった人々は他にも多く、彼らすべてがマナを呼び戻すことが可能なはずだ。
それが成らないのは、霧島マナがここへ戻されないのはシンジによって共にあることを選択した人々が完全に、それはア・プリオリに完全な消去で認識されないことに理由がある。
彼らが思い出されることはない。
綾波レイにとって、碇シンジ以外の存在は存在として認識するに値しない。彼女にとっては碇シンジだけが世界であり存在であり、その他などは彼らを想起し得る人間に教えるどころか、そういった存在があるということを彼女自身が思い出すことすらない。寧ろ、彼女以外の存在が彼の傍らにあるという事実は唾棄すべき事柄であり、それらを完全に消去したいくらいだった。
だから、霧島マナに関わった人々にレイが彼女の存在を思い起こさせてやる義理などないし、そもそも彼女自身がマナのことを思い出すこともない。故に霧島マナは呼び還されない。
それはマナ以外の存在すべてが同様である。
彼女にとって、彼の傍らにある資格を根源的に持つのは、同じように価値のすべてを碇シンジに求めている使徒たちを除けば、綾波レイただひとりだけでなければならない。
今にして思えば、下らないことを悩んだものだと思う。
そして、だから危険だとも思う。
靴音が止まり、彼女の足はいつかセントラルドグマの砂浜を踏みしめていた。今や誰も訪れることのない、訪れることの叶わないレイの聖地。どこにいても感じることができるシンジの感覚を、けれど最も強く感じることができる場所。
危険だ。
そうは思う。ここにいると、強くシンジを感じるから、だからシンジの望みを破棄してしまうことに繋がりかねない。ひとつに溶け合うことを望んでいるのか、それともシンジを感じることを望んでいるのかがわからなかった自分はもうおらず、今のレイにはシンジの存在がすべてである。
あの空間に行くことよりも、シンジそのものを望んでしまう自分。
そんな自分が恐ろしい。
あの時感じ、守ることを誓ったシンジの願い、『もうこの世界に還りたくない』。
その願いを壊してしまう可能性があるのはレイただ一人であり、その自分がこうしてシンジを最も感じる場所で彼の帰還を願えば、そしてシンジが、願ったレイの想いに同調してしまえば彼は還ってくる。
それはとても小さな、けれどとても大きなフォースインパクト。
そのことによって世界がどうなるかはわからないし、興味もない。綾波レイ、彼女にとって重要なのはシンジを望んでしまう自分と、そのことが意味するシンジの望みの崩壊、その葛藤だけなのだから。
わかっていながらここへ足が向いてしまったのは、それだけ強く彼女が彼を望んでいることに他ならない。
だから、危険だ。
「いけない……碇くんを呼んでしまう」
胸の奥が痛い。
それが何であるのか、わからない綾波レイではない。動悸を感じて恐ろしくなる。抑えきれないのが自分でもわかる。それほどに、自分は彼を望んでいる。
嬉しい。
彼の願いを破ることは恐ろしいが、それ以上に彼をこれほどまでに求めている自分がなぜか好ましく感じて、レイは涙を流した。
なぜだろう。
疑問は意味を成さない。彼を想い、彼を感じ、涙を流した。
その事実がすべてであり、すべての基に碇シンジがいることがすべて。
ふ、と瞳を閉じて涙を振り払ったレイは歩を進める。
迷わない。
自分は彼を求めている。
そうだ。
この世界の人々がどうなろうと知ったことではない。
世界がどうなろうと、彼との約束を破ることになろうと、それでも自分は、
Lyrics:06『僕は大人になって、子供になってく』
夢なんて、もう見ないと思っていた。
シンジは漂う時の中で、あまりにも鮮やかすぎる光景に目を奪われていた。それが永遠に続く今という空間で見た夢なのか、それともサードインパクトに至るまでのことが夢なのか、あるいは彼の経験したすべてのことが夢の続きに過ぎないことなのか。
「それじゃあ行って来ます」
「行ってらっしゃい」
「おはよう、綾波」
「おはよう。……碇くん」
「何や何やセンセ。今日もあつあつやなあ」
「よ、碇。相変わらずだな」
「……何を言うのよ」
「はっ!何言ってんのよこの3バカトリオがっ!」
「よーし、それじゃあ授業を始めるぞー。委員長、号令」
「ここまでが試験範囲だから、きちんと覚えておきなさい」
「うぇぇ……相変わらずきついよな、あの先生の授業は」
「ちょっとここ教えてくれへんか」
「バカシンジ!きょっ今日はあんたん家で教えてあげるからね!」
「素直じゃないわね」
「さあ飯や、飯〜」
「おい碇、購買行こうぜ?」
「合格おめでとう」
「ありがとうございます、ミサトさん」
「幼なじみねぇ。それだけで高校まで一緒のとこを選ぶものかしら?」
「ちょ、ちょっとヒカリっ!」
「今日は購買?」
「ええ。碇くんは……アスカの手料理なのね」
「久しぶりやな、センセ」
「元気してたか?」
「集中力が乱れてるわよ、2人とも」
「やれやれ、今使徒が来ないことを願うばかりだわね」
「ファースト、あんたなんかに、あんたなんかにぃっ!!」
「アスカ、ダメだ!」
「あ、先生。お久しぶりです」
「よう。どうだ高校は。……ずいぶん悩んでるみたいだが?」
「文化祭実行委員?」
「綾波もなんだ。僕も押し付けられちゃってね」
「だめよアスカ。素直にならなきゃ」
「バカシンジ!ちょ……ちょっと、つ、付き合いなさい」
「ごめん」
夢の続きは。
「何ごとなのっ!?」
「大深度地下層で反応です!パターン青!」
「リツコっ!」
「わかってるわ。マヤ、MAGIの回答を」
「葛城さん!」
「遅いわよ日向君、館内に警報、第三新東京自治政府に連絡、リツコ?」
「マヤ、出るわね?」
「はい。こ、これって……」
そう。
だから僕はきっと、あの世界に戻らない方がいいんだと思う。
Lyrics:07『いつかどこかで出会える日など来ない方がいいよ』
だって。
Lyrics:08『きっと、あの日みたく恋してしまう』
「やっぱり僕は、綾波のことが好きだから」
『すまなかったな・・・。シンジ』
『もう、いいのね?』
本当に?
……本当に。
「本当に、もういいの?」
ガフの扉は再び開く。
神話を始めるために。
それでも自分は、
「碇くんに、会いたい」
新世紀エヴァンゲリオン
第壱話「使徒、襲来」
Angel Attack
そして二人は出会った。
≪あとがき≫
何だろう、この微妙っぷりは。おかしいな、Qがあまりにあんまりなんで初心に返って逆行もので再構成しようと思ったのに、なんでこうなったんだ。
歌詞は「tears to tiara」から「Until」(中山愛梨紗)。ゲームは未プレイなので良くわかりません。最後の言葉はTV版ラーゼフォンのラスト。
結局、ありがちな逆行もののテンプレになってしまった……orz