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知っていた。
知っていたのだ、自分は。

秘められた想いも隠された会話も。

知っていて、それでいて無邪気に知らない風を装うしかなかった。
周りの誰が知っていようと、自分が知らないと言えばそれで済むことだから。
だから、言い続けた。

「アキトは私の王子様だから」

機動戦艦ナデシコ - 砂の城(前編)

2202年5月。
ヨコスカにある宇宙軍総合病院の中庭も、緑が眩しく映えるようになった。
芝生は冬枯れから春を越え、息を吹き返したように青々とし、散った薄桃の花の代りを務めようと言うのか、葉桜が夏の訪れを予感させている。
陽光に照らされた白い建物の反射から彼女の瞳を守るように生い茂った木陰で、その女性——ミスマル・ユリカは手にした本をパタン、と閉じた。

時代のかった厚みのあるその本に乗せられた白い手は、とてもこの病院に入院しているとは思えないほどの張りと瑞々しさを保ち、こげ茶色の表紙ときれいなコントラストを醸し出す。
以前よりもほっそりとした体が、今も完全に復調したわけではないことを示しているが、それを包むのは病院着ではなく白いワンピースと淡いピンクのカーディガン。
ほっそりとした顎とすっきりと通った鼻筋が幾分神経質そうに見せるが、意志の強そうな目元と輝きを少しも失っていない美しい瞳が、見舞い客を男女問わず思わず振り返らせる。

風が短くした髪をかきあげ、うなじをふわりと撫ぜて行く。
くすぐったそうな気持ちよさそうな表情をすると、ユリカはそのままベンチの背もたれに体を預け、瞳を閉じた。

5月の風が、ユリカの体を優しく包み込む。
緑の香りの中で、それは一枚の絵のようだった。

「サワイ君」
トウキョウのネルガル本社ビルを出ようとしたアキトは、大勢の秘書や重役に囲まれたアカツキに呼び止められた。
「何ですか、会長?」
足を止めて尋ねると、こちらへ来るよう手招きをされる。
その表情はアキトには見慣れたもので、聞こえない振りをして退社してしまえば良かったと彼を激しく後悔させた。
2人の内心がどうあれ、表面上は会長と内務監査部の課長だ。
振り返って返事をしてしまった以上そのまま帰るわけにもいかず、しぶしぶと言った表情を押し隠してアキトは一群から離れたアカツキの傍らへ寄った。

ちらちらと塊になってるお偉方を盗み見ながら、口元に手を翳して囁く。
「あのさあ、今晩だけでいいからラピスを貸」
「だめだ」
ラピスの名前が出たところでアカツキの盗み見が何を意味してたか理解したアキトは、即答する。
「どうせまたエリナと喧嘩でもしたんだろう。それは俺には関係ないから構わないが、その度にご機嫌取りにラピスを使うな」
「そこを何とか……頼むよ、この通り」
こっそりと手を合わせて拝む仕草をする。
さすがにメインロビー、来客や受付嬢の前で社員に頭を下げている姿は見せられない。
自分がアカツキの視界に入っていないことを確認すると、アキトはちら、と会長を待っている一団の方へ目配せをする。
「あのな、だいたい同じ手がそう何度もエリナに通用するのか?ラピスが寝てしまったら、同じことだろうが」
「いやあ、それが彼女、あの性格で実は母性本能強いらしくてね。……まあ、『母性』本能より『闘争』本能の方が強いんだけどさ」
「アカツキ」
「オッケーしてくれるのかい?」
「いや……ご愁傷様」
「へ?」
振り向いたアカツキの目に飛び込んできたのは、それこそ鬼の形相を裏側に隠したことが明白な、恐ろしいほど穏やかな微笑みを浮かべている自分の秘書の姿だった。
「あ、あの、エリナ君……」
「会長。……今日は夫婦水入らずでじっくり話し合いたいですわね」
そしてアキトの方へ顔を向けると、
「お疲れ様です、サワイ課長。今日はこれから奥様のところへ?」
「ええ。では、失礼します……あんまり苛めるなよ、エリナ」
「……死なない程度にしとくわ……お疲れ様でした」

驚愕と恐怖を張り付かせたアカツキの表情を見るに耐えず、アキトは密かに溜息をつくと踵を返した。

時の流れは人間の意志を尊重しない。
ルリは最近そのことを特に思う。
早く流れてしまって欲しい、そう願う時にはもどかしい程に遅く、もう少しこのままで、そう思う時には恨み言のひとつも言いたくなるほど速く過ぎ去ってしまう。
もちろん時は一定のリズムを一瞬たりとも崩すことはない。
だから、時の流れは人の主観を反映しない、と言い換えてもいいだろう。
けれどもそれが真実であるかどうかは別だ。
一瞬たりとも崩さないという、その一瞬という定義すら人間が作り出したものに過ぎないのだから。
つまるところ、自然界に絶対が存在したとしても、人が人の知識で量り得るものなどたかが知れており、時の流れはその絶対に含まれるかどうかすら彼らには到底知ることはできない、ということだ。

そのことがわかったからと言って、しかし彼女が現在抱えている時間に対する悩みを解決することはできないのは当然である。
より正確に言おう。
時間が、内包するそれらの性質ゆえに彼女の抱えている懊悩をより深めている。

史上最年少の艦長として、史上最強の戦艦であるナデシコCを指揮する彼女は、自らの能力ではどうにもならないことに対して、深い苦悩を抱えている。
それは、テンカワ・アキト。
ナデシコにおいて同僚であり、その後は家族となり、それから思い出の中だけに生き、すれ違った列車の窓越しと再会した墓地で、想い人となった人間。
the prince of darkness。
2115年の月面拠点の連続襲撃、通称フラマウロ事件以来と言われる最強最悪のテロリストとして指名手配されている男。
その実は、連合治安維持部門と宇宙軍、そしてネルガルの3者間で共同監視と相互連絡の下、『サワイ・アキト』としてラピス・ラズリと2人で普通に暮らしている一般市民。

彼がそういう身分になったことは喜ばしいことなのだが、それが故に却ってこの少女の胸を締め付けるのだ。
彼が婚約者であるミスマル・ユリカと二度と会えないような凶悪犯罪者であれば、ルリが軍の任務として追いかけ、自分だけのものにできる可能性もあったろう。
それが姉代りのユリカを裏切ることになることは明白だし、本意ではないと装ってみても、もはや彼女の心を押しとどめることができないことも、彼女自身がよくわかっている。
けれどルリは、建前だけで生きていけるほど老成してはいないし、ユリカを裏切ることで自分を醜いと感じるほど幼くもない。

アドレッセンス、そう言えば聞こえはいいが。
IFSを強化していようと遺伝子操作をされていようと。
人間としての感情面での生育を早めることは不可能だし、ルリにも当然のことながらモラトリアムはやってきた、そういうことだ。

だから。

「はぁ……」
物憂げに溜息をつくことくらいしかできない。
嬉しさと苦しさの混じった複雑な吐息は、晴れた5月の空には不相応に、彼女の眼前に聳える病院には相応に、曖昧な色を含みながら風に乗っていくのだった。

「ああ、今は中庭にいらっしゃいますよ」
病室にいないユリカを案じて受付へ急いだアキトは、年配の看護婦からそっけない返事を貰ってそれでも安堵に胸を撫で下ろす。
中庭に出る通路から扉を開けて陽だまりに足を踏み出すと、緑の中にユリカを探す。
午後の柔らかい陽光が降り注ぐ。
治療によって虹彩の調節機能が人より落ちてしまったアキトは、真っ白な世界に立ち尽くしてしまう。
目を閉じて、まぶたで陽射しを受け止めながらそれでも、暗闇より遥かにいいと思っていた。

同じように何も見えない世界、けれど今は自分の目でユリカを探すことができる。
ラピスを機能の代りとして使う必要もない。
そして自分の目と手が届く範囲に、必ずユリカの姿がある。
心中でそっとイネスに感謝しながら、ゆっくりとまぶたを押し開けていく。
徐々に慣れていく視界の中で、
「ユリカ」
南よりの木陰のベンチ、腰掛けて目を閉じている。
肩口で揃えた紺色の髪を見つけて、思わず口をついて出る妻の名前。
微かに口端を和らげると、アキトは陽射しの中を歩いていく。

こうして自分の足でユリカの下へ行けることも、生きている実感を抱かせる。
少しずつ視界のユリカが大きくなっていく。
それが彼のユリカへの想いを一足ごとに大きくさせる。

小鳥の囀りと患者や見舞い客たちのさざめきの中を、彼は歩く。
そして木陰まで来ると、
「ユリカ」
優しく声をかける。
眠っていたわけではないのだろう、その声に彼女の目は直ぐに応じて開かれる。
「あ、アキト。来てくれたんだね」
嬉しそうな声を聞くと、胸の奥から込み上げてくる不思議な温かみを感じる。
隣に腰を下ろすと、
「ああ、どうだ、具合は」
「うん。もう退院してもいいと思うんだけどなー」
声にも張りがあるし、さきほどの緑と白と紺の、絵画のようなイメージは掻き消されるほど元気に言う。
「そうだな、どこからどう見ても……ぴんぴんしてるもんな。さすがはユリカだよ」
「あ、何かその言い方ひっかかる」
むくれる様子のユリカに苦笑して、
「元気でよかった、ってことさ」
ユリカも微笑むが、直ぐに真面目な顔になり心配そうにアキトを覗き込む。
「あ、ねえアキト。今日は仕事……」
「ああ、早退届は出してある、大丈夫だよ」
安心した様子を一瞬見せるが、その様子に今度はアキトが、
「それにしても、ユリカが仕事のことを気にするなんてな。ナデシコじゃあちょくちょくブリッジを抜け出してたくせに」
「う〜、ひっどーい、アキトぉ。ちゃんと私ジュン君にお願いしてから出たもん」
「押し付けた、の間違いだろ?ジュンから色々聞いてるぞ」
「うー……」
唸るユリカの頭に、ぽんと手を置いて、
「ま、それだけ元気なら安心だよ。……なんで退院できないんだ、ほんとに?」
「お父様が退院させないだけ。嫌な予感したんだ、ネルガル総合病院じゃなくて宇宙軍の病院だったってことで。もー、早くアキトとラピちゃんの家に帰りたいー」
「はは、まあ慌てなくても俺たちはもうどこにも行ったりしないよ」
「うん。……ね、アキト」
ぽふ、とアキトの肩に頭を乗せて。
ユリカの胸にはけれど、アキトの言ったこととは別の不安が静かに寄せて来ていた。

「どうした?」
怪訝な顔つきで、急に大人しくなったユリカに問いかける。
葉を揺らしていた風がふいに止み、突然の静寂に包まれる。
肩に感じるユリカの温もりと息遣いだけの世界。
反射なのか色を失ったのか、白だけが強調される庭で、アキトは黙ってユリカの言葉を待つ。

不意に音が戻る。
同時に、ユリカも普段通りの笑顔を見せていた。
「ごめん、何でもないよ、アキト」
全ての不安を一掃させるような口調で、ユリカはアキトを見上げながら言う。
アキトもまた、「そうか」と一言だけ。

そのまま2人は、風景の中へ戻っていった。

病院の正門をくぐって整備された緑の遊歩道を歩く。
街路樹を挟んで両脇には急患用のアスファルト舗装された道が走っているが、来訪者はこの石畳を歩いて正面入り口へ向かう。
この9ヶ月通い慣れた道。
快復が嬉しくて急ぎ足で枯葉の舞う中を。
元気になったユリカに何を話せばいいのか悩みながらうっすらと積もった雪を。
社会復帰したアキトの待つ病室が嬉しくて寂しくて、桜の中を。

そして今は、鬱積した想いを抱えて緑の中を歩く。

軍の官舎を出てからずっと考えていた。
いったい、2人にどんな顔をして会えばいいのだろう。
どんな話をすればいいのだろう、と。

自分が2人の傍に行ったら、今度こそこの想いを伝えようと思っていた。
ユリカとアキトを取り合う自分を想像して可笑しくなったりもした。
それが叶わぬ夢だと知っていたから、あの2人とはもう天国でしか会えないと思っていたからそうすることができた。
けれど、現実は違った。
あの頃、初めての家族を失ったあの頃に比べればなんて贅沢な悩みなんだろうと思う。
ユリカは完全に快復して、後はミスマル・コウイチロウの許可を待つだけだし、アキトの指名手配は有名無実化して市井でラピスと一緒に平和に暮らしている。
無論、彼らがそれで悪夢に魘されないのかと言えばそれは別問題だ。
今でもよく、ラピスは夜中にルリへ緊急通信を入れてくることがある。

『ルリ……アキトが苦しんでいる』
『ラピス、すぐに行きますから、それまでアキトさんの手を握っていてあげてくださいね』
『私……私は何もできない』
『ラピス……』

苦しんでいるアキトに何もしてあげられないことを、抑揚のない声で、けれどルリの耳には確かに辛そうに聞こえるラピスの声。
アキトもラピスも、苦しんでいるのだ、未だに。
社会生活を一切してこなかった彼女が頼りにできるのはイネスやエリナ、アカツキと言った以前から面倒を見てきたネルガルの面々と、そしてルリだけ。

『アキトは沢山のものを私にくれたから』

そう、ぽつりと呟いて引き取ると言ったアカツキ夫妻を断り、一生懸命にアキトに尽くそうとする姿は、それだけでアキトにとってはどれくらい援けになっているだろう。
それでも彼の悪夢は終わらない。
光のない、真っ黒な瞳を見開いて、北辰やヤマサキの名を呼びながら胸を掻き毟り、手の届くもの全てを壊しつくすまで止まらない発作。
時には罪の意識に怯え、時には憎悪の炎を燃やし。
暴れたアキトに傷つけられたのだろう、手足のどこかから血を流してそれでもアキトの手を離さないラピス。
駆けつけるルリが見るのは決まって、そんな光景だ。
ルリと同時か少し先に到着したイネスが鎮静剤を射ち、そのうち深い、夢すらも見ない眠りに落ちるアキトの姿に、幾夜涙で頬を濡らしたかわからない。

ルリとイネスが近くに引っ越したのも、それが為だった。
この半年は発作の間隔が長くなり、同時に新たな任務が下されたルリは後ろ髪を引かれる想いで官舎に戻ったが、最近のラピスにあざができていないことを確認する度に、安心する。
それはラピスのため、でもあるが、それ以上に目覚めたアキトが無意識とは言えラピスに傷を負わせてしまったことに対して激しい自己嫌悪に陥る姿を見なくて済むからだ。

そして、それは自分の助けを、アキトもラピスも必要としなくなったこと。
実際に彼らがそう思っているかどうかは彼女自身にはわからない。
少なくとも、悪夢の回数が減ったことに比例して、アキトの部屋へ行く回数が減っていることだけは確かな事実なのだから。

心のどこかで、そのことを寂しがっている自分がいる。
アキトが苦しみ、ラピスが傷つき、イネスの溜息を作るだけの、それ。
誰もが幸せになれない深淵から浮かび上がる痕を、自分だけが望んでいるのか。
そう思うと、吐き気がするほどの憎悪を自分に対して感じる。
何が電子の『妖精』なんだろうか。
それはただ無心に、一途にアキトのためだけを想って尽くしているあの少女にこそ捧げられるべき名ではないだろうか。
ユリカが目を覚ました時、一瞬でもご都合主義で記憶を失っていないかなどと考えてしまった自分が冠していいものではあるまい。

そこまで考えて、ルリの足が止まる。
目の前に口を開いた巨大な正面ロビー、その脇の街路樹の切れ目から覗いた中庭の光景に、自分が望んでいた、そして望んでいないものを見つけてしまったから。

……こんな自分は、妖精などではあり得ない……

小さく溜息をひとつ。
そして殺意を押し殺すと、ルリは蒼銀の髪を陽光に嬲らせて身を翻すと、意を決して中庭へと足を踏み入れていった。

緑の中に消えていくその姿は、傍からは誰が見ても妖精であることを疑わないだろう、そんな美しい風景のひとこまだった。

アキトの肩に頭を預けながら、ユリカは思う。

自分はこのままでいい。
色んなものを犠牲にさせてきたのだから、だからこそ、自分はどこまでも無邪気で幸せな妻を演じ続けなくてはならない。
それでもいい。
いや、それでいい。

そうしていれば、あの2年間、全てを見、全てを記憶していることを誰にも悟られずに済むだろう。
——変わらないわね、艦長——
その言葉が、主演女優賞の副賞。

そうしていれば、彼女の横で気持ちよさそうにうたた寝をしている夫、サワイ・アキトも、彼へ淡い気持ちを抱いているルリも、ユリカを救出したことにもその後こうして幸せな家庭を築いていくことにも。
——あの頃は辛かった、けれど今こうして幸せになれてよかった——
その一言で済む。

知らなかった。
遺跡に融合させられた被害者。
幸福の絶頂、新婚旅行から突然2年が経過していた。
だから、彼女はあの頃のまま。

知っていた。
全てを見、記憶していた。
屈辱の中で、2年を過ごしてきた。
だから、彼女は変わってしまった。

どちらも変わらない。
自分にとっては。
けれど、彼らにとっては大きく異なる事実、であろう。
彼らに複雑な気持ちを抱かせてはならない。
ようやく掴んだこの幸せを、逃す気はない。
どんなに言葉を重ねようと、彼女が受けてきた屈辱の2年間の記憶は誰からも理解されないだろう。
策略と力、それだけがこの世界で唯一の武器であることを、この2年間でユリカは学んだのだから、彼女がそれらを最大限活用して現在未来の自分を守ろうとすることに誰が文句を言えよう。

微かに身じろぎしたユリカに目を覚ましたのか、アキトが口を開く。

「……起きたのか、ユリカ?」
「ん……ねぇアキト」

もう誰にも邪魔はさせない。
自分の幸せは自分で掴み取る。

——ルリちゃん、あなたも自分の記憶を勝ち取ったって言ってたよね——

だから。
彼女も自力で勝ち取るのだ。

「アキトは私の王子様だよね」

彼女の夫は、瞳を不思議に深い色へ変化させて答える。

「ああ。だから安心していろ、ユリカ」