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index > fanfiction > ナデシコ > 砂の城(03)

知っていた。
知っていたのだ、自分は。

秘められた想いも隠された会話も。

知っていて、それでいて知らない風を装うしかなかった。
周りの誰が知っていようと、自分が知らないと言えばそれで済むことだから。
だから、言い続けた。

「はい。だから……安心してください、ユリカさん」

機動戦艦ナデシコ - 砂の城(結編)

季節は秋へと移ろっていく。
3人の心も、移ろいゆく。

春の風は戸惑いを乗せ、夏の太陽は彼らの心を照らし、秋の空は悲しいほどに高く。
透き通る風が躊躇いを運ぶようになってから、落ち葉が増えた。

掠れた色に染まった道を歩きながら、少女は女性へと変貌していく。
それはほんとうの悲しさを体験したから。
辛さをわかるようになったから。
人を愛することによって、自分の醜さと向き合うことができたから。
そして、ほんとうに人を愛したから。

足元で舞う輪舞に微かな痛みを覚えて立ち止まる。
ひと月前よりは低くなった空を見上げ、雑踏に埋もれる。
午後の陽射しと緩やかな風が広場を吹き抜け、結ばなくなった髪が頬を撫ぜる。
ふ、と目を向けると、坂道の少ないこの街でよく見かける、自転車に乗った少年が通り過ぎていくのが見えた。
赤い自転車に乗った少年に、いつか写真で見た彼の姿を重ねて思わず口元が微笑みを結ぶ。
それは苦い微笑み。
二度と戻れない家族の想い出。

『笑っていてくれ』
あなたが望むのなら。
『いつか忘れられる日が来るまで。その時まで辛くとも、笑っていて欲しい』
あなたが望むのなら、どんな笑顔でも。

あの頃のような張り付いた笑顔でなく。
そして、彼らを失ったことによって苦しみから抜け出ただけの笑顔でなく。

漠とした不安、寂寥感が初めての体験だったあの頃、ルリはそこから逃げるために笑っていたのかも知れない。
心の痛みを『既にあった現在』にすり替えて流れに乗せ、次々と立ち現れる『今この現在』だけに目を向けることで家族を失った事実から逃避していた。
流れに身を任せれば辛くない。
川岸に立って傍観者と化していれば、自分に降りかかった恐怖や悲痛さえも客観化できる、そう、ナデシコに居た頃のように。
何も成長していなかった。
ただ、薄っぺらな笑顔を作り出すことで自分を含めた周囲を誤魔化していただけ。

けれど、アキトとユリカが生きていたことで彼女は否応なしに川岸から流れに突き落とされた。

アキトの屋台、手伝うユリカ、ルリのチャルメラの音。
何かであろうとしたルリが、初めて飛び込んだ現実の世界と、辛い思いすら自分の記憶とすることの大切さと意味。

結婚とシャトルの爆破。
彼らとともにあろうとしたルリを、川岸へ上がらせてしまったあの日。

生きる意味と存在の価値を、人として生きる中で見つけようとしていたルリに彼らの喪失はあまりにも大きな出来事だったのだ。
残されたもののの悲しみを感じる暇もなく傍観者になってしまったルリを、今は誰が責められるだろう。
生きることは楽しいことばかりではなく。
艱難や寂寞をも包み込んで初めて、何かで「ある」自分であると、自分の生きてきた証とできるのだと、そう教えられる彼ら自身がいなくなってしまったのだから。
イネス・フレサンジュ、彼女ならばその時のルリを、もしかしたら導くことができたのかも知れないが女史もまたネルガルの配慮でこの世界からいなくなっていた。
残された彼女の数少ない知り合い、ナデシコのクルーたちでは時の奔流に押し流されそうになっている彼女を救うにはあまりにも非力だった。
現実を現実として受け止めながら同じ速さで流れていくのでなく、ただ呆然としたまま心だけをその場において押し包まれていくことがその時の彼女にとってそれほど危険で益のないことか、彼らには理解するべくもなかったのだ。

だからルリは、最も手近で容易い方法で己が心身を守るしかなかった。

今、彼女はあの頃の想いをこの身とともに。
何をも置き去りにすることなく、幸せも悲嘆も、傷ついた心を自分の想いとして一緒に連れてきている。

広場から小路を抜け、運河へ出る。
川面から海へ通る風が漣を立て、光が踊る。
石畳と花市場の向こうに、まるで運河の上から突き抜けるように見える南教会。
赴任して直ぐの頃、上ったmooiste toren。
川を渡る風が気持ちよくて、何度も吹かれに来た。
体を巡る陰鬱さを吹き飛ばしてくれるような気がして。
けれどもそんなものは自己欺瞞に過ぎず、結局こうして未だに行き場のない想いをいつまでも抱えて石畳で立ち尽くしている。
気持ちは。
自分の想いはこんなにもはっきりと形を持っているのに、今この場にあの人が居たのならもう何もいらないと思えるほど明確なのに、伝える相手がここには居ない。
いや、恐らくもう、一生会うこともない。
だからこの想いもこれから先、永遠に彼女と共にこのアムステルダムの街を彷徨うのだろう。

逃避しているだけ、それはわかっている。
けれども、彼らの傍にいられるほど無神経でも寛容でもなかった。
『逃げていても問題は解決しないわよ?』
ならばいったい、どうすればよかったと言うのか。

泣いて済むのなら、自分の涙があの人を振り向かせてくれるのならそうしただろう。
そんなことでこの痛みが消えるわけではないことは、自分が一番よくわかっていた。
だから、後方支援の要員募集があった時、彼女は迷わず応募したのだ。
宇宙軍西部ヨーロッパ支部戦略情報研究室、ここアムステルダムに置かれている西欧支部の一部署に過ぎない。
もちろん、ミスマル・コウイチロウ始め本部の上層部は慌ててルリの慰留に努めたが、彼女の決意を変えることはできなかった。
『逃げるわけ?』
彼らが最後の砦と頼んだアキトは、弱々しく微笑んだだけで、ルリの新しい門出を祝ってくれた。それは、ユリカやラピス、彼の新しい家族も同じだった。
だから宇宙軍本部としては、もはやイネスに頼るしかなかった。
『別に逃げるわけでは』
『逃げ、よ』
同じ痛みを抱えているだけに、イネスの一言はアキト達の祝福より効果があった。
同じ痛み、けれどそれすら以前のルリではわからなかったろう。
イネスがアキトの面影をいつまでも抱き、その呪縛から逃れられていないことは知っていたが、まだそういった想いを知ることで精一杯だったあの頃ならば。
今は彼女の想いが理解できる、いや、彼女より深い傷を抱えていることすらも。
『逃げていても問題は解決しないわよ』
『……わかっています。でも、どうしようもありません』
『そうかしら?』
『そうです。もし何か手があるのなら、イネスさん、あなたがそうしているはずですから』
『そうね』
ほんとうに納得しての言葉なのかどうか、その時のルリにはわからなかった。
ただ、僅かにしかめた眉から彼女の胸中を察するだけだ。
『これ以上、あの人たちの傍にいるのは無理ですから』
『結局あなたは、心を開こうとはしなかったわね』
返事はない。
いや、できなかった。
だから黙って薄く笑いを浮かべているイネスをにらみつける。
『図星を指されたからと言って、そんなににらむことはないでしょう?あなたはユリカさんに心を開いたの?ラピスには?あなたを頼ってきたあの子に対して、何かしらの遠慮とか嫉妬がなかったと言えて?』
言葉は突き刺さる。
ルリは立ち尽くしたまま、視線を逸らすことすら許されなかった。
『アキト君には?』
最後の言葉は、今度はルリの胸に重くのしかかる。
ゆらゆらと揺れる足元に眩暈を感じつつ、辛うじてルリは口を開いた。
『……イネスさんには関係ありません』
その声が異様に乾いて聞こえたのは、イネスの怒りを感じたからだろうか。
気配に当てられて、ルリは視線を外す。
だが、返ってきたのは憤りでも嘲笑でもなかった。

『そうね。なら、あなたの好きになさい』

運河から水のにおいがする。
旧世紀には水質汚濁などで問題になったらしいが、現在では澄んだ水が清々しく穏やかな佇まいでルリの顔を映し出している。
橋の上から運河を覗き込んでいたルリは、南教会の鐘を聞くと、はっとしたように面を上げる。
視線に気がついて慌てて周囲を見回すと、ふいっと顔を背ける人たちが目に入る。
陰鬱な顔つきで運河を眺めていたのだ、しかもこの橋は教会を目の前にしている。
もしかしたら、自殺者と間違われたのかも知れない。
冷や汗を掻きながら橋を渡ると、石畳を急ぎ足で過ぎる。
カツカツと秋の空に響いて水と溶け合うヒールの靴音を聞きながら、ルリは思う。

「アキトさん……私も大人になったんでしょうか」

夏、秋、冬、春。そして再び夏から秋へ。

ユリカを救い出した夏。
病院の窓から枯葉を掬い、弱気になるユリカを叱咤して共に眺めた秋。
小雪の舞う中窓から見えた、小さな足跡。
赤い手袋を外して、不思議そうに空から落ちる白い欠片を乗せるラピス。
桜の下で、短くなった髪を恥ずかしそうに抑えて笑うユリカ。
笑顔が夏の陽光に弾けるようになったラピスの声。

そのどれもがアキトを和ませ、険を取り去って行った。
少しずつ、薄皮を剥ぐようにささくれだった襞が取り除かれ、the prince of darknessからテンカワ・アキトへと変えていく。
少なくとも彼の周囲の人間はそう思っていた。

ラピス・ラズリを除いては。

彼女はリンクしていたからアキトの気持ちがわかる、そう思う人たちもいた。
だが、それは一面の事実。
リンクという技術的な面でなくとも彼女はアキトを理解し、わかってあげられただろう。
きっかけはどうあれ、彼女の幼い心に芽生えた「アキトをわかりたい」という気持ちはほんものだから。

そしてそのことを知っている、イネス・フレサンジュとアカツキ・ナガレもまた。

彼—テンカワ・アキトが本質的には何ら変わっていないことを知っている。
それは、復讐に猛っていた頃とではなく。
仮面を被ってはいても、そして冷酷な殺戮を繰り返してはいても、彼の心がその度に悲鳴を上げ、ことごとに救いを求めては思い返し、己が内に封じ込めてきたことを知っている。
そして横溢しそうな苦悩が彼を蝕み、それでも尚、ラピスにそのことを感付かせまいと更に苦しみを重ねていたことも。

彼が何のために、何を求めて戦っていたのか、今となってもそれを知る術はない。
恐らくその答えは彼自身にもない。
悪循環だった。
意味を、価値を求めて戦いに赴き、戦いの中で懊悩を重ねていく。
出口も入り口もない。
自分が何のために戦い始めたのかすら。
ただひとつわかっていたことは、「火星の後継者」達を生かしておくべきではないということだけ。
恐らく彼でなくともよかったのだ、反乱を未然に防ぐ、ということだけであったなら。
実際アカツキは、ネルガルのシークレット・サービスを動かすことも提案したが、それは初めアキトに、そして次いでラピスによって明確に拒絶された。
彼らにとって、ラピスが初めて自分の意思をはっきりと言葉に表した事件だった。

『私はアキトを……だから、ダメ』
言葉は足りなかったが、アカツキ、イネス、エリナには十分だった。
自分たちの受けた痛みを。
この苦痛は誰のものでもない、自分たちだけのものだから。
だから、その手で終わらせることを望んだのかも知れない。
痛みを受けたこの手で終わらせなければ、彼らの中では何も終わらないから。
だから、自分たちで決着をつけることを望んだのかも知れない。

傷つきながら、それでもお互いを気遣いながらユーチャリスで出撃する姿を、彼らもまた胸を痛めながら見送った。

人助けもただではない。
わかっている。
しかも秘匿しなければならない試験戦艦など、一体幾らかかっているか考えるだけで気が遠くなりそうだ。
もちろん、見返りがあることは期待している。
イネスには知的好奇心の充足を、アカツキにはその技術のフィードバックを。
当然だ。
当然だが、同時にそれが子供の照れ隠しにようなものでしかないことも、彼らは正確に理解している。
純粋に援けたいという気持ちを持つことが、「らしくない」のなら彼らは彼らでいる必要はないだろう。
人間として最も基本的で尊い感情を失ってしまってまで、大人でありたいとも思わない。
だから彼らの行為は好意であり、限りなく本心に近い。
アキトもそして恐らくラピスもそのことをわかっている。
だからこそ、自分たちのデータを無理をしてでも集め彼らに提供していたのだから。
無償の好意には好意で返すのが、人間の根本であるから。

そんなところが、やはり彼は変わっていなかった。
ただひとつだけ、大きく彼を変えたというのならば、あの極冠遺跡での戦いでアカツキの言った言葉を理解したことだろう。
『もっと色んなアニメを見るべきだったね』
そう、アキトは一義的な物の見方しかしていなかったから。
正義と悪、その時の感情しかそれらを図るものさしを持っていなかった。
木連を正しいと思ったり悪だと思ったり、世の中が、人間がそんな単純な基準で割り切れるものではないとわかっていなかった。
結果は言うまでもない。

今、アキトはそのことがよくわかっている。
あの頃の自分がいかに愚かだったか、骨身に染みているからこそ、
「彼は……彼女を許せるのかな」
アカツキは楽しげな表情で深刻な言葉を吐く。
目の前の豪奢なソファでコーヒーの馥郁たる薫を楽しんでいた白衣の女性が、少し間をおいて答える。
「さあ?でも、彼にはあの子が着いているから。問題ないんじゃないかしら?」
「そうだね。だけど、艦長がどう出るのかな。僕としては艦長に同情を禁じ得ないんだけど」
「ホシノ・ルリを許せなかったのは、私たちだって同じでしょう?年齢や環境は、人の痛みを理解できないことの免罪符ではないわ」
醒めた視線でアカツキを眺め遣りながら、彼女は冷たく言い放つ。
「だからあなたも、彼女の西欧配属をごり押ししたんじゃなくて?」
「ま、ね。彼女には一人きりになって、まずは自分の痛みを理解してもらうことから始めないといけないからね……って、彼女の再教育を提唱したのはドクターじゃなかったかい?」
遠い目をして回顧に耽っていたアカツキだったが、ふ、と思い出して慌ててイネスに言う。
「そうでもしないと、あの子はいつまで経っても人形のままだわ。西欧支部配属を自分から出しただけでも成長したけれどね」
そう言ってヴェレンシュピールの碗をソーサーに置く。
かちん、と冷えた音が広い会長室に広がる。
つい、と立ち上がると、
「私の偽装死についても、『あんた死んだんじゃなかったわけ』って言い放つような子よ。さすがの私も殺意を覚えたわ。でもね」
アカツキの脇を通り抜け、彼の背後全面に広がる窓から風景を見やる。
アカツキは手を組んで顎を乗せたまま、振り返ることはなかった。
「そうしたのも結局、私たちだったから。あんな戦闘マシーンのような感情のない子供を放置しておいた、ナデシコの責任だったからそれを思って私は許すことができたわ。代わりに自分自身に義務を負わせることでだったけれどね」
「それは僕らも同じ、でしょ、ドクター?」
「あなたはわかっていると思っていたわ」
「だから手を貸した」
彼の言葉には答えず、イネスはゆっくりと視線を眼下に落とす。
小さく蠢く人間が、黒い点にしか見えなかった。
「人間は、罪を負わずに生きていくことなどできやしないわ。問題はそれを自覚し、代償を払う自覚があるかどうか」
「今日はいつになく饒舌なんじゃない?」
軽口に、ふいと頬を緩める。
しばらくの沈黙の後、ようやく口をついて出た言葉にはけれど、心地よい響きだった。

「そう、ね。特別な日だから、かしら」

それからまた冬が来て、春、夏を通り過ぎていく。

先入観がなかったから。
そして、言葉を知らなかったから。

だから彼女は、じっとアキトを見つめていた。
だからこそ、他の人よりアキトをわかることができた。
いつも彼女の傍にいて、手を触れることのできるアキトが、彼女にとってのアキトの全てだったから、そして彼女にとってアキトは全てだったから。
依存ではなく、『ひとつ』であること。
それを他人に理解してもらうのは難しいだろう。

『ラピちゃんは、アキトのことどう思っているの?』
出会って間もない頃のユリカの台詞。
頼れる人間がアキトとイネスしかおらず、心細そうに見えたラピスを気遣っただけの単なる話題かも知れない。
だがその頃のラピスにはユリカの意図までは読めなかったし、また、今のラピスでもそれは恐らく無理だろう。
本心を隠すことは、彼女の知る誰よりも上手いユリカの心を読むことなど、ラピス以外の人間にもできることではない。
『わからない』
だからこんな返答しかできなかった。
「あなたは誰?」初めて会ったルリにそう聞かれたことはあった。同じことを問われたのならば、やはりこう答えるだろう、「私はアキトの一部」だと。
だが、ユリカが聞いてきたのはラピスという記号の識別を聞いてきたのではなく、ラピスという個人の気持ちを聞いてきた。
だから、『わからない』
誰も教えてはくれなかった。気付かせてくれなかった。
エリナもイネスもアカツキも、そしてアキトも。
ラピスという人間に気持ちがあるということを。
だからユリカの問いは彼女にとって初めてのものであり、そしてその後も事ある毎に尋ねてくるのも、決まってラピスの気持ち、考え、想い、意思だった。

『ラピちゃんは何が食べたい?』『これ、ラピちゃんはどう思う?』『悲しいの?』

根底に流れるものが違うのだと、そう気付いたのはユリカが退院してからのこと。
『ね、ラピちゃん。子猫が鳴いてるよ』
『うん』
『ラピちゃんは?』
『なに』
『寒くない?』
『寒い……と思う』
学校から帰れば必ずユリカがいた。
ラピスと一緒にいたいから、そう言って必ずラピスよりも先に帰って一緒に買い物に出かけた。
その帰り道、ユリカが退院した夏が終わり、秋もそろそろ深まろうとしていた肌寒い雨の日のことだった。
ラピスの言葉を聞いてからは、じっと優しい眼差しで見つめたまま口を開かなくなったユリカの視線を、全く気にすることなくラピスは箱で鳴いている子猫を見つめ続けた。

傘をぎゅっと握ったまま、ラピスは子猫の鳴き声を聞いている。
ユリカにはこれが最善であるという自信はなかった。
けれども、アキトが結果的に道具としてしまったラピスにどうすれば情操教育を施せるのか、など考えても仕方ないことはわかっていた。
教育の専門家でもなければ、精神科医でもない。
ましてラピスの実の母親でもない。
そんな自分がラピスにしてやれることと言えば、一緒にいて一緒に考え、泣き、笑ってあげること。
『教える』のではなく、『一緒に』。
それが正しいのかどうかは、後でわかることだ。
ただ、今は今わかること、今できることをやる。
ラピスと一緒に、自分たちも成長していくために。

『ユリカ、連れて帰ってもいい?』
ラピスの言葉に、ユリカはゆっくりと微笑んで、
『うん、じゃあ帰ったらアキトにも聞いてみようね』
『うん』
少しだけ嬉しそうに微笑んだラピスに、ユリカは今度は明るく笑う。
子猫にタオルを巻いてやり、胸に抱えたラピスの手を引きながら、
『な〜んか暗いから、明るい歌でも歌って帰ろっか』
『歌、あまり知らない』
『学校で何習った?』
『えと……思い出』
『か……変わったのね、小学校も……ユリカが6年生の頃は』
言いかけて、
『ま、いっか。どんな歌かユリカにも教えて』
『うん』
そう言って子猫を嬉しそうに見ると顔を上げ、
『Tell me the tales that to me were so dear,
  Long, long ago, long, long ago.
  Sing me the songs I delighted to hear,
  Long, long ago, long ago.
  Now you are come, all my grief is removed,
  Let me forget……』

澄んだ声で歌う、愛らしい口元を見つめ、ユリカは思う。
保健所の存在とか何とか、そんなことを今教えるのでなく。
今はただ、ラピスの想いを大切にしてあげたい、と。
そして彼女も明るい声で唱和する。

『Don't you remember the paths where we met?
  Long, long ago, long, long ago.
  Ah! then, you told me you'd never forget,
  Long, long ago, long ago……』

2人の明るい声と子猫の、さっきとは少し違った鳴き声が雨の中に消えていく。

だからラピスは思う。
ルリとユリカは根本的に異質な存在なのだと。
アキトを好きだから。
だからこそ、同じ想いを抱くユリカとルリの気持ちもわかってしまう。
イネスがそうであったように。
ただ、ユリカがアキトやラピスと共に歩んでいこうとするのに対して、ルリの目にはアキトしか映っていない。
それが嫌だった。
自分にだって、アキトを独占したい気持ちはある。
今までリンクを通じて常に一緒だったのだから、その想いは誰より強い。
けれども、それではいけないのだということはよくわかっていた。
アキトとべったりな自分を、アキトが望んでいないということを。

ユリカのいない頃、仕方なくルリを頼ったことはあった、けれども自分と同じ金色をした彼女の瞳に映るものを見る度、ラピスの胸には複雑な思いが渦巻いた。

この人はどこまでも他人を映すことがない。

きっと、どこまでも私とは分かり合えない、と。
だからラピスはこう言うのだ。

「私は、ユリカの傍にいるよ、アキト」

自分が最低な人間であることくらい、百も承知だ。
けれど、それでも日ごと夜毎に膨らんでいく気持ちはどうしようもなかった。
彼女が何も変わらなければ、こんなに苦しむことはなかったろう。
心のどこかに憎しみを抱き続けていれば、彼女のことは忘れられなかったろう、複雑な存在のままで。
愛することはなくとも。

『アキト』
休日にユリカを実家へ送ってから帰ると、待っていたのはラピスの真剣な表情だった。
『どうした、ラピス?』
尋ねるアキトの腕を無言で掴むと、ラピスはマンションの奥、ラピスの部屋へと引っ張っていく。
何が何だかわからないまま、ラピスの言うがままに机に向かうと、彼女は徐にコンソールからウィンドウを立ち上げる。
疑問符を浮かべながらも、いつもより真剣な表情に何も問えず画面を見つめる。
ユーチャリスのマークの後、表示された文字列。
『これを読めってことかい?ラピス』
無言で頷くラピス。
仕方なく文字を追い始めたアキトの表情が、怪訝そうなものから険しいものへ、そして驚いたものに変わっていく。

『ラピス、これは……』
『うん。アキトはどうしたいの?』

逃げるようにして転属してきたアムステルダムの街並み。
この街で得たものは何だったろうか。
自信はない。
ただひとつだけ解ることがあるとすれば、それは。

人の気持ちというものが、こんなにも苦しいものだったのだ、と。
ナデシコAからB、そしてCへ。
他人をわかろうとしなかった罪、その罰がこうして一人で過ごすことなのだろうか。

自分はユリカのように強い意志を持っていたか。
アキトと共にどんな苦労も厭わない決意があったか。
自分だけの気持ちを優先させて、他人の気持ちを思いやる優しさがあったか。
ラピスのように自分の気持ちでなく、アキトの気持ちをまず第一に考えることができたか。
イネスやアカツキのように、純粋に他人のために何かをしたいと思ったか。

そのどれにも、自分を当てはめることはできなかった。
居た堪れなくなって飛び出した日本。
皮肉なものだ、こうして一人になって初めて、周りの人間のことを考えられるようになったのだから。
同時に、そうして初めて、心の痛みをわかるようになったのだから。

ユリカの退院は、あの頃のルリにとっては辛い出来事でしかなくなっていた。
あんなにも強く、美しくなったユリカを見るのは、自分を醜いと感じ始めていたルリにとっては拷問以外の何者でもなかった。
総司令の条件付きで内勤だとは言っても、彼女が復帰すれば本部直属であるルリは嫌でも会うことになってしまう。
それは出来なかった。
だから、逃げた。

幾つかの小道を曲がると、運河から逸れる。
最初の頃は、小路に入るたびに違う景色を見せるこの街に驚きかつ呆れたものだったが、今ではすっかり気に入っている。
地図を見なくとも自分がどこにいるかわかって初めて、その良さに気付くのかも知れない。
街が体に馴染む。
そう言い換えることも可能なのだろう。
これもまた皮肉なことなんだろうな、とルリは思う。
以前は知識でしか理解していなかったし、そうでなければ安心しなかった。
だがこの街に来て、これほどの隘路が入り組んだアムステルダムなのに、何故か地図を買おうとは思わなかった。
非番の度に街を逍遥し、石畳と運河を楽しむ。
たまに20番の環状線トラムに乗っては見どころを物色する。
迷い込み、官舎に帰ることもできず見つけた安宿で朝を待つ自分の姿が、何となく相応しいようにも感じられて。
何の気なしに始めた散策が次第にルリをこの街に溶け込ませ、いつしか運河の音と匂いに自分の心も静まっていくのを感じていた。
すこしばかりの余裕が、彼女に過去を振り返る時間を与える。
そして思い知った自分。
嫌悪と後悔の中で沈み込みそうになる自分を引き上げてくれるのは、それもこの街の散策とその折々に思い出すアキトとの思い出だった。

楽しいことばかりではない。
アキトを思い出すたびに、自己嫌悪にもなる。
こんな自分には、こうしていつまでも一人で、寂しく生きていくのが相応しいのだとも思う。
それでも彼女にアキトを忘れることなどできそうになかった。
幾度となく繰り返す苦悩の中で、自分でそうと気付かぬうちにルリは自分を見返していった。

Handwerck、そう自分を名づけたのも。

Handwerck>私には誰もいないから。
F.D.>そうなの?
Johan>そんなに自分を卑下することもないよ
Handwerck>ありがとう。でもいいんです、私は大事な人たちを思い遣ることのできなかった人形だから
F.D.>自分をそう思っている人なら、大丈夫だよ
F.D.>きっと、あなたの大事な人もあなたに会いたいと思っている
F.D.>そう思う
Johan>うん、僕もそう思うよ

嘘じゃない。
けれど、どうして自分が本音を吐いてしまったのか。
これも自分の弱さからなのだろうか。

とつおいつ考えながら、ルリの足は再び運河へ向かう。
狭い道をゆっくりとすれ違う自転車や一人乗りのミニカーを避けながら歩くと、次第に短く鋭く鳴くオオバンの声が聞こえてくる。
水のにおいが風に運ばれてくる頃、ルリの金の双眸が、何かを捕らえる。
と、同時にゆっくりと運んでいた足が止まり、周囲の雑音も彼女の周りで時を止めた。

運河にかかる橋。
狭い石畳に並ぶ街路樹。
自転車で走りすぎる子供達。
向こうに見えるプリンセンアイランド。

ルリの散歩コース。
どれもがいつもの光景だった。

ただひとつだけ違う、非日常。
木作りの橋の上、特徴のある髪型をした人影。
運河の上流に目を馳せ、手すりに腕をついて微かに微笑みを浮かべている。

知っている。
自分は、あの人を知っている。
毎晩夢を見、叶わぬ想いに身を焦がした。
二度と会えないと、そう思っても。
いや、そう思う度に涙を流した。

逃げたい。
こんな自分を、あの人の前に晒したくない。
けれど、彼女の足はその意思と無関係にふらふらとその人影に近づいていく。

だめ。
会えない。
会いたくない。
お願い、止まって。

そう思えば思うほどに。
1年と少し。
会えなかった自分の気持ちが、伝えられなかった自分の気持ちが足を動かしていく。

もうだめだ。
自分はやはり、この人を愛している。
どうにもできぬほどに。

人影がこちらに気付いたのか、ゆっくりと振り向く。
穏やかな眼光、昔のままの微笑みを湛えた口元。
逃げられない、自分の気持ちから。
もう偽れない、それは何度も確かめた事実。

誰が何と言おうと。
あの人の傍に誰がいようと。
この気持ちは。

真実だから。

「ルリちゃん」
いつか彼女の足は止まり、黒い瞳が目の前にあった。
「髪……切ったんだね」
そこに映る自分の金の瞳には、みるみる涙が溢れ、彼に返す言葉も形を整えない。
見つめる彼の表情も霞んでいく。

「いや……」
「え?」
ルリの声に、訝かしげな返答をするアキトに、
「いや……消えないで……」
霞んでいくアキトの姿を留めようと、しがみつく。
アキトは驚くでもなく受け止め、ゆっくりと彼女の背中に手を回した。

そのまま橋の上には彼女の嗚咽が流れ。
秋の陽光が降り注ぐ中で、周囲の目を気にせず2人は抱き合っていた。

逃げ出したのは自分の方だったのかも知れない。
アキトは思う。

『ラピス、これは……』
『うん。アキトはどうしたいの?』
『……これはルリちゃん……なのか。あの子がこんなにも弱く……』
『ルリはIFSを使ってない。昔の自分の過ちの象徴だから』
『ラピス……』
『ユリカも知ってるよ。このチャット、見てたから。アキトは、どうしたいの?』
『俺は……こんなルリちゃんは見たくない』
『どうしてそんな言い方するのっ?!』
『ラピス?』
『アキトはずるい。ユリカも、私もルリも……みんなアキトが好きなのに、嘘ついてないのにっ!』
『そう、そうだよな……ごめんラピス』
『アキト』
『俺は……やっぱりルリちゃんが好きだ』
『うん、アキト』
『ラピス、ごめんな。いや……ありがとう』
『うん。……私は、ユリカの傍にいるよ、アキト』

自分は最低だ。
ユリカもラピスもルリも。
皆、等しく愛していると思っていた。

ばか、だった。
そんなことが出来るはずもない、こんな不器用な自分に。
抱えきれないものを、それとわかっていてしようとするなんて、過ちの繰り返しでしかないのだと。
そう気付くのが遅すぎた。

ユリカを愛しているのも事実。
ラピスを愛しているのも事実。
けれど、ルリを愛しているのは真実。

だから彼は言う。
涙に濡れた瞳を開き、アキトの姿をもう見失わないよう一生懸命な少女、いや女性に。
二人して逃げ出した、アムステルダムの秋の中で。