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河野貴明は女嫌いなのではない。ただ苦手なだけだ。
自分と性別の違う彼女たちにどう接していいのか、どういう口調で、どこを見ながら話したらいいのかがさっぱりわからない。
何を考えているのかなんてもちろんわかりはしないし、だから学校でも街中でも出来る限り目立たないようにしていたいと思っている。
「でもな、別に隠す必要はないと思うわけだ、俺は」
「そうは言ってもな」
「だいたい、女の子が苦手なことと彼女がいることを隠すことは全然関係ねぇだろ」
「そうなんだけどさ……なんとなく恥ずかしいだろ」
だから女好きというかメイドロボ好きという、人間どころかアンドロイドにすら苦手意識なんて欠片も持たない雄二からすると、貴明のそんな態度の方がよっぽど理解できないのだ。
「ならやっぱり関係ねぇじゃんかよ。だいたい、そこまで隠されるってのもちと可哀想だろ」
「わかってるんだけどな。だから別に、無理に隠してるってわけじゃない。単にわざわざ言う必要はないってだけで」
「ふむ。要するに貴明、お前は照れてるだけだ」
「あー……まあ、そうかも」
というわけで、女の子が苦手なことはまったく関係なかったわけだけれども、とりあえず彼にとって彼女がいるということはちょっと恥ずかしくて照れくさいことに変わりはなく。今日もなんとなく離れて歩いてしまうのだ。

環と話しながら歩いてくる幼馴染で、最近は恋人になった妹みたいな少女と。

ToHeart2 - 傘と日直

放課後は誰にとっても待ちに待った時間だろう。たとえ学校が嫌いなわけではない生徒にとっても、だから友達とゆっくり過ごせる時間になることは嫌いであるはずがない。放課後になるのが嫌だ、なんて生徒はよほど変わっているか、一般的な生徒の想像を超える勉強好きかのどちらかだ。
そんなわけで、2年の教室へ向かって早足で歩いてくる彼女、柚原このみも毎日放課後を楽しみにしている。朝の登校も一緒だけれど、同じ幼馴染の環や雄二もいる。それはそれで嫌なわけではないが、いやむしろ昔のような時間が戻ってきたようで楽しくもあるのだけれど、やっぱり恋人と2人だけで歩く通学路というのも捨てがたく。
特別演習で環が学校に残る水曜日は、ちょうど雄二も最近知り合った双子の1年生に用事があるらしく(何の用事かはこのみは知らない。ただ、翌日の木曜日に傷だらけになりながらも妙に満ち足りた表情なのが気になるけれど、環が呆れて放置しているところを見ると特別心配する必要はないと思われる)、1週間のうちで唯一貴明と2人きりで下校する特別な日なのだ。
そんな水曜日であるのに今日は折り悪しく日直になっており、昼休みにちゃんと「待っている」と貴明に言われたし、彼が先に帰ってしまうなどは考えづらいことでもあるのに、何となく不安で駆け足の寸前になってしまう。

リズミカルに階段を駆け下り、貴明のクラスの前に立つ。
中からは何も聞こえてこない。2年生の廊下に満ちている音は遠くから聞こえてくる吹奏楽部のちょっと不揃いな練習と、グラウンドで小気味よく響く陸上部の笛の音。
帰宅部連中はとっくに帰ってしまっているが、部活動はたけなわという曖昧な時間。このみにとっても、貴明かこのみのどちらかが掃除当番か日直でない限り、過ごしたことのない時間。
生徒がいると逆に物怖じせず、勢いよくドアを開けて入っていけるのだが、滅多に感じない静かな教室を前にすると却って緊張してしまう。
ふう、と大きく溜息をついて。
「タカくーん。ごめんね、待ったー?」
普段より少し小さな声で呼びかけながらドアを開けて覗き込む。
夏の気配を感じる白い光が射し込む教室には、やはり生徒は残っていなかった。ただひとり、このみを待っていて眠ってしまった貴明を除いては。
「タカくん?」
えーと、お邪魔します、とどことなく間の抜けた挨拶をしながら教室に足を踏み入れる。陽光で光る窓に目を細めながら眠る貴明の傍に行くと、起こさないようそっと隣の席の椅子を引いて腰掛けた。
そうして、白い光を背景にした貴明をしばらく眺めていたが、不意に頬を緩める。

こうしているとクラスメイトみたい。そう、このみは思った。
貴明はどうしても照れから隠してしまうようだが、雄二が言っていたようにこのみは別に自分を「可哀想」とは思っていない。貴明がそういったことを恥ずかしがるだろうということは彼の性格からいっても予測がついていたし、このみ自身も特に言いふらしたいというわけではない。
ただ、それでもいつまで経っても消えない嬉しさからかどうなのか、みんなに知ってもらいたい、自分たちは恋人同士なんだと世界中の人にわかってもらいと思うこともある。
もしかしたら独占欲なのかも知れない。
貴明が自分のものだと、誰にもわたさない自分だけの彼なのだと。
あるいはその逆だろうか。自分が彼のものであって、彼以外の誰のものにもならないのだという意思表示か。
いづれにせよ概ね現状に満足しつつも、そこはかとない不安もしくは焦燥がこのみの胸の中に残っていることは確かだった。

「ん……」
貴明と同じように机にうつ伏せ、顔だけを彼の方へ向けて眺めていたこのみの耳に、貴明の声が届く。起きたのかなと思って見つめていたが、どうやら寝言だったようで、身じろぎをしたかと思うと、そのまま眠り続けてしまった。
ちょうどいいタイミングだから起こそうか、と思ったこのみだったが、そう言えば彼の寝顔をじっくり見たことは数えるほどしかない。月に一度のお泊りの際にはこのみが先に目を覚ますこともあるけれど、朝の準備のため早々にベッドを抜け出してしまうし、朝にしても付き合い出してからは貴明に迎えに来てもらうのではなく、このみの方から彼の家を訪れるようになっているものの、その時間にはもう起きて準備を済ませている。
どうせ今日は特に行きたい場所があるわけでもない。
一緒に下校することだけは決まっているのだし、それだけでもこのみの希望は叶えられることが約束されているようなものだ。
ならばこのまま、あり得ないクラスメイト気分を味わうのもいいだろう。
「クラスメイトかあ」
ぽつり、と呟いてみる。思ったよりもいい響きだ。
彼が受験に失敗してこのみが合格しない限り、同学年になることはない。よしそれが実現したとしても大学での同級生は、中学や高校でのそれとはちょっと違う気がする。
それに何となくだが、大学では「同級生」という言葉を使わないのではないだろうか。まだ受験を自覚したことがないからよくわからないけど。今度タマお姉ちゃんに聞いてみようかと思いつつ、さきほど呟いた言葉の余韻に浸ってみる。
クラスメイト。
同級生。
うん、いい言葉だ。運命共同体とか、そこまで大袈裟なものではないけれど、幼馴染とか妹みたいなとかお隣さんとか、そういう言葉とはまた違った独特の感慨がある。
同じ教室で授業を受けて、休み時間にはちょっとお話して。
教科書の貸し借りとか宿題やったかどうかとか、定期考査の時には「さっきのあの問題、答え何になった?」とかそういう遣り取り。こればっかりは幼馴染や恋人ってだけでは感じることのできないもののような気がする。
「いいなあ。クラスメイト」
繰り返してみる。
もしそうだったら、特別に放課後を楽しみにしてなくてもいい。むしろ、同じ空間にいられなくなることで終業を恨んでしまうかも知れない。そうか、放課後を楽しみにしていない生徒って、そういう場合もあり得そうだ。
逆にきっと、朝が楽しみで仕方ないだろう。
登校して、ばったりと正門で会ってどきどきしたり。昇降口で並んで靴を出したり。廊下を歩きながら今日の授業の話をしたり、移動教室で彼を視線で追いかけてみたり。
すべてこのみにはできないことであり、それだけに考え始めると憧憬が止まらなかった。

『あ、河野くん』
今朝の正門には生徒会長も風紀委員もいなかった。一時期、遅刻の多さに業を煮やした学校側が生徒会と風紀委員を動かして5分前閉門を実施していたのだが、さすがに不評というかブーイングが多かったのでやめたらしい。
『おはよう柚原さん。早いんだね』
『そうかなー、河野くんがいつも遅いだけだよ』
『それもそうか。いや、幼馴染で寝ぼすけなやつがいてさ。そいつを待ってるといつもぎりぎりになっちゃうんだよね』
そこまで言って、貴明は大きく溜息をつく。
『そのくせ自分だけは余裕の表情だから、タチ悪いんだよなあ』

……なんか不愉快な気分になった。
ダメだ、朝の正門で出会う必要はない、きっと。
ていうか今はちゃんと起きてるもん。

このみは謎の弁明を心の中で済ませると、正門でのシーンに見切りをつけた。

『そういえばさ』
彼らは並んで靴箱の前に立つ。河野と柚原、行は遠いけれど縦に8段もある靴箱だから割と2人の位置は近かった。
『雄二のやつが言ってたんだけど、小早川が年上と付き合い始めたらしいよ』
『ええっそうなの?年上って、この間教室で言ってた人かなあ』
『ん?あいつ喋ってたんだ。俺は知らなかったんだけど、バイトで知り合った大学生みたい』
『へぇ、バイトで出会いって、ほんとにあるんだ』
ぱたん、と扉を閉めながらこのみが意外そうに話す。彼女自身はアルバイトをした経験がないから、その辺りの実情というのはよくわからない。
『仕事にもよるんだろうけどね。まあ俺もバイトなんて数えるくらいしかしたことないからよく知らないけどさ、コンビニとかだったら結構ありそうなんじゃない?』
『う〜ん、そうかあ、そうかもね。お店とかだったら結構あるのかな』
『そうかもね……ん?』
『どうしたの』
話に集中して手が止まったいた貴明が下駄箱を開けると、上靴の上に封筒が乗っていた。ひょい、と横から覗き込んだこのみに慌てて、
『あ、いや、何でもないなんでもない』
『え〜、隠されると余計に気になるでありますよ』
『いやいや、何でもないから』
ちら、と見えたそれは、実用一点張りの茶封筒とかではなく、どう見ても女の子が使うようなファンシーなもの。導き出せる結論はひとつしかなくて、
『ふぅん。ラブレター、だね』
『え、いやその……』
『嬉しそう、だね』
『いやあソンナコトハナイデスヨ?』

「むぅ〜、タカくんのばか」
ちょっと理不尽に怒ってみた。このみの想像でしかないから怒っても意味はないし、だいたい眠っている貴明にとっては濡れ衣というレベルですらないだろう。
でも、これもちょっと失敗だったようだ。正門で会ってないんだから昇降口でも会う必要はない。うん、きっとそうだ、そうに違いない。

そう結論付けて、このみの妄想は廊下でばったり、に進んでいった。

朝の廊下は騒々しい。
挨拶やどうでもいい会話、昨日のテレビのこととか今日の予定とか。半日しか経っていないのにどうしてそんなに話題があるのだろう、と思ってしまうほど生徒たちはさかんに口を動かしている。
そしてそれは彼と彼女も例外ではなく、
『今日の古文、嫌だね』
『へ?どうして』
『どうして、って……小テストだよ。月曜日に先生が言ってたでしょ』
きょとんとする貴明に教えてやる。しかも今回のは小テストと言いながら長文問題だった。文法や単語が完璧か、それとも完訳を丸暗記するかしないと厳しい。
『うえっ!やばい、すっかり忘れてた。雄二に……って、あいつがやってるわけないか。マズイ、これは非常にマズイぞ』
急におろおろしだした貴明に、思わずこのみは吹き出してしまった。
『河野くんって、真面目かと思うとそうでなかったりするよね』
『失礼な、基本は真面目だぞ。基本は』
『じゃあ、その基本から外れる例外的事態が起きてしまった、と』
貴明をからかうこのみだったが、彼の方はそれに付き合う余裕を失っていた。
『今回のって中間と合算で補習対象だったよね。うげ、しかもよりによって1限じゃん!』
頭を抱えんばかりの貴明に、さすがにそろそろかなと思って助け舟を出す。
『あはは、しょうがないなあ河野くんは。ノート、見る?』
『マジでっ完訳してあるの?お願い、貸して!』
『んー、どうしよっかな。私、ととみやのカステラが好きなんだー』
『うぐっ……せ、せめてもう少し安いので』
『アイスクリーム、トリプルで』
『だ、ダブルとか』
『う〜ん、まいっか。いいよ、じゃあ今日の帰り、ダブルね』
『りょ、了解』
『わーい、やたー』
無邪気にはしゃぐふりをしながら、このみの胸は勢いよくリズムを刻んでいた。その鼓動の原因もわかっている。顔赤いの、気づかれてないよね、そう思いながらその原因をアイスの楽しみに見せかけようとしていた。

あ、なんか凄くいい。
思わずこのみはにやけてしまった。想像なのに、なんかどきどきする。
貴明が起きていて、これを聞いたら何て言うだろう。
きっと彼のことだから、「背中がむず痒い」くらい言うのだろうけれど、このみにとってはなんだかとても新鮮で楽しかった。

『このみちゃん、次は化学室だよ。行こ』
『うん』
移動教室は好きじゃない。体育の授業前に着替えに行くのは、もともと体育が好きなこともあって嫌いではないけれど、せっかくこの前の席替えで河野くんの隣になったのに特別教室では彼と離れてしまう。特に化学では番号順に実験の班が割り当てられているので、実験卓が最も遠い。
『あれぇ、このみちゃん、なんか不満げだねぇ〜』
『えっ?そ、そんなことないよー』
『んん〜?赤くなってるよぉ。その視線の先は河野くんかなあ』
『ま、愛佳さんっ』
愛佳の指摘を待つまでもなく、このみの視線は雄二と一緒に出ようとして教室のドアに手をかけた、貴明を追っていた。

「……えへ〜」
たかが妄想のはずなのだが、このみの頬は緩みきっていた。ちなみに、愛佳の呼び方などがクラスメイト風味になっておらず現実的なのは彼女の想像力の欠如なのか、それとも細かいことは気にしない性格からか。まあ、現実にクラスメイトであってもそう変わらないような気もするが。

文化祭は一大イベントだ。数ある学校行事の中でも最も学生らしく、そして色々な期待と思惑が交錯するイベントでもある。
ただそれは、どちらかと言うとイベントそのものよりも前準備の段階での方が大きいかもしれない。
貴明とこのみもその例外ではなく、
『あ、河野くん、これから生徒会室?』
どうして許可が降りたのか——前生徒会長がどうとか噂はあったが——わからないが、とにもかくにも実施することとなった彼らのクラスの出し物、コスプレ喫茶の準備のために飾り付けられた教室で愛佳が貴明に声をかける。書類を手にした彼は黒板の前で立ち止まり、
『そうだけど。なに、小牧さん』
『あのね、ついでにお願いしたいことがあるんですけどぉ……いいですか』
『構わないけど。俺一人で行くからあまり重い荷物とかは困るな』
『や、大丈夫です大丈夫。申請はもう出してありますから、3年E組から机と椅子を2セットづつ借りてきてもらえませんか』
あっさりと言い放つ愛佳に、貴明は渋い表情を作る。幾らなんでも2セットはきついだろう、途中で階段もあるし。かと言って無碍に断る気もないので、2人ならまったく問題ないと雄二の方を振り向いた。
『おい、ゆう』
『あ、さすがにきついかも知れませんから、彼女さんが手伝ってくれますよ〜』
『へ?』『えっ?』
貴明とこのみの声が重なる。このみは採寸していた手を止めて、一瞬何を言われたのかわからないといった様子で呆と愛佳を眺めていたが、やがて慌てて、
『え、なんで、このみそんなこと言ってな』
言いかけて愛佳の表情がオヤジ仕様に変わっていることに気づく。
『図星つかれると、呼び方が「このみ」になるよねぇ。……私にまで隠してるなんて、おいちゃん悲しいなぁ』
嘘付け。
2人とも全力で突っ込む。にたにたと笑いながら『悲しい』言われても信用できるか。
『さ、さ、後は若い2人に任せて、私たちはお仕事続けましょー』
だめだこりゃ。貴明とこのみは視線を合わせると苦笑する。ばれちゃったものは仕方ない、とは言え開き直るほどの度胸もない。
クラスメイトからのからかいやら揶揄やら、様々な何かを受けながら、居心地悪げに2人は教室を後にした。

「ふわぁ……河野くん、えへへへ〜」
完全に逝ってしまっていた。とろんとした目つきで遠くを眺めるこのみ。
貴明が起きて目撃したら百年の恋も一発で覚めそうだが、幸いなことにまだ彼は目覚める様子がない。
どうやら彼女の妄想の中では色々あって、けれどそこら辺の事情は中略で、いつの間にやら付き合ってることになっているらしい。何がどうなっているのか、委細は不明だけれども。

しばらくそうして妄想を楽しんでいたこのみだったけれど、教室が急に薄暗くなってきたのに気がついた。
そういえば今朝の天気予報で、夕方から急に天候が悪化するって言っていたような気がする。そろそろ時間も時間だし。むくりと起き上がって貴明を起こそうかと手を伸ばしたところで、ぴたりと動きを止める。
きょろきょろと周囲を見回し、
「——うん、そうだ」
何かを思いついて静かに立ち上がると教室の前へ歩いていった。

「タカくん、タカくん」
ゆさゆさと軽く揺さぶられる振動がまた心地よくて、貴明は更に深い眠りに誘われ——
「タカくんってば!もう〜、てやっ!」
「のわぁっ?!」
ではなくて、眠っている貴明の背中がこのみの攻撃を誘ったようだ。突然後ろから覆いかぶされてしゃっきり目が覚める。
「うーむ……このみ、そういう攻撃はできればもうちょっと軽くやって欲しいんだけど」
うつ伏せになってこのみを背中に被せたまま顔だけ横を向き、このみを軽く睨む。
「だって。タカくんが全然起きてくれないんだもん」
ぴょん、と貴明の背中から飛び起きてくちびるを尖らせるこのみに苦笑して、ようやく周囲の様子に気がついた。
「あ、もうこんな暗くなってるのか。悪いこのみ。起こしてくれても良かったのに」
こんな時間までこのみの日直の仕事がかかったとは思えない。校庭からも声は聞こえず、遠くから吹奏楽部と合唱部の音が流れてくる程度だ。
「うん、でもタカくんの寝顔を見てるだけでも楽しかったから」
このみの言葉を聞きながら窓の外へ目を移す。暗いと思ったのはどうやら時間というよりも天候のせいのようだ。校庭から声が聞こえなくなってきたのもそのせいだろう。
「あれ、随分曇ってきたな。今日雨降るって言ってたっけ」
「うん。タカくん、天気予報見てこなかったの?」
「んー、そう言えば言ってたような。ぼんやり見てたからなあ」
この様子だと貴明は傘を持参していない。折り畳みを使わない彼のことだから、今朝の登校時に持っていなかったということで明白ではあるのだが。
「大丈夫だよ、このみが持ってきてるから。でも完全に降り出しちゃう前にかえろ、タカくん」
「そうだな、じゃ帰るか」
鞄を手にして立ち上がる。それにしても、と歩きかけてから教室を振り返り、
「結構時間経ってたんじゃないか?暇だっただろう」
「うーん、そうでもないよ。タカくんのクラスメイトになったみたいで面白かったもん」
「クラスメイトねぇ。そんな気分になっただけで面白いものなのか」
「面白いものなのでありますよ、隊長。……明日はもっと面白いかも知れないけど」
「え、何か言ったか」
「えへー。何でもないでありますよー」

2人の去った後の無人となった教室。
その黒板の右、日付と日直の文字の下には、
「河野貴明」
「柚原このみ」
が並んで書かれていた。

「ありゃ、降ってきちゃったか」
「はいタカくん」
「お、このみも用意がよくなったなあ。じゃあ借りるな」
ばさっと小気味いい音が昇降口に響く。広げた傘を左手に鞄を右手に持つ。
「このみ」
けれど、このみはその姿を見ながらぶつぶつと「えっとぉ、正面から見ると……」と呟いていたが、
「タカくん、こっち」
傘を右手に持ち替えさせ、空いた左手に巻きつく。ちょっとだけ貴明の鞄が冷たいけれども、まあこれでいい。
「このみ?」
「えへへ〜、さあ帰ろ、タカくん」

翌朝、日直の文字に気がついて微笑ましそうなというよりは、このみの妄想の中のようなにたにた笑いを浮かべて貴明を待ち構えていたのは、やっぱり愛佳だった。