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木々の緑が陽炎に揺らめいて心なしかくすんで見える。
陽射しは白く容赦なしに彼らの肌を焼き、冬の寒さが恋しいなあと思ってしまうほどの快晴がここ数日続いている。夏休みまでもうちょっと、そもそもその前に地獄の期末テストが待ち構えている。
そのこともまた、視界に映る景色を実際よりも曇らせてしまう一因なのかも知れない。

うだるような暑さの中、幼馴染たちといつものように待ち合わせて学校へ向かい、クーラーなどという文明の利器の恩恵をこれっぽちも享受できない教室で退屈な授業を受け、さすがに暑すぎて屋上から教室に場所を変えた昼休みの食事、そして放課後は登校時と同じメンバーで下校する。
そこに由真との対決が混じったり生徒会室でまのつく先輩との疲れる遣り取り(どうして卒業したはずの人が毎日のようにいるのかはもう突っ込む努力を放棄した)があったり、少しばかりのエッセンスが入り込む余地はあるものの、基本的にはさして代わり映えのしない毎日。

そんな太陽が高くなってきた今日この頃。
彼らの関係がどう変わっていたのかというと、困ったことに全く変わっていなかった。

ToHeart2 - 傘と日直〜郁乃の場合〜

「あっちぃー。今日もだるかったな。んじゃ、さっさと帰ろうぜ貴明」
わざわざ口に出さなくてもいいことを言いながら、既に帰り支度を済ませた雄二が貴明の机に寄ってくる。彼の場合は人工的なものに頼ることを嫌う姉によって、自宅に戻ったところで冷房の恩恵に預かれるわけではないのだが、それでも広い庭と池のおかげで教室よりはマシなのだろう。
声をかけられた貴明はと言えば、彼もまた帰り支度は済ませていたもののなぜか動こうとせずにじっと雄二を眺める。
「ん? なんだよ」
「いや。なんか今の雄二の言葉って、俺もお前と一緒で放課後まったく用事がないんだということを前提にしているように聞こえたんだが」
「はあ? 何言ってんだ、用事なんかねぇだろ」
呆れたように言う雄二。そりゃまあ、確かに用事などありはしない。生徒会選挙も体育祭も文化祭も、これからの行事のほとんどは秋に集中しているから夏休み前のこの時期に生徒会の仕事もないし、愛佳と少しづつ続けてきた書庫の整理も、郁乃が参加するようになってからはあっという間に終わってしまった。
それでも書庫でのお茶会はあるのだけれども、今日は愛佳が由真と帰りに寄るところがあるらしく書庫に用事もない。
用事はない。ないのだが、
「お前のその言い方が気に喰わない」
「……大丈夫か、貴明」
「そうだ、あるぞ。今日は用事があるんだ。なくってもある。きっとある、あるだろう、あるに違いない」
「ほんとに大丈夫か、お前。昼に姉貴になんか変なもん食わされたんじゃないだろうな」
自殺行為な言葉を雄二が吐くが、そういう場合必ずどこからか漏れ聞こえて断罪されるということにそろそろ気づいた方がいいような気がする。ていうか今日もきっと、昇降口でそのような感じみたいな目に合わされるに違いない。雄二は。
「というわけで俺は今日は用事がある。なのでタマ姉とこのみにもそう伝えておいてくれ」
さっきは何となく用事がないと決め付けられたことに対して、暑さで沸騰した脳みそが妙なことを口走らせただけに過ぎなかったのだが、今回は何となく嫌な予感がしたので明確に断っておく。
雄二がアイアンクローを喰らうと、なぜか高確率で貴明にもとばっちりが来たり、それがなくともどうしてそういう流れになるのか今もって謎なのだが、逆にくっつかれて困ったり、どちらにしてもさほどいい目には合わない。

「はあ。まあいいけどよ。お前も酔狂なヤツだな、こんなクソ暑い学校に残ってもロクなことないってのに」
納得はしていない、というかここまでの貴明の発言で用事があるなどと信じる人間などいないだろうが、暑さで狂った貴明に付き合うほど雄二は酔狂ではない。面倒なので放置してさっさと帰ることにする。
「姉貴たちには言っといてやる。んじゃ明日な、貴明」
「ああ、またな。あ、あと」
さっさと帰らせろ、といわんばかりの面倒そうな表情で振り向く雄二に、
「別に変なものなんて食べてないぞ。いつも通りタマ姉の弁当は最高だった」
一往言っておく。これがないと今日の昇降口でなかったとしても、いつかどこかで準雄二的な目に合わされる気がするから。ほんと、タマ姉ってどこでそういうのを耳にするんだろう。
が、まさしく雄二にとっては迷惑な戯言にしか過ぎなかったようで、返事もせず頷いただけで教室を出て行った。

「……まあ、そりゃそうだよなあ」
どうでもいいことでこんな教室に足止めされたくはないだろう、誰だって。
心の中でそう呟くと、さて、と貴明は思考を切り替える。
「どうしよう」
何となく言った言葉で妙な事態になってしまった。別に都合の悪いこともないのに嘘をついて幼馴染たちを先に返したのに、何も用事など存在しない。しかも教室は暑い。と言って他に涼しい場所などこの学校にはどこにもない。
あそこもダメ、ここもダメと学校中の普通教室や特別教室、果ては職員室や廊下に屋上まで考えてみるが徒労に終わる。面倒なのでもう少しだけ待って、雄二や環、このみたちに追いつかない程度の時間が空いたら帰ってしまうか、それでもこの教室に残っているのは暑いだけなので鞄を持って立ち上がった。
あてはないけれど、まあブラブラしていれば時間も経つだろう、そう考えて教室を出る。
「うわっ」
乾いた音をたてて開いたドアの先に、思わぬ顔を見つけて声を上げる。
向こうも驚いたらしく、声こそ出さなかったが口を半開きにしたまま大きく目を開けて貴明を見つめる。
「ど、どうしたんだよ。珍しいな」
このくそ暑いのに更に妙な汗をかいてしまった。シャツが背中に貼り付いている気持ち悪さを感じながら貴明は呼びかける。
「郁乃」

きっかけはどうでもいいことだった。いや、本人たちからすれば非常に重要な、それこそ場合によっては人生を左右するほどのことだっただろうが、とりあえず郁乃にとってみればコンビーフだと思って開けた缶の中身がシーチキンだったというくらいにどうでもよかった。例えがよくわからないが。

「いくのんいくのん」
「……続けて呼ぶのはやめてよね、このみ」
「えー、可愛くっていいと思うんだけど」
「まあいいけど」
ちょっとだけ染まってしまった頬を隠すように、ふいと横を向いて答える。相手が同じ女の子であっても直接的な表現に弱いのは郁乃らしいと言えば郁乃らしい。
「それで、なによ」
「うん、あのね、今日よっちとちゃると、新作のアイスクリーム食べに行くんだけど。いくのんも来ない?」
「あー。今日はダメね」
「えー、どうしてー」
「日直だし」
答えながら教室の前、黒板の片隅の方を指差す。
指先を追って顔を動かすこのみを、何だか間抜けだなあと感じながら眺めていると、
「あ、ほんとだ。河野くんと一緒なんだ」
「ああ、そうね……」
思わずこのみを見ながら動きが止まる。

このみの声で気づく。そう言えばこのクラスには河野という貴明と同じ苗字の男子生徒がいる。下の名前が違うのだが。
ただ、郁乃は今日が日直であることは覚えていたが、その相方が誰であるかなんてまったくもって気にしていなかった。だいいち、日直の仕事なんてそう大したものがあるわけでもない。地理や生物など資料を大量に用意しなければならない授業でも、毎回呼び出されて手伝わなければならないほどあるわけでもないし、そういう授業がなければ日誌くらいなものだ。
それにいつも「あんた」とか「貴明」と呼んでいるから、このみに「河野くん」と言われて初めて「ああ、あいつと同じ苗字だな」と気がついたくらいだ。
同じように苗字に今ひとつ慣れないだろうこのみはと言えば。
「? どうしたの、いくのん」
「このみは違和感とかないわけ?」
「なにがでありますか」
きょとん、とわからない風に首を傾げるこのみになぜか頬を染めながら「私はノーマルなのよ、そう、ノーマルなんだから」とぶつぶつ呟く郁乃。
ダメだこれは。このみのこの仕草はいずれ封印しないと、よっちやちゃるだけでなく、自分までどうにかなってしまう。あの二人はいい、あれはもう人としてどうしようもない場所へ足を完全に踏み外してしまっているから。でも自分はまだ戻れる。戻れるったら戻れる。多分。だって、男の子が好きだし……って、それはどうでもよくて。

ともかく、いずれの封印を決意しつつ、
「あれよ、あれ」
黒板を指差す。
郁乃の指を追って首を回したこのみは、黒板の左下に書かれた「河野」に目を留めるとようやく「ああ」と納得したように頷いた。
「河野くん、今日はお休みだったね」
「違っ! 私の言いたいの、それと違うっ!」
そうだ、このみはこういう子だった、とこのみにまともな返事を期待した自分の愚かさに頭痛を感じながら、何とか態勢を立て直す。
「私が言いたいのはそういうことじゃなくて……って、え? 休み?」
「うん。風邪なんだって」
ということは何か、今日の日直は一人でやれと、そういうわけか。
と言いたくなるのを辛うじて止める。放課後まで何事もなかったのだ、何を今更だろう。授業の手伝いだの何だのと仕事がなくてよかった。
とは言え、日直の仕事というのは主に放課後にあるのであって。
仕方ない、一人でやるしかないか、と諦め半分で決意を固めたところで、
「あそっか。タカくんと同じ苗字なんだね」
「ぐわー! 今更言うなっ!」
「んー? なんで」
「はあ……ま、いいわ。でも考えてみたら小牧と河野で出席番号同じだもんね。別に不思議でも何でもないわけか」
この学校では男子と女子とが、それぞれ1番から始まっている。どうしてだかは知らないけれど、いちいち先生が指名する時に「男子の何番」とか言うのは面倒に違いない。それでも変えないのはよほど教師というのは保守的なのか。

そんなどうでもいいことを考えていると、このみが急に黙り込んだ郁乃を見て何か思いついたように動き出した。
「……このみ?」
見ると、このみはすたすたと黒板の前に行くと日直の文字をじぃっと見つめている。
しばらくそのままでいたかと思うと急に振り返る。その頬はぷぅっとふくれていた。
「いくのん、ずるい」
「はぁ?」
このみはたまに訳がわからない。いや、たまにならいいんだけど、割と訳がわからない。会話がいつも唐突だ。
「何がずるいのよ」
「ずるいっていうか、羨ましいよ」
「ますます訳がわからないわね」
それなら日直を変わって欲しいものだ、郁乃は思った。教室を見渡してみても、薄情な連中はさっさと帰ってしまっているし。
「だって。こうすると……」
むくれたままのこのみが黒板に向かうと何かを書き始める。中央辺りに座っている郁乃からはこのみの体が邪魔で何をしているのかは見えないが、さほどの時間も経たずにそれが何であるのかを知ることになった。
「ほらー」
「んなっ?!」
体をずらして見せた黒板には、相合傘が描かれていた。ご丁寧に、傘の頂上にハートマークまで。しかもちゃんと赤のチョークだ。
がたん、と椅子を蹴倒して立ち上がると、恥ずかしさだか何だかわからないままに頬を赤く染めながら、
「こ、このみ、あんた一体ななな、何を」
「そんなにどもらなくても。でも、大変だよね」
「な、何がよ」
ふう、と溜息をつく。ああ、まただ。またこのみのペースですべてが進んでしまっている。さっきまでのことは何事もなかったかのように、まるで別の話題をまったく違う表情でふってくる。
いい加減慣れたとは言え、そのペースに呑み込まれてしまう自分は何なんだろう、とちょっぴり哲学的に実存とか存在とかについて思いを馳せる郁乃だった。
とりあえず、すとんと腰を下ろすと、
「日直のこと? それなら別に問題ないわよ。どうせ日直ったって、軽く掃除して日誌書いて終わりでしょ。うちのクラス、花とかも活けてないし」
姉はよく花を持っていっているが。そしてその花を一度貴明にほめられたらしく、義務でもないのにせっせと教室に花を運んでいる。
そんな姿を見るたびに郁乃としてはどこか感情がうずくのだが、それが何であるのかはよくわかっていなかった。とりあえず、姉が間接的にでも河野貴明の喜ぶことをしている、というのが気にくわないのだろう、と自分の中で結論付けてはいるが。

「うーん、それはそうなんだけど……ごめんね、手伝えなくって」
ちょっとバツ悪そうに、首をすくめながらこのみが手を合わせる。
「いいって。ほら、アイスクリーム食べに行くんでしょ。たぶん寺女はもう授業終わってるわよ、さっさと行った行った」
片手をひらひらさせながらこのみを追っ払う。
「うん。じゃあ、明日ね、いくのん」
「はいはい。またね、気をつけて帰りなさいよ」
言いながら苦笑する。自分が他人のことを気遣うなんて。
入院している間はそんな余裕もなかったし、かなり捻くれて——貴明に言わせると、退院してからはそのひねりに更にねじりが加わったとか。もちろん一発殴っておいたけど——いたから逆に気を遣ってくれる人間に刺を向けていたのに。

まあ、相手がこのみだから、というのもあるのだろうけれど。
そう思いながら、そのこのみが描いた黒板の落書きを見つめる。
「ふあっ」
何か恥ずかしくなってきて妙な声を出してしまう。
「べ、別にたかあきなんかじゃないし。みょ、苗字が同じってだけじゃないのよ」
独り言をもごもごと口の中で呟く。なんかアホみたいだった。
頭を抱えながら真っ赤な顔を誰もいない教室で隠すように、けれど熱は全然ひかず、むしろなんだか否定すれば否定するほど、ますます赤くなっていくような気がした。

納得いかない。
なんだって、姉と仲のいいあんなのと苗字が一緒なクラスメイトと日直が同じってだけで、こんな焦らなければならないのか。そう、これは焦っているだけだ。そうなのだ。
なんで焦っているかと言うと、それはその、何かこう、急がなきゃいけないことがあるのだ、きっと。
あまり思いつかないけど、とにかくさっさと済ませてしまわなければ大変なことになる、はずだ、と言えなくもない可能性を否定することもできないだろうと思われなくもない。
だから同じ日直が休みだってことでちょっと腹が立っているのだ。それがあの貴明と同じ苗字だからなおさらなわけで、つまり、要するに、言い換えれば、うんそう、むかつく。……ちょっと要約し過ぎな気もするけれど。

とりあえず落ち着け、私。
そうだ、素数を……って、よく知らないわ。
えーと、そうそう、とにかく日直の仕事よ。さっさと終わらせて帰らないと。少しでも遅くなると心配性のお姉ちゃんが煩いし。そうよ、それよ。あの姉が煩いから急がなきゃならないのよ。だから焦ってるに違いない。決して貴明のせいだとか……
「あー、もう!」
ごちゃごちゃになってきたのを、全部引っくり返す子どもみたいに声を出してがたん、と立ち上がる。色々言い訳をしているうちに何とか桜色にまで回復した顔を上げると、机の上に放置しっ放しだった学級日誌を引っつかむ。

とにかく、休んだ河野が悪い。
だから焦らなきゃならなくなった。
苗字が一緒なんだからあいつのせい。
手伝わせる。←今ここ。

謎の完結を遂げると、郁乃はようやくすっきりした表情になった。
ニヤリ、と笑みを浮かべつつ貴明に手伝わせるという郁乃的にはナイスボーt……アイデア、傍から見れば単なる八つ当たりか照れ隠し、の考えを実行せんと大股で教室のドアに向かう。

——だがしかし。
HRの終わった1年生の教室にもう誰もおらず、2年生と1年生は同じ修業時間であり、そして部活動を貴明がしていない。つまり今から2年の教室に行っても貴明は恐らく帰った後だろう、というごく当たり前な予想は、彼女の頭の中からすっぽりと抜け落ちていた。

「ど、どうしたんだよ。珍しいな、郁乃」
あれ、と郁乃は思った。

教室棟は4階建てである。3年生が1階、そして2階を2年生のA組・B組と共有し、3階は2年生の残りのクラスと1年のA組、それ以外の1年生は4階になる。
郁乃とこのみのクラスはその最上階の4階にあり、だからこそ復学後すぐの車椅子通学時にはだいぶ苦労をしたのだったが、そこから貴明のいる2年B組までは2階分がある。西階段が近かったからそこから降りてきている間に冷静になってしまい、どう考えても貴明はおろか部活動や委員会活動以外の2年生は誰も教室に残っていないだろうと思い当たったのだ。
かと言ってこのまま何もせずに階段を上がって教室に戻るのも癪だし、気分転換代わりに覗いてみようかと扉を開いたところにお目当ての貴明が立っていた。

「び、びっくりするじゃないのよ」
「いや、それはこっちの台詞だから。何しに来たんだ、小牧ならもういないぞ」
す、と体を横にずらして郁乃から教室が見えるようにしてやる。貴明の言葉と郁乃の予想通り、教室には誰も残っておらず、西に落ちるにはまだまだありそうな太陽の光が射し込んでいるだけだった。
「知ってるわよそんなこと。由真さんと買い物でしょ」
「あ、そうなのか」
「あんたこそ、何でこんな時間まで残ってるのよ」
「あー、うん。いやその、なんだ。特に何かがあるような、ないような」
どうにも歯切れが悪い。唐突に郁乃が現れてびっくりしたというのもあるが、そもそも放課後に残っている用事が先ほどの雄二とのやりとりの結果なのだから、正直に言うのも決まり悪い。
「ふぅん、ま、いいわ。ちょうど良かったから」
はっきりしない貴明をほっぽりだして、ちょっとどいて、と郁乃はずんずん教室の中に入っていった。

何のつもりなのか、と眺めている貴明を余所に彼の席に座ると、持参した学級日誌を広げる。呆然と眺めるだけの貴明に目線を投げると、
「ほら、早く来なさいよ。で、ちゃっちゃと筆記用具出す」
「はあ。……っておいおい、何なんだよお前は」
言いながらも自分の席に向かう。が、ふと気がついた。
「郁乃、何でその席に座ってるんだ」
「はあ? 何で、って。ここがあんたの席でしょうが。さすがに私も上級生の机を勝手に使うほどずうずうしくないわよ」
俺も上級生なんですけど。何かの嫌がらせでしょうか郁乃さン? ていうか別にお姉ちゃんをとっちゃったわけでもないのに、このナチュラルな敵愾心は何なんでしょうか。
貴明がそう思ったかどうかわからないが、とにかく彼としては言えることはこれだけだった。
「いや、何でお前が俺の席を知ってるんだ、ってことなんだけど。このみと違ってこのクラスに来たことあるわけでもないだろうが」
何の気なしに、というか純粋に疑問に思ったから聞いただけだったのだが、郁乃にはクリティカルだったようだ。
音がするんじゃないか、と思うほどに急激に赤くなったかと思うと、

「う、うるさいわね、バカ貴明! いいからさっさと座りなさいよ!」
……逆ギレされた。

「で。俺の貴重なアフタースクールのフリィィィィダムなアワーをロストしてくれて、何をしろと」
「……いきなり喧嘩腰ね。いいわよ、買ってあげるから」
「いやいやいや、んなことはどうでもよくて。とにかく……何だ、学級日誌を手伝えばいいのか」
「そ、そうよ」
「それは別にかまわないけど。だけどお前」
「何よ」
「手伝ってもらいに来た割には、筆記用具も持たないってのはどうなのよ」
「……いいじゃない。貴明が持ってると思ったんだもの」
「入ってきた時、俺がいたことに驚いてなかったか」
「うるさい。ESPとかプレコグニションとか、何かそういったアレな能力が目覚めたのよ」
「……ソウデスカ」
「可哀想な子を見る目つきをするなぁっ!」
とまあ、そんなこんな遣り取りをひとしきり。
鈍感な貴明にしては、郁乃が自分を名前で呼んでいることに気づいていたが、言葉は強気で攻撃的なのに口調はどこかしおらしい感じがしたので黙っていた。

「ま、いい。それで。学級日誌なんて適当に書けばいいだろ。手伝ってもらうほどのものじゃないと思うけど」
ごく自然な疑問。
日付と日直名、欠席者・遅刻者・早退者、それに各時限の教科とその概略を書けばいいだけだ。貴明とて何度かやっているが、そうそう時間のかかるものではない。
けれど、郁乃の返答もまた、彼女にとってはごく自然なものだった。
「だって私、やったことないもの」
僻みも何もない。ただ当たり前のことを当たり前のように言っただけ。
それだけに彼女の過去を知っている彼には、自責の念を起こさせるに充分だった。
「そっか。じゃ、まあ書いてみるか」
けれども、だからと言って謝ったりはしない。それが郁乃の逆鱗に触れることをよくわかっているし、それであるならば次から気をつければいいだけだ。「言わないようにする」ではなく、「郁乃のことを考える」ことによって。
そういう心の置き所を郁乃もまたよくわかっていたし、だからこそ上級生下級生問わず男と見れば噛み付くかそっけないかの態度しか採らない彼女が、こうして貴明の元にやってくるのだろう。

もちろん郁乃自身が、そう自覚しているかどうかは別として。

「まず日付と日直。それから出欠状況な」
「うん」
貴明の席に郁乃が座っているため、彼は隣の愛佳の席を借用して郁乃の、というか自分の席の横につける。何だか不思議な感覚だ。
さらさらと書いていく郁乃の、姉に比べると多少先鋭化されてその分達筆に見える文字を追っていた貴明が気づく。
「ん? 幾ら手伝ってるって言っても、俺の名前を書くのはマズイだろ」
「ああ、私のクラスにも河野ってバカがいるのよ」
「一言余計だろ。まいいや。で後は今日の授業の概要」
「うん」
まずは1限から順に教科を書いていく。
さて、概要をというところで郁乃の手が止まった。
「どうした」
「概要って、何を書けばいいのよ」
顔を上げて貴明に目を向ける。尋ねているのに強気な視線が彼には奇妙におかしかった。
「そうだなあ。1限は現代文か。何やったんだ、小説か、評論か?」
「今日は小説。志賀直哉の『濠端の住まい』通読やったわ」
「じゃあ、そう書いとけば」
あっさりと言う貴明に、少しだけ不安げな表情を向ける。
「こんなに欄があるのに?」
「いいんだよ、そんなもんで。ほら、昨日のとかも一行程度だろ」
手を伸ばして前日、前々日の日誌を開く。どちらも良く言えばあっさり、悪く言えば適当に書かれていた。前日の4限など、「じっけん」とひらがなだ。どこの小学生か。
さすがにこれには担任から赤字で「書き直し」とあり、「ブタンの分子量を計測する実験」と書き直されていた。
貴明の言葉に、「ふぅん」と頷きながら記入する郁乃だったが、
「ねぇ、現代文って無意味じゃない」
「何を突然」
「だってさ、評論ならまだわかるけど、小説なんて無理に読ませてどうしようってのよ。あんなの、読んでみて面白かったか面白くなかったかのどっちかじゃない」
「まあ、そうな」
「そんな主観的なものをいちいち、主人公の気持ちになってだとかその場面を想像しながらとか。バッカじゃないの」
記入しながら憤慨する。それでも律儀にきちんと内容を記入している郁乃が面白い。
そう思いながら貴明も、まあな、と同意する。
「登場人物に感情移入できなきゃ、そりゃ面白くないってだけだしな。場面を想像するのも、教わるまでもなく、面白いと思えば自然に想像できてるし、面白くなきゃ想像しようったって無理だし」
「そもそも最初の方だけ読んで面白くなかったら、続きなんて読まないじゃない。場面を想像するかどうか以前よね」
「言ってることはもっともだ。だが俺たちは所詮は学生。大学入試には現代文も出てくる、と」
「それがムカつくのよね。古典は面白いから好きなんだけど」
「郁乃は文系か」
思いついて尋ねる。このみは完全に理系のようだが、環はオールマイティだからどうなるのかよくわからない。雄二は向坂家の跡取りである以上、大学どころか学部まで指定されているから社会科学系というのは1年の時から知っていた。
「貴明は」
「俺は、どうかなあ。数学が得意じゃないから、国立とか理系とかって選択肢はないな」
「ふーん。その様子じゃ学部とかもなぁんにも考えてないわね」
「う、うるさいな」
図星を指されてちょっとうろたえる。
どうなのだろうか、今からそこら辺まで考えておかなければならないものなのかどうか。

「それはそれとして。次だ次」
誤魔化した。もちろん郁乃にもわかってはいたが、まあこいつならそんな程度よね、と割り切って次の時間に移る。
「えーと、次は数学IA、と。二次関数のグラフ……だけでいいのかしら」
「いいんじゃないか。他に書きようがないだろ」
「うん、じゃ次。世界史」
カリカリと書いた文字を見て、
「あれ? 1年の期末ってそんな範囲だったか」
呆れた顔を郁乃が見せる。そんなことも忘れたわけ、と言いたげだった。
「あー、うん、そんな感じだったような気がしないでもない」
いきなりヘタれる貴明。ぶっちゃけまるで覚えていなかった。
「しょうがないとは思うわよ、これについては。いきなり近代やられても、歴史的背景がわかってなければ興味の持ちようがないもの」
「おお……郁乃がなんか優しげだ」
「コロスわよ」
せっかく理解したような言葉をかけてやったのにこいつときたら。
ひと睨みで貴明の首を竦ませると続きを書く。世界史は「近代の動乱」だった。
「だいたい、民族や国家の間に関わる紛争なんて、その民族が背負ってきたものがわからなければどうやって理解しろってのよ」
「一理も二理もあるな。いきなり列強各国が中国を侵略しました、って言われてもな」
「そうよ。それだけでシリーズものが書けるくらいの分量がある歴史を、たったの数行で終わらされても納得できないじゃない」
郁乃の力説に、なんでこいつはこんなに力入ってるんだろう、と思いながら貴明はふむ、とひとつ頷いた。
「つまり、いらん教科を省いて興味を持てるようなカリキュラムを組め、と。1年で世界史Aなんて、やるだけ無駄だしな」
「最初から民族的特徴とか地政学的なことを含めて歴史を教えればいいのよ。3年間全部使ったっていいじゃないの」
「そりゃそうだ。他の教科をやる余裕がなくなるという欠点があるけどな」
「そうかしら」
「そうだろ。あー、そうか。音楽とか美術とか、いらないな」
「でしょ」
ひとまず決着がついたところで、2人、目を合わせてうんと頷く。珍しくも郁乃と貴明が共調した瞬間だった。

「で、4限目は何だ」
「体育よ。今日は……体育館でバレーボール、と」
「ほう。ナイスブルマ」
小さく呟いたつもりだったのだが、がたん、と大きな音がした。
見ると、郁乃が椅子を引いて思い切り貴明から離れている。
「ちょ、違、いやこれはだな、雄二がよく言うもんだからついだな」
「……ヘンタイ」
焦る貴明に、じとっとした視線を流して、冷たく言い放つ郁乃だった。

「ん〜」
何とかかんとか書き終わった日誌をパタンと閉じて、郁乃が伸びをする。
何だか楽しかった。日直なんて面倒なだけなんじゃないか、そう思っていたのだけれども意外。
部活にも入っていないしバイトをするわけでもない放課後。吹奏楽部の、時折調子はずれの音と運動部の声。たまに入る校内放送は、先生の呼び出し。
教室が暑いのが難点だけど、こういう時間を過ごすのも悪くないかも。

女子だけなら18名、およそ1ヶ月とちょっとの間に1回の放課後。
経験がないから楽しいだけで、これが常態化してしまうと面倒で嫌なものになっちゃうのかも知れないけれども、今日のところは素直に楽しかった。
ああ、でも次からは河野が休んでくれないと貴明と一緒にはできないか。
って、私、なに考えてんのよ。今日のは特別、たまたま、別にこいつと一緒にやったから楽しかったって訳じゃなくて……。

内心で焦りつつ表面には出さないまま、貴明の様子を覗う。
彼も郁乃に釣られたのか、大きく伸びをすると首をまわしてコキコキとさせていた。
視線を手元に戻し、日誌の横に転がっている、貴明から借りたシャーペンを見つめる。
これは貴明のもので。学校にいる限り使われるもので。いや、もしかしたら自宅でも宿題なんかで使っているのかも知れない。どこにでもある、何の変哲もない安いシャーペン。軸にあるメーカー名はかすれて読めなくなってしまっているし、先端部分にも結構傷がついている。

—— なんだかなあ。

放課後の学校。一緒の日直。
雰囲気がそうさせるだけなのかも知れないけれど、確かに楽しかった。まるで一緒のクラスになったみたいな気分で。
いつもは顔つき合わせては悪態ばかりな関係だけど、楽しかった。
それだけは認めてもいいかも。

郁乃がそんなことを考えていると、
「ようやく終わったな。けど……」
「ん。なによ」
今の今まで考えていたこともあり、何となく身構える。けれども貴明の口から出たのは、単に彼が最初に感じた疑問を、ただ思い出したかのように言った言葉だった。
「なんでわざわざこのクラスにまで来たんだ? 日誌に何を書けばいいかだなんて、このみにでも聞けば教えてくれただろうに」
「ふぇっ?! そ、それは……」
咄嗟には出てこない。妙な感慨に耽るんじゃなかったー、と後悔しても遅い。
だいたい、「河野が休みで、そいつが日直だったんだからあんたが代わりにやるのが当然」だなんて、さすがの郁乃でもちょっと強引すぎるってことくらい、わかっている。
貴明のことを「先輩」だなんて呼んだことはないし、そもそも先輩後輩の関係である以前に人としてどうよ、って内容だ。苗字が同じだけで代理をさせられるのだとしたら、鈴木とか佐藤とか山口とか、どんだけ大変なんだ。

と、いうよりも。
素っ頓狂な声を上げてしまった以上、どうでもいい理由なんてつけられない。何かある、と思われても仕方ない。となると。
「う、うるさいわね! それじゃ、私日誌出して帰るからっ」

呆然とする貴明を残し、教室を脱出するほかに手はなかった。
なんだかまたしても逆ギレっぽいけれど。

「おーい、郁乃さン。俺のシャーペンまで持ってかれると困るんですけど〜……って、もういないし」

大急ぎで職員室へ日誌を提出しに行き、教室に置き放しだった鞄を手に昇降口へ向かう。
最後がアレだったけれど、まあ今日は割といい一日だった。
郁乃にしては珍しい、上機嫌な表情で階段を降りて行く。さっき廊下の窓から見えた空がだいぶ暗くなってきているから、このままさっさと帰ってしまおう。

階段を降りきると、購買の前を通って教室棟と管理棟の間にある昇降口に向かう。教室棟側から3年、2年、1年の順で管理棟側へ並んでいる。
自分のクラスの下駄箱へ向かおうとしていた郁乃が真ん中まで来た辺りで、声がかかった。
「郁乃」
何かと振り返った郁乃の目に、2年生の下駄箱前でよっと手を上げる貴明が映る。
「……まだ帰ってなかったの」
「そりゃまあ。どっちかというと郁乃が早かっただけだと思うぞ。まあ俺ものんびり来たけどさ」
苦笑しながら、それに、と続ける。
「それに?」
郁乃の質問には答えず、貴明は左手の親指で肩越しに背後を示した。
「? なによ」
じっと目を細める。視力が回復したとは言っても、3クラス分の下駄箱が一列になった昇降口の奥行きは結構あるし、さっき廊下で見た時よりも薄暗くなった外はよく見えない。

それでもよく見てみると、
「……雨?」
「そう、雨。どうせ郁乃は傘、持って来てないだろうと思ってさ」
待ってた、と。
「その言い方が気に喰わない」
どっかで聞いたようなことを口にしながらも、否定しない郁乃に貴明はつい笑ってしまった。
「なによ」
「いや悪い。んじゃま、帰るか。ほら、早く靴はきかえて来いよ」
むう、とむくれながらも郁乃に否やはなかった。傘、持って来てなかったし。
自分の下駄箱に向かいながら、こんなことなら朝お姉ちゃんが言ってた通り傘持ってくれば良かった。貴明と一緒に帰るだなんて、誰かに見つかったら何言われるかわかったもんじゃないし。
と、ぶつくさ心中で呟く。

ローファーに履き替えて昇降口に向かうと貴明が待っていた。
手には大きめの黒い傘。郁乃の姿を認めて、一歩踏み出しながら傘を開く。
バサっと小気味良い音がする。彼の隣に向かいながら、なぜか急に激しくなり始めた鼓動を鎮めようと大きく深呼吸。
夏と、雨の匂いがした。
「じゃ、行くか」
「……ん」
2人揃って小雨の中に踏み出す。
郁乃に合わせてゆっくりとした調子で歩く貴明の隣で、相変わらず収まらないどきどきに郁乃は混乱していた。
—— 何よこれ。アレじゃない、ほら、あの、例の、よくある、それよ。
そう言えば。これはあれだ、このみが黒板に描いてた。そう、ちょうどこんな風に貴明が右で私が左で……って、貴明じゃないってば。河野、あくまでも河野よ、河野。別人よ。苗字が一緒だから何だってのよ。

その、苗字が一緒というだけで強引に手伝わせた過去は既に彼女の中で、遥か彼方に追いやられていた。

「ねぇ」
「ん? どうした」
「なんで待っててくれたわけ」
郁乃の疑問に、貴明は何を聞かれているのかわからないといった顔をした。
うーん、と郁乃の意図を測りかねたような時間を置いて、
「雨が降ってたから」
「……はぁ。じゃあ、私が傘を持ってたらどうするつもりだったの」
「ああっ!」
今気づいた、と貴明は苦笑い。
「ま、その時は家まで送っていくってことで」
「2人で? 傘さして?」
「おかしいか」
「おかしいわよ。だって」
「だって?」
貴明は歩きで、私はバスだから。
そんな当たり前な言葉が出るかと思っていたし、もちろんそれならそれで多少の遠回りになるけれども貴明もバスに乗って、そして家まで送ればいい。郁乃の家からはちょっとかかっても自宅まで歩けない距離ではないし。
けれども、郁乃の口から出たのはまったく違う言葉だった。

「だって、私たち……こ、恋人でも何でもないし」
「え」
「いやだから、そうじゃない、ってことよ。べ、別に他意はないんだからねっ」
「ああ、いや、うん、そうだな」
いつもと違う郁乃の態度に面喰らったのか、どぎまぎしながら何とか答える。
郁乃の方をちらっと見ると、ぷいっと横を向いてしまっている。
—— こいつも可愛いとこ、あるんだな。
口に出していたら制裁を受けそうなことを考える。態度だけ見ていると怒っているように見えるが、頭ふたつ高い貴明の位置からは結わえた髪から見える耳たぶが赤くなっているのがわかったから。

そしてきっと、自分も赤くなっているに違いない。
人通りが少なくてよかった、と貴明は思った。雨のせいか時間のせいか、バス停までの道に人影はない。左側の歩道を歩く彼らの後ろから、時折追い抜いていく車が少しあるだけだ。誰か知ってる生徒が歩いていたら、多分彼は傘を深めにさして顔を隠していただろう。自覚はあるのだし。
けれど。
もう一度、郁乃に視線を向ける。

—— まあ、いいか。

自分たちのこれからがどうなるか、わからないけれど。
夏は、これからなのだから。

翌朝、このみが描いた日直への落書きを消さなかったことに気がついて、慌てて登校した郁乃を待ち構えていたのは、クラスメイトたちのにやにや笑いだった。間違いなく、よく郁乃と一緒にいる上級生がクラスメイトの「河野」と一緒の苗字であることを知っているうえでの笑い。
……このみ自身が、いつも通りそんな郁乃を見ながら邪気のない顔で「えへ〜」と笑っていたのが、ちょっと納得いかない郁乃だった。

そしてちなみに。

家で宿題をしている際、貴明からもらった(←意訳)シャープペンを大事そうに使っている郁乃を見て、姉である愛佳が指をくわえて物欲しそうな目つきをしてきたのも、とりあえず今の郁乃にとっては貴明に言えない秘密だ。