fanfiction > ToHeart2 > 早起き大作戦
「あら、タカ君おはよう。ごめんね、ちょっと待っててくれるかしら」
「おはようございます。まあ、いつものことですから」
朝のルーチンワーク。
起きて顔を洗い、制服に着替え食事をして歯を磨き、靴を履いて鍵をかけたらいつもの場所へ隠しておく。自分で持ち歩いてもいいのだが、何となく習慣でつい。その習慣のおかげで、いや、習慣のせいでタマ姉の襲撃を喰らったことを忘れているわけではないのだけれど。
そのまま柚原家のチャイムを鳴らし、出てくるのは一緒に登校するこのみ……ではなく、その母親の春夏。
うんざりするほど繰り返された、それこそ貴明が一足先に高校へ入学し、このみと別の学校に通うようになった去年だって繰り返してきた日常は、ここで終りなのではなく。
「お母さん、なんで起こしてくれなかったのっ!」
二階から聞こえてくる幼馴染の声。続いて、
「何回も起こしたでしょ、もういい加減にしなさい!」
春夏の叱咤する声に重なるように、どたばたと足音がし、それはそのまま階段を駆け下りて近づいてくる。
「お、おはよタカくん。えへ〜」
「えへ〜、じゃないだろ。まったく、先に行くぞ」
「あー、待って、待ってよ!すぐに用意するからぁ!」
再びどたどたと慌しく去っていくこのみのパジャマ姿を見ながら溜息をつく。高校生になってもこれでは、色気もへったくれもない。タマ姉みたいになりたい、という割には何の努力もしていないように思えるんだけどなあ、と考えていると顔を出した春夏が、
「はぁ。まったくあの子は……ほんとにごめんね、タカ君。あのお寝坊、何とかならないものかしらねぇ」
「あー、何というか、それは親であるところの春夏さんの教育次第のような気がするんですが」
「わかってるんだけどね。私も努力はしてみたのよ、わざと起こさないで遅刻させたり」
「ああ、ありましたね。結局3日続いて」
ぼんやりと思い出してみる。
去年の秋頃、業を煮やした春夏がそんなことをしてみたのだが、貴明の言った通り3日間それが続いた結果、
「担任の先生から呼び出しをくらって、私が大恥かいただけで終わったのよねぇ……」
うんざりとした様子で春夏も溜息をつく。そりゃ恥ずかしかったことだろう。このみはケロッとしていたらしいが。
「本人がそれじゃあ、もうどうしようもないんじゃないですか?大人になったらそのうち治るかも知れませんし」
「タカ君は本気でそう思ってる?」
「……すいません思えません」
「そうよねぇ」
今度は2人揃って溜息。
そんな会話の最中も、階上からの大騒ぎは止まらず、今日もこのみはパンを加えながら走るというどこかの少女漫画みたいなことになりそうだ。
貴明自身は、ゆっくり歩いても十分間に合うような時間に起きて準備を済ませている。なのにどうして俺はいつも走って待ち合わせ場所に行く羽目になるのだろう、と二階の喧騒の向こうに広がる青空を見上げながら、彼はちょっとだけ理不尽な現状を嘆いてみた。
今日もいい天気になりそうだ。
なのに、やけに青空が目にしみた。
ToHeart2 - 早起き大作戦
「はぁっ、はぁっ、た、タマ姉、雄二。ごめっ、おそ、はぁっ、遅くなった」
「おはよう、タマお姉ちゃん、ユウくん」
理不尽だ。あまりに理不尽すぎる。
貴明は息を切らせ、まだ5月だというのに制服の下は既に汗だく。なのにこのみはまったく息も切らさず普通に挨拶をしている。
「どう、してっ俺が、こんな目に」
息も絶え絶えに嘆く貴明を憐れむような目つきで雄二が返す。
「チビ助担当になっちまってることを恨むんだな。とは言え、俺も毎朝姉貴の嬉しくもねぇ起こされ方でうんざりなんだけどよ」
「あら雄二、いいのよ別に起こさなくても。もちろん、その結果あなたがどうなろうと知ったことではないけれど。さぞ内申に響くでしょうねぇ」
「ぐっ」
雄二をあっさり黙らせた環は、そのまま歩き出しながら横に並んだこのみに、
「このみも高校生なんだから、そろそろちゃんと起きるようになさい。いつまでもタカ坊におんぶに抱っこではいけないわよ」
「うー、努力はしてるもん」
「嘘つけ。なら聞いてやる。今日の寝坊の原因はなんだ」
このみの言い訳に、聞き捨てならないとばかりに最大にして唯一の被害者である貴明が口を挟む。
それを聞いたこのみは、振り向いて後ろ歩きに歩きながら本日の理由を並べ始めた。
「えっとぉ、目覚ましをセット」
「し忘れた、ってのは毎日聞いてる」
「あの、目覚ましが壊れ」
「ちゃんと鳴ってたって春夏さんが言ってたぞ」
「そ……そうそう、あのね、ちゃんと起きたんだけど用意を」
「してたんなら、パジャマのまま出てくるわけないよな」
このみと貴明の遣り取りを聞いていた環が、大きく溜息をつく。雄二はニヤニヤと楽しげだ。このみがどこまで頑張れるのか見ものだとでも思っているのだろう。
「このみ」
「なぁに、タマお姉ちゃん」
やれやれ、とこめかみを揉みながら環は宣告する。
「明日からタカ坊が来る前に起きなさい。タカ坊が迎えに来る時に準備が済んでるようにとまでは言わないから、せめて走ってくることがないくらいの時間には起きてなきゃダメよ」
「ええええ〜っ酷いよ、タマお姉ちゃん」
「守れなかった場合、その日はタカ坊との下校は禁止するから」
「えーーーーっ!嫌だよ、そんなの!」
当然のことながら反発するこのみ。貴明と雄二は意外そうな表情で口を挟んだ。
「へぇ。タマ姉がこのみに厳しくするのって、初めて見たな」
「ああ、俺はてっきり、貴明にもっと早く起こしてやれって言うのかと思ってたぜ」
「私は無闇に甘くしているわけでも、理由もなく厳しくしているわけでもないわよ。このみ、ごにょごにょ(その代わり起きられたらタカ坊とのデート権をあげるから)」
歩いたままちら、と振り向いて2人に前半を言うと、そのまま後半は小声でこのみに耳打ちする。
「え……うん、わかった。このみ、頑張るよ」
「ん?」
「ほう?姉貴、いったい何を言ったんだ」
途中までは納得いかなげだったこのみが、ガッツポーズまでして俄然やる気を出す。突然の変化に驚いた雄二が、何を言ったのか尋ねたけれど、環は「タカ坊には内緒。雄二はわかるでしょう」と言っただけで答えてはくれなかった。
「なるほど、ね」
それだけで理解した雄二は、意味ありげな目線を貴明に向ける。一人蚊帳の外状態となった貴明は、今朝の初っ端から感じた理不尽さをここでも味わうことになった。
「ちょ、おい何だよ雄二。わかったのか」
「まあな。でも確かに貴明には言えねぇなあ……憐れすぎて」
「タマ姉、ちょっと何を言ったんだよ」
「言えないわね」
「このみっ」
「秘密でありますよー」
……激しく理不尽だった。
もちろん、貴明自身の鈍感さのせいなので自業自得でもあるのだけれど。
「ねぇ、いくのん、いくのん」
「何だか続けて言われるのって嫌な感じね。何よ、このみ」
「あのね、貸して欲しいものがあるんだ」
「モノによるけど。何が欲しいのよ」
「あのね……」
翌朝。
起きて顔を洗い、制服に着替え食事をして歯を磨き、靴を履いて鍵をかけたらいつもの場所へ隠しておく。自分で持ち歩いてもいいのだが、何となく習慣でつい。その習慣のおかげで、いや、習慣のせいでタマ姉の襲撃を喰らったことを忘れているわけではないのだけれど。
そのまま柚原家のチャイムを鳴らし、
「うわぁっ?!なんだ、なんだっ!」
鳴らそうとしたところで大音量が近所に響き渡る。近くの家のガラス窓が震えるのではないかと思うほどの音に、さすがのゲンジ丸も跳ね起きる。向こうで犬も吠え出してるし。
「ちょ、ちょっと春夏さんっ!どうしたんですかーっ!」
チャイムも鳴らさずにドアを開けると中に向かって怒鳴る。
その声が終わるか終わらないかのうちに、ぱかんっともの凄い音が鳴り響き、次第に音が小さくなっていく。いや、小さくなっていくというよりは少なくなっていった。
と、するとこの音の発生源は……
「いたいっ!お母さん酷いよぉ」
「煩いこのバカ娘っ!」
さっきの音にも驚いたが、貴明はここまで声を荒げる春夏にもっと驚いた。まあ、二階の2人がどんな状態なのかはだいたい想像がつくのだけれど。
しばらくしていつものように春夏が降りてくる。手にはお玉を持っているが、恐らくそれがさっきの「ぱかん」の発生源だろう。その前の音の原因はもう分かりきっている。
「……目覚まし、かけすぎですか」
「ええ。誰から借りたのか知らないけど、40個もかけてたわ」
いったい全体、どうやってそんなばかげた数をかき集めたのか。「だお〜」が口癖のけろぴーマニアに借りたとでも言うのだろうか。
それも疑問だがそれよりもっと疑問、というかあまり知りたくないことではあるけれど……春夏の表情から推察するに、ただ目覚ましをかけすぎたから叱ったということではなさそうだ。いやもう、ほんとに知りたくはないのだが、なんか聞いとかないと春夏の怒りの吐き出し口がなさそうというかなんというか。
「もしかして。あの音でも」
「……ええ、寝てたわ」
げっそりしながら答える春夏。うわ、こんな春夏さん初めて見たよ、と思いつつとりあえず貴明は謝罪を口にした。
「すいません、昨日かくかくしかじかで。だからこのみは頑張ろうとしたんじゃないか、と。昨日のうちに春夏さんに言っておけば良かったんですが」
聞いていた春夏は、なるほどね、と呟いて納得顔。「かくかくしかじか」っていい言葉だなあ、なんて貴明が思ったのかどうかは不明。
「ふうん、そういうこと。タカ君が謝ることじゃないわよ。確かにあの子にはそれくらいの荒療治が必要でしょうし。そうね、いい機会かも知れないわ。どのみちあの寝坊癖は何とかしなきゃいけないし」
「はあ。でもさすがに今日のはやり過ぎですね」
「そうね」
わらわらと近所の奥さん連中が出てきて、柚原家を遠巻きに見ているのを背中に感じながら言った貴明の言葉に春夏が同意する。
「とりあえず環ちゃんの提案、私は了承したと伝えておいてくれるかしら。で、タカ君、あなたはもう行きなさい、待ってる必要はないわ」
「は、はい。じゃあ、行って来ます」
この後、春夏は集まった奥さん連に謝るのだろう。余計な時間と手間を取らせないよう、貴明は早々に退散することにした。すまん、このみ。まあでも自業自得だし。
「おはよう、タマ姉、雄二」
「おっす」
「おはよう、タカ坊。このみは?」
待ち合わせ場所には余裕で着いた。当たり前だ、このみの寝坊がなければもしかしたら彼らより早く着くかも知れないという時間なのだから。
貴明1人の姿を見て環が当然の疑問を発するが、
「あー……目覚ましが大量で起きなくて春夏さんが激怒した」
とても全てを説明し尽くす気力はなく、貴明は簡潔すぎるほど簡単に説明する。が、それだけで理解したようで、環も雄二も揃って溜息をつく。
「ならタカ坊は今日、私が独占ね」
「ま、仕方ないよなあ。つか、それで起きないってどんな名雪だよ」
「雄二、違うメーカーの話題は止めなさい」
「あら、どうしたのよこのみ。今日は随分遅いじゃない」
「うん……疲れたよ」
「?まあいいけど。それで、目覚まし時計はどうだったの。クラス中からかき集めてあげたんだから、ちゃんと起きられたんでしょうね」
「あのね、いくのん。それなんだけど。今日はちょっと付き合って欲しいところがあるんだけど」
「ちょっとこのみ、あんたまさかあれで起きられなかったとか言うんじゃないでしょうね」
「……えへ〜」
「笑って誤魔化すなっ!」
「うー、だから明日は違う方法で頑張ってみるよ」
「はぁぁぁぁ、貴明も大変ね。まいいわ、で、今度はどんな方法なのよ」
「うん、あのね……」
翌朝。
起きて顔を洗い、制服に着替え食事をして歯を磨き、靴を履いて鍵をかけたらいつもの場所へ隠しておく。自分で持ち歩いてもいいのだが、何となく習慣でつい。その習慣のおかげで、いや、習慣のせいでタマ姉の襲撃を喰らったことを忘れているわけではないのだけれど。
昨日のことがあるので今日はかなり早く家を出る。近所迷惑になる前に止めなければ。環と春夏の決定に逆らうようだが、さすがにあんな醜態はもうゴメンだ。
そのまま柚原家のチャイムを鳴らし、
「おはようございます」
「おはようタカ君。今日は早いのね」
「ええ、さすがに昨日のアレはもう……」
「そうよねぇ。でもあの子、まだ寝てるみたいなのよ」
「まあ、まだ早いですからね。もう2、3分はだいじょう」
「わきゃあああああーーーーーっ!」
どばしゃんっ、と何かがこぼれる音。間髪入れずにがらん、とドリフの大爆笑のような音が続く。
「……」
春夏と貴明は目を見合わせて黙り込む。なんか想像がついた。想像したくないけれど。黙ったまま数分、ぽたぽたと玄関の上から落ちてくる雫。そこにあるのは言わずもがな、このみの部屋。
「あ、あの春夏さん、今日は俺も一緒にあやま」
「いいのよ、タカ君は」
悲鳴に驚いた犬がやっぱり向こうで吠えているし、ゲンジ丸も起きている。奥さん連中が集まってきているのも昨日のまま。
「で、でも」
「いいの、タカ君は。タカ君は、ね」
怖い。怒った春夏を見るのは初めてではないけれど、そして自分のことではないけれど貴明は身の危険を感じた。
「さ、タカ君は学校に行きなさい」
「は、はひ」
あまりの恐怖に言葉にならない言葉を吐き出して貴明はくるり、と背を向けた。
すまん、このみ……って今日のはさすがに自業自得とかそういう次元を突き抜けてるだろ。いい加減にしておけよ、春夏さんの折檻がフルコースになる前に。
そう心の中で呟いて、背中で春夏の謝る声を聞きながら貴明は待ち合わせ場所へと足を向けた。
「おっす。おいおい、早いな」
「ほんとね。おはよう、タカ坊」
「おはよう、タマ姉、雄二」
待ち合わせ場所には余裕過ぎる時間に着いた。ていうかだいぶ待った。
そして今朝は貴明1人の姿を見ても環は当然の疑問を発しなかった。
だから貴明は、幾分疲れを感じながら自分から説明することにした。
「あー……今日はこのみの部屋から雨が降ってきて春夏さんが激怒した」
とても全てを説明し尽くす気力はなく、貴明は簡潔すぎるほど簡単に説明する。が、やっぱりそれだけで理解したようで、環も雄二も揃って溜息をつく。
「……ならタカ坊は今日も、私が独占ね」
「いやもう、何て言ったらいいんだ、これ」
「おはよう、いくのん」
「もう昼休みよ」
「……えへ〜」
「だから、笑って誤魔化すなっての!あんな大掛かりな装置まで作らせて起きないって、どれだけなのよ。クラス中の男子を借り出したっていうのに」
「うう……ごめんね、いくのん。今度はもっと違う方法で」
「いい。もういい。あんたは何もするな」
「でも!もう2日もタカくんと一緒に帰ってないよ」
「たったそれだけじゃないの。私なんかいつも一緒に帰れないっての」
「え?何か言った、いくのん」
「何でもない。いいわ、もう私がやる」
「え、やるって……」
「明日は目覚ましも金盥に水もなし。正攻法で行くわ。ちょっとムカつくけど」
翌朝。
起きて顔を洗い、制服に着替え食事をして歯を磨き、靴を履いて鍵をかけたらいつもの場所へ……
それ以前に、寝起きが今日はいつもと違った。
「……ん」
何となく違和感を覚えて目を覚ます。どこがおかしいって、手足などではなく、そう、なんか唇に違和感が……
「あれ?郁乃?」
「きゃわわっ!お、起きたの?」
「ん。ふぁぁぁぁぁ、どうしたんだ、こんな朝早くから」
目をこすりながら起き上がる。郁乃が部屋にいること自体は特段珍しいことではない。なぜか鍵の隠し場所を知っていた彼女は、時折こうしてやってくるから。それがこのみのいない時だけというのがどうしてなのかわからないが。
「べ、別に。たまには起こしてやろうと思っただけよ」
「あーそうか。ありがとう」
まだちょっと寝ぼけている。どうにも頭がはっきりとしないが、とにかく郁乃が行為、いや好意で起こしてくれようとしてくれたことだけはわかった。こんな風に唐突なのも彼女の特性のひとつ、と最近は割り切っているのでそのこと自体に疑問を感じない。
個人情報保護とか危機管理とか、そういうのどこに行ったんだろう。
「んんんーー、よっし起きるか。って郁乃?どうしたんだお前、顔赤いぞ」
「ななななな、何でもなうぃあよ」
「ろれつもおかしいな。風邪でもひいたか」
「だわーーーっなん、なんでもないったら!」
「……そ、そうか?」
「そうよっ!いいから早く起きる!そんで着替える!食べて洗って起こしに行く!」
矢継ぎ早に指示を出す郁乃に気圧され、貴明はもっそりとではなくしゃきっと起き上がる。慌てて服を着替
「き、きゃあーっ!ここで脱ぐなあっ」
「へ?いやだってふごおっ?!」
えて撃沈された。
「ったく、何で俺がこんな目に」
朝のルーチンワーク。
起きて顔を洗い、制服に着替え食事をして歯を磨き、靴を履いて鍵をかけたらいつもの場所へ隠しておく。自分で持ち歩いてもいいのだが、何となく習慣でつい。その習慣のおかげで、いや、習慣のせいでタマ姉の襲撃を喰らったうえ、郁乃にまで場所を覚えられてこうして理不尽な目に合わされているわけだけれど。
さて今日は何故か朝からいる郁乃と一緒に柚原家のチャイムを鳴らし、出てくるのは一緒に登校するこのみ……ではなく、その母親の春夏。
「おはようございます」
「おはようタカ君、今日も早いのね。あら、今日は郁乃ちゃんも一緒なの」
「おはようございます。このみ、まだ寝てるんですね」
「ええ。今日は郁乃ちゃんが起こしてくれるのかしら」
出て来た春夏が郁乃に気づき、こんな時間に貴明と一緒に来るということで導き出されることを予測するが、郁乃の返答は予想と違っていた。
「え?郁乃が起こすんじゃないのか」
春夏と同じように考えていた貴明も、郁乃の答えに不思議そうな表情を向けるが、郁乃は澄ました顔で、
「いつも通り貴明が起こすの。ただ……」
「ただ、なんだ」
言葉を止めた郁乃に、貴明は「もったいぶっている」と見たが春夏にはピン、とくるものがあったようだ。郁乃と貴明の間で視線を揺らせると軽く笑った。
「ははぁ、なるほど、ね」
貴明には春夏が何で笑っているのかわからない。ただ、郁乃は気づかれたと知ったらしく、慌てて貴明を急かした。
「とっとにかく、起こすの!」
「いやだから、どうやって」
貴明の当然の疑問に答えたのは春夏だった。それもごくあっさりと。
「眠っているお姫様の目を覚まさせるのは、古今東西、王子様のキスだと決まっているわね」
「は?……って、えええええっ?!」
一瞬、春夏が何を言っているのかわからなかった貴明だったが、内容に気づくと顔を赤くして2人を交互に見る。冗談でしょ、冗談って言ってくれ、そんな気持ちで口をぱくぱくさせるが、彼の期待した言葉はどうやっても2人から出てきそうになかった。
「ちょっとちょっと、春夏さん、そんな自分の娘に何てこ」
「いいんじゃないかしら。このみがタカ君のことを好きなのはもうわかってるし。あの子も喜ぶと思うわよ」
「いやいやいや、おい郁乃、お前も何とか言ってくれよ。俺、そんなことしたこ」
「とないわけないじゃない」
焦る貴明に郁乃はしれっと返す。そっぽを向いたまま、ちらりと見える耳が赤いのが何故なのか気になるが。
「そう、初めてなん……って、え?」
郁乃の言葉にはっと我に返る。今、郁乃はなんて言った?俺が初めてじゃないって?キスが?いやいや、正真正銘初めてなんだけど。なんで郁乃がそんなこと言うんだ?
疑問符を大量に浮かべながら郁乃を見るが、あっちを向いたまま答えるつもりはないらしい。救いを求めるようにすがる目つきで春夏を見るが、こちらもにこにこしているだけで、しかも貴明ではなく郁乃を見ている。
絶体絶命。
タマ姉がいたら止めてくれるだろうに、いやダメだ、あの人ならもっとこの場を煽るか便乗してファーストキスどころかセカンドとかサードとかフォースとか、とにかくそんな感じのいろんなのを奪われそうだ。貞操の安全が危険だ。
そんな孤独感というか絶望感というか、なんだか嫌な空気に呑まれ始めた貴明に春夏がトドメをさした。
「タカ君、うちの子のこと、嫌いなのかしら?」
降参だった。
だって、このみのことが嫌いなわけなかったし。郁乃もだけど、このみのことも、ちゃんと女の子として見始めた彼にとって、実の母親である春夏の問いかけと後押しはもうダメ押しにしか過ぎなかった。
「郁乃ちゃんもやるものねー」
「な、なにがですか」
「ふふふ、可愛いわね。まあ、お手柔らかにお願いね。うちの子はまだまだお子ちゃまだから」
「ななな、何のことかわかりませんが」
あからさまに動揺する郁乃に、大人の余裕で対する春夏。が、そんなまったりとした時間も長くは続かなかった。
「え、えええええええええっ?!」
朝の静寂を破って、今日も柚原家から(嬉しい)悲鳴が響いた。
さて、それから。
このみがちゃんと起きるようになったかと言えば。
「あら、タカ君おはよう。ごめんね、ちょっと待っててくれるかしら」
「おはようございます。まあ、いつものことですから」
朝のルーチンワーク。
起きて顔を洗い、制服に着替え食事をして歯を磨き、靴を履いて鍵をかけたらいつもの場所へ隠しておく。自分で持ち歩いてもいいのだが、何となく習慣でつい。その習慣のおかげで、いや、習慣のせいでタマ姉の襲撃を喰らったことを忘れているわけではないのだけれど。
そのまま柚原家のチャイムを鳴らし、出てくるのは一緒に登校するこのみ……ではなく、その母親の春夏。
うんざりするほど繰り返された、それこそ貴明が一足先に高校へ入学し、このみと別の学校に通うようになった去年だって繰り返してきた日常は、ここで終りなのではなく。
「あら。今日も郁乃ちゃん、一緒なのね」
「おはようございます」
何故か毎朝頬を赤らめた郁乃が一緒に柚原家を訪れるようになり。
「おはようございます、春夏さん」
「おはよう、環ちゃん」
何故か満ち足りた表情の環がついてくるようになり。
そして、
「このみ、起きなさい。今日も環ちゃんと郁乃ちゃん、来てるわよー」
「あーーーー!今日も先越されたぁ!もう、お母さん、今日こそ最初にって言ったのにぃー!どうして起こしてくれなかったの」
どうしてだか春夏とこのみの言葉がまるで違うようになっていた。
貴明にはさっぱりわからないのだが、とりあえずこのみが毎朝きちんと起きてくるようになってよかったな、とのほほんとした表情で今日もこのみを待っているのだった。
今まで繰り返してきた日常が違うのは寂しいものだが、こういう違和感ってのは逆に嬉しいものだなあ。
なんて爽やかに思いつつ見上げた空は高く、夏が近づいていた。