fanfiction > ToHeart2 > 視線の先にあるもの
このみはそっと目を閉じた。
平日の朝。本来ならこの時間にいないはずの人間がいて、いるはずの人間がいない。母親の春夏は何かの手続きがあるとかで役所に行かなければならないようで、朝早く出かけた。そしてもう出ていなければならないこのみがこうして爽やかな風がカーテンを揺らす他に、何も動くものもないリビングのソファで、じっと膝を抱えている。
制服であるのは、春夏が出かけるまで学校に行かないことを誤魔化すためでしかなかった。用意された朝食には手をつけられていないが、体調が悪いわけでもない。
「タカくんがいないよ……」
そう呟いて、このみの胸はずきりと痛んだ。
河野貴明。
その名前を、その顔を思い出すたび、このみは苦しくなる。思い出さないようにしても、否応無くその名前は彼女の胸に浮かんでくる。
当然のことだ。あんなに好きだったのだから。
それなのに。
もう彼はこのみを迎えに来てはくれない。すぐ隣の彼の自宅に迎えに行っても、あの家にはもう、誰もいない。
「タカくん……」
誰もいないリビングで、切なげに吐き出した言葉の行く先は、彼女にもわからなかった。
ToHeart2 - 視線の先にあるもの
会えなくなって、もうどれくらい経つのだろう。
こんなにも長く、一緒にいられないことなんてなかった。物心ついた頃からずっと一緒にいて、そしてこれからもまたそうなのだ、と思っていた。
貴明が不意に冷たくなったように感じた時もあったけれど、そんな苦しい時間をこえて結ばれたのだから、それは尚更で。
幼馴染、妹みたいなもの、それは嬉しかったと同時に、それ以上にはなれないという自分の立場を無理に認識させられているように感じていた。
ぬるま湯だけれど、決して冷え切ったりしない関係。それは彼も彼女も、成長しないのであれば良かった。そんな関係でも我慢できた、いや満足できた。けれど、いつも貴明の後ろを追いかけていた彼女がいつか、貴明の先を駆けられるようになると同じで、当たり前のことだけれども2人はやはり時を重ねてきた。
彼の目がどこを見ているのか、ただ視線を追いかけるだけでなくその先に女の子の姿がないことを確認するために追うようになったのは、いったいいつからだったろう。
彼が他の誰かを見ないのであれば、幼馴染のままでも安心できた。どうしてか、ということに気づかないくらいに子供ではなかった頃からだと思う。貴明の視線の先に何を期待し、何を拒絶しているのかに気づいた瞬間、彼女は貴明を好きなんだということに気づいたのだから。
少しだけ、普通の女の子よりは遅かったかも知れない。周囲が……特に、親友の「よっち」や「ちゃる」が煽り立てるほどに彼らの関係は初心で純粋で、ただの幼馴染の枠を出ることがなかったし、そのことに明確な危機感を感じ始めたのも、そんなに前からではなかったから。
ただ、その分だけ気づいてしまった自分の心を留めることは難しかった。
できるだけ彼の前では笑っていたかったのに、どうしても笑えないときもあった。
ただ一緒にいたい、という思いが彼の戸惑いを誘ったこともあった。
「タカくんも、戸惑ってたんだよね……」
このみの心は、あの頃にとんでいた。ひと足先に高校へ入った彼の後を追いかけて、同じ高校に入学して。
環が戻ってきただけでなく、彼女もまた同じ高校に編入したことで、再び幼馴染が4人揃って同じ時、同じ空間にいることができる、と無邪気に喜んだ。けれどそんな楽しい時間はすぐに不安にとって変わられ、このみがいない一年は当然のように貴明の環境を変化させていた。
同級生、それだけでも羨ましいのに、2年連続で同じクラス。
貴明と雄二のクラスの、クラス委員長。
それまで貴明の女の子の好みなんて気にしたことはなかったけれど、何となくぴんとくるものがあった。
同時に湧き上がってくる、焦燥。
もうその時、すでに貴明は「ただの幼馴染」ではなかった。
貴明が変わらなければ、このみにとっても「ただの委員長さん」で済んでいたかも知れないけれど、どことなくこのみを避けるようになったり、帰りの校門で待っていたこのみに気づかず、待とうとせずにそのまま帰ろうとしたり、あの頃のこのみにとっては落ち込んでしまう要素が多すぎた。
その原因となるものがすべて貴明だったのだから、不安と焦りがない交ぜになって彼の周囲のすべての女の子が、彼の視線の先なのではないか、そう思い込んでしまうのは仕方なかったのかも知れない。
怖い。
確かめるのが、怖かった。
彼の視線の先にいるのが誰なのか、それを知ってしまった時自分はどうなってしまうのか。彼にとっての自分は、「妹みたいな」存在のままで終わってしまうのか、そして自分はその時ただの幼馴染として彼に接することができるのか。
そのどちらも、自信はなかった。
「あ、れ……?」
気がつくと、リビングに差し込む太陽の光がずいぶんと窓側に寄っていた。あれから何時間経ったのだろう。明るさと光の具合から、だいたいお昼前くらいだろうか。
このみは膝の間に埋めていた顔を上げ、ぼんやりとした目で時計を探す。
「11時前、なんだ」
春夏はそのまま買い物か何かに行っているのだろう。帰ってきていたのだとしたら、こんな時間までこのみが学校にも行かないでいるのに驚くか怒るかしているに違いない。ただ、叱られたからと言って、このみがならば学校に大人しく行ったかと言われれば恐らく行かなかっただろうけれど。
このみにとって、貴明はすべてだったから。
気がついたらもう10年以上、そう、このみが生きてきた短いけれどすべての人生をかけて、ずっと貴明だけを見てきたのだから。
だから、その貴明がいないというのは、自分も死んでしまったのと同じだ。そう思った。
であるならば、もう普通に生活など送れようはずもない。ただ毎日、起きて食事をして学校に通って帰宅して、眠る。その動作を機械的に繰り返すだけ。色の失せた景色を虚ろな瞳に映して、以前の明るいこのみの姿はどこにもなかった。
そしてついに今日はもう、学校に行く気力すら起こらなくなった。
「タマお姉ちゃん、怒ってるだろうな」
凄い、と思う。彼女だって貴明のことが好きだったはずなのに、毎日を以前と変わらずに過ごしている。もちろん、その心の奥底にある心情がどんなものなのか、このみにはわからないけれどもそれでも表面上は普段どおりに過ごせるのだから……
「このみが一番、タカくんのこと好きなんだ」
だからそう思う。貴明を失って、一番大事なものを失った時に平然としていられるのは、強さとは違うと思う。雄二などは大切なコレクションを環に没収された時など、今のこのみのように落ち込んだりしているが、そんなものとはレベルが違う。
きっと。
そう、きっと環の視線の先にあるものは、貴明だけではなかったのだ。
このみが貴明だけを、この世界の中で貴明しかその視界に入れなかったのとは異なり、恐らく彼女の視線の範囲には大事なものがたくさんあって。貴明はそのひとつ、最も大事なものだったかもしれないけれども、唯一のものではなかったのだ。
もう、立ち直れない。
失って初めて気がついた、のではない。わかっていた。わかっていたのだ、貴明を失うことがどれほど自分にとって辛いことであるのか、は。
だから今の自分は予想通りであるのかも知れない。
ただ、こんなにも早く、彼の存在がなくなってしまう日が来るとは思わなかった。
春、満開の桜を見ながら一緒に登校して。
夏、砂浜で城を作って。
秋、高くなった空を仰ぎながらそっと手を繋いで。
冬、かじかむ指をその大きな手で包んでくれて。
今まで過ごしてきたそんな日々が、このみの脳裏に浮かんでは消えていく。
それらを積み重ねて、そしてようやく結ばれた2人。今までと同じような通学路、休日、貴明の手も、その日からはまるで違うように思えた。
そんな時間が、もう、ない。
「タカくん……辛いよぅ……」
再び膝の間に顔を埋めたこのみは、この喪失感に堪えられそうになかった。
ごちっ!
「あいたっ!」
突然響く、もの凄い音と共にこのみは悲鳴を上げた。
顔を上げると、あまりの痛みにチカチカする視界の中で恐ろしいオーラを背後に、戦慄の微笑みを浮かべた、
「お、お母さん……」
「このみ?なんでこんな時間に、こんな場所にいるのかしら?」
「だ、だってぇ……」
慌てて何か口実を作ろうとするが、
「だってじゃありません!環ちゃんから携帯に『このみが学校に来ていない』ってかかってきた時は何事かと思ったわよ。事故にでもあったんじゃないかと心配して急いで帰ってきてみれば」
にこり、と微笑む。だが、このみにはひくついた口端が恐ろしくて仕方なかった。
「何が『タカくん、辛いよ』ですかっ!」
「だ、だって、タカくんがいないんだもんっ」
「……そりゃいないわよ」
「え?」
リビングの入り口から聞こえてきた声に振り返ると、そこには呆れきったという表情を浮かべた環が立っていた。額にうっすらと汗を浮かべているところを見ると、学校から走ってきただのだろう。
「た、タマお姉ちゃん……」
そして笑っている。春夏も恐ろしいが環も恐ろしい。ダブルの恐怖がこのみを圧迫していた。
「雄二だっていないんだから」
「そうだけど、だけどタカくんが……」
「「こーのーみー?」」
怖い。
恐怖とか、そんなレベルじゃなく、はっきり言って怖い。
「だって、だってぇ」
「「だって、じゃないっ!」」
「ひぅっ?!」
恐ろしさに竦んでしまったこのみの傍に、つかつかと近づいてくると、環はそのままこのみを片腕で脇に抱えた。
「タマお姉ちゃ〜ん、お、下ろして、下ろしてよ〜」
両手両足をばたつかせるこのみを一切意に介さず、環は春夏に向き直ると、
「タカ坊たちの修学旅行が終わるまで、これから毎日私が連行しにきます」
「そうね。申し訳ないんだけどお願いできるかしら」
「はい。では今日はこのまま連行しますので」
「ええ。ほんとにご免なさいね。帰ったらたっぷりお仕置きしておくから」
「いえ、では行って参ります。さ、このみ行くわよ」
「やだぁ、下ーろーしーてー!」
騒々しいこのみの声が遠ざかり、ドアの閉まる音を聞きながら春夏はため息をついた。
手にした絵葉書に視線を落とす。先ほど帰ってくると同時に配達人がいて、手渡してくれたものだ。
「タカくんも、ほんとこのみしか目に入ってないのね」
千歳空港からの速達印。修学旅行一日目、空港に着いたと同時に書いて出したらしい。まさか、これから修学旅行の行程中、毎日出すつもりだろうか。
幼い頃からずっと見てきたし、両親が海外に行ってしまった現在は実の息子のように思っている彼が、誰に対しても優しいことは知っていた。それがこのみ相手だとまた少し違った、特別な接し方をすることにも、ずいぶん昔から気がついていた。
可愛い一人娘を大事にしてくれるのはありがたいし、彼になら安心して預けられるとは思っているものの……
「あんまり過保護すぎるのも、ね」
困ったものだ、と口の中で呟きながらも笑っている彼女の視線の先には、愛娘が環に抱えられてじたばたと暴れる姿があった。
「……はぁ」
何だか妙な疲労を覚えた春夏だった。