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桜の淡い桃色が去り、新緑が勢いを増してきた坂道で愛佳は溜息をついた。
この坂の途中に総合病院があり、そこには妹の郁乃が入院している。
足はそちらへ向かっているのだが、彼女は理由がない限り欠かさず通った妹の病室を、はじめて何の理由もなく通り過ぎようとしていた。
いや、理由がないわけではない。
けれど、それは血を分けた妹の世話を放棄するのにあまりにも身勝手で我侭な内容だったから、彼女はそれを理由にはしたくなかった。だから、さっき電話をとったすでに顔見知りとなった感すらある看護師にも、特に理由をつげず、行けないことを伝えて欲しいとだけ言ってそそくさと切ってしまったのだ。
ここ数日、いやこの数ヶ月でこんなに沈んだ気持ちでこの坂を下ることはなかった、そう思いながら空を仰ぐと長くなりつつある陽を反映して空は高く青く、けれども所々に切れ端のように頼りなく流れる雲が、なんだか今の自分にとても似ている、と彼女は思った。

ToHeart2 - moratorium(後)

きっと、誰かを好きになるのって、2種類あるんじゃないだろうか。
いつの間にか好きになっているのと、はっきりと明確にその時がわかるのと。
自分の場合は後者だ。
教室でアイコンタクトを交わし、どちらか——大抵は愛佳が——が先に出て、正門の辺りで自然と並ぶ。足の遅い自分が先に出ることで、彼が追いつき、この自然と並ぶという感覚が愛佳は好きだった。それは、異性が苦手同士な自分たちに、とてもよく合っていると感じられたから。
昨日まではそれで良かった。
2人きりの時だけ名前で呼び合い、教室や他の人がいる場所では苗字で呼ぶ。彼女からもちかけた擬似恋愛を、郁乃のお見舞いにまで彼を連れ出すことで放課後の書庫以外の場所でも継続して。その病室へ行く途中の正門で、彼が後ろから追ってくることをほんの少しだけ期待しながらゆっくりと歩いて。
並んで病院へ向かう少しの時間と、病室で過ごす3人の時間。病院を出て、本当は必要ないのにバスで帰る愛佳に合わせて何も言わなくともバス停まで一緒に歩いてくれて、駅前で別れる。
友達の由真が聞いたら、「愛佳らしいわね」と素っ気無いながらも好意的な響きで評してくれそうな、そんな時間がいつまでも続くと思っていたし、いつか、続けたい、と積極的に思うようにもなっていた。あの郁乃ですら、貴明にはどこか心を許していたような雰囲気だったし、きっと3人が3人ともそう望んでいたと思う。
貴明だって、異性が苦手という割には郁乃とは普通に話していた。いや、むしろクラスメイトと接する時のような距離感はなく、どちらかと言えば彼の幼馴染たちと接しいているような気安さで郁乃との時間を楽しんでいるようだった。

そう、クラスメイト。そこに自分が含まれている、と思ってしまったのが、自分がこの時間を崩してしまったきっかけだった。
いつものように正門で追いついてもらうはずだったのだが、昨日はどうしても用事が入ってしまい、遅くなるということを伝えようと教室を出たところで待っていたのがいけなかったのだろうか。

『っと?!まな……小牧さん』
ドアのところで驚いた貴明が、目を丸くして名前を呼びそうになって慌てて訂正する。その瞬間、自分でも理解できない感覚が湧き上がりそうになったが、それは一瞬で霧散した。
『あ、あのね河野くん。今日ちょっと用事で遅れそうだから』
『ああ、うん、わかったよ。郁乃に言っておけばいいんだね』
『え……あ、うん。お願いできますか』
『了解』
郁乃の名前が彼の口から出た際にも、またなにかを感じたけれど、それが何だかわからない限りは今この時点ではどうしようもない。
だから愛佳は踵を返す貴明の背中を見送って、とにかく急いで用事を済ませてしまおう。いつものように郁乃の病室で3人でいれば、この変な感覚もなくなってしまうに違いない、そう思って足を急がせるしかなかった。

手早く用事を済ませた愛佳が病院への道を辿る。
いつもなら貴明が追いついて声をかけ、その声に愛佳本人も気づいていない笑顔で振り返る場所まで来て、なんとなく振り返った。意味がないことはわかっている。それでも習慣というか、無意味なことがわかっていながらついやってしまうことというのはあるのではないだろうか。
考えてみれば2人で郁乃の病室に見舞いに行くようになってから、愛佳一人でこの道を辿るのは初めてだ。いつも必ず貴明が追いついて声をかけ、彼女は振り返る。そんな繰り返しを毎日してきたのだから、今日こうして彼がいないことがわかっていながら振り返ってしまうのも仕方ないことだろう。
そう、習慣なのだ。だから仕方ない。
そこに彼がいなくても。
『……たかあき、くん』
振り返った先にはただ道が続いているだけ。学校へ続く上り坂、閑静な住宅街には少し遠くから子供の声が聞こえるほか、人の姿もなく、無言の壁だけが広がっていた。
彼の姿もない。
いつもなら言い辛そうに『愛佳』と呼んだ後の、どこか居心地の悪そうな微笑みがあるのだが、今日の愛佳の視線の先には、無言の住宅街がひっそりと佇んでいるだけ。
『たかあきくん』
思わず呟いた言葉。
その言葉の意味すらわからない愛佳ではなかった。

——ああ、そうか。

愛佳は唐突に理解した。
自分が貴明の姿を探していることを。けれどその時は、いつも一緒に歩くはずの彼の姿がないという、ただそれだけの理由だろうと思っていた。いや、思い込もうとしていた。
あるべきはずの姿がない。それは真夜中の学校と同じで、いつでも生徒の姿を見ている校舎内に誰もいないという不在感が恐怖を引き起こすように、この道を歩くことがイコール、貴明が横にいるという図式が崩れたことによる一時的な喪失感に過ぎない、そう思い込んだ。

今頃、きっと彼は妹の病室で楽しく話でもしているのだろう。
そう思うと遣り切れなさが募る。今こうして一人で歩いていることが酷く寂しく、何となく足元の小石を蹴飛ばしてみる。それは乾いた音を立てて転がっていき、側溝に落ちて見えなくなった。

あの病室は自分と郁乃だけの世界だった。そこに貴明が入ったことで、彼の存在を異質なものとして排除するという意識は、当然のことながら愛佳にはない。彼女から誘ったこともあるが、妹の郁乃が自分に心を開いてくれていると思えるようになったのも、貴明のおかげだ、そう思っているから。
一人で病室に通っている頃は、郁乃の冷たい言動に怯みがちになっていた。郁乃の看病には自分が必要だ、そう思うことで妹に対して臆病になりそうな気持ちを叱咤して、いや正確に言えば誤魔化してきていた。そんなところも自分の、小ずるくて卑怯なところだと思う。
要らない子なんだと思っているのは自分の方であるとわかっているのに、郁乃がそう思わないようにという呪文で自らの行動を正当化していた。
そんな汚さを更に誤魔化すためにわざとらしい笑顔と言葉で、ただぎこちない時間を過ごすだけだった、これまでの自分。結局、郁乃のためと言いながらも自分のためであったこと、そしてそれを自覚していたからかも知れないが、結局のところはただ余裕がなかっただけなのだろう。
だから彼、河野貴明が一緒に病室へ顔を出すようになってから時間的にも精神的にもうまれた余裕が、始めて郁乃にきちんと目を向けさせることになったのだと思う。
盲目的な献身から一歩下がると、郁乃の方こそ自分にどれだけ気を遣ってくれたのかがわかる。きっと郁乃には病室にいながらも自分のことは全てお見通しで、いや恐らく病室という閉鎖された世界で長い時間を一人で過ごさざるを得ないからこそ研ぎ澄まされる感覚というのがあるのかも知れない。あるいは単純に血のつながりであるのか。
いずれにしても郁乃にはわかっていたのだ。
そして愛佳にもそのことがわかったからこそ、郁乃のつっけんどんな言動の裏にある優しさにも気づけた。それはすべて直接的であれ間接的であれ貴明がもたらしてくれたものであり、最初のうちは確かにそのことに対する感謝の気持ちだけだったと思う。
それが昨日の放課後、彼のいない道を病院へ歩きながら、いやもっと正確に言えば昼に彼が人目を気にして「愛佳」ではなく「小牧さん」と呼び、なのに郁乃のことだけはいつも通りに「郁乃」と呼んだことで、はっきりとわかってしまった。

色々なことがわかったのはいいけれど、愛佳にそれらすべてをいっぺんに処理しろという方が無理だった。
案の定、何を言おうとしたのかわからないまま、昨日は逃げ出してしまった。
何かを言いたかったわけでも、言わなければならないことがあったわけでもない。まさかあんな突然に貴明に告白などできっこないのだし。
それでも何かを言おうとした。それが何だったのか、今はもうわからないけれど、彼の顔を見ていたら色んなことが湧き上がってきてどうしようもなくなったのだ。
——きっと、何でも良かった。
明日の学校の予定でも良かったし、近づいてきた中間テストのことでも、書庫の整理がもう終わることでも、何でも良かった。何でも良かったから、だから色んなことがいっぺんに押し寄せてきて。
その中に、郁乃のことや書庫のことがあったから。
天気のことや課題のこと、どうでもいいことの中に愛佳の胸を刺す痛みを感じたから、意識せざるを得なくなった。ぐちゃぐちゃとした頭の中で、何か話さなきゃという焦燥の中で、気づいてしまった。

自分が、貴明のことを好きだということに。

唐突に訪れたそれは、元々混乱していた愛佳の感情を更に惑乱し、結果として彼女にはもう逃げるしか手段が残されていなかったのだ。
逃げながら彼女は、少女漫画なんかでよくあるお約束のパターンで彼が追いかけてきてくれるとか、そんな余裕のあることを考えることもできなかった。ただただ、自分の気持ちを持て余して彼の視界から早く去ってしまいたいと、そして心のどこかでは妹の郁乃への罪悪感に怯えていた。
だって、あの瞬間に、郁乃の貴明に対する想いにも気づいてしまったから。
きっとそれは、郁乃本人も気づいていない感情。だけれども愛佳にはわかってしまった。
刺々しい言動の裏に隠された郁乃の本音。今思えばここ数日、病室のドアを開けた時の郁乃の視線が、自分の肩の先を見つめていたことからわかる。もちろんそれは後から気づいたことにしか過ぎないけれど、きっと直感ではわかっていたのだ、郁乃が貴明をどう思っているかなんて。
なぜなら。
自分たちはやっぱり、血の繋がった姉妹なのだから。

「じゃあ、また来るよ」
「いいわよ別に。無理しなくて」
辞去しようとした貴明のいつもの台詞に重なる声。相変わらず素っ気無いし再来を期待しているようには思えないが、それでも最初の頃と比べると雲泥の差だ。
始めの頃はそれこそ返事もしてもらえなかった。それが「ふん」に変わり、「もう来るな」となり、ようやく最近になって拒絶の意味が失われた。ほんとうのところ、郁乃がどう思っているのかはわからない。もしかしたら実際に貴明が来ることによって疲れてしまうのかも知れないし、或いは退屈な病院生活で少しは気の紛れになっているのかも知れない。
聞いたところで本音を話してくれるような少女でないことはわかっている。だから貴明もあえてそこに踏み込むようなことはせず、ただ笑って「また来るよ」と繰り返すだけだ。
それだけのはずだったのだが、今日はちょっと違った。ドアに手をかけた貴明を、
「あ、ちょっと待った」
郁乃が呼び止める。何事かと振り向いた貴明に、
「明日学校で姉に会ったら伝えてもらいたいことがあるんだけど。まさか学校には来ないってこと、ないと思うから」
「どうして学校には来るってわかるんだ」
「あんたにはわからないでしょうけどね。色々あるのよ、乙女には」
「乙女、ねぇ」
「なによ」
「いやいや。それで、何を伝えればいいんだ」
すうっと細められた郁乃の目に剣呑な光が宿る。背後の夕陽と相俟ってちょっと怖かったので、ヘタレな貴明は慌てて誤魔化した。
「明日は絶対に来て、って。あたしから言ったことなんてないから、必ず来るでしょ」
「そうなのか」
「そうよ。ああそれから、あんたは明日絶対に来ないで」
「え……あ、いや。わかった。明日は来ないよ」
愛佳だけ呼んで自分を呼ばない。何の話をするのかはわからないけれど、きっと他人が踏み込んではいけない領域というのはあるのだろう。そう考えて問おうとした理由を飲み込む。
「それだけ伝えればいいんだな」
「ええ、いいわ」
「わかった」
言葉少なに確認を取ると、貴明は改めてドアに手をかけた。
「それじゃ、またな」
「……うん」
ドアを開けながら、聞こえてきたやけに素直な郁乃の返事に驚いて振り返ると、すでに彼女はベッドに潜り込み就寝体制に入っていた。
「眠いと素直なんだな」
苦笑しつつ聞こえないように呟くと、貴明は静かにドアを閉めた。

「小牧さん」
翌日の昼休み、チャイムと同時に逃げるように教室を出て行った愛佳を追いかけ、ようやく屋上への階段の途中で捕まえた貴明は、とにかく郁乃の伝言だけは伝えなければ、と逃げられないようできる限り穏やかに声をかけた。
「はっ……はいっ!な、なんですか、たかあ……河野くん」
「あーいや、まあ今は誰もいないから名前で呼んでも大丈夫かと」
「はい、あ、いえ、うん、そうです……だね」
直そうとして余計におかしくなっていく愛佳に、思わず口元が綻ぶ。癒し系だよなあ愛佳って、と場違いなことを考えながらも逃げられずに済んでほっとしていた。
が、ほっとして和んでいる場合ではない。とにかく郁乃からの伝言だけはしっかり伝えておかなければ。
彼女のことだからこうして貴明がのんびりしている間に、いやもしかしたら既にかも知れないけれど、何かしらの用事が入ってしまう可能性もあり得る。
「郁乃からの伝言があるんだ」
用件を切り出した貴明の言葉、正確に言うと『郁乃』という名前に反応する。微かに震えた肩に貴明が気がついたかどうかを確認する余裕など、愛佳にはなかったけれど。
「今日は絶対に来て欲しい、だって」
言葉少なに用件だけを伝える。郁乃がいったとおり、ちょっと躊躇いを魅せたものの愛佳は素直に頷いた。
「うん、わかりました……のよ。今日は別に用事も入ってるから大丈夫だと思う。あの、それで」
「俺は絶対に来るな、だそうだから今日は遠慮しておくよ」
「え」
愛佳の質問を先取りした貴明の言葉に、不安気な色を浮かべる。
「何でかはわからないんだけど、郁乃にそう明言されちゃったからさ。あいつ、拗ねると後が大変だし」
苦笑してみせるが、それで愛佳の不安がとんだようには思えなかった。
とは言え、これ以上のことは貴明にもどうにもできない。愛佳と郁乃、実の姉妹の間の話に割り込むことができないのは昨日の時点で思っていたことだし、今の愛佳の不安そうな様子を自分が聞いてどうこうできるとも思えなかった。
というよりは、恐らく愛佳が今日の放課後、郁乃の病室で何とかしなければならない類の問題だろう。それが先日の理解できない行動——貴明に何かを話しかけて突然逃げ出したことや、貴明と目もあわせない、病院にも行かなかったこと——に繋がるかどうかもわからなかったが。

伝えなければならないことは伝えた。後は愛佳の行動次第だから彼の役目は終わったに等しいのだが、何となく彼女から病院に行くという明確な言質をとらなければならないような気がして、
「小牧さん?」
黙り込んでしまった愛佳に声をかける。
「……えっ?あ、はい、き、聞いてましたよー。そ、それで何っか……きゃあっ」
ぼんやりとしていた愛佳が、貴明の声で我に返る。それだけならよかったのだが、わたわたと大袈裟に手を振ったためにバランスを崩してしまった。
そしてここは階段の途中。
上に愛佳、下に貴明。
「っと!あぶなっ」
ぽすっ、という状況にしては割と軽い音がして、落ちる、と思った瞬間に閉じた目を恐る恐る開けた愛佳の視界は薄暗く覆われていた。
「……え?あれ、あれれ」
混乱した頭でも、ここが貴明の胸の中だということだけはすばやく理解できた。
「きゃわっ!ご、ごごご、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい!」
「あーいや、謝るのはいいからさ、とりあえず離れた方がよさ気な予感がするんだけど」
耳まで真っ赤にして謝る。それに答える貴明も負けず劣らず赤いのだが、理性をフル動員して何とか冷静に返すことに成功していた。
——愛佳って、いいにおいがするなあ。それになんか柔らかくって暖かい……ってそれどころじゃないってば!
——た、たたた、たかあきくんに、ちちち近すぎるぅー!
お互いに脳内では混乱しつつ、やばいと思いながらも緊張のためかなかなか離れられない。愛佳は右下、貴明は右上に視線を逸らし、どちらもお互いの顔を真っ直ぐ見ることができないままで。雄二あたりが見たら絶対に誤解してえらいことになりそうだ、と貴明が思った瞬間、
「うぉっ!なんだ貴明、いいんちょとこんなところで密会かよ!どちくしょー!」
「なになに、どうしたのユウくん」
「煩いわよ雄二。タカ坊がどうしたって……」

ああ、そうだよなあ。どうせ屋上で昼なんだからこうなることはわかってたはずなのに、俺って抜けてるなあ。
この後の言い訳をどうしようかと頭を悩ませながら、貴明は溜息をついた。

問題はあの男だ。あの男が何考えてるのか、それが今ひとつはっきりしない。
郁乃は味気ない病院食をもそもそと食べながらそんなことを考えていた。味気ない、とは言っても最近の病院食はだいぶ革新されているようで、ひと昔前に比べれば雲泥の差だと学生時代に骨折で入院経験のある父親が言っていたような気がする。もちろん郁乃だってだいぶ前から病院生活を余儀なくされているせいで、ありがたくもないけれど病院食が最近少しは良くなっているとは思っている。
「いやまあ、そんなことはどうでも良くって」
1人の病室で呟くと同時にスプーンを置く。安っぽい音を立てるトレイごと脇のワゴンに乗せると、代わりにグラスを手に取る。ひとくち、啜って再び思考は元の考えに戻っていった。

姉があの男を好きなことは間違いないと思う。
そうでなければ彼から聞いたあの日の行動は珍妙なものでしかない。人を好きになったことのない郁乃には、それがどんな気持ちなのかわからない。ただ、姉を幸せにしてくれる男であるならばそれでいい。いや、そもそも姉の恋愛に妹がいちいち口を挟む必要はない。
「やっぱり問題はあいつよね」
だからと言って、まったく気にならないはずがない。
口に出したことも態度で示したこともないけれど、郁乃だって愛佳の献身的な介護——たとえそれが意識しない打算や欺瞞が微かにあろうと——行われた行為そのものには感謝しているし、姉の行動が自分を思ってやってくれていることで殆どが占められていることはわかっている。
そんな姉が、初めて好きになった男のことだ。気にならないはずがないではないか。
さすがに姉妹と言うべきか、姉が恋していることはすぐに気づいた。あの男も、物足りないけれどまあ姉を不幸にすることはないだろうとも思った。だから応援してやりたい気持ちはあるのだが、恋愛なんてそもそもお互いの気持ちが一緒でなければ成立しない。
そんな言い方をしなくても、要は貴明が愛佳を好きになっていなければ、姉の気持ちは無残にも打ち砕かれてしまう。初恋は実らないというけれど、この年まで恋愛を一切してこなかった姉の最初の経験を失敗に終わらせたくはない。
「女好きってことはないんだろうし、かと言って興味がないとも思えないわね」
貴明だってそれほど軽い人間でもない。それは郁乃にもわかっている。その貴明が愛佳と行動をともにしていることを考えれば、まるで脈がないわけではないだろう。そもそも、好きでもない女子にあそこまで付き合うことはしないのではないだろうか。
そしてあの姉があそこまで気を許す相手だ。単なる女こましであるわけがない。それも確実だろう。
更に付け加えるならば、初対面の郁乃が毒づいたにも関わらず彼の態度は変わらないし、赤の他人である自分の見舞いにそれこそ愛佳よりも頻繁に足を運んで暇つぶしの相手をしてくれている。郁乃がどんなに暴言を吐いても嫌な顔をせず、不満を見せたこともない。

ただ、気に喰わない。
何が気に喰わないのかと言われると困るのだけれど、何かが気に喰わない。納得いかない。いや、納得はしているし姉のことを応援してやりたい気持ちだって本物だ。
あいつは自分の少ない交友関係の中で——本当に少ない、2,3人しかいない中での話だが——まともな部類に入るとは思う。実際に親しい人間は少ないが、それこそ本や姉の話や親戚まで含めて考えても、彼は郁乃の眼鏡にかなっている。かなっているということにしておく。
だから、貴明が姉の恋人になることに何の問題もない。
問題ない、はずなのだが……
「何か、いやなのよね」
視線を横に動かし、いつも貴明が座る椅子を眺める。彼が一人で来る時はその椅子に彼が座る。愛佳と一緒でも、だいたい愛佳は洗濯や花瓶の水換えやらで忙しく動き回っていることが多いし、病室で果物の皮をい剥いたりする時でもゴミ箱に近い入り口付近の丸椅子に座っているから、ここ最近はその椅子が実質的に貴明の指定席になっていた。
「お姉ちゃんは貴明が好き。貴明もきっとお姉ちゃんが好き。何も問題ないじゃない」
もやもやを振り払うためにあえて口に出して言ってみる。けれどそれは逆効果だったようだ。
霞がかったような複雑な心境はますますその度合いを強め、貴明の指定席に彼がいないことがいやに郁乃の癇に障った。
今日は貴明が来ない。姉は必ず来る。
そこではっきりさせるはずだった。素直に心情を吐露することのできない郁乃がどれくらい姉の後押しをできるかわからないけれど、それでも一回くらい姉のために明確なかたちで恩返しをしてやってもいい。だから少しは素直になれるかも知れない。
それなのにこのもやもやは何だというのか。
今日は姉が座ることになるだろう貴明の指定席を見ながら、郁乃は溜息をついた。
それが何によるものなのか、まだまだ彼女にはわかっていなかったけれども。

ふぅっ、と大きく深呼吸。
手を上げていつものように扉をノック……するはずなのだが、やっぱりもう一回深呼吸をしておく。
大きく息を吸って。吸って。吸って。
「ぷはぁっ!」
溜まった空気を吐き出すと、ぜぇぜぇと肩で息をする。吸ってばかりでは深呼吸にならない。何を当たり前のことをギャグにしてしまっているんだろう。
貴明には「愛佳らしい」と笑われてしまいそうだけれども、別に彼女は笑いをとりたくてやっているわけではなかった。扉の向こうに、今日は眠らずに待っているであろう妹の姿を考えて静かに息を整える。
普段からぼやっとしたところはあるのかも知れないけれど、そしてそれは貴明にも由真にも同意されてしまいそうなのがちょっとだけ悲しかったけど、今日は輪をかけてだめっぽかった。
この病室に入るのにこんなに緊張するのはいつ以来だろうか。
ドア脇にかけられた「小牧郁乃」の文字を見ながら通い始めたころのことを思い起こそうとする。けれどそれがいつのことだったか、その時自分はどんな気持ちでいたのかなんて全く思い出せそうもない。それほど前から郁乃は病院生活を強いられているということであり、そのことを思って沈みそうになる気持ちを何とか奮い立たせる。
郁乃の言動は自分がこうして勝手に気を遣って落ち込んでしまうことに対する思いやりだ、そのことに気づいたことを改めて意識する。
きっと郁乃は先日の貴明に対する自分の不可解な行動について聞いているだろう。貴明だって困惑し悩んだ末に姉妹である郁乃に聞いたに違いないからそのことで責めようなんて思わないし、そもそも彼はどちらかと言えば自分の奇天烈な行動の被害者であると言っても差し支えない。
問題は、郁乃がどこまで気づいたか、だった。

好きな人が、できた。

そのことに郁乃が気づくことはまったく問題ない。男子が苦手な自分に好きな人ができるだなんて思ってなかったから心の準備はなかったし、たとえできたとしても郁乃がよくなるまで自分から口に出すことは決してしなかったろう。
今までなら。
今までならそうしたかも知れないけれど、そうやって気を遣うことを止めさせようと郁乃がしているのだと知った今なら、自分に好きな人ができたことを郁乃に知られてしまうのはだからまるで問題にならないのだ。
むしろ、彼女から先に郁乃に言っていたかも知れない。
教室での話、書庫の話、由真の話、登下校で見た花や風景の話。
そんな他愛ない会話の中で、気になる人がいるのだという話を。
——それが貴明でなかったら。
貴明でなければきっと気兼ねなく話せた。

「どうして、たかあきくんなんだろう……」
小さく呟く。
答えなんか出ない。あるわけがない。
好きな人を好きになる理由、そんなものがあるわけないのだから。
ただ、それだけに恨めしかった。誰を恨むこともできないけれど、どうして自分が、いや姉妹が揃って同じ人を好きにならなければならないのか、何を恨んでいいのかわからないけれど何かを恨まなければやっていられない気分だった。
とは言え、恨むものなどあるはずもない。貴明を好きになったのは間違いなく自分であり、そして妹の郁乃もまた。
その事実が誰かのせいにしたところでひっくり返るわけでもないのだから、愛佳と郁乃が解決するしかないということもまた事実なのだ。
だから、躊躇っていても仕方ない。助けなんてこない。
今までずっと悩んで、考えていたことを郁乃ときちんと向かい合って話し合えばいい。もうひとつ大きく深呼吸をするとドアノブに手をかける。

それだけのこと。それだけのことだからこそ難しいのだけれど。

「お、なんだ貴明。今日は用事ないのかよ」
放課後、HRが終わって特に急ぐ様子もなく帰る準備をしている貴明を見て雄二が話しかけた。
「んーまあな。なんだか今日は来るなって言われたし」
「ほう?……んじゃまあ、久しぶりに4人で帰るか」
そう言うと雄二は鞄を持って歩き出す。やけに急いでるな、と訝しがった貴明だったがすぐにそれが環とこのみが待っているからだということに気がついて、慌てて後を追った。

「それで貴明、お前はどうしたいんだ、これから」
教室を出たところで雄二が尋ねる。不意打ちのような質問だったけれど、彼が何を言いたいのか貴明にはわかっていた。
「姉貴もチビ助も何も言わないけどな、わかってるぜ、ありゃあ」
「だろうな。うん、あまり一緒の時間を作れなくて悪いとは思ってる」
昨日も郁乃に聞かれた気がする、と思いながら答えた貴明に、「それはいいんだけどな」と雄二は呟いた。
「お前が積極的に何かをすることについて、姉貴は喜びこそすれ怒っちゃいねぇよ。チビ助も同じみたいだし。まあ、あいつの場合は去年と比べても行きに同じ道を通えるってだけでもお前と一緒の時間が増えて嬉しいくらいみたいだけど」
「積極的、ねぇ。そうなのかな」
「なんだよおい、自分の行動なのによくわかってないのか?まあ貴明らしいって言えばそうだが」
呆れたような声がすぐにいつもの調子に戻る。
そんなところからも雄二が自分のことをさすがによくわかっているということが理解できた。
「ただ、お前自身がどうしたいのかわからないまま、いつまでもいられないだろ。いいんちょも妹の……えーと」
「郁乃」
「ああ、そうそう、その郁乃ちゃんだってどう考えてるんだか」
「まあなぁ。雄二の言いたいこともわかるんだけどな」
これから部活動だろうか、スポーツバッグを持って走っていく1年生とすれ違いながら貴明は病室と自宅の行ったり来たりを繰り返してきた郁乃のことを思う。
彼女に必要なのは同情や優しさなどではなく、ただ普通に接することだと思ってきた。
必要以上に病人扱いするでもなく、けれどもだからと言って彼女が車椅子か松葉杖なしで歩くことも難しいことは事実なわけで。
最初の頃はどこまで手を差し伸べればいいのか、郁乃の中の基準を見極めるのが大変だった。
気を回しすぎて郁乃を不機嫌にしてしまったり、逆に何も手伝わずにいて怒られてしまったりと随分苦労した気がする。
けれども、それで郁乃に腹を立てたり面倒だと思ったりそういうことは不思議となかった。
愛佳のことを、郁乃のことを知りたいと思ったのは自分だし、そのために彼女たちと一緒にいて彼女たちの考えていること、例えば郁乃のそういった基準ひとつとっても少しずつ理解していくことが自分の決めたことに対する答えになっていくのだと自然に思っていた。
「郁乃が退院して、あの子たちみたいに元気に走り回れるようになるまでは、少なくともこのままだと思っていたんだけどな」
廊下の向こうに消えた後輩たちを見やりながら呟く。
貴明に合わせて足を止めた雄二も、しばし振り返って同じ場所を見ていたが、
「それでもいいと思うぜ、今までお前から聞いてた内容だけを考えると。でも、違うんだろ」
「……伊達に幼馴染やってない、か」
「まあな」
はあっ、と大きく溜息をついて雄二に向き直る。そうして足を再び進ませながら、
「どうすりゃいいんだろうな」
「俺が知るかよ。そりゃ女の子嫌いだったお前には今の状況で自分で考えろと言っても酷だろうけどな」
「いやだから、別に嫌いってわけじゃ」
「それはどうでもいいだろ。問題はお前がこれからどうしたいかなんだから」
やれやれ、と呆れた口調の雄二に返す言葉もなく黙り込む。
まったくもってその通りだ。とにかく問題は、そう、愛佳や郁乃ではなく自分自身にあるのだから。
「今まで通りでいいと思っていたんだ。俺はまな……小牧さんのことも郁乃のことも、新しい友達ができたようなものだと考えてたから。だから」
どうせバレてるんだから言い直す必要もないのに、と苦笑しながら貴明の独り言とも相談ともつかない言葉に、
「男と女だからな、結局は。俺はなーんか、こんなことになるんじゃないかと予想はしてたが」
「は?何の話だよ、雄二」
「いやだから、いいんちょと郁乃ちゃんの話だろ」
「そりゃそうだけど。だから、それがどうして男と女だから、ってことになるんだ」
「はあ?」
唖然として貴明を見やる。
いつの間にか彼らは昇降口まで辿り着いており、今まさに下足箱から革靴を取り出そうとしていた手も止まってしまった。
「なんだよ、雄二」
頓狂な声を上げて固まってしまった親友に訝りながら、貴明も手を止める。
その拍子に貴明が落とした靴が、コンクリートの床に当たってばたん、と埃っぽい音を立てる。
放っておいたらそのまま停まっていただろう雄二の意識を、その音が何とか現実に繋ぎとめた。いや、そんなに大袈裟なものでもないけれど。
「や、あのな、貴明」
「うん、なんだよ雄二」
こいつは本気で言っているんだろうか。そう雄二は思った。
まじまじと幼馴染の顔を見つめる。
「……本気で言ってるな、これは」
「だから何なんだ」
そうだ、こいつはそういうやつだ。
これも長い付き合いだからだろうか、雄二には何となく貴明の心の在り処がわかるような気がした。

貴明だって、本気でわかっていないわけではない。わかっていないのではなく、選択する余地が残っていない。いや、より正確に言えば貴明にとって愛佳と郁乃は「愛佳と郁乃」であって、「愛佳」でもあり「郁乃」でもあるのだろう。
自分で考えながら混乱してきたけれど、そうかとも思う。
彼が悩んでいるのは郁乃の手術後、ただ見舞いに行っている姉のクラスメイトという立場から抜け出た時に、自分がどういう立場でどう接していけばいいのだろうということ。
それ以上でもそれ以下でもなく、ただそれだけを考えているに違いない。
雄二から言わせれば「ばかばかしい。今まで通りでいいじゃねぇか」と言いたくなるし、そうとわかった以上そう言いたいのは山々なのだが、言ったところでどうなるわけでもないということもよくわかっている。
こいつはそういうやつなのだ。
貴明から聞いた話と、最近のいいんちょや貴明の様子から総合するに、恐らく雄二の考えている通りでまったく問題ないだろう。小牧妹に会ったことはないけれど、彼らから受け取った情報だけを考えてみても恐らくは大丈夫だと思われる。
そう、貴明は普段通り接していればいい。
普通に会いに行って、退院の日にはお祝いをしてあげて(手術自体の成功率などは委員長から聞いている。雄二が環に聞いて調べてもらったところによるとまずもって失敗することはないだろうし、退院祝いが近いことは恐らく間違いないはずだった)、リハビリに付き合ってあげて、初登校する日には迎えに行ってあげればいい。
雄二がさっきまで心配していた、というよりは面白がりつつも相談に乗ろうと思っていたことは、その関係が内含する彼らの心情の問題であり。
貴明が心配しているようなただの現実的かつ事象的な関係問題では決して、ない。
ないのだが……どうやらこの朴念仁な幼馴染はその、雄二的にはまるで問題ない事柄について思い悩んでいるようだ。

まったく、おめでたいというか鈍感というか。
心中でそっと溜息をつきながらも、まあ貴明だし、と見切りをつけて、
「ま、なるようになるんじゃね?」
「はあ?なんだよそれは。他人事だと思っていい加減だな」
「他人事だからな」
お前ばっかりハーレムになりやがって。そう心の中で付け加えると、本気なんだか冗談なんだかわからない笑みを浮かべながら、
「お前にはちょうどいい試練だ、せいぜい悩んでおけ」
つまるところは、恐らく貴明次第なのだから。そう思った。
そしてこの幼馴染兼親友から見たところ、既に貴明の中で決着はついているように思える。
となると、これ以上自分が絡んでもアホらしい思いをするだけだ。ばかばかしいこと限りないし、自分がそんな思いをする必要なんてない。後は恐らく可能性としては限りなく高いだろう雄二の想像した未来について、貴明が相談しに来た時に一言だけ「モラルなんて知ったことかよ」と言ってやればいい。幼馴染として自分に課されたことはただそれだけだ。
だから、
「ほれ急げ。姉貴とチビ助がお待ちかねだぜ」
話はこれで終わり、とばかりにぶつぶつ言いながら履き替える貴明を急かした。

「お姉ちゃん、好きな人ができたんでしょう」
まるで愛佳がやってくる時間を正確に知っていたように、郁乃はいつもの病室、いつものベッドの上で起き上がって待っていた。寝ぼけた様子もとげとげしさもなく、ただ淡々と愛佳の入室を受け入れた郁乃の第一声。
郁乃がこの呼び方で呼ぶなんて意外だった。いや、意外ではなかったかも知れない。自分1人が呼ばれたことでどういう話になるのかは予想できていたのだから。
だから本当を言えば郁乃がこれほどまでに真剣な表情で向き合ってくれることが嬉しかった、それを確認できた喜びと驚きが愛佳の目を見開かせたと言った方が正しい。
お互いを気遣いすぎて、姉妹だからこそ思ったことを言えなくて、それで隔たり気味になってしまった自分たちの関係を、ここで曖昧な態度で逃げてしまっては修復不能なところにまで行ってしまうかも知れない。そのこともわかっていたから愛佳は驚きはしたものの、郁乃の視線から目を逸らすことはしなかった。
でもやっぱり照れ臭いから、ちょっとだけはにかんで、
「……郁乃にはわかってたんだね」
自分の気持ちはもう決まっているから。
これからどうするのか、それももう方向は決定づけられているから。
だから愛佳は郁乃の問いに正直に答えようと思った。

「誰かは言わなくていいわ。もうわかってるから」
続きを言おうと口を開きかけた愛佳から視線を逸らさないまま、郁乃は言い切った。姉が貴明のことを好きだという言葉を、今目の前で聞きたくない気がしたから。わかっているから無駄なことを省いたと言えば聞こえはいいかも知れないけれども、その実郁乃にもよく理由はわかっていない。
決意して姉だけを呼び出したくせに、なんだろうか、この曖昧な気持ちは。
そう思うのだけれど、嫌なものは嫌なんだから仕方ない。ただ聞きたくないから、今はそれで自分を納得させておく。
「ただ、どういうつもりなのか聞きたかっただけ」
「どういう……って、そう、知ってるんだね」
問い返そうとしてとどまる。珍しく自分が病室に顔を出さなかった先日も、やはり貴明は来ていたのだろう。その事実がどうしても愛佳の胸を刺すけれど、その時に恐らく貴明が……いや、彼のことだから自分から話すことはしないだろうと思う。それでも様子の違う貴明にか、或いは自分が来なかったことに対してか、郁乃は気づいて問い質したんだろう。
この様子だとほとんど全てを郁乃は知っていると思った方が良いかも知れない。
ふぅ、と溜息とも深呼吸ともつかない息を吐いて、愛佳は郁乃の目を見た。
「どうしたらいいか、わからなかったの」
「でしょうね。それは何となく予想できてた。でも、あいつの方はそう受け取ってないわよ」
何も気づいてない相手にとってみればただの奇行にしか映らないじゃない、そう言いかけて言葉を止める。こうなることは、この姉のことだから仕方ないことだろうということもわかっていたから。
「うん、そうだろうね。たかあきくんには悪いことしちゃったな、って。それはわかっているし、謝りたいんだけど、なんかきっかけが掴めなくて」
「別に謝る必要なんかないじゃない」
「え、でも」
「謝ってもらってもあいつはきっと何のことだかわからないって表情をするか、別に気にしてないって言うに決まってるわよ」
「う、うん……たかあきくん、優しいからね」
はにかんで笑う姉の顔を見て、郁乃の胸に名状しがたい感覚がよみがえってくる。
ふ、とした時に沸き起こる例のあれ。姉の恋愛を応援しようと思う気持ちとは別に、意識とは無関係に湧き上がってくるこの感覚は好きではなかった。
だからその感覚を抑えつけるためなのか、それとも別の感情からなのか自分にはよくわからないけれど、つい愛佳の幸せそうな微笑みから顔を背けてしまう。だいたい、そんな幸せそうに笑ってる場合なのか。
「ふん。で、それで終わりよ。何事もなかったかのようにまたここに来て、無駄話してお見舞いを勝手に喰い散らかして、悪いからって別の果物とか買ってきて」
言いながら何て非効率なやつなんだろう、と思った。食べてしまった分を悪いと思って新しい何かを買ってくるくらいなら、最初から食べなければいいのに。
「で、またそれを食べたくなって。あたしにも無理矢理進めて人が食べてるの見ながらにやにや笑って、紅茶を飲んで、好き勝手して帰って、また来て。ほんっとに、単細胞はこれだから」
途中から何か話がおかしな方向へ行ってしまったような気がする。いやいや、今日はこんな話じゃないでしょ、と自分でもわかっているのだが、貴明の行動について話し始めたら止まらなくなってしまった。
……そしてそれが何故か、決して悪い気分でないことが妙に悔しかった。

「まったくあいつときたら、人のこと勝手に名前で呼んでるし。来いなんて言った覚えもないのに毎日毎日飽きもせずやってくるし。だいたいなれなれしい……って、なに」
憤慨しながら口を動かしていたから気づかなかった。
何やら姉が微笑ましげに、というよりにやつきながらこちらを見ていることに。
「ううん。郁乃、楽しそうだな、って」
「なっ?!ばっ、何バカなこと言ってるのよ。楽しいわけなんてないじゃない」
「そう?なんか、とても楽しそうに見えたんだけど」
「はあっ?!私より姉貴の方が入院した方がいいんじゃないの」
ダメだ。どんどん話題が外れていく。
そう思いつつ、郁乃も愛佳も、2人とも修正しようがなかった。というより、愛佳にとってみればわかってはいたもののこの流れはとても都合が良かった。

こんなに饒舌になるなんて、愛佳1人で世話をしに通っていた時にはなかったことだ。
必要なことだけを受け答えし、しかもその殆どは愛佳が1人で話し続けていることに対して相槌を打ったり「いらない」とか「勝手にすれば」とか、そんな言葉が返ってくる会話とも言えないような会話をするだけだったのだから。
だからもう、郁乃の気持ちなんてはっきりとわかってしまった。

「ね、郁乃」
怒っているのか照れているのか、恐らく自分でもよくわかっていないであろう郁乃が顔を赤くしながら一息入れたところで愛佳が口を開く。

「郁乃もたかあきくんのこと、好きなんだね」

b_list.jpg(497 byte)   終編へ続く。