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「明人、これ……」
「ああ、ラピス。これが雪だよ」

初めて見る雪は、とてもきれいで冷たくて。
けれど、とても心が温まる感じがしたのはどうしてなのだろうと。
重い灰色の空からちぎれたようにひらひらと舞い落ちてくる白の欠片を、ラピスは飽きることなくいつまでも眺めていたのだ。
「冷たい」
「手袋をしておこうな、ラピス。風邪をひくぞ」
「……いや」
「え?」
だから明人が心配して言ってくれていることはわかっていたのだけれど。
この冷たくて暖かい感じにいつまでも包まれていたくて、いやだと言った。
思えば、明人に対して明確に自分の意思表示をしたのはこの時が初めてだったかも知れない。
「仕方ないな、ほら」
ふわり、とした感覚がラピスの小さな体を覆って。
すっぽりと明人のコートに包まれたラピスは小さく笑った。
「暖かいか?」
袷の隙間から手を伸ばして、それでも雪に触れようとするラピスに微笑む。
「……うん。明人、暖かい……」

雪灯りに弾む心

「ラピス、いい加減に起きなさい」
「んー……もうちょっと」
「あまり寝ると、また頭が痛くなっても知りませんよ」
「むにゅ……」
「ラピス」
「……」
進学組は一足早く休みに入った。
だからきっとルリ姉にはこの、いつまでも寝ていられるという感動が薄れてきているんだ、そうに違いない。
と布団の中で結論づけるラピス。
「まったく、いつまでも子どもみたいなんだから」
ぶつぶつとルリの嘆く声が聞こえるが無視。
天河家では、暖房は居間にしかない。当然のことながらラピスの部屋にもあるわけがなく、冬の朝の寒さはこたえるのだ。
そんなわけでもうちょっと布団の中で丸まっていることを決定したラピスはその決定をそのまま実行に移す。
「……しかたないですね」
がっしりと布団を掴んで丸くなるラピスの耳に、やれやれと言うジェスチャーが見えそうなくらいはっきりと呆れた声が響く。
がしかし、こんなことで負けてはいけないのだ。
そりゃあ、17歳にもなってこんなんじゃ、ってのはあるけれど。だからと言ってその17の乙女のプライドと寒さを比べれば……比べるまでもないのだから。
これが明人だったらやはり少しは違うんだけど。
「しょうがないので、明人さんを」
「おはよう、ルリ姉」
呼んで起こしてもらいましょう、後半の言葉を一切言わさないタイミングでルリの台詞は遮られる。
気持ちはわかるけれど、同じ家に住んでいるし明人の方が毎日早く出るのだから、ラピスの寝起きが悪い、というか冬になるといつまでも布団から出てこないことくらい知っているのに。
そう思わないでもないルリだったが、とりあえずラピスが起きたのでよしとした。
「まったくもう。早く着替えてきてくださいね。ラピスが食べないと片付かないんですから」
「わかってるもの。明人は?」
「明人さんがこんな時間にまでいると思いますか?」
「……むぅ」
「じゃあ、そういうことで」
本人の気合や計画、最終理想形態とは全く関係なしに時間は進むもの、そんなことを思いながらルリは部屋を出た。

立派なレディになるつもりなのだ。
明人とそう約束したから。
そしてそれが果たされたら明人はずっと一緒にいてくれると約束してくれたから。
『明人と同じくらい家事ができるようになったら、ずっと一緒にいてくれる』
もちろん、明人がそんな約束をするはずもない。というよりは、彼にとってそんな約束は不要だろう。
ラピスやルリを手放すつもりはないのだから。
ただ、どういう聞き違いなのかそれとも勘違いか、ラピスはそう思っている。
だから少女のままではいられないのだ、明人とずっと一緒にいるためには。
17歳にもなってそんな約束が本当に交わされて、効力を持っているなどとは思っていないが、少なくとも明人と出会ってからの4年間ずっと心の支えにしてきたものだから、今更それを失うのは怖い気がする。
怖い、というよりも、大事なものを失ってしまう喪失感といえばいいのだろうか。
「ラピス、リビングの掃除はお願いしますね」
食後の珈琲を楽しみながら思い出に浸っていたラピスに、そんなことは関係ないとばかりのルリの現実的な台詞がかけられる。
ラピスが食べ終わるなりちゃっちゃと片付けを始めて、今まさに洗濯籠を持って洗面所へ向かおうというルリの後姿はまさしく主婦そのもの。
もうちょっと年頃の女の子らしくならないかなあ、とルリが聞いたらそれこそお互い様だという目で呆れられそうなことを考えながら、ラピスはそれでもちょっと羨ましいと思った。
料理のことひとつとっても、ラピスだってできないわけじゃない。
けれども食事の用意を頼む時や食べ終わった後に、明人のかける言葉が少し異なるのだ。
『じゃあルリちゃん、夕食はよろしく』
『ラピス、頼むな。刃物と火傷には気をつけるんだぞ』
『おいしかった。ごちそうさま』
『偉いぞラピス。だいぶ上手になってきたな』
明人に悪気がないことはわかっているし、かけられる言葉はそれでもラピスを喜ばせるに十分なものではあるのだ。
けれども、ルリには全幅の信頼を寄せて、ラピスには危なっかしい妹を扱うような響きを含めているかのように感じ取ってしまう。
言葉数も少なくただほんの数語を言うだけで済ませ、それでも通じ合う二人と、まだスキンシップと交される言葉に込められた想いに頼っている風な二人。
その違いが時にラピスを焦らせたり苛立たせたりすることもまた確かなことで。
ユーチャリスで戦っていた時はあれほど近くに……と、言うよりも殆ど同一であったことが懐かしく、また夢のように思えてきてしまう。
そんな弱気に陥ってしまう自分が嫌で頑張って大人らしい言動を摂ろうと奮闘するのだが、元来の雰囲気なのか明人が持っている印象からなのか、どうしても可愛らしい精一杯の背伸びにしか思われない。
そしてまた落ち込んで。
要するに堂々巡り、悪循環。
もがけばもがくほどどつぼに嵌っていってしまうのだから、これはもう仕方ない。
仕方なくても何とかしなくては、と悪戦奮闘。
「はあ……」
確かにルリは凄いと思う。
ネルガル系列のとは言っても孫会社の下請けだけれども、そこの工場で働く明人の代わりに家事の大半をこなし、学業では優秀な結果を収めてこうして進学後の飛び級すら決定している。
そこだけを見ればラピスだって家事を手伝いつつ、暗記科目以外では学年どころか模試では全国一位から降りたことはないのだから同等なのだが、何かこう、足りない気がするのだ。
明人がそんなことを気にするとは思えないけれど、もしかしたら、見た目。
つまり容姿。
それならルリと同等かそれ以上の美少女であるとことのラピスなのだから、足りないというわけではない。
かもし出す雰囲気。
少女の頃から表情が少なく、イネスに『笑わないと小頬骨筋や笑筋が衰退して頬にたるみができたり口輪筋が弱ってだらしない表情になったり口角下制筋がたるんで下あごに皺ができたり(中略)というわけでいつでも笑顔でいた方がいいわよ』と諭され、いや脅された結果、本人の努力もあって表情は豊かになったルリは、それでも元の性質からなのか大人びた雰囲気を身に纏っている。
そう、言うならばルリは可憐な中に大人びた雰囲気を持っている。
対してラピスは、復讐も終わって某・元通信士に『こんなの明人さんじゃないー』と言われたほどにスイッチが入ると何だかはっちゃけた感のあった頃まで明人とリンクで繋がっていたせいか、某・ネルガル会長夫人に言わせればどちらかと言えば明るく可愛らしい元気さが魅力だ。
すると、ラピスに欠けている雰囲気とは……
「えーと。……しっぽり、かな?」
相変わらずボキャブラリーは貧困だし、どこか間違っている。
ただ、某・暴走科学者に言わせれば「自分に足りないものを補おうと一生懸命に原因を探るその姿勢は誉められる」となる。
「何が『しっぽり』なんですか」
「はぇっ?!」
「……斬新な驚き方ですね」
突然頭上から降ってきた声に驚いて見上げると、ルリが呆れたような表情で立っていた。
エプロンを外しているところからすると、洗濯は終り、これから進学後に提出が決まっているレポートに取り掛かろうということだろうか。
「あ、えーとね、んー……」
「いいですよ、無理に説……言わなくても。どうせまたイネスさんに下らないことを吹き込まれたんでしょう?」
別にそういうわけじゃないんだけどなあ、ラピスはそう思ったがこのままイネスのせいにしておいた方が収まりがいいような気がしたので、曖昧に笑ったまま黙っておくことにした。
「ルリねぇは、これから勉強?」
そして矛先を変えての誤魔化し。
知ってか知らずか、ルリはのってきた。
「ええ。乾燥機よろしく。あとお昼」
「うん。できたら呼ぶから」
ルリの言葉が少ないのはいつものことだけれど、何となく嬉しくなって。
ラピスは今度は心からの笑顔で答えた。

「ユキ」
「ああ、雪だ。ラピスは見たことないだろう」
明人の発した単語がよくわからなかった。
いや、正確に言えば単語の持つイメージが湧かなかったと言った方がいい。単語そのものは知識として持ってはいたのだから。
「情報が不足している。俺が出てもいいんだが、赤月のやつが休めと煩くてな。エリナも同調してくるし、月臣やゴートも俺に手伝わせる気はないようだしな」
戦闘時にはどうしてもリンクだけでは不足してしまうために必要だが、普段の生活に必要な程度の視覚はラピスの補助で問題はない。
それどころかイネスによれば視力補強・回復兼用掛硝子、端的に言えば眼鏡をすればいいのだから、ナノマシンの活動が停止していないために白濁したように見えるということを除けば、ほぼ通常の弱視と同じなのだ。
だからこのネルガル月面工廠でもバイザーを外さずにいるのは、単に明人の気持ちの問題なのだろう。
けれども、ラピスと二人でいる時だけは未だ完治していない、虚ろな視線を晒す。
焦点が合わないせいか少ししかめているようにも見えるが、ラピスはバイザーをかけていない明人の方が好きだった。
より一層リンクへの、つまりラピスへの依存度が高くなるということではなく。
仮面を外したほんとうの明人を見ることができるのが、自分とイネスだけであることが嬉しかったのだ、幼心にも。
心持ち眉ねを寄せている明人に、ラピスは首を傾げる。
「ユキ。……雪。白くて冷たいってイネスが言ってた」
「そうだ。月臣たちの情報から次の作戦が決まるまで、俺たちは休みだ。だから……」
言い辛そうに口ごもる明人。
そんな様子に再び首を傾げると、
「明人?」
「あー、そのなんだ、たまには二人でデートするのもいいだろう」
「デート。してくれるの、明人?」
「あ、うん、ま、まあな」
嬉しいのだけれど、どうやって嬉しさを表現するのかわからない。
だからいつもと同じような無表情で、僅かに口元をほころばせることくらいしかできなかったのだが、それでも明人には効果があったようだ。
『デートしなさい』
『はあ?』
『だから、デートよ。ラピスとデートしてきなさい、って言っているの』
『いや、デートって。いつも一緒にいるのに今更デートもへったくれもないだろう』
『ただ一緒にいることと、デートという名目で出かけることは違うのよ。だいいち、私とだって一緒にいるのにデートしたでしょう』
『そっ、それはその、ほら約束だったし』
『あら、やっぱり覚えていてくれたのね。アイ、嬉しい』
『……年相応な言動をとれ』
『……射すわよ?』
『すまん』
『ま、とにかく。どっちにしろ月臣くんたちが帰ってくるまであなたたちの出撃はないわけでしょう。あ、ユーチャリスの整備とかオモイカネの調整なんて言い訳は却下よ』
『何でだよ』
『ウリバタケさんが来ているからよ』
『……じゃあ、あれだ。ボソンジャンプの』
『あ、それも却下ね。遺跡研究チームのD班から、火星航路の定期点検でC.Cの搬入が遅れてるから、向こう一週間は研究報告書の作成に入るって言ってきたから』
『……治療が』
『私が行け、と言っているのに?』
『……はあ』
『なによ、そんなにラピスとデートするのが嫌なの?何度も言うようだけれど、今更なんじゃなくって?』
『そういうわけじゃない。ラピスをたまにはどこかに連れて行ってやりたいし、一緒にいたいと思っているさ』
『じゃあ、なに』
『いや、イネスさんがデートとか言うからだろ……』
実際、ラピスと出かけるのは楽しい。
微かな表情の変化、それも戦闘における緊迫感などからくるような類のものではなく、年相応と言うには少し違うのかも知れないけれども、少女らしい感情をうっすらとでも見せてくれる瞬間を見つめているのが、明人には嬉しかった。
だから、出かけることに問題はまったくないし、寧ろ望むところだったのだが。
「明人とデート」
「……うん、そうだな、ラピス」
「デート。明人と」
「……いや、そう何度も言わなくても」
「デート」
「あら、いいわねぇ、ラピス」
「!!」
突如、背後から聞こえてきた声にびくり、と体を震わせる。
それでも微かに肩を動かした程度であるのは、さすがに肝が座っている。
「……エリナ」
「おはよう明人くん。それで?デートですって?」
「ああおはよう。とりあえずその企んでいるような笑いを何とかしろ。朝っぱらから気味が悪い」
「企んでなんていないし、気味が悪いだなんて、二重に失礼ね。どうせ企んでるって思われてるのなら、本当に企むわよ?」
「何をだよ」
月面なのだから朝夕の移り変わりは窓の外を見てもわかりっこないのだが、時間は午前8時を示している。
向かう方向から、恐らく明人たちと同様に食堂で朝食のつもりだったのだろう。
「まあいいわ。朝食前に口論するのも何だし。これからでしょう?」
「ああ。ラピス、行くぞ」
「うん」
「あ、ちょっと待って」
嬉しそうに明人のシャツを握りしめているラピスに声をかけると、踵を返そうとした明人にエリナが待ったをかける。
二人は運ぼうとした足を止めて振り返る。
「どうした?」
「ちょっとね。ラピス、先に行っててくれるかしら。すぐに行くから」
「わかった」
エリナがラピスに頼むと、いつものことながらどこから音を出しているのだろうかと疑問に思ってしまう「とてとて」という足音を響かせながらラピスは通路の向こうに消えた。
もちろん、擬音の出所というか「どうやって」音を出しているのか、については、とある科学者の微笑みが脳裏を過ぎるのであまり考えないようにしている。二人とも。
「それで?やはり仕事をさせたくなったか」
ラピスが角を曲がって消えるまで微笑んでいた明人は、桃色のモミの木が歩いているかのような後ろ姿が消えたのを確認すると表情を沈めてエリナに向き直った。
「いいえ。ラピスとデートと言うのは本当なのね」
「うん?ああ、まあそうだ。デートと言うか……出かけるだけなんだが、イネスさんがどうしてもデートだと言うから、まあデートなんだろうな」
明人はどうにも歯切れが悪い。
ナデシコ時代の朴念仁・優柔不断ぶりから女性、もちろん少女だって含むが、その相手をすること自体にあまり慣れていないのだから仕方ないのかも知れないが。
けれどエリナはそんな明人にぴしゃりと言い放った。
「はっきりとデートだってことにしなさい」
「え?」
「照れるのは構わないし、濁してしまうのも仕方ないとは思うけれど。でも、今日はちゃんとした格好をしてラピスをエスコートしてあげて」
「なんでだよ」
明人だってラピスと一緒の時間を過ごすことを嫌がっているわけではないのだ。
普段通り、手を繋いでラピスの見たいものを見せてやって、連れていってあげたい場所へ行けばいいじゃないか。
自分ではできる限りラピスの好きなようにさせてやろうと思っていたところに、エリナからまるで指示のような言い方をされて何となく不愉快になった。
「普段通りにしようと思っているでしょう」
「そうだが、それが何か」
「ダメよ、それじゃ。ラピスはデートがしたいんだから」
「いやだから、別にいつも……」
「いつも、と同じじゃダメなんだってば」
「なんでだよ」
訳がわからない。
同じ疑問を口にして、さっきよりも更に不快の念を含めてエリナに向ける。
向けられたエリナの方はと言えば、そんな明人の口調にも慣れたもので一向に動じる様子はない。
「いい?ラピスは立派なレディなの」
「……はぁ?」
まさかそんな言葉が返ってくるとは思わなかった明人の口からは、間の抜けた言葉がかすれた息と共に吐き出されるだけだった。
「明人くん、あなたラピスの望みって聞いたことある?」
質問に明人は少し考えると、
「いや、ない」
「そうでしょう。私やドクターだってないもの。それで、それが異常なことだってことはわかっている?」
「まあ、確かにそうだとは思うが」
「生まれ育った環境もあるかも知れない。でも、だからそれでいいと思っているわけじゃないわよね、あなたも」
明人から返事は聞けなかった。
言われれば、それでいいとは思わない。
けれどどこかで、今のままでいいと思っていなかったか。
ラピスが感情を出さないこと、自分の望みを口にしないことを当たり前のように思い、そしてその原因である火星の後継者たちのせいであって、時間をかけて少しずつ少女らしさを取り戻していけばいいのだと安易に考えていなかったか。
ラピスに対して何らの働きかけを積極的にしようと思わなかった、「普段通り」や「時間をかけて」というのがそもそも自分にとって逃げではなかったか。
「情報は集まりつつあるわ」
エリナが会長秘書というよりは共謀者といった風な目をして、明人に対する。
はっと頭を上げた明人に、
「昨夜ゴート・ホーリーから入った定時連絡によれば、次の襲撃は宙域CF35のポイントW-SS5にあるコロニー。通称……」
「シラヒメか」
語尾をとった明人に、エリナは表情を変えずに頷いた。
「あなた、言ったわよね?ラピスとのリンクに反対した私が『ラピスの将来に責任を持てるのか、道具として使うだけで捨てるつもりじゃないのか』って聞いた時」
「ああ……覚えている」
そうだ。
確かに言った。
「ラピスは必ず日常に生まれ変わらせる」
その時と同じ言葉を口にする。
「生理年齢は14歳だけれど、ラピスの精神は幼いままだった。だから戦闘に、あなたのサポートには寧ろ向いていた。でも、やがて終わる復讐に巻き込んだまま彼女を放り出すことはしない、そう言ったわよね」
今度は明人が黙ったまま頷く。
それを確かめてエリナは続けた。
「例え傲慢だと思われても、ラピスの心を社会に戻って日常を過ごせるように、人の間で生きていけるようにするには私たちが導いてあげなくてはならない。見守ってあげるだけでいい時期と機会を、あの子は失ってしまったのだから。そしてそれを最も有効的に行えるのがリンクしている明人くん、あなたであることもわかっているはずよね」
「わかっている。わかっているんだ、エリナ」
尚も続けようとするエリナを制して、明人が口を開いた。
「俺は甘えていた。今は戦闘中だから、復讐は終わっていないから、時間が解決してくれるから、そんな言葉で言い訳を作り続けていた」
明人がもっと感情を表さなければならなかった。
怒り、憤り、恨み、憎み、負の感情ばかりでなく、もっと日常の些細なことに関する小さな感情の波をラピスにも伝えてやるべきだった。
自分に作ってやった逃げ道を辿ってばかりで、気がつけばいつか戦いは終わるのだということを頭の隅から放り出していたのかも知れない。
「楽なことばかりを選びたがるのは、昔と全く変わっていないということか」
自嘲する。
ラピスは変わった。
研究所から救出した当時と同じなわけではない。
少しずつだが、確かに変わってはいるのだ。
だが、だからと言ってその結果に胡坐をかいて漫然としているだけではダメなのだ、それはもちろんわかってはいたのだけれど、実行できなかった。
その結果、ラピスは相変わらず自分の望み、その延長にある自分というものが希薄なまま、明人と繋がって得られた排他的な感情を得て欲しかった感情よりも多く積み重ねていってしまっている。
「そのラピスがたった一つ、私たちに言った望みが」
沈思していた明人はエリナの声に視線を向けた。
その目を正面から受け止めると、幾分和らいだ口調でエリナは言う。
「『明人とデートしたい』だったのよ。子供としてじゃなくて、女の子として明人くんに見てもらいたい、明確に言ったわけじゃないけれど初めてあの子がただの依存からでなくて、あなたを求めてきたのよ?」
明人は「そうか」としか言えなかった。
気恥ずかしさはもうない。
ただ、ラピスがただの子供としてではなくて少女としての望みを持ったことが嬉しく、そしてそれを叶えてあげられるのが自分であることが誇らしかった。
結局、ラピスを道具としてしか見ていなかったかも知れない自分であるのに。
それなのに。
ラピスは……
「わかった」
それだけを言うと、明人は珍しく駆け出していた。
食堂に着いたら……多分、夜勤連中と通常シフトの朝食でごった返しているわけで、相当に注目は集めるだろうけれど、「デートしよう」とはっきりラピスに申し込むのだ、そう考えながら。

「で、それがどこでどう間違えたのかしらね」
Cランチのサラダをつつきながら、エリナは溜息混じりに呟いた。
「まあ……明人さんとラピちゃんだし。いいんじゃないですか」
複雑な笑みを浮かべながら困ったように返答にならない答えを口にするのは、科学系と芸術系で本人そっちのけの大激論(あわや大乱闘)を繰り広げられてしまった結果、結局自分自身の意思をさり気なく貫いて分子栄養学に進学し、それでも諦めきれないエリナに懇願されて社員食堂のバイトを続けている久美。
バイトそのものは学問とは別に、どんな職業に就くのであれ関係しそうなので久美としても願ったりだったのだが、こうしてシフトに合わせてやってきてはわざとらしく月刊コスモ・デザインや季刊クリエイターズなどを置いていくエリナにはちょっと辟易している。
家に帰れば帰ったで、そのまま医学に発展させる気はないかなどと言われるし。
二人の気持ちはありがたいのだが。
「私としては、明人くんがもうちょっとラピスをレディ扱いして、ラピスは恥じらいを忘れない淑やかな女性になるのが望みだったのに」
はぁぁ〜と頭を抱えるエリナに、『どういう女性だよ』と突っ込みを入れたくなったがぐっと堪える。
「少女らしい悩みで可愛らしいじゃないですか」
「それじゃダメなのよ。まったく、あの朴念仁ときたら……いい加減ラピスを一人前に扱ってあげられないものかしら」
どっちかと言うと、犯罪と言えるほどに少女趣味なエリナ自身にも問題があるんじゃないかと思ったりもするけれど、当然これも口に出したりはしない。
ラピスの気持ちもわからないではない。
最近ではそうでもないけれど、高校までは久美だって大人扱いを受けていたような気がしないから。
きっと明人にとっては、月面の専修科に通っていた少女のままなんだろうな、と思ってそれほど気にしなかったけれど。
「でも、少女として扱ってもらえる時間は短いんですから。後で振り返ってみればラピちゃんだって『あの頃に戻りたい』なんて思ったりするかも知れませんよ」
久美の発言に他意はなかった。
だがエリナはじろり、とキツイ視線を向ける。
思わず引いてしまった久美に、
「それは『おばさん』になってしまった私に対するあてつけかしら?」
ぶんぶんと大きく首を横に振る。
「ま、まさかっ。そんな、結婚したからって『おばさん』になるわけじゃあないんですし」
「……いいわね、若い子は」
「え、いやあの」
「そうよね、久美ちゃんはまだ結婚相手だって選べるわけだし、あなたなら明人くんだって簡単におとせるでしょうしね」
「ちょ、ちょっとエリナさん、それは今は関係な」
「はぁ〜、いいわよねーわかいこはー」
「……」
もう話は完全に逸れてしまっていた。
子供っぽく拗ねてしまっているエリナを見ながら、「ラピちゃんが子供っぽいのは明人さんじゃなくてエリナさんやお姉ちゃんのせいじゃないのかなあ」と思いつつ、やっぱり口には出さない久美だった。
そのままぐったりと机の上に突っ伏しているエリナにお茶を置くと、厨房へと戻っていく。
だから、エリナの呟きは聞こえなかった。
「でもね。あの子が自分から望んだことなんだもの。……叶えてあげたいじゃない」

—……として、木連最高評議会との事務レベルでの折衝に入る予定となっています。では、次に国内のニュース—
ウィンドウから流れる無機質な声を聞きながら、ラピスはぼうっと窓の外を眺めていた。
赤月が明人とラピスの退職金代わりに買ってくれた一戸建て。
1階には6畳ちょっとのダイニングキッチンと8畳のリビング。それと小さいけれど半身浴もできるお風呂とトイレ、明人の部屋として和室が6畳。
2階はルリとラピスの部屋がそれぞれ5畳の洋室となっていて、ルリの部屋には布団を干せるようにベランダがついている。
家庭菜園なんてできそうにない10平米程度の小さな庭だけれど、芝生を敷き詰めて生垣として比婆で囲み、梅や金木犀が季節ごとに香りで包んでくれる。
例えこの程度であっても、普通の退職金では一括購入などできるはずもない。
『時価に合わせて、ね。頭金分は君たちの退職金としてサービスするから、残りの金額はきっちりローンで払ってもらうよ』
そう言った赤月に明人はお礼を言っていた。
明人やラピスにかかった金額は相当なもので、退職金どころかネルガルの方こそ支払ってもらいたいくらいだっただろう。
明人の治療費、ユーチャリスの建造費に運用費、ネルガルとは結果的にはギブアンドテイクだったとしても、恐らく純粋に明人やラピスの働きの影響で受ける利益というのは10年スパンくらいで回収すると考えなければならない。
要するに、初期投資が大きすぎる。
だから、あの時点で明人が降りるというのは、勝手な行動だった。
後始末も明人の就職先も2人の戸籍も、すべて用意してくれたうえで退職金代わりに一戸建ての頭金を出してくれたのだから、感謝すべきだと思う。
明人がお礼を言ったのは、だからだとラピスにもわかっていた。
もちろん、その裏で交されていた会話は知りようはずもない。
『随分ケチなのね。家くらいどーんと買ってあげてもいいじゃない』
『エリナくんは天河くん贔屓だからねぇ』
『別にそういうわけじゃないわよ。ドクター、あなたはどうなの』
『私もそれでいいと思うわ。単独作戦ばかりだった彼をネルガルのSSでは使えないでしょうし、そもそも危ないことはもうやって欲しくないしね』
『冷徹ね』
『そんなことはないわよ。彼自身の希望もそうだと思うもの。星野ルリやラピスを引き取ると言った以上、ネルガルにおんぶに抱っこしてもらうつもりじゃないでしょう』
『まあ、ね。ネルガル本社では雑用にも使えないだろうから体を使って働ける職場を紹介して欲しい、って彼が言ってきたんだよ?』
ネルガルの庇護下で暮らしていくこともできたろう。
赤月も火星にマンションと別荘、一生食うに困らない金額を用意していたのだから。
けれどもそれは明人の望むところではなかった。
ルリやラピスを養っていくのは、自分の力によってでなければならない。家族を養っていくだけの力をもって始めて、自分はルリやラピスの家族だと胸を張って言えるのだと思っていたのだから。
自分の学歴や能力では、会社勤めなぞできよう筈がないことはわかっていたし、いつ死ぬかもわからないSSの仕事に就く気もなかった。
家族を置いて逝ってしまう可能性のある仕事をするなんて無責任なことはできなかった。
だから彼は専修科しか出ていない自分にもできる仕事を頼んだのだ。
そこだけは、紹介してくれた赤月に甘えることにして。
そして朝から晩まで身を粉にして働いた結果、何とかルリやラピスの学費を払いながらも生活していけるくらいの収入を得るようになった。
最初から少しは上乗せされていたようだったし、ルリやラピスが奨学金を貰えるということもあったが、実際には今こうしてラピスが見ているウィンドウもリサイクルで貰ってきて直して使っているもので、自動車なんてもちろんのこと持っていないし、自転車ですら3人で2台を使いまわしている。
それでもルリとラピスに惨めな思いだけはさせたことがない。
久美・ルリ・ラピスと3人同時に通うのだから、制服をお下がりで貰うということができなかったこともあるけれど、制服も私服もきちんと新しいものを買ってもらっているし、お小遣いも友達と同じくらいは貰っている。
家族は助け合うもの、だとわかっているルリもラピスも、学校に許可を貰える高校からはアルバイトをして自分の小遣いくらいは稼いでいるが。
つましい生活をしながら、それでも3人は幸せで、苦労だと思ったこともない。
できるだけ安い買い物をしようとルリと一緒に広告とにらめっこをすることも、楽しい。
だって。
明人とルリと、一緒にいたかったから。

—では、天気予報です。小暮さん、お願いします—
—はい、関東地方は厚い雲に覆われており、今夜半からは……—
ニュースは天気予報に変わっていた。
テーブルに頬杖をついたまま、ラピスは聞くともなしに聞き流している。
……望むことも拒否することも、すべて明人に対してだった。
明人と一緒にいたいと望んだこと。
雪に触れ続けていたかったこと。
初めて何かを望んだことは……そう、きっと明人とデートしたいと思ったことだった。
イネスから借りた本、高等科の時に借りた恋愛小説(?)は明人とルリ、それと久美によって取り上げられちゃったけれど、それ以前からよくイネスは本を貸してくれた。
その中にあった、『デート』という単語。
大概の言葉は知っていたけれど、その言葉だけはよくわからなくて調べてみたのだ。
『日付』
文脈から言って、それは違うと思った。
『男女が時間や場所などを決めて会うこと』
何となくそれっぽい気がした。
でも、ユーチャリスで出撃する時間を決めていたし、場所だって専用ドックなのだから、それがデートだとも言えるのではないか。そう思うとちょっと違う気がした。
どっちが違うのかわからない。
ユーチャリスで出撃することをデートと言わないことなのか、それとも文脈の捉え方が違っているのか。
はっきりとはしなかったが、話の中でデートをしている2人はとても幸せそうだったし妙に心が惹かれてしまう単語だったから、思い切ってイネスに尋ねてみたのだ。
『デート?』
イネスの声に、ラピスはこくん、と頷く。
『そう、デートね……ラピスもそういうことに興味を持つ年頃になったのね』
年頃になったって言っても、1年しか付き合いがないんだけど。そもそもそう思ったきっかけを作った本を貸してくれたのはイネスだし。そう思ったラピスはけれど、何だか感慨深げにしているイネスに何も言えなかった。
もちろん感慨深げにしている裏で、『そう言えば私はあの時の約束を果たしてもらったけど……そのお礼も必要よね、ええそう、必要なのよきっと。ていうか必要だわ。何がいいかしらってもう決まっているんだけど妙齢の美女とのスウィートナイトをうふふふふ』とか何とか考えていたことまではわからなかったけれど。
しばらく何事かを考えるようにしていたイネスは、ふ、と顔を上げると、
『ラピス、実際にデートしてみればわかるわよ』
とこともなげに言う。
デートの仕方もわからないラピスは小首を傾げるが、そんなことは当然わかっているという風にイネスは続けた。
『あの本にあったでしょう。雪の公園で二人は手を繋いで……って。それを実践してみればいいのよ。いいラピス?明人くんに明日の朝、雪が見たいって言ってご覧なさい。明人くんならきっと連れて行ってくれるから』
『でも、ユーチャリスで出撃……』
『それなら大丈夫、ちゃんと手は打っておくから』
何だかんだ言ってやはりイネスは頼りになる、そう思った。
明人はイネスの言った通り、ちゃんとデートに連れて行ってくれたし。
最初は何だかごねているようにも見えたけど、後からやってきてきちんとデートの申し込みをしてくれた。
まだデートするということがよくわからなかったけれど、何だかとても嬉しかったことを覚えている。
それから、ボソンジャンプで地球まできて。
今でも思い出せる。
初めて明人に私の望みを言って。
思い出に残るデートをした日だから。

「ラピスもういいぞ。目を開けても」
そう明人が言った瞬間、鼻の頭に冷たいものが乗っかった気がした。
ぎゅっと硬くつぶっていた目をゆっくりと開いていくと、まだ完全に開ききっていない瞼を透かして明るさが届く。
「明人、これ……」
「ああ、ラピス。これが雪だよ」
初めて見る雪は、とてもきれいで冷たくて。
けれど、とても心が温まる感じがしたのはどうしてなのだろうと。
重い灰色の空からちぎれたようにひらひらと舞い落ちてくる白の欠片を、ラピスは飽きることなくいつまでも眺めていたのだ。
「冷たい」
「手袋をしておこうな、ラピス。風邪をひくぞ」
「……いや」
「え?」
だから明人が心配して言ってくれていることはわかっていたのだけれど。
この冷たくて暖かい感じにいつまでも包まれていたくて、いやだと言った。
思えば、明人に対して明確に自分の意思表示をしたのはこの時が初めてだったかも知れない。
「仕方ないな、ほら」
ふわり、とした感覚がラピスの小さな体を覆って。
すっぽりと明人のコートに包まれたラピスは小さく笑った。
「暖かいか?」
袷の隙間から手を伸ばして、それでも雪に触れようとするラピスに微笑む。
「……うん。明人、暖かい……」

薄暗い空に反して地面は明るく感じた。
複雑な形が集まった感じのする市役所の裏、人目につかない場所にジャンプアウトした後は大通りに出て南へ歩く。
人通りは少ないけれどさすがに黒尽くめの格好で出歩く訳にはいかず、というよりも明人がきちんとデートの申し込みをしているのを見たエリナとイネスが「デートらしい格好をしなさい」と言って着せたロングコート、下にはさすがにネクタイまではしないが黒い厚手のスラックスに深いオレンジのジャケット、エンジのギンガムチェックが入ったシャツに黒いハイネック。結局コートとスラックス、胸元から見えるハイネックだけならば黒尽くめじゃないか、と明人は苦笑したが。
その明人にすっぽりと包まれてしばらく降る雪を堪能したラピスも今は出て、明人と手を繋ぎながらゆっくりと歩く。
ワンピースに素足では寒いので白いタイツに大きめのブーツ。まるで長靴のように見えなくもない。それにコートを着ている、ではなく被っている、ように見えるラピスが手を繋いでちょこちょこと歩く姿はとても愛らしく、見た目の幼さを増長しているとしか思えない。
明人は溜息をつくと、顔の造形からしてどうあっても人目を惹くラピスにあえてこの格好をさせたエリナとイネスを遠い空から怨んだ。
県民会館を右に曲がり、県庁の南を流れる松川の緑地帯に積もる新雪を踏みしめながら歩く。

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「明人」
「ん?」
ゆっくりと歩く二人の足跡が、真新しい白に凹凸をつけていく。
「どうしてここにしたの」
ラピスの問いに明人は少しだけ遠い目をしながら呟くように言った。
「ああ……ここはねラピス。ルリちゃんが自分を取り戻した場所なんだ。本当はもっと山の方なんだけど、そこじゃあ歩けないほどに雪が積もるからね」
ルリ。それが星野ルリのことであることはすぐにわかった。
自分を取り戻した場所であるということも、明人とのリンクを始めた頃に何となく知ったことだった。
明人がラピスを救出した後すぐの、夏−日本ではちょうど夏休みだった−に赤月が持っている別荘で、現実と幻想の狭間で揺らめいていたルリを取り戻した時のことを言っているのだろう。
ラピスはルリに会ったことはない。
そして、明人がイネスたちに事前にあれだけ注意されていたにも関わらず、デートの最中に他の女のことを口にしていることから、ラピスが不満を感じてもいいはずだったのだが、不思議と嫌な感じは起こらなかった。
なぜだろう、そんなことを考えながらじっと明人の横顔を見つめる。
そこに浮かんでいるのを読み取ることはできなかったけれど。
しばらくの間、ゆっくりと雪を踏みしめる二つの足音だけが響く。
早朝ということもあって、車通りも少ない県庁と城址公園に挟まれた松川沿いを神通川方向へ歩く。
微かに足元で立てる雪の音が、ラピスには心地よかった。
「明人」
「疲れたか?ラピス」
不意にかけた声に、穏やかな色を浮かべた瞳を向ける。
さっきと同じように、ラピスはそこから読み取れる感情を探る。
単に男女が時間と場所を合わせて会うだけであったはずなのに心惹かれてしまったデートの秘密が、何となくそこにあるような気がしたから。
「明人」
けれど、いつもの穏やかに見守る視線しか見つけられなかったラピスは、もう一度名前を呼ぶ。
「ん?」
立ち止まって腰をかがめ、ラピスの視線に近づく。
「明人」
吐く息が白い。
「ルリが大事?」
白く暖かい吐息と共に吐き出したその言葉が、明人の表情を少しだけ硬くした。
言ってはいけなかったか、とラピスは少し後悔したが、自分がルリに持っている感情についても明らかにするいい機会だと思って明人の言葉を待つ。
「……そうだな、大事だよ」
明人の言葉に、胸は痛まなかった。ただ、少しだけのうずきを感じた。
「ルリが大事だからここに連れてきたの?」
考えてもわからないことだってある。
そしてそんな時は素直に聞いてみるのが一番なんだとイネスに教わった。その場にいたエリナが複雑な表情をしていたのはもちろん、イネスに聞くとただの質問では終わらないことがわかっていたからだと思うけれど。
白く、冷たい雪が二人の隙間に落ちてくる。
目の前にちらちらとその影を感じながら、ラピスはふと、これが二人を隔てていると感じた。
「……私は」
明人は癖でしかめるように見る目つきをせず、真っ直ぐにラピスを見ている。
「私は、大事?」
口に出した途端、これが、これこそが本当に聞きたかったことなのだとラピスにはわかった。
デートをしたかった。
雪を見てみたかった。
明人と出かけて雪を眺めたかった、それも本当に望んだことだけれど、何かわからないもやもやとした気分のものがずっと胸につかえていた。
それが、この質問の答えなのだと、ゆっくりと落ちる白い欠片をその金の瞳に映しながらラピスは思っていた。

「明人?」
不意に暗くなった視界に驚いて声をあげる。
けれどそれは明瞭な発音を結ばず、くぐもった声として雪に溶けていった。
「違うよ、ラピス」
明人の声はとても優しかった。
頭の上から聞こえてきたその声で、ようやくラピスは自分が明人に抱き締められていることを理解する。
「俺にとってルリちゃんもラピスも、どっちも大事なんだ。確かにここはルリちゃんが現実を取り戻した場所かも知れない。でも、だからラピスを連れてきたわけじゃない」
地球上のどこにでも自由にジャンプできるほど便利なものではない。
イメージ伝達が重要視されるように、イメージできない場所、つまり写真で見た程度だったり話に聞いて想像する程度の場所では正確なジャンプはできないのだ。
ただ雪の降る場所に連れて行くだけならば、明人の知っている、つまり行ったことのある場所ならどこでもよく、鳥取や金沢でもよかった。
けれどもラピスから雪が見たいと言われた時に思い浮かんだのは雪の富山城址公園だった。
どうしてだろうと考えもしなかった。
だからもちろん、その時にルリの影がちらついているなどということもなかった。
ただ、自分の好きな場所でラピスに初めての雪を見させてやりたいと、純粋にそう思っただけなのだから。
同時に、ラピスがそんなことを気にしていたのかと驚いた。
そんなこと、と言うとラピスに失礼かも知れない。ただ、明人にとっては全く意識していなかったから予想外のことであったのだ。
「ラピス」
抱き締めたまま明人は口にする。
きっと昔の自分なら幾ら相手が少女であってもこんなことできなかっただろうな、と自嘲気味に思いながら。ただ、『昔』の自分にとって『少女』がルリであることを思い出しもしなかったことは、明人がラピスをラピスとして捉えていることであり、もしそれを知ったらエリナは喜んだだろうが。
「大事なことはひとつだけじゃない。大事な人もひとりだけじゃない。ラピスは俺のこともイネスも、エリナも赤月も大事だろう?」
「……うん」
「なら、俺の言っていることもわかるな?」
その言葉に、けれどラピスはただ脇に落としていた両腕を上げ、明人の胸にしっかりと抱きつきながら、
「でも、明人が一番大事」
ラピスにとって大事な人は沢山いた。明人、イネス、エリナ、赤月、月面工廠で働くその他の人たち、全員がラピスにとって大事な人だった。
明人とのリンクを成立させ治療を進めているから、或いはどうしてかわからないけれど自分たちに暖かい目を向けてくれるから、または困ったときに助けてくれるから、ユーチャリスを整備してくれるから、戦う力をくれるから……。
理由は様々だが、最近わかるようになった『大事』という意味では大事な人たちだ。
それでも明人が特別であることは変わらない。
いつでも繋がっている人、それは表象的なことではなくもっと深いところで繋がっている、いやひとつである人であるのだから。
そのことを何となく理解しつつ、明人はだから否定しなかった。
「ありがとうラピス。でもな、じゃあ他の人たちはどうだ?俺の次に大事な人は?その次に大事な人は?その次は?」
人間に優劣をつけることは愚行である。だが、自分と自分の周りの人々との関係に優劣をつけることは決して愚かな行為でないと明人は知っていた。
そもそも信じてなぞいないが神や仏ではあるまいし、自分にとっての『大事さ』を全員に均等に振り分けることなどできるはずがない。
順位をつけることをしない人間を明人は信用しない。
無論のこと、嫌いな人のいない人間は言うまでもない。
ラピスが今の時点で関係する月面工廠の人々に明確な意思を持って敢えて優劣をつけることを是としているわけではないが、今はラピスの不安を取り除いてやることしか明人の頭にはなかった。
……そもそも、ラピスが敢えて順序をつけようとすることなどない、ということもわかってはいたが。
だから明人は続ける。
「どうだ?」
ぎゅっと強く頭を押し付けていたラピスの力が、ふ、と弱まる。
色んな人間を思い出しながら考えているのだろう。
ややあってラピスが明人の胸の中でくぐもった声で告げた。
「明人の次はイネスとエリナと赤月。それから……」
その先はどうやら同列のようだ。
それを聞いて、ラピスの人間関係に対する認識が誤った方向へ行っていないことを確認し安心する。
「イネスとエリナと赤月は同じくらい大事だろう?それから、他の人たちも同じくらいだよな」
「……うん」
「たまたまラピスにとって一番は俺だった。だけど、俺にとって一番はラピスとルリちゃんの二人なんだ。そこに優劣は、ない」
ラピスがわかっているかどうかはわからない。
けれど、とりあえず明人は正直な気持ちをそのまま告げてやることがきっとラピスの不安を解消することになるだろうと信じた。
「ラピスはイネスと本のことを話している時に俺のことを考えるか?」
「うん」
「じゃあ、その時にエリナのことを考えるか?」
「……ううん」
最初のは即答だった。それほどラピスにとって自分が特別な存在なんだろう、と思うと自分の位置の重要性を再認識する。
けれど、予想通りエリナのことを聞いた時には思い出す程度の間が空いた。
「赤月のことは?」
「考えない」
「だから俺はラピスといる時にルリちゃんのことを考えたりはしないよ」
正確には違う。
明人は常に二人のことを考えていると言った方が良い。
けれども今の目的は異なるのだから、これでいいと思った。
ゆっくりとしがみついているラピスを少しだけ離すと、腰をかがめて金の瞳を覗き込むようにする。
「ラピス。俺にとってラピスはかけがえのない、大事な人だ。決して他の人と比べたりしない」
それからできるだけ優しく、昔のように微笑んで、
「ラピスは特別なんだよ」
「明人」
微かに笑ったような気がした。
ほんの少し、ほんの少しの変化だったけれども明人にはそれが心から笑ったのだと確信することができるような、そんな迷いのない笑顔だった。
ラピスは明人の特別な人でいたかったのだ。
それは独占欲の欠片だったのかも知れない。
人として当然の感情であり、それがリンクを通して伝わってくるルリを大事に思う明人の気持ちが自分に向けられるものと同質だったからこそ不安に思ってしまう内容だったのだろう。
恋人と家族と友達を比較はできない。
同質のものだからこそ比較対象に成り得るのであって、その点で既に明人の中ではルリとラピスは同じ対象であり、しかもその想いは比較できないほど同じものであったのだが、その時のラピスではそこまで気付くことはできなかった。
だから、単純に自分に向けられている感情と同じものを、ルリに対するそれに見つけて不安に感じてしまっていたのだ。
「わかったか、ラピス?」
そうか、とラピスは思った。
これが独占欲。
独占欲を持つほど、自分は明人が大事なのだ。
だから明人の手を離すのが嫌だったのだ。
……初めての我侭を言ってしまうほどに、明人のことが好きなのだ。
「うん、わかった明人」
そして明人は、ほんとうの気持ちを話してくれた。
ルリと同じくらい大事なのだ、と。
自分に対してのものはそれが自分に向けられているだけにどれくらいのものなのか、気になっても確認しようがなかった。
対して明人がどれほどルリのことを想っているのかは、自分が客観であるがゆえに感覚であったとしても計るができた。
見えないものと見えるもの。
その違いもまた、ラピスを不安に陥れるものであったのだ。
けれど明人は、ほんとうのことを言った。
リンクで傍から見ているだけでもわかるほどのルリへの想いを隠さずに話してくれたことが、それが明人の偽らざる本心であることを証明してくれている。
だからラピスは思う。
それなら、と。
それならば焦ったり不安に駆られる必要はないのだ。
明人が何と言おうと、やはり独占したいとは思う。
けれどもそれは今すぐでなくてもいい。
ルリと比較できない位置に自分はいるのだから。
「私は明人の傍にいる」
「ん?ああ、俺もずっとラピスの傍にいるよ」
それは、自分がルリのことを認めた最初の事件だったことに、その時のラピスは気付いていなかった。

「お疲れさまっしたー」
業務の終了を告げるブザー音とともにあちこちから一斉に声が響く。
同時に動いていた機械を止める。 時代錯誤なブザー音に「お疲れ様」の声が被さるのは何日ぶりだろうか。
工場長の報告ミスから納期ぎりぎりで受注してしまった部品も、この一週間の全員残業で何とかこなした最終日の今日は、ようやく定時に終わらせることができた。
つなぎの上半身を脱ぎながらラインを離れる明人に声がかかる。
「今日はどうする?久しぶりに定時上がりだし、飲んでいくか?」
「いや、止めとく」
即答する明人に同僚は訝しげな表情を向け、
「何だよ、残業代もたんまりなんだぜ?」
不服げに言うが、すぐに表情を改めるとにんまりと笑った。
「ああそうか、お前にはこれからのお勤めがあるもんなあ」
「お勤め?」
はて、そんなのがあったか、と首を傾げる明人。
残業は今日で終わりだし、報告書の類で溜まっているものもないし、上司に呼ばれているわけでもない。
一頻り首を捻って考えた後で、
「……なんもないぞ?」
「またまたまたっ。まあ、自分の特殊な趣味を隠したいのはわかるがな、恥じることはないぞ、うん。いや寧ろ俺は胸を張って誇るべきことだとすら思っている」
「何言ってんだ?俺の趣味って何のことだよ」
何のことやらさっぱり、と言った感じの明人の言葉には答えず、彼は何故か遠くを見つめるような目つきになって天井を見上げる。
「確かに可愛いもんなあ……あんな子が家で待ってるとなれば、そりゃあ早く帰りたくもなるってもんだよな」
「……おい」
あんな子、のくだりでようやく何のことかわかった明人は溜息混じりに言う。
「あのな、ラピスが可愛いのは認めるが、変な妄想を……って、聞いてんのか?」
「はぁ〜、ほんっと、可愛いよなあ。俺もあと10年、いや5年若ければ釣り合うだろうにな。って、明人も同じ年なのに、何で俺にはあんな子がいないんだちくしょう」
「……聞いてないな、こりゃ」
妄想に浸り始めた同僚を横目に、盛大に溜息をついて歩き始めた明人に。
the prince of darkness時代の殺気を纏わせる言葉が飛び込んできた。
「そっか、今度また明人に弁当を届けにきた時にでもデートに誘って……って、あ、う……」
言葉が途切れる。
腐っても明人、という言い方もどうかと思うが、平和な日常に浸りきっているとは言え、事がルリやラピスにことに及ぶと少女たちの前では決して見せない過保護な(?)一面を見せる。
遠慮もなしに殺気をぶつけられて言葉を失う彼に、
「命が惜しくなかったら、な」
「……(かくかくかく)」
頷くことしかできない彼の肩にぽん、と手を置くと、
「ま、とりあえず今日は悪い。来週給料が出たら飲みに行こうぜ」
明るく笑うと去っていった。
「……あいつ、ほんっとに二重人格だよな」
後にはようやくこれだけを搾り出した同僚の声だけが残った。

とても難しい問題なのだ、実際。
ルリのことは好きだし、もちろん明人は幼い頃からずっと愛してきた。
どちらの気持ちには嘘はないし、どちらが重きをなしているわけでもない。
だから非常に困るのだ。
明人を独り占めしたという気持ちはある。
けれど、それでルリが悲しむのは嫌だった。
贅沢なのだろうか、ラピスは思う。
どっちも大切にしたい、だなんて子供なんだろうなとも思う。
「我侭な子供、ってことなのかな……」
独り言は誰に聞かれるでもなく、ただ冷え切った空気が表面を撫ぜるガラス窓にぶつかる。
けれども。
だけど、仕方ないじゃない、そうとも思うのだ。
だって、
「どっちも好きなんだもん」
はあっ、と大きく溜息をついてごろん、と畳の上に転がる。
リビング、と言うのもおこがましいなら居間と言えばいいのだろうか。
ユーチャリスにはなかったけれど、月面工廠の明人やイネスの部屋で慣れていた畳のひんやりとした感触。
このままでいたら頬に跡がついちゃう、そう考えながらも起き上がる気力はなかった。
それはあり合わせで作ったお昼のスープパスタで満腹だからだとか、アフタヌーンティと洒落込んでつい食べ過ぎたスコーンのせいでもない。
『おこたでアフタヌーンティと言われても』とルリが微妙な表情をしたのはまったくの余談だが。

ともあれ、ラピスがぐったりしているのは体力的な問題ではなく。
「やっぱり子供、なんだよね」
例えば高等学校に進学しても久美と1年しか一緒にいられなかったことにぶぅたれたり、見に行く約束をしていた映画が明人の休日出勤で流れてしまったことに文句を言ったり。
そんなときに必ず頭を撫でてくれる明人の、大きくて仕事でごつごつと荒れてしまった掌に、子供じゃないと苦情を言いながらも嬉しかったり。
そんなところがやっぱり、まだ子供なんだと自覚してしまう。
だから心配になってしまうのだろう、『明人もルリも、どっちも大事』ということが。
イネスから借りた本のせいで妙な知識が増えてしまい、だから『明人が自分とルリと、どちらを選ぶのか』と思ってしまうことが。
だから子供なのだ。
デートに行きたいと思った時をきっかけとして、初めて「嫌」と我侭を言ったり、それでも明人は何だかんだ言ってもラピスの希望を叶えてくれた。
無条件に何でも聞いてくれたわけではないけれど、それに甘えてしまっていなかったかが気になってしまう。
「それに比べて…・・・」
ルリが我侭を言うところを見ていないことが、ラピスを更に不安に陥れる。
明人はもしかしたらルリを選んでしまうのではないか、と。
そしてその可能性の方がラピスを選ぶことよりもはるかに高いような気がする、自分のこれまでの言動を考えると。
その時に、自分はルリを祝福できるだろうか。
大好きな2人が結ばれるのだから、きっと……そう思ってみるものの、いざ場面を想像すると現実であるわけでもないのに胸が痛んでしまう自分に気付く。
白いウェディングドレスを着たルリ、タキシードではにかむ明人、降り注ぐ陽光の下できらきらと光るライスシャワーを浴びるその上に響く鐘の音、とラピスの想像自体が恐ろしく短絡的でこれもまた、イネスの妙な教育の賜物であることが伺えるが、炬燵に腰まで突っ込んだままぎゅっと目を閉じるラピスは真剣そのものだった。

「……あ」
どれくらい集中していたのだろうか。
ラピスとアフタヌーンティをしたのが3時ちょっと前だったから、ちょうど1時間半は机に向かっていたことになる。
薄曇りだった空が不意に暗くなったと感じたので、スタンドに手を伸ばしたルリの目がその向こうの窓を通した光景に止まる。
それは少しだけ嫉妬を起こさせた。
「明人さんとの初めてのデート、か」
3人で暮らし始めてから少し経って、自分と明人とラピス、それぞれの間の堅さが抜けた頃だったろう、ラピスが喧嘩の途中で持ち出したのは。
『ルリ姉なんて、明人とデートしたことないくせに!』
喧嘩の原因もその結果も忘れてしまったが、その時の胸の痛みは覚えている。
確かにナデシコA時代、ピースランドへ里帰りする際に明人が護衛—騎士—としてついてきてくれたことはある。
バカ正直に思ったことを口に出したルリを庇ってくれたことも、それを期待して言ったのではないかと思うくらいだけれど、実際はあの頃に自分にそんな知恵はなかっただろう。
そう、あの頃の自分には。
それがラピスに『私だってデートくらいしたことあります』と言えなかった理由。
ナデシコを降りて狭いアパート暮らしをしながら、明人の屋台を手伝った頃も。
由梨歌がいたから、これは「デート」だと言えるようなものはなかった。それをやるとすれば明人と百合歌であり自分は2人にとってお邪魔虫でしかない。
たとえ明人と2人で出かけることがあったとしても、それはデートではなかったのではないかと思う。
ラピスのように純粋に明人と一緒にいたい、という気持ちから出たものではないだろうから。
ラピスが雪の富山を明人とデートした時は、明人が既に彼女の中で第一であり、一緒にいたいという思いからデートをしたのだ、とエリナに聞いたことがある。
そういう意味で、ルリが明人とあの頃に出かけたとしてもそれはデートと呼べる代物ではないのだ。
淡い恋心くらいは持っていたかも知れない。
それが初恋だったのだとも思う。
けれど、ラピスやイネスが読んでいる、ルリやエリナには赤面してしまって2ページ程度しか読み進めることができない本に書かれているような……いや、別にそう言った書籍に書かれていなくたってそうなんだろうけれども、「好き」という言葉に集約できる心の動きを認識していかどうかと言われると自信が無いのだ、ルリには。
明人と一緒にいられることは嬉しかっただろう、あの頃でも。
けれどそれは、百合歌を含めた「家族」を得た嬉しさからきた気持ちであって、今の自分やラピスのような気持ちではなかったことくらい、わかっている。
自分がそういう気持ちをはっきりと認識できるようになった頃には、もう明人と百合歌は単なる幼馴染や戦友ではなくなっていた。
そしてシャトル事故、復讐劇の始まり。
はっきりと形を持つようになった心が、明人を失ったことによって喪失どころではない虚無に囚われてしまった頃、一方ではラピスが明人と雪のデートをしたのだと思うと、いくらラピスを好きなルリであっても完全に穏やかな気持ちではいられないことは仕方ないだろう。
失ったと思っていた、行き場を失くして漂うしかなかった気持ちが、再会によって喜びに満たされて。
その後もラピスと3人で暮らすことで、やはり明人と2人きりでデートをする機会などなかった。
高等科5年のラピスが修学旅行に行った時は微かに期待したりしたが、だからと言って明人が休みになるわけでもなく、またルリ自身も諮ったように行われた実力試験でそれどころではなかった。
……ラピスが赤月と密談をしていたことが気にはなったが。というより、明らかに狙ったとしか思えなかったけれど。
まあ、その辺りについては、自分の高校の修学旅行時に同じようなことをイネスに頼んだことがあるのであまり人のことは言えない。

それはともかく。
自分がやはり幼すぎたのだろう、そう思う。
一緒に暮らしている時には気付けなかった気持ちをはっきりと自覚した時には、もう遅かったのだ。
けれども。
「やっぱり……」
ぽつり、呟く言葉は、この後どこに落ちるのだろう。
どこに向かおうとこの小さな勉強部屋にしか行き場はないのだけれども。
そう、この小さな……家族であり姉妹であり兄妹であり愛する人たちの住むこの家の、小さな部屋でしか。
言葉を飲み込むように、窓から視線を逸らして下へ落ちていた金の瞳が、ゆっくりとあげられる。
どこにも落ちていかない。
きっとこの後呟く言葉は、明人とラピスの許に向かうのだろう、そう思いながらルリは口を開いた。

「やっぱり、私は明人さんとラピスが大好きですから」

「ありがとうございました」
店員の声に送られて明人は自動ドアを潜った。
途端に寒気が押し寄せ、ふと見上げると、
「あ……雪、か」
どこか遠くを見つめる色を黒い瞳に映すが、一瞬のこと。
手にした小さな、けれどやけにお金のかかっていそうな手提げ袋のとってを握りしめると微かに笑みを浮かべ、粉雪の舞い始めた町に足を踏み出した。

「……ス、ラピス」
「ん、んー……あ、ルリ姉ぇ……」
「あ、ルリ姉ぇ、じゃないですよ。こんなところで寝ていると風邪をひきますよ」
「うん……」
もそもそと起き上がり、それでも炬燵から出ようとしないラピスに苦笑すると、
「ラピス、ほら外」
「え?」
見ると、ルリが開けておいたのだろうカーテンで隠されていない窓の向こうに。
「……雪」
部屋の熱気で曇ってはいたが、窓の向こうに白くちらちらと落ちていくものが見える。
一気に覚醒したラピスはゆっくりと炬燵から出ると、一足先に向かっていたルリに並び、小さな庭に降る粉雪を見つめる。
窓ガラスを覆うように冷気が流れ、傍に立ったラピスの体をなぞるように落ちていく。
寒がりのラピスでも、雪を見つめている時の冷気は好きだった。
外は冬のこの時間にしても薄暗く、2メートルほど先にある比婆の垣根の緑を背景にして白い雪がゆっくりと舞っている。
部屋の中にはストーブの軽い音だけが響く。
雪は勢いを弱めも強めもせず、ただ静かに降り積む。
暫くの間2人の間に会話はなく、ただ黙って雪を見ていた。

「ねぇ、ルリ姉」
「なんですか」
ルリもラピスもお互いを見ない。
けれど、どうしてか微笑んでいることがわかっていた。
「私たち、ずっと一緒だよね」
「ええ。明人さんと……ずっとみんな一緒ですよ」

「あら、明人君」
「イネスさん?こんな天気に買い物か?」
「そんなところ。珈琲が切れちゃったのよ、何とか降る前に帰れればと思ったんだけど、ツいてないわ」
見るとイネスは傘もさしていなかった。
コートの下は恐らく白衣のままだろう、いかにもちょっと仕事中に買出しに出た、という格好だった。
そのことを言うと、
「まあね、でも明人君だってそうじゃなくて?」
確かに、と言って苦笑する。
「でもまあ、これくらいなら傘も必要なさそうだしな」
「それに、今日はこのまま真っ直ぐ帰るだけでしょう」
「?なんでだ」
明人が不思議そうな顔をするが、イネスは笑いながら彼の手にした袋を指差した。
ああ、頷きながらその袋を軽く持ち上げてみせる。
「からかい甲斐がなくなったわね」
「そんなことで赤くなるような年じゃないだろ、おたが……いや、何でもアリマセンスイマセン」
コートのポケットに手を突っ込んで何かを取り出すそぶりを見せるイネスに、冷や汗をかきながら訂正する。
心中では、白衣どころかコートにまで忍ばせてるのかよ、と突っ込みながら。
「まあいいわ。それじゃ、早く帰ってあげなさいよ。またね」
踵を返そうとするイネスの背中を見送ろうとして、明人ははっと気がついて声をかけた。
「あ、イネスさん」
「なに?」
踏み出そうとした足を止め……
「この寒いのにサンダルかよ」
「いいじゃないの、別に。それで、何よ?」
「あ、ああそうだ、えーと、これ……」
ごそごそと袋を漁り、中から更に一回り小さい袋を取り出す。
「これ、久美ちゃんに渡してお」
「明人君」
渡しておいてくれ、そういいかけた明人の言葉を抑えてイネスが呆れたような声を出す。
はあ〜っとこれ見よがしに大きな溜息をつき、
「あのねぇ、そんなの自分で渡しなさいよ」
「あ、いや……何だかちょっと恥ずかしいし」
差し出した手を、それでもイネスの言葉が最もだと思ったのか引っ込めながら言う。
「それに、久美ちゃんの保護者はイネスさんだろう?やっぱ許可とか……」
「必要だとでも思っているわけ、明人君?それとも深い意味なんてない、単なるプレゼントってことなのかしら?」
「そんな訳ではないけど」
「まったく、こういう所は変わってないわね。ま、深い意味って言っても、『これからもずっと一緒に』くらいでしょう?」
再び溜息をつきながら言うイネスの前で、明人はどうしてわかるんだ、と言う表情を浮かべる。
そんな明人を見ながらイネスは、何だか可笑しくなってしまった。
久美もルリもラピスも、結局はそれで大満足なんだろうな、そう思うと欲があるのだかないのだかわからなくなってしまったのだ。
「誉められたことじゃない、なんて世間一般的なことは言わないわ。どうせあなたたちは非常識なんだから」
「なんだか失礼だな」
「事実じゃない。まあ、どの道本当に私から久美に渡して欲しいなんて思っていないでしょ」
「ん、それは……」
イネスに言われると、確かに自分はそう思っていたんじゃないかと思うから不思議だ。
「そうだな、自分で渡すよ。どうせ明日の夜には来るだろ?」
「ええ、ラピスがカードをくれたしね。ちょっと早いけど、クリスマスはどうせ忙しいしね」
「何かあるのか?」
確か24日は土曜日の筈だ。
不思議に思いながら尋ねる明人に、
「言わなかったかしら?今年から部活の顧問もやってるのよ」
「へぇ?何部なんだ」
返事をしたイネスの屈託のない笑みに、子供たちの世話が意外と性に合っていたんじゃないかと思う明人。
実際、以前の研究三昧の日々よりもずっと輝いている気がする。
「文芸部よ」
「文芸?」
「ええ、小説とか……まあ、文学を研究する部活ね」
「それは何と言うか……ぴったりだな」
ルリやラピスから聞いていたせいか、さほど違和感を感じない。
ただ、研究している文学がどんなジャンルなのかまでは聞く気になれなかったが。
「じゃ、明日行くから。またね」
「ああ、それじゃあまた」

イネスのコートが通行人も少なくなった商店街の向こうで、小さく雪に霞んで行く。
それを見送ると、明人は肩に軽く積もった雪を払うと我が家へと足を向ける。
心なしか足取りも軽く、速くなっていく。
「3人とも、喜んでくれるかな……」
呟かれた言葉は、雪に溶けていった。

好きな人とずっと一緒にいること。
それが4人にとって4人それぞれであるのならば。
「ずっと一緒にいればいいことだわ。法律や社会常識なんてどうでもいいのだから」
イネスは思わず口に出した。
そして明人と同じく足を速める。
家で夕食の仕度をして待っている妹が……明日、明人の家でどんな表情をするだろう、それなら今日は何も言わずにおいた方が楽しみも増すわよね、などと考えながら。

雪はどこまでも静かに、降っていた。

four seasons.
+happy memories...december,lapis+