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index > fanfiction > evangelion > あの夏、緑の下で僕たちは〜re-start,1989〜 > 8/12

何が言えるのだろう。いや、何が言えただろう。
彼、碇伸治は目の前で展開されたあまりとは言えばあまりな現実——これがほんとうに現実であるとするならば——を理解しきれず、ただ去って行く父親の背中を見つめることしかできなかった。
アパートの2階、学校指定の革靴で歩くたびにカンカンと音の煩い通路の、呆然と立ち尽くす彼の足元には木漏れ陽が落ちていた。そう、木漏れ陽。緑の多い田舎町ではあるけれど、高校生の彼が1人暮らしをする安アパートの前には街路樹などない。あるのはだたっ広い空き地だけだ。そこに草花はあるけれど。
しかもこれを木漏れ陽と言っていいのだろうか。
夏の暑い盛り。真昼の太陽は直上から容赦なく降り注いでいる。通路には雨覆いの屋根があるから陽射しが直接射し込むことはないとは言え、気温は優に30度を超えていそうだ。
足元の影——そう、正確に言えば影である。その影が通路の他の部分より暗いだけだ。だから、木漏れ『陽』というのはおかしいだろう。
ただ、その影は明らかに微風に反応している。正確に言えばそのごく一部が。

そうか。
唐突に理解する。花漏れ陽って言えばいいんだ。

……やはり逃避していた。

nowhere , now here

——— 1977年8月12日,金

なんだ、これ。
どうしてこんなにざわざわした気持ちになるんだ。

「えーと、まあ上がってよ」
父、厳堂は唐突に、それも3年振りに息子の部屋を訪れたかと思ったら、「彼女を頼む」とだけ告げて去って行った。事の成り行きも把握できず、しばらく呆然と立ち尽くしていた彼だったが、何とか再起動を果たすと目の前の少女にドアを開いた。
「あの?」
何とかとりあえずは落ち着いて話を聞こうと思ったのに、けれど今度は彼女の方が動かなかった。訝しげに少女の顔を覗き込もうとしたが、寸前で思いとどまる。間抜けな話だが今更気がついたのだ。自分があまり女子に慣れていない、という事実に。
別に苦手なわけではない。学校は、そもそも私立に行く学費も捻出できなければ、できるだけ交通費も減らしたい彼にとっては選択の余地などほとんどなかったわけだけれども、当然のように交通機関を使わずに行ける範囲の共学の公立高校だ。もちろん、中学だってそうだったのだから、女子と接触する機会がなくてということはない。登下校で知り合いに会えば挨拶もすれば、普通に話しだってしている。
そして彼の唯一の趣味である、幼い頃に厳堂が買ってくれたチェロを存分に弾くことができる環境のために入部している、吹奏楽部にだって女子生徒の方がはるかに多いのだから。
だから今、目の前にいる少女が幾ら初対面だからと言っていきなり照れるということもない。
突然押し付けられて困惑もしているし、初めての相手だからそれなりの遠慮もあるが。
「あの、とりあえず入ってくれないかな。……暑いし」
自室に初めて会った女の子を入れる、そのことに恥ずかしくなった彼は、とってつけたように理由を加える。暑いのは事実だし、そろそろ彼女が通ってくれることを期待して開けたままドアを押さえている右腕も辛い。
「……わかったわ」
数瞬だけ彼に視線を向け、すぐに逸らすと彼女は玄関に入る。
何だかヘンな言い方だな、そう思ったがとりあえずコミュニケーションは図れそうな気がして彼は安堵した。その外見から、外国人である可能性もないとは言い切れなかったから。可能性があるとは言っても普通は言葉の通じない子を、いくら息子とは言え男の部屋に預けたりはしないのだろうが、彼の少ない記憶を探る限りでは彼の父である厳堂はどうにも変わっていて、それくらいは平気でするかも知れない、と言ってもおかしくはないような気がした。
ともあれ、とりあえずは落ち着いて話せそうだ、そう思った伸治は彼女の不思議な外見と違和感のある話し方、そして手にしていた鞄がどう見ても宿泊する時のそれだということを気にしながらドアを閉めた。

背後でドアの閉まる音を聞きながら、彼女はその特徴的な赤みのかかった瞳でぐるりと部屋を見回した。興味があったわけではない。ただ自分の置かれている環境を確認した、そういう単なる作業に過ぎない、そんな醒めた視線だった。
厳堂からはそれなりの送金をしてもらっている。家賃と学費くらいは何とかなる程度だから、アルバイトで稼げばゆとりのある暮らしができるはずだ。
そう、例えば友人の部屋のようにもっと物が存在するような。
けれども彼の慎重な性格はそれを自分に許していなかった。できるだけ安い家賃に抑え、アルバイトは多めに入れ、無駄遣いはしない。さすがに4キロを朝晩歩くのも億劫だったので、自転車は買って下の空き地に置いてあるが。
だから彼の「第一勧業銀行」、と銀行名のある通帳には、高校生になって1年半、それだけの期間しか働いていない割には結構な数字が並んでいる。
そんな彼の部屋だから、『質実剛健』というよりはただ単に『質素』、もしくは手抜きではないかと疑ってしまうほど、物が少なかった。6畳の和室に、参考書や年不相応な『毎日が日曜日』などが並んだ腰の高さほどの本棚、食事にも勉強にも使う小さな折り畳みのテーブル、それだけだった。もうひとつ、異彩を放っているものが、
「これ……」
ゆっくりと部屋に足を踏み入れ向こうのベランダに向かいながら、窓脇に立てかけてあった大きなこげ茶色のケースを指差した。
「ああ、チェロだよ」
どことなく浮世離れした雰囲気を纏う彼女だが、まさかチェロくらい知らないということもないだろう。
「チェロ」
「うん」
答えながら彼女の脇を通り、かちんとケースの留め金を外す。他に何の取り得もない自分だけれど、チェロだけは好きで続けていた。そんな自分に自信にあるものについて興味を示してくれたのはちょっと嬉しい。そのまま少し開けると中を見せ、けれども彼女が特に反応を示さないことで軽く溜息をついて閉じた。
「……まあ座ってよ」
自分から働きかけることは得意でない。それでもこのまま彼女から何かを言い出すことを待っていては、恐らく夜まで……いや、下手をすると永久にこのまま居心地の悪い空間にいなければならないのではないか、そんな予感がして仕方なく彼は声をかける。
上には上がいる、そんな言葉が過ぎったが。
座布団は幸い2つある。男友達が定期テスト前にノートを写しに来る程度だったが、そんなたまの来客用に用意しておいてよかった。
その座布団を押入れから取り出しながら陽射しの入らない部屋の真ん中辺りに置く。彼女は黙って彼の行動を見ていたが、「どうぞ」と言いたげな彼の視線を受けてワンピースの裾を気にしながら腰を下ろした。
彼もまた座ろうとして、はたとその手を止める。
……どこに座ろう。
こんな時、何もない部屋というのは不便だ。物で溢れかえっていれば「ここしか空いていないから」という理由で座る場所も特定できようものだが、いかんせんここは貧乏な上に物に執着しない彼の部屋だ。座る場所など幾らでもある。
部屋の南に窓とベランダ、そして東側にもうひとつ小さな窓。北側はそのまま台所とトイレ、そして玄関に繋がっていく。ちなみに風呂はない。こんな田舎町でも、いや地方都市から通勤圏内でありながら少し遠いだけあって家賃が手頃で、単身者や学生が住むには都合がいいのだ。とは言っても、それなりの人口しかない町のこと、銭湯は2軒しかないのだが。
西側には押入れと壁。時刻も昼下がりで東の窓からは陽射しが入ってこないこともあって、何となく彼女の位置にしてしまったが、となると彼が占めるべき場所は当たり前だが3箇所。
正面か右か左。
なんだ、単純なことじゃないか。
そう思うが、そんな単純なことに悩んでいる自分。
ちら、と彼女の方を伺うが、彼の葛藤には全く気付かず少しだけ首を傾けて窓の外を見つめている。まるで彼がいようがいまいが、自分の存在には何ら関わりがないとでも言うかのような完全な無関心。そんな様子に半ば呆れ、半ばほっとしながら何とか今の状況からの脱出策をひねり出す。
「お茶、入れるね」

……やっぱり逃避だった。

ことり、という音でようやく彼女は窓から視線を外し、目の前に置かれたグラスを認識した。次いで目線を上げると正面に座る彼の姿を捉える。
「どうぞ」
短く揃えた黒髪、ポロシャツにジーンズの飾り気のない格好。
愛想がいいわけでもないが、無愛想でもない口調。
どれもあの人が言った通りだと思う。
黙って彼の手元から顔へ視線を移し、そのままを見つめていると少年は途端に落ち着きを失った。何かを言いたげに口を開きそうになってすぐに閉じたり、ジーンズのポケットに手を突っ込んだり出してみたり、手元も目線も落ち着きをなくしている。そんな様子もそうだが、そもそも自分が座っているのに、この部屋の持ち主の彼が立ったままでいるのも妙だ。
「座ったら」
何かおかしいとは思うけれど、このままいても仕方がない。彼女はこんな動物園のクマみたいな行動をとる彼に会いに来たわけではないのだから。
主客が逆転してはいるが、彼女の言葉は彼にとっても渡りに船だったのだろう。いや、実際困っていたし。相変わらず座る位置で。
呼びかけをいいきっかけにして、ちょうど彼女の真正面に立っていた彼はそのまま腰を落ち着かせた。手にしていたお盆を台所に戻すことをすっかり忘れていたが、それを口実に座らずにいたとしても逃避できる時間なんかたかが知れている。
とりあえず落ち着こう。座れたことだし。
そう考えて、自分の分のグラスに口をつける。今朝いれたばかりの冷えた麦茶が、緊張しっ放しだった体に気持ちいい。傾けるたびにカランと小気味いい音を響かせる氷に、せめて耳からの涼を感じながら彼は少しずつグラスの中身を減らしていった。

……で、座った。そして落ち着いたのはいいが。
話題も見つからず、というよりも——……そもそも彼女は誰で、父とどんな関係なのだろうか。そしてどうしてこの部屋にいるのだろう。いつまで。まさか泊まるってことはないよな。でもあの鞄ってどう見ても旅行鞄で……いやだからどこかに泊まるんだろ、きっと。それにしても何歳なのだろうか。外見を言うのは失礼だからこれは聞けないけれど、髪の毛が白髪ていうか銀髪に近いのは染めてるからなんだろうか。それに目の色もやけに赤っぽいけど、どうしたらあんな風になるのか。
——ひとつの問題が解決すると、今度は目の前の現実に対する疑問が浮かび上がってくる。
これからどうすれば、いやそもそも今日はどうやって寝るんだ。まてまて、この部屋にずっといるってことはないだろう、でもこの辺に泊まれるところなんてあったか。旅館とは限らないけどっていったい僕は何を想像しているんだ。まあ待て、想像なんてしてない、うんしてないぞ。問題は彼女が誰で、どうしてここにいて、父さんとはどんな関係で……関係、関係って……うあ、だから想像してる場合じゃないんだってば。
様々な疑問符を浮かべながら困惑は収束の場を見出せず、更に深みへと嵌っていく。時折こちらを見ている彼の視線とぶつかる。その度にばっ、と音がしそうなくらいの勢いで顔ごと背ける行動に何らの感情も浮かべず、けれど彼女はずっと彼を眺めている。深く、茶色というよりも赤くさえ見えるその目で見られると、クラスの女生徒と目を合わせることよりも恥ずかしく、うろたえてしまう。
「あ、あの」
「なに」
勇気を振り絞ってなんとかかけた声も、合わさってしまった視線と簡潔すぎる一言の前にあっさりと撃墜されてしまった。
とは言えこのままでいても埒があかない。差し当たって緊急の要件としてはまず『どうしてここに来たのか』それから『この後はどうするのか』だ。それだけでも今彼があたふたしている原因は何とか解決できるのだから。だが、もし『あなたに会いに』とか『ここで暮らす』とか言われたらどうするつもりなのか、そのことを彼はすっかり失念していたのだが。
「うん……その、君はどうしてここに来たの」
「会いたかったから」
「あえ?」
彼の間抜けな声に、彼女は困惑する。もっとも、表情からはまったくそうだと読み取れはしないが。
……会え、とはどういうことか。質問に答えただけなのに命令されるとは思っていなかった。だいたい『会いに来た』というのに、それに対して更に『会え』と言われても困る。ああそうか、誰に会いに来たのかをはっきりと言わなければならないのかも知れない。彼女はそう思って口を半開きにしたまま固まっている伸治に説明を追加した。
「あなたに」
「え?」
「……この部屋には他に誰か住んでいるの」
「……いや、僕だけだけど?」
「なら、あなたしかいないわ」
「そりゃそうだよね」
「……」
「……えーと?」
伸治は困った。それはもう猛烈に困った。
話の展開が掴めない。どうしてこんな会話になるのだろうか、っていうかそもそもこれは会話として成立しているのだろうか。国語の成績は悪いわけでもないし、人とのコミュニケーションに対して不全であるわけでもない。それでも今の一連の会話——会話と呼べるのならば——は自分がその一方の当事者でありながらも訳がわからない。
このまま放置して次の質問に行ってもいいのだが……と、やっぱりここでも問題は棚上げしておくことにした。『会いたかったから』という、彼の健全な男子としての理性にとっては非常に危険な言葉も含めて。
「ん、じゃあさ、次の質問いいかな」
「かまわないわ」
うーん、やっぱりヘンな言い方だなあ。伸治は先ほどと同じ感想を持った。
年頃の女の子としての口調ではないような気がする。
「君、幾つ?見た感じでは僕と同じかと思ったんだけど」
やはりさっきの彼女の返答は相当な影響力を持っていたようで、無意識のうちに赤くなった頬に気付かないまま、彼は思い浮かんだことをそのまま聞いてみることにした。どうせ混乱する会話であるのなら、流れのまま聞いていくのもいいかも知れない。
「……17歳」
妙な空白が気になったが、とりあえず同い年であることはわかった。
「この辺の高校に行ってるの」
聞いてからしまったと思った。父と一緒にやってきたのだから、恐らく父と関係のある場所にいたのだろう。そしてその父がこの辺りに住んでいないことは確かだから、彼女が近辺の高校に通っているわけがない。
いや、もしかしたら彼が知らないだけで彼女は近くの……そう、浅川東などに通学しているのならば彼の高校とは交流もないし、いくら高校が少なくても女子高の在籍者なんて彼が知りようもない。
ただ、それ以外ならばだいたいが同じ駅の同じ時間にどの高校の生徒もが集まることや、中学数自体が少ないことから別の高校に進学した中学時代の友人を通じて知り合ったり、または部活の交流、学校同士の交流活動などで「見たことはある」程度になっている。だからこれほどの目立つ容貌、有体に言えばここまでの美少女が同じ学区内の高校に通学しているのなら、見たことすらないということはないと思うのだが。
すると学区が違うのだろうか。
とここまで考えて百聞は一見にしかず、ということわざを思い出す。いやこの場合逆か。もしくは百妄想は一聞にしかず、かも知れないけれど。
ともあれ聞いたのだから何らかの返答があり、それがたとえさっきみたいなトンチンカンなものであってもここまで考えたことの何かしらの回答にはなるだろう、と彼は彼女の返事を待つことにした。
けれど。
「……関係ないわ」
質問すること自体は「かまわない」けれど、その内容が何でも「かまわない」わけではないらしい。
あまりといえばあまりにも素っ気無い返事に、しばし呆然としてしまったが、確かに関係のないことだろう。これまで彼の目をじっと見つめていた茶色い双眸がす、と外されることで、彼は理解した。確かに、彼女が彼とどういう関係にあるのかわからない以上、どこかで一線を引いた質問をすべきなのかも知れない。
それにしても、その質問が今の状況に関係ないのか、それとも「あなたには関係のないこと」と切って捨てられたのか判別がつかなかったが。
「ごめん。じゃあ別のこと聞いてもいいかな」
「ええ」
彼の謝罪を受けて、再び彼女の瞳が彼に向き直る。
「君はその……どうして、ええと……」
口ごもるのは彼女の赤っぽい目にうろたえたからではない。自惚れか聞き間違いであった場合の、自分の受けるダメージに臆病になってしまっただけだ。
とは言え、ここは重要だ。聞かないわけにはいかない。
「だからその、どうして来たかったってとこで言ってた、ほら……」
「ただ会いたかったから、ではダメなの」
先取りされた。
「ダメ、じゃないんだけど」
自惚れではなかったことに安心している自分を、少しだけ奇妙に感じる。やっぱり自分も男なんだな、と。どんな意味であれ、これほど可愛い子に「会いたかった」と言われて嬉しくないわけがない。
「あなたのことは聞いていたから。だから会いたいと思ったの」
「聞いていた?父さんから?」
「ええ」
そうか、と軽く頷きながら、
「父さんとはどんな関係なの」
「……」
これも聞いてはいけないことのようだ。まあ、「関係ない」と言われるよりマシだけれど。
重要なことではあるが、切り捨てられるのも怖い。だからここは無難に質問を変える。
「じゃあさ」
居住まいを心持ち正す。うん、気持ち的に。
なぜなからここからが最大の問題だから。
彼女の方もその雰囲気を察知したようだ。じっと見つめてくる視線は変わらないが、何となくその色が赤みを強めたように思えた。
開け放した窓、網戸を漉して蝉の鳴き声が少し小さくなる。すう、と息を吸って、
「今日は何処に泊まるの」
言った。
ただ聞いただけなのだが、伸治にはとてつもない偉業に思えてなぜか満足感。問題はここからなのだが。そしてそれはとてつもない大問題として彼に襲い掛かるのだ。
だって、彼女が揺るぎのない目で答えたから。
「ここよ」

からからん、と鳴っていたグラスの氷もほとんどなくなり、カラ、としか鳴らなくなった。
それでもそのちびた氷を舐めるかのように何度もグラスを口に運んでいた彼は、何とか平常心を取り戻すと軽く溜息をついた。
「うん、なんとか理解はしたよ」
なんとかね。
「つまり要約すると」
要約する必要は、実はない。だって彼女の説明それ自体が要約を遥かに超えたまとめであったのだから。けれど、いくら落ち着いてきたからと言ってこの事実をすんなり受け入れられるほどではないのだから、彼女に悪いけれど同じ内容をもう一度繰り返させてもらう。
……この事実に有頂天になれるくらい能天気だったら良かったのかも知れないなあ。
「君は父さんに世話になっていて。それで僕のことを聞いていた、と」
どうお世話になっていたのか、がない辺り、彼女の説明がいかに簡潔にまとめられていたかを伺わせる。
「父さんが僕のことをどれくらい話せたかはかなり怪しいけれど……まあそれは置いておいて、とにかくそれを聞いて僕に興味を持ち、その旨を父さんに伝えたら夏休みを利用して会えばいいということになった」
こくり、と頷く。灰色と茶が混ざったような、不思議だけれどとてもきれいな髪がさらり、と彼女の頬にかかった。たったそれだけのことにもドギマギする碇伸治17歳お年頃。
「あー……こほん」
喉が痛いわけではない。単なる照れ隠し。
「で、君のことについてはあまり話せない、と」
口調に少し批難めいたものが混じる。それが何も告げずにただ彼女を置いて去って行ってしまった父親に対してのものなのか、それとも会いたいと言ってくれながら自分のことを何も説明してくれない彼女に対してのものなのかは、彼にもわからなかった。その少しの不満がどれくらいの間一緒にいるのかわからないが、目の前の少女へのわだかまりとならなければいい、と出会って2時間ほどしか経っていないのに彼はそんなことを思った。
しかし、どんな想いが伝わったのだろうか。彼女はそんな彼と、口調を敏感に感じ取った。
触れて欲しくないこと、言えないことに関わる話題で横に視線を逸らすことはあっても視線を伏せてしまうことはなかったのに、彼のその言葉には響いてしまった。それでも彼は、そんな彼女に気がつきながらも訂正しない。謝らない。それは矜持とかそんな偉そうなものではなく。ただの子供じみた嫉妬。

おぼろげながら自分の父親が変わっている……良く採れば「失った妻への愛情が深い」けれど、悪く採れば「子供を平気で放り出す」変わった、いや有体に言えば変人でしかない、それでもたまの手紙や仕送りと共に送られてくるちょっとした品々などから、微かに父、厳堂が自分を愛していないわけではないこと、そして変人ではあるけれども変態ではないことはわかっていた。正確に言えば、わかっているつもりでいるだけなのかも知れない。それでも良かった。自分の父への評価は自分だけのものだから。自分がそうだと信じていればいいことだから。
その父が世話をしている少女。何の説明もせずに去った父に、いや何も言わなかったからこそ彼には父と少女の間にある絆と、そして父と彼の間の絆が見えたような気がした。
だからこそ。
彼の心は小さな嫉妬を生じてしまったのだけれど。
ただ……そう、「何か理由があるんだろう」という程度の理解でしかなかったけれども、この3人の絆が今の状況を生み出しているのならば、彼女と父、そして彼女と自分の関係は未だ不明でありながらもその3者の絆が生み出した理由が存在しているのだ、とそう信じることがいちおうは彼が自分自身を説得させることに成功できるためには十分だった。
それは決して前向きな思考とは言えなかったが。
ともあれ、彼は彼女の存在を受け入れはした。
彼女の言い分も。
口調に少しだけ批難が混じってしまうのは、それは仕方のないことだ。いくら父が変人であることを理解しているとは言え、知らない女の子を、彼の唯一の聖域でもある自室に入れなければならず、更にその少女のことについて何も知らない、教えてもくれない、では。

俯いて黙り込んでしまった少女に、なぜか自分が苛めてしまったかのような居心地の悪さを覚え、仕方なしに言葉を続ける。
「できたら話して欲しいし、経歴も何も知らない人をこの部屋にあげるのはあまり嬉しくはないんだけど」
ちら、と期待を込めて彼女へ視線をやるが、相変わらず彼女は俯いたままで、その表情さえ窺い知ることは出来なかった。
そんな様子を見ながら伸治は心を決めた。
真面目に考えて見れば。
いったいいつまでここに居るのかわからないが、とりあえず問題は起こりそうにない。アパートの住人も単身赴任者などが多く、お盆休みに入れば殆ど人がいなくなるから、1人で住むという契約についての違反云々を問われることはないだろう。
彼と彼女の関係を考えてみても、彼女が今までに経験したこともないような美少女であることは認めるけれど、睡眠欲以外の欲求をあまり持たない彼にとってはただそれだけのことだ。自分には何もない、父親はいるけれど愛情を直に注いでもらったことはない。感謝こそすれ、それはあくまでも扶養者と被扶養者としての関係においてのみだ。
家族というものに憧れを感じることがないとは言わないけれど、それももう諦めている。
女の子にもてたことはない。きっとこれからもそうだろう。だから、ならば自分が愛情のある家族を作ろうという突飛な発想にまで到達することもない。過剰な期待や自分に対する幻想はとっくに捨て去ったから。
なんだ、何もないじゃないか。
そう、自分には何もないから、彼女がいたとしても問題だって何もない。
持っているものは自分と自分の未来だけだ。
そこに彼女に入り込む余地はない。これは自分だけのものだから。
ならば、数日、彼女がここにいたところで彼自信に何らの影響を与えるものではないだろう。
「わかったよ。とにかく君が父さんの関係者であることは確かなわけだし、父さんがアレでも僕と血の繋がった親子であることも確かだ。全くの無関係であるわけじゃなし、とりあえずは了解ってことで」
「……いいの」
「え?」
掠れた声が彼の耳朶に届き、疑問とも自責ともつかないその響きに彼は聞き返した。
「私は……ここにいてもいいの」
自分に言い聞かせているのだろうか、それとも彼の許可を求めているのだろうか。
ようやく顔を上げ、彼をその赤みを帯びた目で見つけてくる彼女の表情は、ここ数時間のうちで最も人間ぽく、彼を口ごもらせるには十分なものだった。
「あ、うん……」
無条件に了解しそうになっている自分に気付いて、慌てて彼は付け加えた。
「ただし、ある程度のルールは守ってもらいたいんだけど」
「ルール?」
きょとんとした顔を見て、伸治はこの少女にこんなに表情があったんだと意外な発見をしたような気分になった。
実際は変わっていないのかも知れない。最初から表情を見せてはいたけれど彼が気付かなかっただけなのか、それとも今も実は表情を変えていないのに彼がそう思い込んでいるだけなのか。前者であれ後者であれ、いずれにしてもこの少しの時間で彼と彼女の距離が少しだけ、そうほんの少しだけ縮まったのだろうか。
ということは。
だからこそ、ここははっきりとルールを決めておかなければならない。彼はそう考えて言葉の続きを待つ彼女を正面から捉え、静かに言い放った。
「君と僕とは他人だっていうルールをね」

——— 1989年8月12日,土

久しぶりの休みだと言うのに、やることもなく暇を持て余していた。
溜まっていた洗濯や洗物などは全て午前中に終わらせてしまっていたし、一昨日に麻奈や明日香に邪魔されて終わらなかった仕事は、昨日の残業で何とかなった。
「今からこれじゃあ、この先が思い遣られるなあ」
この先などと、なにやら壮大な時間の流れのようなことを言うが、たかが5日間だ。昨日、2年ぶりに電話で話した大学時代のゼミの友人の話によれば、彼の会社——確か商社だったと思うが——では10日から既に夏季休業で、合計すると一週間もの休みがあるらしい。
そう言えば。
昨日の明日香との会話を思い出す。彼女の名前と同じ、法人営業をしている3課の取引先の1つである明日香工業では、今週頭にはもう夏休みに入ったらしい。
『まったくもう、取引先もあるんだからそこんとこよく考えて欲しいわよ』
怒りつつもどこか羨ましげな雰囲気を悟ったらしい麻奈に、その点を指摘されて更に機嫌を下降させていたが。……霧島もわかってやってるんだからなあ。
ともあれ、5日間というのは世間一般ではどうやらそれほど長い休みではないということは確かなようだ。けれどだからこそ休暇を有効に使おうとする社員が多く、彼の所属する2課では係長が奥さんと一緒にハワイへ行くと言っていたし(この暑いのにご苦労なことだ。家族サービスも楽ではないらしい)、他の独身2人も実家に帰って地元の人との交流を深める行事が目白押しだそうだ。もちろん、どんな行事なんだとか、地元の人なら殊更夏休みに交流を深める必要なんてないだろう、とかそんな無粋な突っ込みを入れるほど朴念仁ではない。
同期の5人はと言えば——

実家に帰宅、鈴原・相田。うち鈴原は結婚式の相談を含むらしい。
実家に帰宅せず、惣流・霧島。何をして時間を潰すのかはわからない。ただ、2人とも少なくとも彼よりは時間の有効的な使い方を心得ていることは確かだ。
実家など存在せず、碇。そして彼は鈴原のように相手がいるわけでも相田のように没頭できる趣味があるわけでもなく、と言って惣流や霧島のように人生を楽しんで生きているわけでもない。

よって彼1人が、恐らくこうして無駄に時間を過ごしているものと思われる。
「まあ、それが悪いとも思ってないんだけど。って、それが問題なのかなあ」
大学時代はそれほど生活費が切羽詰っていたわけではないけれど、アルバイト三昧の日々を過ごしていたから、今のように無駄な時間をぼんやりと過ごしていた記憶はあまりない。せいぜいあったとしても、ご多分に漏れず遊びでしかないゼミの合宿で、へべれけになったゼミ員を放置して夜の星を眺めていたくらいか。
そのことを思い出しそうになって、慌てて彼は頭を振った。
いけない。今は住んですらいるわけだから思い出すことがそれほどマズイわけではないけれど、やはり思い出になってしまっているものは強い。強く彼の精神に影響を与える。嫌な思い出ではない。寧ろ今ではいい思い出だったと思えるが、だからと言って胸の疼きを感じないわけでもない。
それは———それが、あの時のことではなく、10年も前の彼女との日々を、彼女への想いを思い出させるからだ、というところに自分の酷薄さがあるようにも思えて。結局のところ、人を傷つけるばかりで誰にも何もあげることのできなかった自分のエゴばかりが思い出されて。
……覚えている。
場所も相手も、その時々の言葉のひとつひとつまでも。

『嫌いになったのなら、そう言って欲しかった』
春、桜の舞う九段下で。

『ごめんなさい、他に好きな人ができたの』
雨の中庭が煙る図書館の下。

『友達に戻れないかな、私たち』
巣鴨駅陸橋から眺める電車が、夕焼けに染まって。

どれも悲しくないというわけではなかった。それでも悲しかったか、と問われればはっきりとそうだと言える自信もない。遠い日の記憶として美化されてしまったことが、彼の想いの中でもの悲しいという感情を表面的に生じさせているだけである可能性が高いのだから、やはり自分は最低だと思わざるを得ない。
そうだ。そんな風に冷静に考えてしまうことそれ自体が、酷く彼を落ち込ませるのだ。
いつまでも過去に囚われているばかりで。
前向きに生きようと思うふりをして、それで人を傷つけて。
彼、碇伸治の心理はとても複雑だった。いや、今でもそうなのかも知れない。
自分の記憶を美化して、他人を傷つけることを厭うから誰かを傷つけて、それなのに自分に空いた穴を埋めるためにまた誰かを求めて、そしてまた誰かを傷つける。そんなことを繰り返しては自責の念に囚われ、その都度後悔する。
自分の求めるものが何なのか、それはわかっているのに。そしてもう、それがもう二度と、決して手に入ることがないことも彼は明瞭に理解していた。手に入らないものほど手に入れたくなる、まるで子供だと自分を卑下しながらも胸の空白を如何ともし難く、差し伸べられた手に見境なく縋りつく。
優しくして欲しかった。そして、優しくありたかった。
他人を拒みながら、なのに自分を理解して欲しかった。
自分を理解してもらおうという努力をしないで、自分のことすら理解できないという自己欺瞞で事実を糊塗しながら他人の理解を求めた。
だから。
だからあの言葉はとても痛かった。

『自分を理解できない人が、他人を理解できるわけがないわ』

耐えようのない痛みを伴っていても、事実は事実。
彼は自分自身のことすら理解しようとしていなかった。いや、理解したふりをして自らを誤魔化し続け、他人の好意に縋って甘えていた。「自分のことを理解できる人間が、いったいどれくらいいるのか」という彼の意識は、考えようともしない己への言い訳に過ぎない。例えそれが事実であったとしても、努力を怠ることの免罪符にはならないのだから。

だから、今の彼は逃げない。
10年前のあの思い出から。

図書館にでも行こうかな、ぼんやりとそんなことを考えながら目を閉じて暑さに身を任せる。窓の外を流れる蝉の声が、あの頃と同じだった。

——— 1982年8月11日,水

「伸治!」
振り返ればヤツがいた。
などと馬鹿なことを口の中でもごもごと呟きながら、彼は呼びかけてきた友人に返答する。
「やあ啓太。どうしたの、夏休み中なのに」
「はぁっはぁっ……どうした、って……ふぅ。伸治だってゼミだから来たんじゃないの?」
「そりゃまあそうなんだけど。それしても何だって夏期休暇中に召集かけるかな、先輩も」
坂道を駆け上ってきた3年生としては唯一の同じゼミ員——そう、彼らの属するゼミナールは4年生3人に3年生が2人しかいない弱小ゼミなのだが——浅利啓太が息を整える間に言葉を繋ぐ。
A3出口から出ると最も近いのは確かなのだが、途中の坂道は結構辛い。まだ旧白から錦楽の前を通って正門へ向かう方が上り坂は楽なのだが、何となく窪みにいったん下りてから坂を上り、「通り抜け禁止」とされている白山神社を通って南門へ行くコースを辿ってしまう。啓太は南門を出て左の坂道を駆け上がってきたから、彼は同じくA3から上ってくるにしても神社を抜けずに妙清寺の前を通って最もきつい坂道を通学路にしているようだった。真面目な彼らしい。
「そうだね。でも何だか重要な話っぽいし」
「本当にそうだったらいいんだけど。電話してきたの、誰だった?」
「茂さんだったけど、伸治のところは?」
「僕のところは電話がないから。手紙が送られてきたよ」
ほら、と差し出す。伸治にバッグを持ち歩く癖はない。いつもブックバンドで止めただけの講義ノートやテキストを片手に抱えている。
「よく落さなかったね」
そんな教材の上に挟まれていただけの手紙を受け取りながら、啓太は呆れたような声を出した。受け取った簡潔な内容の文面に目を通すと返しながら、
「これも茂さんだね」
苦笑しながら言う。恐らく最初は『来い』としか書かれていなかったのだろう。ど真ん中に大きく墨跡も生々しい。
「うん。で、麻耶さんが付け加えたんだろうね。だいたい、いくら何でも『来い』だけじゃ、どこにいつ行けばいいのかわからないし」
伸治も苦笑いを顔に張り付かせながら答える。これが誠からの連絡であればまだ真剣な話でもあるのだろう、とも思えるのだが、啓太のところにも茂からの連絡であったという時点でこれはかなり怪しい。救いは麻耶が日程などを付け加えているところから、麻耶や誠も加えた4年生3人の謀であろうという部分くらいか。
「茂さんも単体では普通なのに。どうして3人になるとああなっちゃうかな」
「啓太も言うね……ていうか単体って……」
「だってさ。伸治もそう思わない?」
「いやまあ、思わないと言い切れない可能性が低いことに問題があるといえばそうとも言えるんだけど」
「……回りくどいよ」
何だか真剣な表情で言う啓太に、伸治はちょっと笑ってしまった。

「——で。合宿、ですか」
「そう、合宿!夏と言えばこれしかないよ、伸治!」
無駄に暑い茂に苦笑しつつも、誠と麻耶が止める様子もない。
「2人とも予定は大丈夫?」
それでも麻耶は幾許か残った、僅かな理性を働かせて場の収束を図ろうとしているが、この流れでたとえ用事が入っていても「いえ、ちょっと予定が」などと言えるはずもない。だいたい、配られた手書きの予定表からすると既に宿泊場所も予約済みのようだし。
「僕は問題ありませんが。……バイトをキャンセルすれば、ですけどね」
後半の台詞を「聞こえるように」「ぼそりと呟」いた啓太を横目で眺めつつ、伸治は返事をしかねていた。
「伸治?何か予定でも入っていたか?」
乗りに乗っている茂では埒があかず、麻耶のある意味で最後通告な確認にも返事をしない伸治に、さすがに黙っているわけにもいかなくなった誠が声をかける。だが、それでも彼は難しい顔をして手元の紙に視線を落すだけだった。
「ん、伸治、どうした。まさかお前、来ないってんじゃないだろうな」
誠の問いかけにも返ってこない返事を訝しんだ麻耶の視線を追って、茂も続く。3人の先輩、というよりもこのゼミに於いて4年は王様、OBは神という暗黙の権力構造があるため、流石に伸治も顔を上げた。
「あ、いえ……日程は大丈夫なんですけど、場所ってここじゃなきゃダメなんですか」
「場所?確かに辺鄙なとこだけど。でも空気はいいだろうし星もきれいそうよ?」
「ここまで行く必要があるかどうか、は問題ですけどね」
「まあその辺は『農林漁業のない地方の町村に於ける交通法規遵守の実態調査』だとか何だとか、言いようもあるだろ」
「茂、そりゃさすがに無理ありすぎだろ。ていうかこのゼミのテーマが『日本の外交政策と国際法』だってわかってないだろ、お前」
「それじゃゼミのテーマを変えるってのはどうだ」
「茂さん、それは無茶苦茶ですよ……」
「でもうちの教授なら面白がってノってきそうよねぇ」
それはともかく。
伸治は彼らの雑談と化した言い訳を聞き流してながら、再び視線を手元の『夏合宿のしおり-planning by茂』に落としていた。見間違いではない。しっかりと彼の知る、いや見慣れ過ぎた地名が記載されているし周辺の地図も、路線も何もかもが記憶の奥底を掻き乱すそれだ。
さっき茂に言ったように、アルバイトはどうにもでなる。前期終了からみっちりとシフトに入っていたし、そもそも学費そのものはやはり厳堂からきっちりと送られてきていたから、合宿の4日間くらいバイトをしなくても生活費そのものは問題ではない。
それまで以上に高校時代から他人との深い交わりを避けてきた彼ではあったが、そしてそれは大学に入っても変わらなかったけれど、このゼミでの交遊は悪くない。そう思っている。茂や麻耶、誠の4年生とも、同学年の啓太ともうまくやっているし何となく入っただけの割には今までの自分が嘘のように楽しんでいる。
その理由が、大人になったという陳腐で使いまわされた表現で済むものなのか、それとも違う何かによるものなのかは彼にもわかっていなかったが。

「だーかーらー、300円までだろ、普通は!」
「多すぎるわ、200円が妥当ね」
「いやいや麻耶、それも違う。500円くらいにはするべきだ」
「誠さん、そういう問題なんですか?」
「かーっ!嫌だねぇ、ブルジョワは」
「何だって?!茂、それは侮辱だぞ!」
「2人ともわかってないわね。バナナはおやつに入れてはいけないのよ」
「麻耶さん、それは全く関係ないです……」

話は完全に誤った方向へと突き進んでいた。

「それじゃ、僕はこっちで寝るから」
長い一日が終わろうとしていた。
開け放たれた窓の外からは、昼間の蝉の喧騒が嘘のように静かな虫の音が流れ込み、一服の清涼感を与える。湿度も下がり、涼しくはなくとも熱帯夜と言うほどの暑さもない。電灯の消された部屋には離れた街灯の灯りも届かず、ただ月の青白い冷めた色で満たされるのみ。
いつものように机を片付け、部屋の中央に敷かれた布団の上には、その月灯りに相俟っていよいよその神秘的な風貌を露にする美少女が真っ白な柔らかそうなパジャマを身に纏って座っている。
病院服みたいだな、と思わないでもなかったが、よく考えてみれば彼には入院した経験もなければ入院患者を見舞った記憶もない。だから単に思い込みだけでそんな感想を抱いたわけだが、まあ人間なんてそんなものなのかも知れない。
確実なものなんてない。それは一般論。この部屋にはけれど、今確実に存在するものがある。
それは「どこに寝るんだよ、いったい」という伸治の悩みだった。
あれやこれやと配置を考えた末に、何とか部屋に布団を敷いて冬用の毛布を出し、慌てて掃除した台所の床にそれを置いて伸治が眠ればいいという結論に落ち着いた。その間も……いや、昼にたった一言の共同生活ルールを彼が口にした時から、どことなく暗い影を感じる彼女が少し気にはなったが、だからと言ってそれを明確に意識することも判別することも彼には不可能だったし、当然のことながら床を共にしてその暗い影を取り払ってあげようなどと自意識過剰なことを考えるはずもなかった。
彼の気持ちとしては、「どうして僕が彼女の気持ちまで忖度しなきゃならないのさ」であろうし、今の2人の関係と状況を考えればそんな彼の心情を批判することも難しいだろう。
何しろ、3年ぶりに突如訪れた父親の連れてきた少女が同居することになり、しかもその滞在がいつまでになるか不明。父親と彼女の関係も聞き出すことは叶わず、加えてその少女自身がとてつもなく無口でどこか常識が欠如している。
こんな状況で、17歳の少年に何かを求める方が酷というものだろう。
それでも何とか理解を示し、とにもかくにも彼女を一歩的に責めたり追い出したりしなかっただけでも、彼の懐の広さを誉めるべきである。

……実際はただ。
単に彼女のことを必要以上に——現状で必要十分かどうかは問題と言えるが——知ることを恐れた、という事実を指摘せざるを得ないだろうが。
彼にとって独り暮らしが性に合っていたのかそれとも環境が少年をそう変えたのか。それは今となってはわからないことだが、今の暮らしに不満を抱いていなかった。この年齢に有り勝ちな夢も見ず理想も追わず、ただ純粋に学校とアルバイト以外で人に接触しない、静かな独りの生活に満足していたのだ。
臆病者。そうだろう。
確かに彼は他人との必要以上の接触を避け、出来うる限り自分の世界にこもることを好んでいた。その事の善悪や良し悪しは判断できないけれど、他人に触れ合わなければ、深く接触しなければ判り合えない代わりに傷つくことも傷つけられることもない、そう信じていたのだ。そして実際それで高校生になる現在までクラスメイトやバイト先に人間との不必要ないさかいを生むこともなく、うまくいっていたのだから。
だがそれも壊れてしまうかも知れない。
何となく伸治は、目の前の月光の中でじっと座っている少女を見て思った。
それは不快なのだろうか。
今まで生きてきた人生の中で培われた、彼なりの生き方を彼女はその存在だけで否定しそうな気がする。たとえたかだか17年であっても、それは誰かからの影響でもないし教えられたことでもない、彼だけの人生で得た教訓なのだ。
それを否定された時に自分自身がどうなるのか、見当もつかない。彼女がそのきっかけとなることも勿論、推論どころか単なる予感でしかない。
そんな曖昧なことで彼女を否定することを、当たり前だが彼がするわけがなかった。
なかった、のだが。
……なんだかざわつくんだ。
こんな気持ちをどうすればいいのか。人との接触を避けてきたツケが回ってきたような気がする。こんなことは今までになかったし、一体どうすればいいのかわからない。経験不足、という言葉がやけに重く感じられる。
暗い気持ちのままとりあえず一夜の寝床の用意が済んだ彼が部屋を覗き込むと、月の光に映えた少女は彼が台所に出て行った時のままの姿でぼんやりと座っていた。
「あの」
「……なに」
声を掛けた彼の声に応えるために数瞬。返ってきたのは出会ってから同居を認めるまでの数時間と変わらない冷たく冴えた声だったが、その間が彼はやけに気になった。だが彼は心中でため息とともに、感じている彼女の暗さとこの間に関連性を認めることを拒否し、優しくはあるけれど彼独特の無機質さを感じる声で続けた。
「うん、用意もできたしあとは寝るだけなんだけど」
「ええ」
今度は間がなかった。
少しばかり安堵していることを不可思議に思いつつも、やはりそのことも棚上げしておく。
「見てわかるように、台所と部屋の間って仕切りがないんだ。心配だったらそこのテーブルを立てておくけど、どうする」
まあ、気休めにすぎないけどね。
標準的な高校生の体格をしている彼にとって、たかが折りたたみ式のテーブルを立てたところで壁どころか障子並の防御にすらならない。当たり前なことを思いながらそれでも一往尋ねてみる。ただ、これも不思議なことに彼女の答えは最初からわかっているような気もしていた。
「構わないわ」
やっぱりね、口の中で呟きながら苦笑を浮かべ、
「あのさ、その『構わない』っての、口癖?」
やめておけ、そう心の声が警告を発する。他人に構っていいことなんてない。もしかしたら他人に深く接することで——そう、彼の周囲にはそんな人間が結構いた。時代なんだろう、と思わなくもないけれど友情だの愛情だの平和だの、価値観や感情なんて曖昧なものに基準を置かない彼にとってみればそんなものに振り回されている(としか思えない)この時代や友人たちが、愚かとは言わないまでも鬱陶しいとは思っていた——得るものもあるのかも知れない。だが、彼自身の歴史の中では失うものの方が大きかったような気がする。得るものもあれば失うものもある、そのプラスとマイナスを秤に掛けてプラスがマイナスを上回ることが明白であるのならば彼とてそうしていただろう。けれども、そのことに確かな答えを出すことは難しい。出せたとしても何十年も先であっては問題にならない。
要するに賭けなのだ、他人との関係なんて。
だから彼はそんなギャンブルじみたことに人生の貴重な時間を割くことはしない。得るものも失うものもあるのならば、そしてどちらが大きいのかがわからないのであれば、最初から得もしない、失いもしない、そんな選択肢を選ぶ人間がいてもいい。そう思ったから。
質問を発した彼に対して、彼女はと言えば、落ち着かなげな表情をその瞳に浮かべていた。
しばらくは言葉が見つからないのか選んでいるのか、悩んでいる様子を見せ、
「……わからないわ」
「口癖かどうかなんて、確かに自分ではわからないものだけどさ。いやごめん、口癖かどうかってことが問題なんじゃなくて、OKの場合は『構わない』ダメな場合は無言ってよくないよ。何て言うのか……会話している気がしない」
馬鹿なことを言っている。それはわかっていた。
しかも自分から「お互いに踏み込まない」というルールを提示しておきながら、その舌の根も乾かぬうちに破っているという事実にも。
止めなきゃ、こんなのはただの言いがかりだ、そうわかっているのに止まらない舌を伸治は恨んだ。
一息に言って、自責の念とあまりの自分「らしくなさ」に呆然とする伸治に、彼女は微かにその瞳に動揺を走らせたがそれも一瞬のこと、すぐにその色は彼にもわかるほど微量な怒りを含んだものに変わった。
「踏み込まないと言ったのはあなたよ」
わかっている。わかっているからこそ、何だかわからないもやっとした気持ちに苛立っているのだ。もちろん表情にも口調にも表してはいないが。
別に彼女の言い方や無口なところが、ほんとうに気になっていたわけではない。ただ、なぜか……なぜかまったくわからないのだけれど、気になったのだ。それはしっかりとした形を持ったものではなく、当然のことながら言葉に表せるものではない。例えば、そう例えば、と幾つか事例を挙げてみせることで何とか理解できるような程度の苛立つ気持ち、それだ。
だから彼は沈思してみる。自分でも理解できないような自分の中に生まれた苛立ちで彼女に当たってしまったことを、原因もわからぬままに謝るより、何が悪かったかを明確にして彼女に謝罪を伝えた方がいいような気がしたから。
例えば。
誰にでもそういう言い方をするのか、とか。
無口なのはほんとうは自分と一緒にいたくないからなのか、とか。
構わない、という言い方は「いい」「いいけど」のどちらの場合にも使うのか、とか。
そんな肯定の仕方をすれば勘違いする人間もいるんじゃないか、とか。

……ああ、そうか。

回答は唐突だった。

「……ごめん、そうだよね」
「……いい」
彼女の言葉に、伏せていた眼差しを上げる。
構わない、ではなかった。
彼女は何事もなかったかのようにさっきまでと同じ無表情のまま、月光を浴びているが、彼には彼女の気持ちがそれで表現されているかのように思えた。
「ううん、ほんとに今のは僕が悪かったよ。単なる言いがかりだ」
「問題、ないわ」
「それでも。———ごめん」
頭を下げながら彼は、こんなに素直に人に頭を下げるのは一体何年ぶりなんだろう、と思っていた。あらゆることに謝罪できないほど融通の利かない人間ではないし、それほど狭量でもない。もちろん、だからと言って自分が寛容で度量の広いできた人間であるとも思ってはいないし、そこまで傲慢でないことも確かだと思う。
そんなことではなくて。
ただ彼は自分が謝らなければならない状況に自分を持っていったことがない、ということに他ならない。迷惑をかけたことがないわけではない。「ごめん」とか「悪い」とか、言葉で謝ったことは当然だけれども、何度もある。
借りたLPを持ってくるのを忘れてしまったとき。
移動教室で混雑した廊下ですれ違い様、肩をぶつけてしまったとき。
調弦が正確でなかったとき。
学校でもバイト先でも、人との関係を少なからず結んでいる以上、そして彼が完璧な人間でない以上はどこかで誰かに迷惑をかけてしまっているものだから。そしてそんな時の謝罪の言葉には心を込めていると自分では信じていた。
謝罪だけではない。
感謝の言葉も、何気ない挨拶も。
口先だけの形式的な言葉だってあるだろう。それを否定はしない。けれども17年間生きてきて、そうした形骸化した死んだ言葉ばかりを口にしてきた人間というのは、そうはいないように思う。「おはよう」「さようなら」「ありがとう」「ごめん」「ただいま」、挨拶から日常会話の中まで、いったい自分は今までほんとうに心を——それが大袈裟であるのならば、自分というものが存在している、或いはその言葉を巡るその時の環境の中に自分がいる言葉を、果たして口にしたことがあったろうか。
相手がいて初めて成り立つ「会話」の中に、確かに相手はいた。
けれど、そこに自分がいただろうか。

なんだ、これ。

彼女に会った時に感じた違和感みたいなものの正体に、こうして謝罪の言葉を「自分が」述べてみて初めて気がついた。
人との深い関わりを避け、いや自分の中の自分との関わりすら避けてきた彼が、初めて自分を取り巻く環境と時間の中に自分を置いて向かい合う相手。
初めての、人。
どうしてかはわからない。運命なんて安っぽい言葉で早急に決め付けたくない。だいいち、だからと言って今までの自分を急激に変えるほどの出会いだったとも思えない。
けれども。
けれども、こうして目の前にいる無表情な彼女の瞳の揺らぎに心を動かされ、いつか自分の言葉で話をしている彼が存在していることは厳然たる事実。
「……なんだっていうんだろうな、いったい」
顔を上げるなり、困ったような表情で呟く彼の言葉はどうやら彼女には届かなかったらしい。
何かを言ったのか、と確認をするかのような彼女に苦笑して、彼はようやく落ち着きを取り戻した。
そして最も大事なことを聞いていなかったことを思い出す。
「ねぇ」
「なに」
うん、そうだ。この世はわからないことだらけなんだ。わからないことを今考えたって答えが出るわけじゃない。それなら一度棚上げにしておいてもいいじゃないか。
「今更だとは思うんだけど」
とは言え、これだけはさすがに確認しておかないと。棚上げにしていいことじゃないし。

「君の名前は?」

「……玲。綾波、玲」