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index > fanfiction > evangelion > あの夏、緑の下で僕たちは〜re-start,1989〜 > 8/15

「やはり……あまりにも辛いことだと思います」
「だが、必要なことだ」
「先生が仰ることですから信用します、理解もできます。でも……納得はできません」
「それは失敗だけを考えているからではないのかね」
「なら先生は、そこまで信じていると断言できるのですか」
「ああ。信じている」

——— 1977年8月15日,月

決して手に入らないものほど愛しいと思うのはなぜだろう。
私はもう十分に楽しい思い出を作った。

会いたいと願っていた人に会えた。
一緒に暮らすことができた。
海に行った。
手を繋いで砂浜を歩いた。
あの人の通った道をなぞった。

これ以上何を望むというのか。私の願いはすべて叶えられたというのに、それでも満たされないこの想いは何なのだろうか。
彼には彼の人生があり、生活がある。そしてそこに私の居るべき場所はない。そんなことはとうの昔にわかっていたはずなのに、それでもまだ私は何かを望んでいる。
何かを望むことが今の私にどれだけ無駄なことであるか、それだってわかっているはずなのに。
そう、私には時間が残されていないから。

「暑いね」
「そうね」
言葉はあまりない。
思い返してみると、昨日も一昨日も、それどころか私が碇君の部屋に来てからそれほど多くの会話を交わした記憶はない。かと言って黙っているわけではなく、思いついたように彼が話しかけてくることに一言二言私が返すだけ。
それでも私は満足だった。到底叶わないだろうと思っていた願いが叶えられた、それだけで満足していたから、こうして彼と言葉を交わせるだけで良かった。ただ一言だけでも、それが挨拶だけであっても私は満足していたと思う。
それなのに、海に行ったり彼の通った小学校に行ったり。
望み以上の結果が得られた。
そう、初めて見た海はとても広くて。
寄せて返す波の単調な動きが面白くて。
この世界にこんなきれいな場所があるというのなら、生まれてきてよかったな、とそう思った。それも彼が連れてきてくれなかったら私が知ることもなかったわけだから。だから彼が私の体を支えた時、とても自然にその言葉が口をついて出ていた。
『ありがとう』と。
その後、変なことを言われたけれど、碇君はそのまま私の手を取って。
少し汗ばんでいたけれどもそれすら気持ちよかった。だから私は、再びお礼の言葉を口にしながら、あの人の言ったことはやはり本当だったんだと納得していた。
『お礼を言えば、きっといいことがあるわよ』
ほんとうだ。あの人の言うことは正しかった。
彼は受け入れてくれる。何も説明しない私のことを一緒に住ませてくれて、こうして海にまで連れてきてくれて。それだけでも嬉しかったのだけれども、繋がれた手から彼そのものが——そう、私にはそう表現するしかないのだけれど——彼自身が私に流れこんでくるみたいで、とても嬉しく思った。
『あなたを受け入れてくれる人がきっといる。私たちのように。だからあなたも、そういう人に会ったら、その人を受け入れてあげてね』
その言葉を思い出すまでもない。
私は彼を受け入れる。
そのためにここへ来たのだから。
だから私は、黙って彼の手を握ったまま碇君を感じていた。

「綾波、どうかした?」
彼が流した涙の意味を考えていたら、碇君がこちらを覗き込むようにしていた。
「何でもないわ」
あの時、彼は自分でもわからないようだった。だから今聞いてもきっと答えは見つからないだろうと思う。
「そう、ならいいんだけど。あ、この坂はちょっと長いけど、途中に休める場所があるから」
彼は私のことを詮索しない。私が言わないことについて、問い質したりしない。それが彼の利益になることは決してないのに、そうしないのは彼が父親を信じているからなのだろうか。
彼について知らないことは多い。いや、わからないことが多いと言った方がいいかも知れない。知ってはいる、それこそ彼の好物やどういうクセがあるのか、そういった知っていることは多いけれど「わかっている」ことはここに来るまで全くなかった。
だから今、彼に会って知っていることがわかっていくことは、とても気持ちいい。自己満足かも知れない。こんな短時間で誰かのことを理解できることは、理解しているつもりでいるだけだと言えなくもない。
でも、それでもいい。
大事なのは私が彼を理解しようとすること。思い込みでもいい。私の中に彼が生きていくこと、それが大切だから。
そして、彼の中にも私が生きていければいい。でもそれは私が彼にとってそうであるに値するかどうか次第。それは私が決めることではなくて彼が決めること。だから……そうなればいい、と願うだけ。
そう、私は願っている。
彼に会って知っていることをわかっていることに変えていくだけで満足だったはずの私が、まだ願っていること。

変だ。無意味でもある。
どうせ人は死んでしまう。死は無と同義。魂なんてない。想いなんて残らない。
それなのに人は生きようとする、生き延びて何かを得ようと、何かを残そうとする。そこに一体どんな気持ちがあるというのだろうか。ずっと疑問だった。
『意味なんてないわ』
あの人の言葉は……もうずっと前のことになってしまったけれど、今でも鮮明に思い出せる。
『意味なんてないけれど、気持ちだけがあるの。心や気持ちに意味なんてないから、それを問うのはそれこそ無意味よ』
まだ幼かった私に、そのほんとうの意味はよくわからなかったけれど。
『ならば今、確かめればいい』
……そう。
だから今私はここにいる。

——— 1989年8月15日,火

喧騒と煙草の煙、それに酒の匂いが気持ち悪かった。
「はあ……やっぱ、来るんじゃなかったな」
昨日、霧島さんに言われたことがだいぶ応えてるのかな。
伸治はそう思いながらジョッキに残った温いビールを流し込む。せめて呑んででもいないとやっていられない。同期の結婚は心から祝福してやったし、他の営業所に散ったやつらとの交流もそれなりにしておいた。中華料理屋を借り切って行われたためか、料理はそれなりに美味しかったし普段食べられない分がっついたから、元は十分に取った。頃合かな、と思いながら腕時計に目をやると時刻は19時を指していた。
「しけてるわね」
不意に頭上からかけられた声に顔を上げると、
「あれ、惣流さん。来ないんじゃなかったっけ」
彼女の容姿ならこれだけの人でも見つけられるはず。17時から始まった同期会はそれなりに皆付き合いがいいらしく、かなりの人数が集まっていた。彼も開始からいたが、営業所からの人間で見つけられなかったのは霧島、惣流の2人だけだったはずだ。
「ちょっとね、野暮用でさっき来たの。碇君こそ、来ないって言ってたわよね」
がたり、と隣の椅子を引いて座る。
さっきまでは……誰がいたっけ?何人も入れ替わりだからよく覚えてないな。
首を捻る彼に、
「なに?何かおかしなこと言った?」
「ああ、いやそうじゃないんだ。そこ、誰がいたっけなと思っただけ」
「まずかったかしら」
「大丈夫だと思うよ。ていうかみんなもうアレだしね」
苦笑して周囲を見渡す彼に付き合って視線を流す。明日香の目には、もはや大学の飲み会と変わらない風景しか入ってこなかった。
「……凄いわね。一体どうしたっていうのよ」
「うーん、まあどうしたってこともないんだけど。これだけ集まる以上、予測範囲内じゃないかな。大阪支社の連中なんて、だいぶ溜まってるみたいだしさ」
「ふぅん。確かに大阪の上の連中って、相当アレみたいだしね。東京の時に異動で来た係長がいたけど、やり口が何と言うか東京と合わないのよね。売り上げが凄いことは認めるけど。その方法を強要されたんじゃ、今の若い連中が付き合いきれないってのはわかる気がするわ」
「今の若い連中って……惣流さんだってそうじゃないか」
明日香の言いように思わず笑ってしまう。
おかしくなったのは確かだけれども、同時に彼女らしいとも思った。
「まあ、私が若くて美しいってことは認めてあげる。ただ、私が言ったのは能力や考え方ってこと」
「前半には突っ込み入れない方がいいよね」
当然でしょ、と言わんばかりに睨まれて彼は苦笑しながら肩を竦める。どんなに威圧的な態度をとってもそれが高慢に繋がらないところは、明日香の人格がなせるわざなのだろうか。あまり引っ張って虎の尻尾を踏むのも得策ではないと、彼は話題を変えた。
「東京の連中も何人か来てるみたいだよ。行かなくていいの」
「へぇ、来てるんだ。来年は向こうで開催するんだから何も今年こんなところに来なくってもいいのね。でもいいわ、そのうち本社に戻るから、その時に挨拶すればいいことでしょ」
「その自信がどこから来るのか、聞いてみたい気がする」
「女性の秘密を聞こうとするなんて、碇君って結構スケベなのね」
「あはは、惣流さんの秘密を知りたい男なら、そこら中に溢れてるよ」
ほら、と指差す。伸治に指摘されるまでもなく、一群れの男たちが飲みながらこちらをちらちら見ているのには明日香も気付いていた。
「いいわ。それよりこの煙草の煙がたまらないんだけど……どこか行かない?」
「まだ一次会の途中だよ」
既に椅子を蹴飛ばすように立ち上がっている彼女を見上げながら言うが、そんな伸治の腕を掴んで強引に立ち上がらせると、
「どうせ抜けるつもりだったんでしょ」
「……その凄まじい洞察力もどこから来るのか以下略」
「女性の秘密以下略、よ。さ、行きましょ」
やれやれ、と言いながらも伸治は立ち上がり、明日香の後をついていった。

「涼しいわね」
「そうだね。ほら、コーヒーでよかった?」
「ありがと」
放り投げて寄越した缶コーヒーをキャッチし、
「テイスティってホットの方が美味しくない?」
「わがままなお嬢様だなあ」
「私くらいにいい女になると、ちょっとくらいわがままの方がいいのよ」
「ちょっと、ね」
笑って受け流すと、隣に腰掛ける。
「それにしてもこんな場所、よく知ってるわね。女性を口説くときの定番なのかしら」
「勘弁してよ。大体、どこか静かな場所はないかって聞いてきたのは惣流さんだろ」
しかも、虫がいるところは嫌だの、風の流れるところじゃないと暑いだのと条件が多かった。元来が出不精で研修の時などにしか来たことがない彼にとってはかなりの難問だったが、何とか記憶を捻り出してこのビルの屋上スペースを思い出したのだから、もっと感謝されてもいいような気がする。
「誉めてるわよ。確かに虫もいないし涼しいしね」
そう言って笑うと缶コーヒーに口をつける。やはり甘さが彼女に合わなかったのか、少しだけ顔を顰める。だが彼はそれを見て見ぬふりで通すことに決めた。
「それで、どうして来ることにしたの?」
一口飲んで、気になっていたことを聞いてみることにする。明日香には有言実行こそが似合う。一度言ったことを翻すような人じゃない。
「昨日、麻奈から電話があったわ」
「え……そうか、じゃあ聞いたんだね」
「ええ」
「それで、どうして惣流さんが?」
「私は伝言を頼まれただけ。もちろん報酬は約束してもらったけどね」
軽く言う。もちろん報酬に見合うようなものではない。同期会の参加費は払ってないし、ただ顔を出しただけだから何憚ることもないと思っているが、ここまでの電車賃だけでも麻奈に約束させた『錦華楼』Bランチ一回分デザート付き、では元が取れない。伸治のためならば断っていただろうが、何となく麻奈に頼られると乗ってしまう。
「もちろん、碇君にも奢ってはもらうつもりだけどね」
「なんで?」
別に奢りたくないわけではない。惣流には美人で仕事もできる同期という以上の認識は持っていないが、これだけの美人と食事を一緒にできるのであれば食費くらいはどうということもないだろう。もちろん、積極的にそうしたいというわけでもないけれど。
「ん、まあその辺は追々、ね。それで、麻奈からの伝言、聞く?」
「聞かせてもらうよ。惣流さんに無駄足踏ませちゃうのも悪いしね」
「なら言わないわ」
「はっ?」
思わず間抜けな声を出す伸治に、明日香は厳しい顔で言った。
「碇君。あなたが聞きたいと思わないのなら、私はあなたに伝えたいと思わない。そしてあなたに聞く権利はないわ」
「……ごめん」
その通りだった。誰かのせいにしていいことではない。彼自身が聞きたいと思って伝えてもらわなければ意味がないし、それはだいいち明日香や麻奈に失礼だろう。
居住まいを正すと、体を明日香に向けて、
「聞かせて欲しい」
「その前に」
「はいっ?」
また間抜けな声を出してしまうが、仕方ないかも知れない。明日香はにやりと笑うと、
「何よ、間の抜けた声ね」
「だ、だって惣流さんが……」
「まあまあ。いい、言いたくないなら言わなくてもいい、なんて私は言わないわ。碇君って他人との接触を微妙に避けているようでいて、それに徹しきれていないから」
「なん……」
何でそんなことがわかるのか、と言おうとした彼の台詞は彼女の言葉に覆い被せられて発することはできなかった。
「見てればわかるわ。誰かにわかってもらいたがっていることくらい。私を舐めないことね」
「……お見それしました」
完全に負け、貫禄負けだった。伸治では明日香に敵うはずもないのだ。重ねてきた年輪は彼の方が1年多いけれども、積み上げてきた人生が違い過ぎた。
幼い頃から英才教育を受け大人の間で小学生までを過ごし、飛行機事故によって家族を一度に失ってからは遺産と跡継ぎ争いに巻き込まれ、殆ど無一文で親戚の間をたらい回しにされた。絶対に泣かない、と誓ったのは血筋の成すものだったかも知れないけれど、その後の努力は明日香個人のものだ。日本では外国の学歴が無視されることを知っていながら、幼い頃の経済学講義で知ったジョーン・ロビンソンに憧れ、ケンブリッジのガートン・カレッジを卒業した。学歴の問題もあるが、あえて大きくしてやろうという意気で業界では中堅規模の会社を選んだ。
その会社で上司からセクハラを受けたからといって負けるつもりはなかった。とは言え、裁判に持ち込むつもりはなかった。その上司が会社に残り続ければ自分の完全な勝利とは言えないし、ケンブリッジ卒の明日香を採用したように、先進的ではあったが軽いセクハラ程度で懲罰を与えるような会社でもないことはわかっていたから。
日本企業のそんな体質や社会全体としてのセクハラの認知度の低さに腹が立ったが、明日香の選んだのは残り続けて出世を重ね、その上司を自分の配下にすることだった。それがそう遠くないことは自分でもわかる。今年の昇級試験は満点だった。飛び級での来年の本社係長は約束されている。
今日の同期会にしても、伸治に会うまでにある程度の人間には挨拶を済ませてある。人間関係を損得だけで割り切るのもどうかと思うが、時間は有限なのだから。そんな彼女を損得なしに動かせる麻奈には、明日香自身も理解しきれていない不思議を感じていたけれど。
それだけの経験を積んできたからこそ言える。
「入社年度は一緒でも、碇君の方が年上よね。1年でも1日でも先に生まれた人を敬うのが当然だとは思うけれど、あえて言わせてもらうわ」
もちろん伸治は彼女のそんな歴史は知らない。けれども威に打たれたように、真剣な表情で彼女の言葉を待った。
「世の中を甘く見ないで。あんたの考えているほど、社会は甘くも厳しくもないわ。何もしないでうじうじしているだけなら、逃げているだけなら逃げ切って見せなさい。それを他人に知られるようなへまをすることもなく」
私も甘いな、と明日香は内心で呟く。
こんな男、自分の眼中になかった。実際、異動してくるまでこんな男がいることすら知らなかった。そんなのに麻奈が……どうやら恋愛感情ではないらしいが、入れ込んでいるのが信じられなかった。
性質の悪いマザコンみたいなものじゃないの。
最初の頃、明日香にはそう見えたのだが、どうやらそれは当たらずとも遠からずのようだ。昨日の麻奈の電話でそれもはっきりしたし、さっきのことだってそうだ。
何かから逃げている。
他人に知られたがっているくせに他人を恐れている。
メンドクサイ奴だ。
それだけでしかない。彼女は努力しない人間を認めないし、他人のせいにする人間も気に食わない。彼のようにどちらも揃っているのは最悪だ。
そのはずだった。
そのはずだったのに、麻奈が気にかけていることに気付いてからよく見るようになって、少しずつ変わってきた。
彼のコンプレックスを見抜いたのは明日香だからこそだし、麻奈ほどによく見ていなければ普通の人間には気付かれない。それほどに彼は自分の内面に抱え込んだ何かを隠し通している。実際、鈴原や相田、会社の人間とはうまくやっているし評判もいい。
何が彼をそんな風にしているのかは知らないが、あそこまで隠せるのはそれなりの自制心と努力が必要だろう。そこだけは認めてもいい、そう思った。
麻奈の頼みという理由もあるが、それが何であるか知りたい、そんな欲求が自分をここまで来させたことも確かだ。人の心に土足で踏み込むことを良しとはしないが、けれど彼が気付いた人に対して隠さないことは麻奈から聞いて知っている。
ならば、言わなくてもいい、なんて言わない。
自分の時間を使わせ、麻奈に気を遣わせたのだから、そのけじめはしっかりとってもらわないといけない。
ただ、目上の人間に対して少々礼を失したことは間違いのないことで。
「口が悪かったことは、もう一度謝っておくわ。でも、言わないでおくことは私の精神衛生上もよくないと思ったから」
その辺りのけじめは、こちらもきちんとしておかなければならないわよね。
明日香は伸治の表情の変化を見守りながら思った。

「ありがとう、惣流さん」
彼の表情は、明日香が思ったよりも晴れ晴れとしていた。
「情けないことだけど……うん、前に進める気がするよ」
多少の怒気は覚悟していただけに、彼の態度には明日香が拍子抜けした。
「あ、あっそう……いえ、別に……」
「どうしたの、珍しいじゃないか。惣流さんが言葉に詰まるのなんて」
「何よ……余裕あるじゃない」
「ある程度は自覚していたことだから。でも惣流さんに言われてはっきり目が覚めたよ」
「ん、まあ……それならそれで。えーと、おめでとう」
「ぷっ、何それ。あははは、うん、ありがとう」
むーと膨れる明日香の心中は、けれども表面とはまるで違っていた。
何よこいつ……なかなかじゃない。
同期とは言え年下の、しかも女にあれほどのことを言われて怒るかと思いきや、お礼を言ってくるなんて。自分の弱さを認めることができるのは、嫌いじゃない。
明日香の中での伸治が、少しだけ変わった瞬間だった。
「さて、で?」
「で、とは?」
「話してくれるわよね、碇君が何を抱え込んでいるのか」
「……うん、そうだね。話すよ、聞いてくれるかな」
「もちろん」

坂道は急だったけれど、それも私には心地よかった。
碇君が通う道を歩き、彼の行く図書館を目指しているという事実が、私の足を軽くした。
普段は言うことを聞かないこの体も、この数日はきちんと私の意志通りに問題なく動いてくれている。
「綾波、あそこ」
彼の指差した場所は、左の崖に少し飛び出した場所。大きな木が梢を広げて、涼しそうな木陰を作っている。この道を行く人は大体そこで休憩するようで、下草も大きく育ってはおらず、緑のカーペットのようできれいだった。
長い坂道を彼は気を遣ってゆっくりと登ってくれていたけれど、そろそろ私の体も限界に近かったから、そこは実際以上に素晴らしい場所に私には思えた。

「きれい……」
眼下に広がる町。
そこに私と碇君が暮らしている部屋もあるのだろう。
そう思うだけでこの景色が美しいものだと思ったが、それ以外にもその向こうに広がる海や視界の端に広がる田園、そこに浮くように立つ小学校など、彼と一緒に行った場所が小さく私の胸に浮かんで嬉しくなった。
海からの風も、この場所では少しだけ乾いたものになり、うっすらと汗ばんだ体には心地よい。
隣に立って同じように景色を眺める碇君の黒い髪を風が撫ぜ、そのまま頭上の葉を揺らして音を立てる。
音も風も、この目に映るものもすべてがきれいだった。

そしてそれは、こうして碇君と一緒にいるから。
碇君と見たものでなければ、私はきっとこんな気持ちになることはなかったろう。
常に無感動で無表情、何もない私にこの気持ちを何と言うのか、なかなか言葉が思い浮かばなかった。彼に会いたいと思い続けたことはほんとうだし、こうして会えたことを嬉しいと思っている気持ちも真実。
ただ、それを何と言い表せばいいのか、それが難しかった。
彼に伝えたいと思うのだけれど、言葉がなければ伝えることはできない。昨日のように少しだけ力を入れて手を握ってみたけれど、彼はこちらを向いて軽く微笑むだけ。
でも。
そうか、そうなのかも知れない。
彼の微笑みを見て、私は気付く。
言葉がなくても伝わることはあるのだ、と。
この気持ちを伝えるのに言葉はいらない。ただ、心のままに彼に寄り添い手を繋いでいればいい。
それだけでもこんなに嬉しい気持ちになる。

……ずっとこうしていたい。
この気持ちを伝えたい。
こんなにも人というのは欲望の大きいものだったのだ。願いには限りがないのだ。そしてそれは私にとって、今まで生じなかったもの。
先生の言っていたことの意味がようやくわかった。
人間がどうして生き続けるのか。

そして、わかった。
これは……そう、これはきっと「好き」という気持ちで。
そのことを私は今、とても嬉しく感じている。

風と緑に囲まれてしばらく過ごしていると、急に碇君が「あ」と小さく声をあげた。
見上げた私に彼は優しく微笑んで、空いている手で坂の上を指した後、近づいてくるその人影が高校の友達なのだと教えてくれた。
人影が少しずつ大きくなり、それが碇君よりも大きい人だとわかるくらいになった時、向こうも私たちに気づき。そして碇君は握っていた手を離した。

—よお、碇。どうしたんだ、こんな所で
—久しぶりだね、武蔵
—終業式以来だなあ、って当たり前か
—まあね。武蔵は?図書館に行くなんて珍しいじゃないか
—おいおい、俺を何だと思って……って、それよりも
—なに?
—そこにいる人は?お前の彼女か
—ばっ!違うよ!
—違うのか
—そうだよ、彼女とは別に……
—じゃあ、どういった関係なんだ?紹介はしてくれないのか
—あ、いやその……うん、彼女は綾波って言って、えーと
「碇君と一緒に暮らしているわ」
—おおおっ!!
—あ、綾波っ?!
—やるなあ碇。こんな美人と同棲か
—違うって。大体、同棲ってなんだよ、同居だろ同居!
—照れることはないと思うけどな。何でそんなに慌ててるんだよ
—照れてるわけじゃない、そう思われることが
「迷惑なだけだ!」
—おいおい、碇……
「私は迷惑なの、碇君」
—あ、こいつは照れてるだけなんですよ、だから気にす
「ああ、迷惑だよ」
—碇……お前
「私は、いない方がよかったのね」
「そうだよっ」
—碇!てめぇっ!

—……え?
—……あ、あやな、み?
「だいきらい」

……
……
「それだけ?」
麻耶と麻奈に話した内容を、明日香は「それだけ」と断じた。
「それだけ、って……」
けれどもそれは彼自身もわかっていることで、だから怒るわけでもない。ただ、彼女の少し呆れた口調に思わず言い返していた。
「確かにそれだけのことだよ。それはわかってるさ。でも子供だったんだ、仕方……なかったんだよ」
言い訳でしかない。
それを自覚しているせいで次第に声が小さくなっていく。
けれども明日香の回答はまったく違っていた。
「ちょっと待って、碇君。何か誤解してるみたいだけど……私が言ったのは、その後碇君はどうしたのかってことが聞きたいからだったんだけど」
「え?」
「だって、傷つく理由なんて人それぞれでしょう。だから、どんな原因であれそのことの軽重を言うつもりなんてないわよ?そんな最低なことするわけないじゃない」
「え、あれ?」
「だから、碇君はその後、どうしたの?」
「……どうした、って……」
言葉に詰まる。
彼のしたことと言えば、自分を呪ったことくらいだ。
「彼女を追いかけなかったのは仕方ないとして、お父さんに連絡くらい取ったんでしょう」
「あ、いや父さんは荷物を持ってすぐに出て行ったから……」
「それは聞いたし、碇君のお父さんとの関係も聞いたわよ。だから連絡を取るのが大変なのはわかるけど、方法がないわけじゃないわ。その、綾波さんとの関係から見ても医療関係者でしょ。その筋から当たってみるとか」
「……それは」
「……まさか、諦めきってお父さんを探すことすらしなかった、とか」
図星だった。
今度こそあきれ果てた、というよに明日香が溜息をつく。
ビルの屋上、風と星空の下でその溜息が伸治の後悔と共に飛ばされていった。

その夜、彼のアパートのドアを叩いたのは父、厳堂だった。
「父さん……」
呆気に取られて呟く彼に、
「玲の荷物を受け取りに来た。用意しろ」
「えっ……ちょ、ちょっと待ってよ。綾波は今」
「わかっている。彼女はもうここに戻って来ない。だから荷物を取りに来たのだ」
「もう来ない、って……」
父の言葉を理解しているのかいないのか、なにがなんだかわからない、という表情で呆然と彼は厳堂の顔を見つめる。
綾波がもう戻らない?
どこに?
ここに?
綾波が、どうして?
ぐるぐると疑問が駆け巡るが、明確な形を成さない。混乱を極めた彼の耳を打ったのは厳堂の言葉だった。
「どうした。お前が望んだのだろう」
その言葉にびくっと震える。
望んだ。
僕が。
戻らないことを。
誰が。
綾波……
「だから玲はここへは戻らない。どうした、そこをどけ」
肩を軽く押されただけで崩れ落ちる体はもう、彼の意思の範囲を免れていた。
そんな彼を横目に、厳堂は何も言わず部屋に入るとたった数日で彼女の匂いがする部屋を眺めて目を細める。けれどそれも一瞬のことで、すぐにいつもの無表情に戻ると部屋の片隅に置かれた鞄を見つけて手に取った。
そのまま玄関に向かい、座り込んで壁に体を預けている彼を見下ろすと、
「彼女にはもう、会えることもあるまい」
静かにそう口にする。
虚ろな目をしていた彼は、その言葉にはっとすると、
「なん……なんでさっ!どうしてっ」
「玲にはもう時間がないのだ。彼女の容姿が変わっていることはお前にもわかっているはずだ」
「それは……それはわかってるさ!でも、それが何だって言うんだよ」
殆ど掴みかかるようにして言い募る彼に、それでも厳堂は慌ても驚きもしなかった。無表情に彼を見下ろしてはいるが、けれどもその目は決して冷たくはなかった。
そして、そのまま淡々と事実を口にしていく。
まるでその意味はお前が自分で判断しろ、とでも言うかのように。
「彼女、綾波玲は病にかかっている。先天的なものだ。そしてお前の母さん、唯が主治医だった。母さんの死因は知っているな」
こくり、と頷く。
「幼かったお前には交通事故としか言っていなかったが、死んではいなかったのだ。脳死状態……わかるか、脳が死んで体が生きている状態だ」
「そんな……じゃ、じゃあ母さんは生きているのっ?」
彼は母親が生きているという一縷の望みをかけて尋ねるが、厳堂は首を横に振った。
「生きていた。だが今は生きてはいない」
「どういう、ことなの」
聞いてはいけないような気がした。そもそも母親が生きていたことさえ、今こうして聞かなければ母はいない、という今までと同じ事実だけで生きていけたのだから。
けれども彼の口は厳堂に真実を求めていた。
「……母さんは、玲の一部として生きている」
「生体……移…植……」
愕然とした彼に、少しだけ厳堂は顔を顰めたが、それがどういった感情から来ているのか俯き呆然としている彼にはわからなかったし見えもしなかった。
「今までだましだまし継続治療もしてきた。だが、やはり無理があったのだ」
彼は顔を上げない。
何も知らずに生きてきた。
彼女が来て、無駄に過ごしてきた時間に少しずつ意味が生まれてきたと喜んでいた。
彼女だったら自分を受け入れてくれる、そして自分も彼女を受け入れられる、そう思ったし、そのことがひどく嬉しかった。
だからこれからも、彼女と一緒にいたいと思った。
なのに、目の前にいる父の口から放たれる言葉ですべてが失われていくことを知った。
「お前には失望した」
だが、父は厳しかった。
そしてそれに抗する術を持たない彼は、甘んじて受け入れるしかなかった。
「仕送りは今まで通りだが、高校を卒業してからは知らん。お前はお前の人生を生きろ。そして、彼女のことは忘れろ」
それだけを言うと厳堂は部屋を出て行く。その前にちらりとだけ伸治を流し見て、
「—————。それだけだ」
後には、がちゃり、とドアの閉まった音にさえ気付かない彼が、俯いたままで残された。

小学校は山を背に黒い影のようにそこに佇んでいる。
畦道を歩きながら彼は彼女と過ごした思い出の場所に、無意識のまま足を運んでしまったことに今更ながら気がついた。
足を止めて周囲を見渡す。
まるで海にいるみたいだ、そう思った。
まだ稲穂は頭を垂れていない。ぴんと背を伸ばして水田に広がっている。
合間に見える水面が月光に光って。

「綾波……」

好きだった。
いや、今でも彼女を愛している。
けれど、もう二度と会えない。
母親が死んだのは小学校低学年の頃で、もう今ではその時の悲しみを思い出すことも難しくなってしまったけれど、彼女を失ったことはリアルに彼の心に少しずつ浸透していった。
「綾波」
もう、そう呼んでも「なに」と抑揚のないあの声で答えてくれない。
そう応えてくれた少女は、もうここにいない。
そして二度と会えない。
傷つけてごめん。
謝りたかった。
許してもらえるのなら、一緒にいて欲しい。
願いを伝えたかった。
絶対にもう、傷つけたりしない。
綾波を守る。
決意を伝えたかった。

でも、もう二度と会えない。

じわじわとその事実が彼を苛み、いつか座り込んで膝を抱え込み、顔を埋めていた。
短い間だったけれど、一緒に作った思い出は沢山あった。
きっとすべてが、彼女と一緒でなければ思い出にもならないことだったに違いない。他の誰といても、それは記憶ではあっても思い出にはならなかった。
当たり前のことしか考えられない。そんなことはわかりきっているこのなのに。他にはもう、何も彼の頭を占めることはできなかった。

虫が鳴いている。
いったいどれほどの時間が経ったのだろう。
手に、何かがそっと触れたような気がして、彼は顔を上げた。
「あ……」
目に飛び込んできたのは、光。
さっきまでは全く気がつかなかった、蛍の乱舞。
目の前を無数の光点が飛び交っている。
稲穂にも、下草の上にも。
「蛍」
思わず呟く。
空っぽだった彼の心に、ようやく別の、ごく普通の言葉が浮かび上がってくる。
「きれいだ……」
虫の音と蛍。
音と光の幻想的な光景は彼には見慣れたものだったけれど。
こんなに心に染み込んでくるものだとは思ってもいなかった。

しばらくの間、じっとその光景を見詰める彼の瞳が、次第に揺らぐ。
「綾波、蛍だよ」
一緒に見たかった。
彼女に、この光景を見せてあげたかった。
あの冷たい小さな手をとって、その手に光を乗せてあげたかった。
「きれいだね、綾波……」
もう一度呟くと、彼の目からは堰を切ったように涙が溢れてきた。
悲しいからじゃない。
嬉しいからでもない。
彼は生まれて初めて、悔しくて涙を流した。
目を閉じることはせずに、彼女と一緒に見れたかも知れない光の乱舞を、その目に焼き付けておくかのように蛍の群れを眺めながら、彼はただ泣いていた。

そして脳裏によみがえる、父、厳堂が出て行く間際に言った言葉が彼の胸に突き刺さる。永遠に抜けない棘のように。

『玲からの伝言だ』

「ごめんなさい、ただ、いっしょにいたかったの」

「会いたいよ、綾波……」