lisianthus.me.uk

index > fanfiction > ナデシコ > 約束の日 > 18,Dec;慌しさの中で

「親父さん、キャベツこれくらいでいいっすか?」
「そうだな、それくらいだな……久美、飯はできたのかー?」
「アキちゃん、レジの鍵知らないかい?」
「できたよー」
「あ、昨日抜いときましたよ」

食堂の朝は早い。
ネルガル・ティコ工廠勤務者の多くは家族を地球や他のクレーター・シティに残してきている。
彼らのために、ここ『ムラカミヤ』は朝の定食から始めるからだ。

そんな慌しい中で、アキトはナデシコとは別の安らぎを感じていた。

機動戦艦ナデシコ - Blank of 2weeks -

約束の日

「はいっ」
久美が炊飯器を開け、ご飯を放り投げる。
地球でなら説教されるような行動だが、重力の小さい月面ではこれも文化の内なのかもしれない。
初日こそアキトも戸惑ったが、3日目ともなると慣れて来た。
「そう言えば久美ちゃん、そろそろ冬休みなんじゃない?」
「うん。22日まで」
「そっか、土曜日からもう休みなんだ」
「地球に行く友達がいてね、スキーをやるんだって。アキトさん、やったことある?」
卵焼きに箸を伸ばしかけて、
「スキー?」
聞き慣れない言葉だった。
アキトが箸を宙に浮かせたまま首を傾げているのを見て、久美が笑う。
「アキトさん、知らないの?」
「う〜ん……聞いたことがあるような、ないような……」
「火星って、雪降らないの?」
久美も住んではいたが、物心がつくかつかないかの頃でよくは覚えていない。
アキトが知らないのなら、恐らく降らないんだろうと思った。
「いや降ることは降るよ、極地方だけね。ただ、寒いばっかで雹とか霙しか降らないんだ。冬にやるものなの?」

ナノマシンの大気調整は永久的に行なわれるものではない。
火星降下時にユリカが言った通り、基本的に人体に影響はなく排泄されるものだが、ナノマシンを体内に取り込むことが火星移住の最大の難点にもなっている。
火星生まれのアキトにとってはごく当たり前のことであり、そうでなくとも、呼吸している空気にナノマシンが入っていることを生活の中で気にする人間などそうはいないだろう。
だが、IFSさえ忌む地球育ちの人間が、知識として火星の大気にはナノマシンが含まれていて、それらが体内に取り込まれる環境にあるのだということを知ると、やはり敬遠してしまうのだ。
体内に異物を取り込むこと、しかもそれが生存に欠かせない空気によって避けるべくもないことであると言うことは、未だ人間の生理的忌避感に抵触してしまうようである。

コロニーなどの生活環境だけを取ってみれば、火星は地球や月に比べても遥かに進んでいる。
人工密集地帯がコロニーに限定されるため、生活社会資本を集中的に投下できるからだ。
当然のことながら、産業社会資本も別地域に区分して集約するので、生活空間に『公害』は無縁であり、非常に整った社会サービスを享受できる。

連邦政府はその点をアピールして移住者を募ると共に、大気調整用ナノマシンの除去へ向けた緑地化計画、有機物による土壌改良を推進していた。

だが、テラ・フォーミング最終計画とコロニーへの依存度により、結果として第一次火星大戦の犠牲を大きくしてしまった。
巨大な火星全土が、あのレベルの戦闘で全滅するなどというのは考えられない。
地球上ならば、居住地域が平均化されているから。
けれど火星ではそうはいかなかった。
ユートピア、ヘラス、エリシウムの各平原にあったコロニー、そしてオリンポス、アリシアの山麓とマリネリス峡谷にあった産業コロニーに集中していたのが悲劇の源だった。
広大な大地に分散されたコロニー間では協同して当たることもできず、そしてそれらを集中的に攻めれば火星はあっという間に地球人類の手を離れてしまうのだ。
誰一人、生き残ることなく。

その結果はアキトもその目にまざまざと焼き付けたものであり、地球もそのことは次の開発に生かすだろう。
……火星が再び彼らの手に戻れば。

「2本の板を足に履いて、上から滑ってくるスポーツだけど……私もやったことないんだ。知ってるだけで」
屈託なく笑って、お茶に手を伸ばす。
「はい」
どこまでも内装に合わせているようだ。
きちんと急須で淹れられたお茶は、温かそうな湯気を立てている。
「あ、ありがとう」
受け取りながらアキトは、体の芯から広がる不思議な気持ちに戸惑っていた。

どうしてこんなさり気ない日常に、安らぐのだろう。
ちゃぶ台を囲んで、ゆとりのある朝の時間を過ごしている、ただそれだけのことなのに。
思えばナデシコは最新鋭戦艦だけあって、周囲が全てデジタルで彩られていた。
VRで好きな景色に囲まれることもできるし、望めば室内を畳に変えても貰えた。
けれど、その中にいてもこうも心が落ち着くことはなかった気がする。
火星で生まれ育ったとはいえ、やはりアキトも日本民族だからなのだろうか。
幼い頃を両親と過ごした家は、科学者らしく飾り気のないシンプルな一戸建てだった。
オリンポスにあったネルガルの研究施設への出張が多かった両親は、コロニー中心区への便が悪くとも、他のコロニーへの航空便の出る宙港の傍を選んだのだ。
だから比較的郊外の緑地にも近く、草原でよくユリカと遊んだものだった。

この『ムラカミヤ』は純和風のつくりをしており、室内も地球でたまに見た古風な建物と同じ雰囲気を醸し出している。
アキトの想い出に触れるようなものではないはずなのだが。

「で、その別荘に行くんだって」
「え?」
つい久美の言葉を流してしまっていたらしい。
ぼんやりとしている間に、彼女の食事は終わり、湯呑みを口に運んだまま小首を傾げる。
「アキトさん、聞いてなかったの?」
「……ごめん」
「どうしたの、ぼんやりしてたみたいだけど。……仕事、辛い?」
「いや、そんなことないよ。楽させてもらってると思うくらいだし」
そう言うとちらと目に入った時計を見て、「げっ!」と小さく叫び、慌てて掻き込む。
「ぐっ……」
「そんなに急がなくていいのに」
苦笑しながら久美がアキトの湯呑みを押し出してやる。
急いでお茶を喉に流し込むと、
「けほっ……ふー、ごめん、ありがとう」
「どういたしまして」
湯呑みをちゃぶ台に置いて、はたと気付いた。

「どうかした?」
まじまじと湯呑みを見つめ、それから久美に視線を戻すと、彼女の不思議そうな瞳と目が会った。
「あ、いや、お茶がちょうどいい温度だったから……そう言えば今までも食事中は熱すぎず、食後には火傷しない程度の熱さで淹れてくれてたなあ、って」
「?」
久美は、それがどうかしたのかという顔つきでアキトを眺める。
「凄いな、久美ちゃんって。そんなことまで考えているんだ」
「何を言ってるの、アキトさん?……お茶の温度が何か?」
久美はやっぱりわからない、ときょとん、としている。
「え、だって、ちゃんとお茶の温度を考えてくれているんだろ?」
「お茶の温度を考えて?……あー」
ようやくアキトの言いたいことがわかったようだ。
久美は可笑しそうにくすくすと笑いながら、
「変なアキトさん。あ、でも私もそろそろ行かなきゃ」
「そうだ!俺も急がないと……」
慌てて立ち上がる。
ちょうどその時、食堂の方からアキトを呼ぶ声がした。

「久美、あんた何かいいことあった?」
「別にないよ。どうして?」
ティコ・シティ第3ドーム内にある、第一女子高等学校の生徒は定期試験から解放され、目前に迫った冬休みの話題で持ちきりである。
「それとも冬休みの予定がたったのかなー?」
にやにやしながら話す友人たちに、久美は苦笑した。

月面には2つの女子高がある。
ひとつはこの第一女子高等学校で、もうひとつはハーシェルにある私立の女学院。
比較的裕福な子女は女学院へ行くことが多い。
当然、冬休み前の話題も異なるのだが……。

「ねえ、やっぱ行かないの、久美?」
「うん。年末は忙しいから、手伝いしないと」
「はー、もう真面目なんだから。せっかくただで地球に行けるんだよ?こんなチャンスそうそうあるもんじゃないんだから」
地球への渡航チケットは、いち庶民の手に簡単に入るものではない。
だから、企業の重役やら資産家やらの娘が多いハーシェル女学院と違い、第一女子での休み前の会話と言えば娯楽施設が集められているウェルナーへの泊り込み遊行くらいのものだ。
普段ならば。

「でもさー、彼女も何で第一に来たのかねー」
「あ、それね、何でも本人が嫌がったらしいよ。あそこって未だに『ごきげんよう』の世界だもんねー」
「ひぇー、マジで?そりゃ彼女の雰囲気じゃないわ。まあ、お嬢様っぽいとこもあるけど、基本的には成金だもんね」
「ネルガル化学の重役令嬢でしょ?ネルガル自体が成金だもんねー」
「あの、2人ともお金出してくれるって人にそれはないんじゃ……」
久美が口を挟むが、
「もー、久美ってほ〜んと真面目なんだから」
「ま、そこがいいとこなんだけどね」
「あはは……」
久美は笑うしかなかった。

それは、ただで行けるのだから、久美だって行きたい。
月面居住者にとって、地球は憧れの地だ。
人工照明のおかげで普段はあまり気にならないが、ふ、とやっぱりここはドームの中なんだと思うときがある。

それは夜明け。
夜間照明から星々の瞬きが消え、薄暗い空が濃紺、藍へと移り変わる瞬間。
そんな時に空を見上げていると、ドームの継ぎ目がうっすらと見え、何となく息苦しさを覚える。
人工のドームに守られている生命。
あの向こうには静謐と闇の真空が広がっている。
そう思うと地球のどこまでも広い空や、星そのものに守られて圧迫されることなく暮らせる生活が羨ましい。

「ほんとに行かないの?何なら私たちが親に話してあげようか?」
「あ、ううん。ほんとに今回はいいの。来年も誘ってくれたらいいけど」
何となく、他人の情けを受けているようで嫌だった。
どうせ行くのなら、自分の力で、自分が稼いだお金で気兼ねすることなく行きたい。

それもあったが、久美は今の生活が気に入っていた。
ナデシコと連絡が取れれば、アキトは帰ってしまうかもしれない。
彼自身が、ナデシコへ戻りたがっているようにも感じる。
でも、それまで、いつまでになるかはわからないけれど、それまではお兄ちゃんができたみたいな今の生活を続けたい。
せめてアキトがナデシコに戻るまでは。



時代がかったチャイムが昼休みの終りを告げ。
クラスメートは自分の席に戻っていく。
短い休み時間の余韻を残したさざめきの中で久美は、人工のドーム内層に映しだされた雲をぼんやりと眺めていた。

18,Dec;慌しさの中で

≪あとがき≫
普段こんなことは書かないんですが。

東京—タヒチ間が約10,000キロ。
エコノミーで180,000円くらいしますよね。
月面—地球間で単純に計算すると、航宙運賃はなんと6,840,000円です。
飛行機のようには行かないでしょうから、保険料やら燃料費その他諸々でこれよりは高くなりますね(笑

いかに宇宙船の開発技術が進んでいようと、ナデシコはネルガルが火星の技術を応用して作った最新鋭であり、民間航宙機ではあれほどのスペックは望めない、と。
すると移動に数ヶ月を要する火星への移住は、国家規模の大々的な大型宇宙船を用いたものではなかったでしょうか。
また、月にしても宇宙空間を移動するわけですから、気軽に出かける程度のものではないのではないかと思います。

1903年にライト兄弟が初飛行を行なってから現代、ここまで航空機は発達しましたが、航空機の発達スピードに比べてもロケットの発達は遅いと言えましょう。
ナデシコの設定によれば人類が月面にコロニーを築いたのが22世紀。
初の人工衛星スプートニク1号打ち上げが1957年。
飛行機とロケットは、同軸上で技術速度を考えられるものではないのかも知れません。

それらのことを考え合わせ、私のSSでは、

という設定になっています。
他の短編でも民間人の渡航に関しては大体このような設定に基づいています。
『fly me to the moon』と『It must be love』が終わってからの連載になりますが、『Bathroom Chat』でも、アキトは火星市民なので留学から戻るための渡航費用は比較的安くあがるんです。

さて、皆さんはどうお考えでしょうか。


尚、Monochromeでもそうでしたが、私のSSでは月面や火星の地名がやたら出てきます(笑)。
参考までに、一番見やすい月面地図を挙げておきます。
今回の『18,Dec;慌しさの中で』、位置把握の一助にしてください。

http://mo.atz.jp/annai_detail/annai-ks.htm

直リンしてませんのでコピペでどうぞ。