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三月のある日、あいつは私の入院している病室に唐突にやってきた。
何故か姉に連れられて訪れた男。どういうわけか毎日のように見舞いに来るようになった奴。いつしか私にとってそこにいることが普通になってしまった彼。
気が付けばある感情を彼に抱きはじめた、ある春の日から始まったお話。

ToHeart2 - 二つの思い、一つの未来

書いたひと。ADZ

1/病室にて、彼と今後の事を話していたら。

「なあ、今はあまり目が見えないんだよな」

眼の手術を数日後に控えているある日、そんな事を言い出した。
姉は売店に何か買いに行った。多分またお菓子だろう。

「そうよ。良く見えないけど何?」
「いやな、俺の顔、見えてるのかな〜、なんて。手術の後、俺を見て『あんた誰?』とか聞かれたらちょっと、と思って」
「何言ってんだか。例え顔がわかんなくても、喋ってみればすぐわかるじゃない。大体ね、大丈夫よ。一メートルぐらいならちゃんと見
えてるんだから。あんたのアホ面ぐらいわかってるわよ」
酷い言われようだな〜、と苦笑する貴明。

「でも……そうね、もう一度じっくりと見せてくれるかしら、あんたの顔。もしかしたらこれで見納めかもしれないし」
「縁起でも無いこと言うなよ。まあ、顔を見せるのは良いけどな。……このくらいでいいか?」

椅子から立ち上がると、貴明がベッドの横まで近づく。そして私の瞳を覗き込んで、ささやく様に確認してくる。

「ん……、もっと近づきなさいよ。ちゃんと覚えてあげるから」

もっと近くで見たかったから、私は貴明の右手を引っ張った。
貴明は左手を枕のすぐそばについて、そのまま身を乗り出す。
四十センチ。じっと見上げた視線は、彼の眼を射抜く。あいつの視線は困惑に揺れている。

「い、郁乃さん、十分な距離なのではないかと具申いたしますですよ?」

三十センチ、胸が熱い。近づくほどに、私はもっと、近づきたいと想ってしまう。

「郁乃、だから近すぎるって。郁乃?」

十センチ、私は貴明の右手を放さない。あいつも振りほどこうと思えばいつでも振りほどけるはずなのに、そうしない。

五センチ。真っ直ぐに見つめあい、貴明が息を呑む。私は、眼を閉じてそのままゆだねる。

そして、その距離が極僅かとなった。私と貴明、お互いの唇が触れようとして……

「いっくの〜、こっうっのく〜ん♪一階の売店でね、新しいクッキー入荷してたよ〜。飲み物も買って来たから、一緒に食べ……どうしたの、二人とも?」

狙いすましたかのように姉が戻ってくる。おのれ、何故こうタイミングよく……

「お姉ちゃん、入るときはノックしてって言ってるでしょ」
「はははははは早かったね小牧さん。なんでもないですじょ?」
「じょ?」

扉が開け放たれた瞬間、貴明は神速の勢いで飛びのき、椅子に腰掛けた。私は今までさも読んでいました、と言わんばかりに数日前に姉がもって来てくれていた文庫本を開いている。

「えっとー。なんでもないんなら、いいんだけど」

姉が納得しているようなので、そっと胸をなでおろした。貴明は姉から飲み物とクッキーを受け取り簡易テーブルに並べる。

「でも郁乃、本が逆さまだよ。あとね、まだ伯母さんにはなりたくないから色々と気をつけてね」

数秒後、姉の言うところの意味を理解して、真赤になる私と貴明だった。

2/トラブルメーカーより愛を込めて。つーか結局被害者は河野貴明さん(仮名)当時十七歳(推定)男性。

唐突に唐突な人が唐突な事を言い出した。

「タカちゃん、催眠術の実験したいんよ」

貴明は逃げ出した。

「でね、誰か手ごろな人紹介してほしいんよ」

しかし、回りこまれた。

手ごろってなんですか、あなた久寿川先輩のときの事忘れたんですか?とりあえずベルトから手を離してください

「タカちゃんもミステリ研の一員なんだから、活動に貢献するべきだと思うんよ」

だからこれは一体どんな世界観なんだと。
色々とあって人集めをする事に。人の弱みにつけ込む人間なんて嫌いだ。(何かされたらしい)

「で、何するわけ。くだらない事だったら辞書の角で殴るから」
「たかりゃんよ、何も言わずにいくのんを体育館用具室に連れ込もうだなんて、とうとうその気になったのかにゃ?」

図書室で借りた分厚い百科事典を構えるな郁乃。あと先輩、呼んでないから。

「いいじゃん、暇だしあたしも混ぜろ。初体験が3(ぴ〜)だなんて、滅多に無いぞ?」
「帰れ」

とかく、ミステリ研部室に着く俺達。だからなんでまだいるかあんた。

「むしろこんな人でもいてくれたほうが安心だわ」
「こんな人呼ばわりっ!?いくのん、最近冷たいわっ!!」
「郁乃は元からこんなもんでしょ。兎角、先輩はここに生息しているのが何か知ってるでしょうがっ!!」
「かもりーん、俺様がきてやったぞー」
「人の話を無視してドア開けるかこの人」
「隊員一号、任務ご苦労、なんよ」
「いつの間に部員から隊員にクラスチェンジっ!?」
「ただのノリなんよ」
「で、なにするわけ?」
「俺様のフィンガーテクを見せてやろう、いや味あわせてやろう」
「ほんとに帰れや」
「かるーく、催眠術をためしてみたいんよ。本に書いてあるとおりやるから、安心なんよ」
「あんたそれでこの間大騒ぎになったの忘れたのか」
「タカちゃん、準備はおーけーなんよ。先輩といくのん、どっちから試すかな?」
「どうしてこう俺の周りには人の話し聞かない奴ばかりが」
「……類友」
「郁乃、その発言にはいたく傷つくべきなのか、お前もその一人だぞと言うべきか」
「貴明、人って何本かぐらいまでなら針刺しても平気なのかな?」
「ごめんなさい、俺は何も言ってません、聞こえたのはきっと風のささやきです」
「すでに尻に敷かれとるのかたかりゃん。まだ新婚だというのに」
「いつ新婚にっ!?」
「せ、先輩。変な事言わないでください。私は、その」
「とりあえず、捻くれ者のふりした純情少女、いくのんからやってみたまへ」
「場の流れを無視されたっ!?」
「……はぁ〜。疲れるわ、あんたたちの相手は」
「俺もか、俺もなのかっ!?」

そして催眠術をはじめる笹森さん。有耶無耶のうちに椅子に座らされて、目の前で糸で吊った五円玉を揺らされている郁乃。
テーブルの上に胡坐かいて座る先輩。だから少しは人の目を気にしろやあんた。

「はい、あなたは段々眠くなる、眠くなる〜」
「……」
「では私が三つ数えたら、数えたら、えーと、どうしようか、タカちゃん」
「また考え無しでしたか」
「イヌと言うのはどうだろうか」
「それです、先輩っ!」
「採用するなよっ!」
「というわけでいくのんはわんちゃんになるのです〜。いち、にの、さんっ!」
「やっちゃったよこの人っ!」

郁乃の様子を見ると、ぼんやりとした眼をしている。まさか本当に効いたのだろうか。
この間は、良くも悪くも純粋で天然な久寿川先輩だったからだと思っていたのに。

「腹黒い人より、純粋な人がかかりやすいと思うんよ。だからいくのんはきっとかかりやすいよ」
「きさまら、何故におれを見つめている?まさか、告白たーいむっ!?」
「……はらぐろ」
「何を今更」
「自覚あるのかよっ!」
「しっ!タカちゃん、いくのんに反応が見られるんよ」
「え?」
「郁乃ちゃーん、聞こえてますか〜」
「……わん」
「い、郁乃っ!?」
「……」
「おお、いくのんが無言のままたかりゃんに抱きついてすりすりしとる」
「きっと普段の抑圧されていた欲求が表に出てるんよ。犬だし」
「ちょっとまてちょっとまて郁乃っ!?」
「……」
「ああああああ、哀しそうな眼をするなー!」
「これは無理に引き剥がせませんな、かもりん」
「そんな残酷なまねはできませんな、まーちゃん」
「即席でネタ合わせっ!?コンビか、あんたら漫才コンビなのかっ!?」
「くぅ〜ん」
「ああああああそこはだめ、そこをすり寄せちゃ駄目、理性がまずいからっ!」
「らぶらぶですな、まーちゃん」
「慕われてますよね、かもりん」
「元に、郁乃を元に戻してっ!」
「とてもわたくしなんかには止められませんよ、ねぇまーちゃん」
「ええ、とっても微笑ましい光景ですわよね、かもりん」
「いやぁっ!頬をなめてる、なめてるよっ!!見てないで止めてよっ!!」
「いやいやいや。ご主人様を慕うわんちゃんのすることですから」
「そそ。むしろたかりゃんはご褒美をあげないと」
「楽しんでるだろあんたらっ!」
「何を言うかね。当然ではないか」
「ミス研は恋愛自由なんよ」
「最悪だよあんたらっ!」


とかく必死の説得により元に戻してもらえる事となった。最悪だよこの人たち。


「はーい、私が三つ数えたら、元のいくのんにもどりまーす。わん、つー、すりー!」
「……」

眼に理性の光が戻り始める郁乃。ちなみに俺の膝の上にすわってて首に両腕回したままです。引き離そうとするとものすごく嫌がったもので。

「辞書、辞書はどこっ!この不埒者に究極奥義叩き込むっ!」
「いきなりそれは理不尽ですよねっ!?」

とりあえず究極奥義ってなんだ。

「だから、笹森さんの催眠術で、こう、いいように操られてたんだよっ!俺は必死に抵抗をして」
「たかりゃんはいくのんが催眠術で朦朧としているのをいい事に膝の上に座らせて、『郁乃はかわいいなぁ〜』と可愛がっていただけだ」

何を言い出すかなこの人っ!?

「……そう」
「イクノサン?」
「ふん。今日のところは許してあげるわよ。あんたが人目があるのにそんなまねできるなんて思えないし。ヘタレだし」
「ヘタレだもんね」
「ヘタレだからなぁ」
「しみじみと言うなよっ!」

先輩、ちゃんと証言してくださいよ。俺は寿命が縮まりました。

「やだなぁたかりゃん。俺の言うことを誰が信用するというのかね」

やっぱり最悪だよこの人っ!

「それに、面白い事は正義だぞっ!!特に俺様にとって面白い事がっ!!」

最低だよ、最低だよこの人っ!?


兎角、解散して帰り道。笹森さんはさらなる技術の探求のため、旅立った。
というかどこに行ったんだ?先輩はいつものようにいつのまにか消えた。今、郁乃とふたりである。
夕日の中、二人だけの帰り道。

「貴明、言っとくけど」

は、なんでありましょうっ!

「なんで固いのかしら。あのね。二人だけの時なら、いいから」
「何が?いやだからそこで百科事典構えないで」
「もういいわよ」

結局、なにが言いたかったのかわからないまま、俺達は帰路に付く。
それぞれの家へと向かう分かれ道。本当なら最後まで送って行きたいところだが、まだ明るいから平気だと言い張るので見送る。そして顔だけこちらに向けて郁乃は言った。

「ほんとはね、嫌じゃなかったから」

何がなんだろう?本当にわからないまま、郁乃の後姿が見えなくなるまで見送った。

「たかりゃん、やっぱチミは鈍いね」

いたのかよ先輩っ!?

3/一年過ぎました。愛ってなにさ。ためらわない事ですか?

「くふぅ〜」

自然、笑みがこぼれる。
下着の上にワイシャツ一枚羽織っただけで、私は毛布に包まれている。その脳裏には様々な想いが思い浮かんでは消えていく。

「えへへ〜」

そのままゴロゴロとベッドの上を転がって、自分の顔がどうしようもなく緩むのを止められない。ただその匂いを吸い込んだだけで、その毛布にくるまっているだけで、あいつに包まれているような気がしてくる。
風呂上りの上気した肌。普段まとめているけど、今は解いている湿った髪。
今いるのは貴明の家、貴明の部屋の、貴明のベッドの上。
何か、こう、そーいう事があったわけじゃない。ただ一人暮らしのあいつのために夕食を作ってやろうと買い物して、貴明の家に向かっている途中に雨に降られた。
傘を持っていなかった私は慌てて走り出して、転んでしまった。走ってもそう速度なんて出ないのに、十メートルも走ればもう膝が震えてしまうというのに、私は走った。食材を濡らしたくなかったから。
それで転んで、幸い怪我はなかったけど、全身ずぶ濡れになって。
とぼとぼと歩いてあいつの家にたどり着いて、玄関で出迎えてくれたあいつは、大慌てでお風呂を用意してくれた。
そこまではいい。でも、着替えなんて無かったから、あいつは物凄くあたふたとしてくれた。
それで今、あいつは私の服を洗濯して乾燥機にかけてくれているわけ。
どうにか無事だった下着類とあいつが用意してくれたワイシャツを身に着けたが、あいつはそのままじゃまずいとシーツを私にかぶせて自分の部屋に連れて行ってくれて、ベッドの中で湯冷めしないようにしていろと一言告げると、部屋を出て行った。
そして残された私は、最初は大人しくしてたのだけれど、そのうちに気が付いて、こう、あいつの匂いを感じた。
その部屋の空気を胸いっぱいに吸い込むと、姉や私の部屋とは違う感覚が満ちていく。
匂いの素には汗とか、色々なものがあると思う。
だから汗臭いとか感じるのかなと思ってた。だけど、だけどね、不快なんかじゃなかった。
もしこれが他の男のだったら、きっと嫌だったと思う。でも、あいつのだから、時おり抱きしめられた時に感じる、そんな匂いだったから。むしろ私はそれに溺れそうになる。
いかんいかん、年頃の娘がなにしてるんだか。
そうは思っても止められない、やめられない。
枕に顔を押し付け、あいつの髪の、使っているシャンプーのにおいを感じて、今の私はあいつのことだけ考えている。

「うん、うん。えへ」

あー、どっから見ても変な子だ、私。
なんでこんなにドキドキするのだろう。なんでこんなに楽しいのだろう。そして、とても安心できるのだろう。
いい加減自重しないとあいつが戻ってくる。
うん、でもやらずにいられない。
毛布が、シーツが、枕が。その全てに染み付いているあいつの気配。
ああ、私はこんなにもあのお人好しの事が好きなのか。
今この瞬間、あいつが部屋に戻ってきたら、どうしよう?そのまま抱きついてやろうか。寒さに震えるふりでもしてやろうか?
そんな想像をしながら私は枕を抱きしめる。
今日、あいつはこのベッドでこの枕をつかって眠るのだ。その時私の匂いを感じさせてやる。ほんの数分程度では極僅かにしか付かないだろうけど、それでいい。あいつが意識できない程度に残しておいて、あいつの無意識に刷り込めれればいい。私の事を夢に見てくれればいいなぁ。
こんな時薄い胸が一寸は嬉しいかな。膨らみに邪魔されず、しっかりと抱きしめられる。私のドキドキしている心臓のすぐそばで、あいつの枕を感じられる。
私は枕を抱きしめたまま、ベッドに横になる。
このまま寝ちゃおうかな?戻ってきた時のあいつが慌てふためく姿が思い浮かぶ。
あ、でもそのままその、あれやこれやを求められたらどうしよう?初めてだけど私は拒めないだろう。でもまだ何も準備して無いし、覚悟も無い。
ゴロゴロと転がりながらいろいろな事を考えていると、扉をノックする音が聞こえる。戻ってきたんだ、あいつ。

「郁乃〜、服乾いたぞ」

よし、寝た振りしてよう。その、ちょっと期待しちゃってる。

「郁乃?おーい。開けるからな?開けちゃうぞ。開けちゃうからな〜」

そんな呼びかけの後に、あいつは扉を開けて、部屋の様子を伺っている、のだろう。枕を抱きしめて、毛布にくるまって眼を閉じている私にはわかんないけど。

「えーと、郁乃。寝てるのか……」

近付いてくる気配を感じて、少し緊張する。どうするのかなと思っていたら、あいつは私の頭を撫で始めた。

「疲れてたんだろうな。たく、電話してくれれば迎えに行ったのに」

そう言いながらその手は動きを止めずに、私の頭を撫で続ける。気持ちいいなぁ。

「普通に歩けるようになったからって、調子に乗って一人で買い物なんか行くなよ。俺はいつでも……」

いつでも、なんだろう。あ、本当に眠くなってきた。駄目、ここで寝たら私……

「もう少ししたら、起こしてやるか」

貴明が離れていくのが分かる。でもその頃にはもう私の意識は、毛布とあいつの手の温もりが気持ちよくて、沈み込んでいた。

唐突に目が覚めて、とっさに時計を見る。多分、一時間ぐらい経ってる。慌てて私は辺りを見回すと、机の上に私の衣服がちょっと不恰好にだけど畳んで置いてあった。
それらを身につけてから階段を降りていき、リビングに入る。ソファーに座って、テレビを見ているあいつがいる。

「貴明、ごめん。すぐ夕飯の支度————」

テレビを見ていると思ったけど、あいつは寝てた。
しょうがないわね、つけっぱなしで寝ちゃうなんて。それにこんなところで寝てると風邪ひいちゃうわよ。
近付いて起こそうと手を伸ばして、途中でやめる。私はそのまま貴明の隣に片方の膝を付いて、その横顔を見つめた。
そして、その頬に————キスをした。

「ん、んん……」

その感触に反応したのか、身じろぎをするけど、あいつは起きなかった。
私は貴明の部屋から毛布を持ってきて、彼を起こさないようにかけてやってから夕食の支度を始める。
途中で起きてくれるかな?出来上がってから起こしてもいいよね。
そんな事を考えながら私は貴明のために、精一杯姉から習った料理の腕を振るうのであった。

追記。
その夜貴明はなぜか悶々として寝付けなかった。
その原因が枕などからわずかに感じる郁乃の残り香である事に気づけないまま眠りに落ち、郁乃の夢を見る事となる。
郁乃の計画、成功?

4/そして、数年後。幸せはこれから。

あの学校を卒業して、大学に入学して卒業して就職し、もうすぐ一年。

あの学校の卒業までと卒業後、何度か帰国はするものの数ヶ月でまた海外、ということを繰り返す両親の留守を預かり、今も当時から暮らしていた家にいる。
その自室で椅子に座り、どうにかこうにか貯めた貯金で購入したそれを片手に、これをいつ、どうやって渡したものかと思案する。
時刻は夜八時。机の上の写真たてに収まっている一枚の写真に視線をむけ、そこに写るのは多少視線を彷徨わせた自分と目はたれているのに眉が吊り上がり気味の彼女が照れくさそうにしている姿。
思えば彼女とも長い付き合いだ。六年か。良く続いたものだ。
きっと隠し事もなく言いたい放題にやりあう関係だったのが良かったのだろう。でももう少し歯に衣着せて欲しいと何度も思ったけど。
想い出に浸りつつ掌の小箱を眺めていると、電話のベルが鳴り響く。
こんな時間に誰だろう、そう思いながらも受話器を手に取り、名を告げ相手の発言を待つ。
僅かに聞こえてくる喧騒。公衆電話からのようだ。数秒の沈黙、もしかしたら悪戯電話かと思いかけた頃、電話の向こうで息を大きく吸い込む音が聞こえた。

『……貴明、今からそっち行ってもいい?』

どこか落ち着きの無い声で聞こえてくるのは、その顔をついさっき写真で見ていた彼女、郁乃の声。
拒む理由も無いので了承する。むしろ迎えに行くといったのだが家にいろと一点張り。何かを焦っているような、不安に揺れているような声だった。
今日渡してしまおうか。あいつの卒業まではあと一ヶ月はあるから、もうしばらく様子を見てからと思っていたけど。誕生日も近いし。

お茶の用意をしてしばらく待っていると、インターフォンがなる。
玄関のドアを開けると、郁乃が落ち着きなく立っていた。
そのまま言葉を発することもなく靴を脱ぎ、俺の手を握る。そのまま俺は手を引いて、ソファーに座らせた。
沸かしておいたお湯をポッドに注ぎ、紅茶をいれる。
それを勧めても、郁乃はカップを手にとることもなく、落ち着きなくその肩にかかった一房の髪をいじっている。
非常に珍しい姿である。普段はこう、不遜な態度でいるというのに。それでいて結構甘えん坊なところがあってそれがまた可愛くてげふんげふん。それは置いといて。
しばらく様子を見る。こういう時、下手に声をかけるとあたふたとして話が進まなくなるのだ。こういった部分は彼女の姉に良く似ている。

「あのね、貴明」

ようやく落ち着き、意を決したのかこちらの顔を見つめて口を開いた。
ん、なんだ?兎角こういうときは黙って聞き手に徹する事だ。余計な事言うと痛い目見ると雄二をみて学習しているので。いやなんかちがうかあれは。

「あのね、驚かないで聞いて欲しいの」

落ち着いてはいる。でも怯えている。何かが不安なのだろう。

「貴明、私ね————」

ぎゅっ、とその両手を膝の上で握り、真っ直ぐにこちらを見る。

「子供できた」

————————はい?

い、いつのだ?あれか、年末にあった会社の飲み会で酔って帰ってきたら郁乃が夕飯のしたくして待ってて、その、あまりにも愛しく感じてその場の勢いでお姫様抱っこして部屋に連れ込んでいたしてしまって、朝起きたら何も身に着けていない郁乃が、幸せそうに人の頭抱きしめながら寝てた時のか?ここ最近じゃあの時のが最後だし。

「あの、だからね。貴明が嫌なら、お、おおおおおおおろおろおろしても」
「落ち着けバカタレ。嫌なわけがあるか。ツーカお前からその方向性で考えているというのは、なんかショックだ」

子供できた、の後郁乃は俯いてしまったので、俺は静かに立ち上がりすぐそばに近付く。
いきなり間近から声が聞こえたためか、その顔をあげて見上げてくる。泣きそうな顔して、本当に馬鹿だ。
そして俺も馬鹿だ。こいつがそんな事を考えてしまうぐらい、俺が頼りないから、はっきりしてなかったから。安心させてやる言葉を、何ヶ月も口にしてなかったのだから。

「俺の子なんだろう?ならどうしてそんな事考えちゃうんだ?」
「貴明以外とそういう事したく無い。だから、間違いない、間違いなく貴明との子だけど、でも、その」
「やっぱり俺が頼りないからそうなるのか?俺はそんなに信用無いのか。いやそうかもなと思っちまうけど」
「そ、そんな事無い。私は身体がこんなだし、足手まといになるのは嫌で、これ以上迷惑かけると思ったら不安で、怖くて」

まだ気にしていたのか。今も続く病気の治療の事を、これからも完治の見込みは無いその身体の事を。

俺はしばらく待っていろと声をかけてからリビングを出て、自室の机の上におきっ放しにしていた小箱を手に取る。
きちっとリボンまでかけてあるそれを、郁乃からは見えないよう後ろ手に持って戻る。

「あのな、郁乃。本当はお前が大学卒業したら渡そうと思ってたんだけどな」

そういって郁乃の手を取り、それをてのひらに乗せる。
郁乃は目を見開きそれを凝視する。

「それ開けながらでいいから聞いてくれ」

郁乃は俺の言葉にうんうん頷いて震える手でそのリボンを解く。

「あー、実はろくに言葉を用意してなかった。でもまあ、伝える内容は変わらんのだが」

小箱を開き、その中から小さなそれを取り出し、泣き出す。

「お前が卒業したら、俺と結婚して欲しい。お前の残りの人生を、俺と過ごしてくれないか?俺も一緒にその子を育てさせて欲しい」

俺は郁乃の手の平にのっているそれを摘んで、左手の薬指にはめてやる。
給料三か月分のそれは、銀色の輝きを放っている。

わんわん泣いて抱きついてくる郁乃、それをなだめるのに一時間ほどかかってからようやく返事を貰えた。

その返事は——————語るまでも無いだろう?

5/時は、流れて。

薄く靄のかかった様な視界、それが段々とはっきりとしていく。ここは、どこ?誰かの家?周囲を見回す私の目の前を、小さな女の子が通り過ぎていく。
年の頃は五歳程度だろうか。誰かに良く似た……いや、私に良く似たその子は、小さなその手を使って顔を洗っている。
そのようすを眺めながらも、私は声を出す事も動く事も出来なかった。
やがて女の子は顔を洗い終わり居間へと向かう。私は吸い寄せられるように、彼女の後について移動していく。
そこには新聞を読んでいる男性が一人。
女の子の父親らしく、彼女はその男性に飛びつく。男性は女の子をたしなめて朝食を食べさせる。
誰かに似ている?いや、これは歳をとったあいつ?
落ち着いてみればこの家は見覚えがある。何度かお邪魔した事もある、あいつの住む家だ。でも、何がどうなっているの?あの女の子は誰?目の前のこの人は、貴明、なの?今の私は、いったいどうなっているの?
疑問を解消する間もなくインターホンのチャイムが鳴り、食事の終わった女の子を連れて玄関に向かう。
そして開いた扉の先には、私の姉に良く似た女性がいた。
二、三の言葉をまじあわせたかと思うと、女の子はその女性と一緒に出かけていく。保育園、もしくは幼稚園に向かうのだろうか?
男性はすぐには家を出ず、寝室と思わしき部屋に入りかばんを手にとる。
そして退室する前に『それ』の前でたたずみ、口を開いた。

「あの子は、元気に育ってるぞ。おまえと、俺の子は」

その人はとてもさびしそうに、その写真に語りかけている。

「……それじゃあ行って来るよ、郁乃」

私は凍りついた。その仏壇には、私の遺影となる写真が飾られている。そしてその傍らには、あの日彼が私の左手の薬指にはめてくた、あの指輪が置かれている。
胸を締め付ける息苦しさ。ドウシテ、ナゼ、ナニガアッタノ?
私が放心している間にも、彼は身支度を整えて家を出て行く。私は慌てて追いかけた。
駅に向かい、電車に乗り、やがて何処かの会社のビルにつく。そこで数時間仕事をして、昼食をとり、また仕事をして、駅に向かい、電車に乗り、帰宅する前に見覚えのある家————あれは、私の実家だった家だ————により、そこで朝彼の家に来ていた女性に出迎えられる。
女性が家の奥に声をかけると、朝見た女の子がパタパタと足音をたてて姿を現し、彼に飛び付いた。
彼は女性に礼を告げて、帰宅していく。その女性は寂しそうに彼を見送った。
彼と女の子は道すがら今日の出来事を話しながら歩いていく。幼稚園での出来事、さきほどの女性の事。先ほどの女性に晩御飯は頂いた、など。
一言一言に頷きながら彼は女の子の頭を撫でる。嬉しそうに目を細める彼女。
やがて帰宅。一緒にお風呂に入り、髪を乾かしてブラシで梳き、やがて睡魔に襲われた女の子を抱えて部屋に連れて行き、ベッドで眠らせてやる。
彼はリビングに戻るとサイドボードに飾られていた写真を手に取りるとテーブルに置いて、棚からお酒の瓶を取り出しコップに注いでいく。
写真に写っているのは、眉を吊り上げている私と、シャッターの瞬間、視線を彷徨わせていたのか目線が正面を向いていない貴明。彼はその写真を眺めながら何も言わずに、ただコップに口をつけている。その姿を見るのは、辛かった。
しばらくその姿を見ていると唐突に意識が跳び、朝になっていた。
昨日とさほど変わらない朝の出来事。女の子が顔を洗い、朝食を取り、昨日の女性が迎えに来て、彼は寝室の写真に言ってくるよと声をかけ、電車に乗り、仕事をして、女の子を迎いに行き、帰宅して、眠らせて、お酒を飲んで。
数日の間、私はそれを見続けていた。毎日なにも変わらない日々。
苦しくて、切なくて。今にも私は彼らの前に出て行きたかった。でも私は誰にも見えず、声も届かない。
そして、休日なのだろう。朝、女の子はまだ眠ったままで、彼は見入るでもなくテレビを見ている。その瞳には感情の色はなく、ただ流れていく映像を眺めているだけだ。
しばらくするとチャイムが鳴り、来客を告げる。彼は玄関まで歩き進めてどちらさまかと声をかける。
すると扉の向こうからくぐもって聞こえるものの、それは毎朝来てくれている女性の声だ。
女の子の面倒を見てくれていた女性……いや、もうそれは私の姉なのだと思う。彼女はお茶とお菓子を持ってきたと彼に告げ、彼は多少躊躇ったものの彼女を、姉を客間に通した。
姉が女の子はどこかな、と訪ねると彼はまだ寝てるよと答えた。お寝坊さんだねとクスクス笑い、なら先に戴いちゃいましょうとテーブルの上にバスケットを置く。
あいつ、拗ねるぞ?と彼が言えば大丈夫、これを見越して多めに作ってきたから、また後で一緒に食べればいいんだよぅ、と姉。
記憶にある若い頃のままの、いやまだ三十を越えてはいないであろう姉のその口調。
湯を沸かして持参した紅茶をいれて、彼の用意したティーカップに注ぐ姉。
彼は一口飲んで、紅茶を褒める。懐かしい、そんな言葉が彼の口から洩れ出る。姉はあの頃を思い出して、それで用意したと懐かしげに、寂しげに告げる。
しばしの沈黙。二人は、何を思うのだろう。
このまま時が過ぎるかと思い始めた頃、姉が口を開く。

「あの子、うちで預かろうかっていう話が出てるんだよ。貴明君一人だと大変だろうし、て」

その言葉を驚きもせず受け止めているあいつ。そっか、とただ一言。
うち、きっと私の父と母だ。何故そんな事を言い出すのか。何故彼から取り上げようとするの?この人から何も奪わないで欲しい、私はそう叫びそうになっていた。
そんな事には誰も気付かない、気付けない。
姉は口を開き、言葉を続ける。

「両親が、私の両親がね。貴明君はそろそろ再婚したらどうかって、言ってる。いつまでも縛られている事無いって。もっと幸せになるべきだって」

心がざわめく。この人はいったい何を言っているのだろう。

「あのね、こんな事、本当は言いたくないけど————私がよければ、貴明君と、なんて事も言い出してた。あの二人も歳なのかな」

私は姉の顔を見つめる。姉は悲しそうな顔をして、彼の様子を伺っていた。

「……気持ちは嬉しいとだけ伝えておいてくれ。でも俺にその気は無い、てのも一緒に頼む。俺は、郁乃と過ごせて幸せだったから。その幸せは今も続いているから」

「そう、だよね。ゴメンネ、朝からこんな話をしちゃって」

その後はただ、時間だけが過ぎていった。ティーカップの紅茶からは、もう湯気は立ち昇らない。

やがて女の子が起き出してきて、三人で朝食。その後しばらくしてから先ほどのお菓子——手作りのクッキーだった——を三人で食べて、残った分を戸棚にしまい、姉はこれ以上お邪魔しているとご近所が勘違いするからと、お昼前には去っていった。
彼と女の子は一緒に掃除をして、洗濯をして、ゲームをして、本を読んで、買い物をして、一緒に料理——女の子は食器をとりだしただけだが——をして夕食をとり、少し一緒に遊んで、お風呂に入って、眠らせて、そしてまた、あいつはお酒を一杯飲む。
私の写真を前に飲むお酒は、一体どんな味なのだろう。私には分からない。分かりたくても、もう知る事は出来ない。
ただ過ぎ行く時間の中、珍しく彼は飲みながら何かを喋りだした。

「幸せは今も続いている、か」

私は彼の背後に立つ。胸を締め付ける苦しさに耐えて、ただ彼を見つめる。

「それでも、それでも寂しいよ、郁乃。お前がいてくれない事が、辛いよ」

ごめんね、ごめんね、ごめんね。
何も触れることの出来ない手で、何も包めない腕で、私は彼を背中から抱きしめる。
ごめんね、ごめんね、ごめんね。
何も出来ない自分が悲しくて、何も伝えられない自分が情けなくて、何も濡らす事の出来無い涙を私は流す。
ごめんね、貴明。
ゆっくりと白む視界。薄れ行く意識。ああ、これでお別れなんだ。何故かそう理解した私は、ただ帰りたい、あの人達の所に帰りたいと願い————————

「という、人に話すのはちょっと考え物な夢を見たのよ」

俺はその話を聞きながら、自分の顔が引きつっていたのが分かる。いや郁乃には分からないよう必死に誤魔化したが。

「なんであんな夢見たのかしらね。やっぱり不安だったのかしら。まあ、散々周りからやめておいたほうがいい、なんて言われてたせいもあるのかしら」

そうだな、病気の事があるからみんな心配なんだよ、と相槌を打ち時計を見る。まずい、汗が頬を伝ってアゴから落ちそうだった。

「確かに主治医の先生にもかなり危険だとは言われたけどさ。私と貴明の子だもん、何があっても産んでみせるって、気合いれてたんだけどね。て、どうしたのよ。なんか顔色悪いわよ?」

なんでもない、俺だって色々と心配してたから。そう言うと郁乃はそっか、と呟きベッドに横になった。
言えない……言えないよなぁ。本人は出産が終わって気が抜けたから、気を失ってたと思っているのが、実はかなりやばい状態だったなんて。
俗にいう昏睡状態。このまま目を覚まさないかもなんて言われた時は、本気で心臓止まるかと思ったぞ俺は。
もしかしたら郁乃が見た夢の通りになっていたかもしれない、そう考えると今でも背筋が寒くなる。
しかし、良かった。かなり衰弱してたとか体力的にギリギリだったとか今はもうどうでもいい。郁乃が無事に今もこうして目の前にいる。今はそれだけで十分だ。

さてそろそろ時間だ。看護士さんに連れられて我が子がやってくる。郁乃は産着に包まれ今だ目を閉じているその子に慈しむ視線を向けて、壊れ物を扱うかのように大切に抱く。

「この子が、私の……」

微笑みあう俺達。こうして新しく増えた家族と共に、生きていける喜びを胸に感じながら俺は————

「でねでね、出来たらでいいんだよ?本当無理にとは言わないからね、ね?お姉ちゃんをその子の名付け親に、是非名付け親にお願い、郁乃っ!」
「てい」
「あいたっ!?」

チョップでのツッコミを愛佳さんの額に叩き込んだ。

「貴明君、愛佳が駄目なら私にっ!」
「あなたっ!それは私の役目ですっ!」
「あんたらもかっ!」

小牧家のご両親にも突っ込みっ!ていつの間に湧いて出たんだこの一家はっ!!ついさっきまで確かにいなかったはずなのに。

「たかりゃんよ、このあちしが素晴らしい名を付けてやる。ワンパクでもいい、逞しく育って欲しい。なのでクマゴロー」

却下ですそんなもんっ!そもそもこの子は女の子ですっ!てかなんで先輩がここにいるのかっ!?

「ふ。俺様はどこにでも現れるっ!面白おかしくたかりゃんを弄くるためにっ!!」
「帰れ。いやホントマジで」

その騒ぎをクスクスと笑いながら、楽しそうに眺めている郁乃。ただそれだけで幸せな自分が嬉しかった。
結局俺達の騒ぎは婦長さんに怒られるまで続いた。

幸せって、むずかしいね?(すっごくいい笑顔で)

おしまい。

ADZの妄言録。

…………こういうのってありですか? ビクビクと震えながら突っ込みに怯える日々、皆様いかがお過ごしでしょう?
こんにちは、ADZです。

今回の話は『郁乃との日々』関連の公開する機会のなかった小ネタをまとめたものです。以前のみみかきのお話は本文の2と3の間の出来事になると思っていただければよいかと。
少々無理やりに関連としたものもありますが。

後まだ未公開のものもいくつかありますが、それはまたの機会に。
さて本日はこの辺で失礼させていただきます。

ではまた、いつの日にか。

らいるの虚言録
あ、なんとかできた。同じの使ってるけど。

さてさて。感想ですよね。ええ、感想です。

なんてもの書きやがるんだ、こんちくしょう。

他に何を言え、と?
笑いあり感動ありまーりゃんあり(違)、ストーリーも山あり谷あり。ほのぼのと幸せな2人を描いていると思いきや、最後にアレですし。落差が凄い分だけ心臓にも悪かったですねー。
でも、ちゃんと最後に幸せな貴明と郁乃(とその他もろもろ)が素晴らしい。
まさしく、Anotherなんとかをこれ以上ない程に補完する、いやいや、なんとかDaysを補完どころか本編を補完して余りある、正真正銘のこれぞ『SideStory』。
こうでなくちゃいけませんね、SSってのは。……続編も。

いくのん偏愛主義者たるADZさんの真骨頂を見た、って感じでした。
ほんっと、郁乃偏愛だよねー……このみなんて全然出てこないしw

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へどぞー。