lisianthus.me.uk

index > fanfiction > ADZ > 想いをのせて

鈍い感覚の中で手足にピリピリ、ちりちりという痺れと痛みを感じながら、私の意識は覚醒しようとしていく。
彼と出会ったその日も、それは変わらなかった。いつもと変わらない日だと思ってた。

何も変わらない、はずだった。

ToHeart2 - 想いをのせて

書いたひと。ADZ

私の目覚めはいつも痛みの中にある。
この世に生を受けて十五年ほどだが、爽快な目覚めというものはついぞ記憶にない。
かつてはあったのかも知れないが、そんな記憶は毎日の痛みによって塗りつぶされているのだろう、思い出しようもない。
姉や両親の話では身を起こしても、しばらくの間はぼうっとしているらしい。私自身には良く判らないのだけど。
ただ白濁した意識のなかで手足に感じるぴりぴりと、ちりちりと感じる痺れと痛みに耐えているのだ。
その痛みが消えないまま午後を迎える時がある。
出来れば人には会いたくはない。どうしても気が立ってしまうのできつくあたってしまうかもしれないからだ。
両親、姉が気をつかわなくていいよう平気なフリをする事もよくある。
元々友人などいない私には見舞いに来てくれるものもいなかったからさして問題は無かったのだが、気が付けば一人、毎日のようにやってくる奴がいた。
姉と仲の良さそうなあいつが。こちらの事情も状態もお構いなしやって来ては見舞いの品の果物などを食い散らかすあの男が。
いつ頃からか姉が連れてきた男。姉の恋人なのかと思い色々と……罵声に近い言葉もかけたのに今でも訪れるあいつ。
お互い口を開けば皮肉の応酬、とまでは行かないもののかなり棘のあるやり取りをしていたと思う。
なのにあいつは人の頭はなでるわ髪をすくわとやりたい放題である。
……訂正、髪は自分から言い出してやらせた。ただからかっているつもりだったのに、今では習慣になってしまったのか訪れるたびにすいてくれる。
毎日毎日、何故来るのか。暇人。姉狙いか、などと投げかけていた言葉も段々と刺が減っていく。
いる事が普通になってしまった。逆に来てくれないと不安になる。姉に言われれば絶対に否定するだろうけど、間違いなく私は彼が来るのを待っていた。
いつ頃からか彼は何も言わずに私の手をさするようになっていた。ぴりぴりと痺れがある手をさすられると、少しずつ和らいでいく。
本来ならそんな事をされれば、殴るなり物を投げつけるなり罵声を投げかけるなりすると自分でも思う。
彼にはわからないように演じているつもりなのに何故判るのか、何故そんなまねをするのかと問いたい。だけど問えなかった。
それを聞いたらその時点でこの時間が終わってしまう気がして言い出せない。
なのにそいつがそうする事を私は拒むことなく受け入れている。はっきりと言って異常事態だ。
この男に姉へ下心が無いからと気が付いたからか。こいつはバカが付くお人よしだと思ったからか。理由は定かではないが気が付けば受け入れてしまった存在。
その日も彼は来た。そして私は彼にはわからないように手足の痺れや痛みを堪えている。
どうしてもばれるけどこれは私の意地だ。誰かに、特に彼になど素直になってやるものかと、そんな意地なのだ。
だがしばらくしていつもどおり手をとられると、その暖かさに負けてしまう。
物理的な暖かさだけではない何か。それがなんなのか判らぬままに私はそれに身を任せていた。だからなのか、その日の彼の言葉は私の胸をざわめつかせた。

何気ない会話の中、それは彼の口から出たもの。『このみ』『タマ姉』……いくつかの女性の名前が。

私は段々と不機嫌になっていく。あいつはそんな事も気が付かずに私の髪をすきながら話を続ける。
朝の登校時。抱きつかれて重いだの。昼休みの屋上での食事、手作りの弁当。二人がかりで交互に食べさせられ、味を聞かれて困るだの。
放課後このみが、朝タマ姉が、昼このみが、休み時間にタマ姉が、昨日このみが、昨夜タマ姉が……たまに雄二がとかいう単語も出るがあまり記憶に残らなかった。考えてみれば私は彼の家族構成も、交友関係も知らない。
気が付けば私は彼の手をはたき落としていた。私は呆然と私自身の手を見て、そして彼を見る。
何が起こったのか良くわからない顔をして、私を見ている。私もなにをしたのか、何故そうしたのかわからないまま彼を見る。
しばし見詰め合い、身動きが取れなくなる。完全に切欠を失っていた。
だからそれは救いの神だったのかもしれないし、機会を失わせた悪魔の策略かもしれない。
「いや〜、駄菓子屋さんよってたら今日は遅くなっちゃったよぅ。見てみて〜、こんなお菓子出てたんだよ〜。……あれ? どうしたの二人とも。見つめあっちゃって……恋の始まり?」
「違うわよっ!!」
「なんでそうなる小牧っ!!」
姉のいつもどおりのボケた発言が。後々のことを考えると間違ってはいなかったのだけど。

しばらくしていつもの時間になりあいつは退室する。姉はエレベーターまでと見送りに付いていくので戻ってくるまでの短い間私は一人になる。
こうなると色々と考え始めてしまい、あの後あまり話もしなかったことが私の胸を締め付けた。
嫌われたのではないのか、もう来てはくれないのではないか。そう思い始めるともう駄目だ。
自分の愚かさに落ち着かなくなり、ぶんぶんと頭を振ったりやり場の無い手でぱたぱたとシーツを叩いてみたり。
客観的に考えてもかなり奇妙な行動をしている。

そうこうしていると姉が戻ってきたのでそそくさと取り繕う。いつもどおりの仏頂面で姉を迎えていつもどおりの特筆する事も無いやりとり。
だが私には聞きたい事があった。あいつの口から出た名前が気になって仕方が無いのだ。
もしかしたら姉が知っている相手かもしれない。いやおそらく知っているのだろう。根拠はあるような無いような。
とにかく確認したいのだが中々切り出せないのだ。直接"あいつ"の名前を出して確認なんてしたくない。
聴けば何故その人の事を知ったのかを聞かれる。そうなったらあいつの名前を出さないわけには行かない。
ある意味において鈍い姉だがこういうことには嗅覚が働くはずだ。姉は気遣いと人のために役立つことを優先するお人よし。察しはいいのだ。基本的には。

私がまごまごしていると、姉は取り込んできた洗濯物を畳みながら話しかけてくる。普段はまあ、正直あまり意味のある事は話さない。
他愛なく私の体調を聞いてきたり学校でのことを話してくれるぐらいだ。
意味があるわけではないといってもそれが嫌なわけでもなく、姉が気にかけてくれるのが嬉しくもあり、姉の負担になっている我が身が心苦しくもあるだけだ。
そしてその時の話は、私には重要な内容ではあったのだし。
「あ、そうそう。河野君がね、『郁乃に嫌われたかもしれない、明日も来て大丈夫だろうか?』 て深刻な顔で聞いてきたわよ〜。
何があったのかは知らないけど、『郁乃は悪戯っ子だからあんまり気にしないでね。来てくれるのなら是非顔を出してあげて』て言っておいたからね〜。あんまり河野君に迷惑かけちゃだめだよぅ?」
なんというか、能天気に言ってくれた事で私はしばらく固まっていた。あいつが気にしてた? 不安がっていた? 
何故かそれが妙に嬉しかった。
でも私は認めたくない。彼が来てくれるのが嬉しいなどと姉に思われたくない。
もしそうなれば、絶対にこの姉はそのネタで責めてくる。人のいい笑顔におもちゃを見つけたようなものを混ぜて。
以前一度聞いたことがある。あの男は姉の恋人ではないのか? と。
だが姉は、
「ううん、違うよ〜、お友達だよ〜」
などと明るく答えてくれた。場合によっては残酷な台詞だと思いますお姉さま。それは置いといて。
姉の性格を考えればそんな事を聞いて、もしそのとおりかそれに近い相手だったのなら、
「ちちちちちち違うよ? そんなんじゃなくておおおおお友達だよ? 何いいだすのかな郁乃は〜。おいちゃんびっくりだよ」
などとわけのわからない誤魔化し方をするはずなのだ。
だがそれもなく言い切ったということは、彼は姉とは特別な仲ではないのだ。
だから言った、「あんた、脈ないわよ。あの姉には」と。
だがあいつもあいつで、「脈も何も、ただの友達だぞ?」などと答えてくれた。
思えばそれが始まりだったのかもしれない。というのは後々の述懐なのだけど。
結局私は姉に聞く事も出来ずに面会時間が終わる。そのまま悶々としながら消灯を迎えるが、そんな状態で眠れるわけもなく、深夜まで悩んでしまった。
彼の話し振りから相当に親しい女性。もしかしたら恋人だろうか、いやいや姉や妹か。などと思いふけりいつの間にか私の意識は夢の中に落ちていく。
その日見た夢は、正直でたらめな内容だったことだけが記憶に残っている。

いつの間にか午後になっていた。どうやら記憶にはないが、起床してからぼうとしたまま時間が過ぎていた様だ。
普段からたまにある事なので、誰も疑問にも思わなかったのであろう。とりあえず検温だとかは済んでいるようである。
何も食べてないせいか空腹が身に染みるが、いずれ姉なりあいつなりが何か持ってくるだろうし、見舞いの品の果物もある。
……はて、食事制限はされてなかったっけか?
ふと疑問に思ったけどまあいいか、と窓の外を見る。時間の程は午後二時ぐらいだろうか。
三時も廻ればそろそろ姉が来るだろう。そしてあいつもきっと来る。来てくれる……よね?
もし来なかったら、どうすればいいのだろうか。手術が近いというこの時期に不安定になってしまうのは良くない。
良くないのだけど、不安なのだから仕方が無いのだ。

気が付けばまた眠っていたようだ。普段から日中は寝てしまっている事がよくあるが、今日のはまあ、寝不足というか妙な時間まで起きていたせいなのだろう。
ぼそぼそと聞こえる話し声。私の意識は正確にその内容を把握できない。普段ならば、だけど。
「いや、しかしこんなもんで許してもらえるものなのかな」
「河野君が悪いんだよぅ。もう、女の子が髪を触らせるなんてよっぽどなんだよ? それなのに他の女の子の話するなんて」
「それはタマ姉にも言われた。『大バカっ!!』て。仲直りするまで昼は一人で食べなさいとかなんとか……なぁ、ケンカになるのかな、やっぱり?」
「はぁ〜。河野君鈍いよ〜。でも会ってから一月ぐらいでそこまでになっちゃうというのは凄いんだけどな。郁乃は人見知りするのに」
「ひとみしり……? いや最初から激しくやりあったような気が。それも野猿の争いの如く。郁乃なんかはこう、不敵な笑みと共に飛び出す棘だらけな言葉で」
「な、なにをしてたのかな。私が病室にいない時って」
「何を、て……威嚇と牽制?」

聞こえてるわよ二人とも。そーかそーか、あんたは人をそんな風に思ってたのか。野猿とはね。今度それをネタに攻めてやる。
いやでもここで起きるというのもなんだか気恥ずかしいなと、私は新たなる決意と共に寝たふりを続ける。
幸い私は二人に背を向けているので、顔を見られる事は無いのだし。
どうしたって止められない笑みを見られる事が無いのだから、二人の話がひと段落つくまで待っててあげる。

三十分ほど経ってから私は寝たふりをやめる。その間の二人の会話はどちらもボケなんだなぁ〜と思わざるえないものであったとだけ述べておく。

「……おはよ」
普段どの程度ぼうとしているのか判らないので、今は適当に数分経ってから普通に挨拶してみることにした。
「い、郁乃。おはよう、今日は良く寝てたな。寝る子は育つと言うし、そこはかとなく育ってくれてお兄ちゃんは嬉しいぞ」
「誰がお兄ちゃんか。それと寝てるだけじゃ育ちゃしないわよ。で。その包みは何?」
「郁乃にプレゼントだって〜。ちょっとうらやましいよ〜」
彼の発言には少々思うところがあるのだが、とりあえずはさっきから気になっていた事を優先する。
……けっしてここ数年伸び悩んでいる背丈や、厚みというか膨らみの増えてくれない胸周りの事は気にしない。気にしてないってば。
寝たふりをしている時から何かを持ってきているのはその会話の内容から判っていたので、まあこいつなりに昨日の事を気にしての仲直りの品、なのだろう。
気にしなくったっていいのに。私のほうが理不尽だったと思うし。
「何よ。プレゼントって。誕生日ならもう過ぎてるわよ。私のは3月だし」
それでもやっぱり素直に謝ったりは出来ない。出来ないけど、私はさりげなく自分の誕生日をアピールしている気はする。なんでだろう。
「いやいやいやいや。その、なんだ。純粋に贈り物をしたいというかそのな。数ヶ月遅れの誕生日プレゼントと思ってくれてもいいわけで……いや、そうじゃない。昨日はごめんっ!」
包みを差し出しながら頭を下げる彼。彼は悪くない。悪くないけど、嬉しい。ただ彼から貰える、それだけで十分……てなにを考えてるのだろう、私は。
「あ、うん。ありがと」
私の口から出る言葉の後ろ半分はぼそぼそと小さい物になった。面と向かって言えないのがもどかしい。
「昨日のは、あんたが気にする必要ないわよ。私にだってどうしてあんな事したのかわかんないし」
ぼそぼそとしゃべりながら私は彼に薦められるままに包みを開く。中身は生地の薄い桜色のストールだった。いわゆる肩掛け。
普段私はパジャマの上にカーディガンを羽織っているのだが、こういうのも悪くないな。ほんとに、嬉しい。
私はそのストールに視線を注ぎながら、良く昨日の今日で用意できたわね、と続ける。我ながら素直ではないなとは思うけど。
「ああ、実は昨日タマ姉に話したら色々と怒られてな。夜も遅いというのに呼び出されてまだ開いている店に連れ込まれて————」
…………。
私は半眼になってこのバカを睨んでからそのまま視線を横へと滑らせる。
その先にはあははは、と汗をかきつつ苦笑いをする姉が一人。
そしてそのまま視線を戻して据わった目でじぃ、と見ているのだがこいつは気づかなかった。
だからね、どうして昨日機嫌が悪くなったのか理解してないってのはどうなのよ。
そのタマ姉とか言う人は聞いた話だけでもわかってるだろうに。当人が駄目ってなんなのよ。
なんだか脱力感に襲われながら、私はストールを抱えてベッドに沈み込んだ。
あいつは何か慌て始めたけど、どうでもいいや。姉はどういうことか理解したらしくにたにたしてるし。
ちょっと疲れただけだからと言って、その日の面会は終わらせる。
あいつの退室後、まったくあの男はともやもやを胸に抱えながら私はお腹がくぅ、と鳴るのを感じた。
……あれ? なんであいつが他の女の子を話題にすると嫌な気持ちになるんだろう。その時の私にはまだ理解出来ていなかった。

次の日の朝、いつもと変わらぬ目覚め。特にいつもと変りのない午前を過ごして午後に突入。今日も今日とておやつの時間が過ぎていく。
窓の外、空を見上げればその青さが目に染みる、そんな今日この頃。
もはや一定以上近づかなければ色ぐらいしかわからない私の視力。それでも室内にあるものの形ぐらいは判る。
私は室内に視線を戻すと、じわりじわりと減っていく色鮮やかな果物たちに別れを告げていく。
さようなら、バナナ。あんたの黄色を私は忘れない。さようなら、巨峰。その毒々しい紫を私は胸に刻み付けた。
さようなら、マスカット、その薄い緑を私は目に焼付け……て、ちょっとマテや。
「なにばかすか食べてんのよっ!」
「いやなに、お前のねーちゃんが『とても食べきれないから好きなの食べてていいよ〜』と言ってくれたからな。お言葉に甘えて」
「微妙に似てて気持ち悪いわよ、今の物まね」
「そーか?」
「あ、こらっ!! メロンは私が食べるっ!!」
「では郁乃にはこのメロンっぽい物をやろう」
「なんでメロンパンなんかもってるのよっ!」
昨日のやり取りは何だったのだろうかと思わないでもないけど、こっちのほうが楽しいのでまあいい。
多分午後の授業が終わってすぐに来たのであろうこの男は、今日は一人であった。
姉はなにやら生徒会長と仕事らしく、先に行っててくれる様言われたらしい。いったい姉は何をしてるのやら。

しかしまーりゃん先輩があんな手を使うとは……とか彼はつぶやいていたけど。誰? と聞くと今年の春に卒業したはずの前生徒会長だとか。

そんな人とも付き合いあるんだ、と聞くと「郁乃、知り合ってしまった事自体は本人の落ち度じゃない、落ち度などではないんだ……」とか遠い目をしてくれた。いったいどんな人なのよ。それと何されたのよあんたは。

さておき今日の私は彼が来た時、いつものカーディガンではなく昨日のストールを肩にかけていた。
今日病室にやってきたこいつは、私の姿を見るとなにやらやたら嬉しそうにして色々と話しかけてきた。私の対応は普段とあまり変わらないけど、まあちょっとは笑いかけてやるぐらいはしてたし。
そのうち私がちょっとお腹が空いたと告げると、見舞い品の果物でも食べるか? と聞いてきてリンゴの皮なぞ不器用ながら剥いてくれたわけなのだが。
それでどうしてあんたまで食べ始めるのかと。姉よ、不用意に餌を与えないでよ。

「手術、近いよな」
あいつはメロンを一玉持ち出して、どこかで包丁でも借りたのか、食べやすいサイズに切り分けたものを皿に乗せて戻ってきた。
手術当日となれば前日から食事が採れなくなる。なので食べるのなら今のうち、とスプーン片手にそれをいただいていると、彼は唐突にそんな事を言い出した。残りは冷蔵庫に放り込んできたらしい。残りはあとで姉にも食べさせておくか。
手術というのは、私の視力を回復させるための物だ。入院する理由となっていた私の先天的な病気は、長い闘病生活の間にごっそりと私の体力を奪っていった。
本来なら、体内に侵入した細菌など身体に有害なものへと攻撃するはずのものが、何故だか私自身の身体へと攻撃をしてしまう、そんな病気らしい。
詳しいことは良く知らない。知ってもどうせ長くは生きられない……なんて後ろ向きに考えていたというのもあるが。
その病気は新しい治療法によって抑えられ、体力の維持が可能になった。だが様々な影響で私の視力が下がってしまっていたのだ。
どうも目の血管が圧迫されてとか何とか……こちらも詳しくは聞いてない。私が知りたかったのはリスクや可能性だけだったから。
それが回復できれば、多少リハビリをしてからになるが学校に通えるようになる、らしい。
そのための手術か間近に迫っているのだ。
成功率は100%ではない。けれども、今後のことを考えてプラスマイナスを検討した結果私は手術を受ける事を選択した。
私は、学校に行きたい。姉と同じ学校へ。あまり気が進まないけどたくさんの人がいる学校へ。————こいつが通っている学校へ。
成功率に関しては彼も知っている。もしかしたら、私の眼は今後もう二度と光を感じることが出来なくなるかも知れないということも。
だからなのか、彼はこんなことを言い出した。
「許可とってさ、ちょっと散歩にでも行かないか? 小牧には書き置きでもしておいて。あ、ナースセンターに伝言頼んどけばいいか」
夕暮れの近い時間だった。


カラカラと音を立てる車椅子を押していく彼。
あの後私は彼を部屋から追い出して、あまり袖を通すことのなかった私服に着替えた。まあ、数日前に雑誌を見ながら姉に頼んでそろえて貰ったものなのだが。
もちろんストールを肩にかけておくのも忘れない。この時間からは冷え込むだろうから、対策を忘れるわけにはいかないのだ。
帰りに寒くなってきてもいいように当然上着なども持って行く。車椅子の後ろにはいくつか荷物を入れておけるようになっているので、そこに突っ込んでおけばいい。
私が着替えている間に彼は外出許可をもらって来た。
以前ならともかく、今は治療の甲斐もあってか体調は良くなっている。だから許可そのものは割りと簡単に下りる。
問題は誰か付き添うのか、付き添うのは誰なのか、なのだろう。彼はこの一月、私の知人だとすっかり知れ渡っているので問題なく許可された、のだと思う。
病院を出る前に通りかかったナースセンターや受付の皆様方がやたら生暖かい視線で見送ってくれたことは忘れない。あれは絶対何か勘違いしてる。郁乃ちゃんがんばって、てのはいったい何を期待して言ってるのかなあの人たち。

とくに話題もないのか彼は黙って車椅子を押していてくれたけど、ある川の堤防に差し掛かったときに口を開いた。
毎朝ここを通って学校に通ってるんだ、と。
それが切欠となったのか、堤防を進みながら彼はいろいろな事を話してくれた。幼い頃の思い出。
このみという幼馴染の少女と毎朝この道を走って学校に向かっている、あいつは朝起きるのが遅いしこの間なんて春に卒業した学校の制服で行こうとした、春休み明けにタマ姉がうちの学校の制服を着ていた時は驚いた、この道でるーこを踏んづけた、などなど……ん、あんたの事を話してくれてるんだから他の女の子の名前が出ても、まあ許してあげる。
このみという人とタマ姉という人が彼にとっては大切な、姉と妹のような、そんな人だとわかったし。
それに今まで私が知らなかった分の彼との溝を多少は埋めてくれる、そんな気がするから。
でもそれはきっと錯覚。
話をきいただけで判ったつもりになるほど私は傲慢ではない。だって、今までだって私は誰かの話を聞くことしか出来なかったのだから。
自分で体験する事なんて出来なかった。それで何か得られただろうか。それで何か実感できただろうか。
話だけでも得るものは確かにあったと思う。だけとそこには生きた私はいない。私は何も体験しない。
私の経験値はいつまでもゼロに近いまま。姉がどれほど詳しくその日の出来事を話してくれても、それは私の物ではないのだから。
そのことがあるから彼の話をどれだけ聞いても、彼との距離が縮むわけではない。
ただそこにあった風景を、ただ彼の見てきたものを、私はいくらか感じる事が出来るだけだ。
今こうしてこの場所に一緒に来て、やっと一つ私は実感する事が出来る。
そうやって一つ一つ積み重ねていって、ようやく距離は縮める事ができる、はずだと思う。
聞かされる話から様々な事を想像するという事は、幼い頃からずっと行ってきた。
外で走り回る事の出来なかった私には、その程度の楽しみしかなかったから。
姉は面倒を見てくれていた。両親だって助けてくれていた。それが、うまくすればもうすぐ。もうすぐ終わる。
私は自分の足で立ち、歩き始める時が来る。人よりだいぶ遅れてるけど、これからは私が姉を、両親を助ける事だって出来るようになる、はずなのだ。
うまくいきさえすれば。
私は急に怖くなった。もし失敗すれば? その時私は盲目となり、今よりも迷惑をかけるかもしれない。
成功しても、私は一人で大丈夫なのだろうか?
今までずっと誰かに守られてきた。これから先は出来得る限り自分でこなさなければならない事柄があまりにも多いはずだ。
もちろん姉は手助けしてくれるだろう。両親も出来る限りのことをしてくれるだろう。
それが心苦しいと思っても仕方が無いこと。その恩には立派に生きていく事で報いるしかない。
でも、その時私のそばに、この人はいてくれるのだろうか……?
出会ってほんの数週間だ。なのにもしこの人がいなくなったらと、そう考えたら寂しくなった。
私は半ば上の空で彼の話を聞いていた。
「ほら、郁乃。夕日が綺麗だぞ」
ふいに彼は足を止めて私を促す。その一言で私は思考を止めて顔を上げた。
ああ、本当に綺麗だ。ぼんやりとした視界の中でもそれははっきりと判る。
私は多くの事を感じたかった。まだ確実に目が見えている間に、彼と一緒にたくさんの事を。
本当は姉も一緒がいいなとも思うけど、でも姉と彼に対しての思いは違うから今はこれでもいい。
「ねえ、下に降ろしてくれる? あの辺とかさ」
私は指差しながら告げる。河川敷の草原。私は直にそれらに触れてみたくなっていた。
今しかないのだ。もうこんな機会はないかもしれないのだ。
「わかった。んじゃ向こうの方で坂になってて下に降りられるから、そっち行くか」
彼は私の願いを聞き入れてくれて、また車椅子を押し始める。

スロープを下り私達は草原にたどり着く。そこで私は彼に車椅子から降ろしてくれるよう頼んだ。
いくら筋力が衰えているとはいえ、数歩程度なら私は歩ける。けれど私はそうしてほしかった。少しでも彼の温もりが欲しかったからかも知れないし、私に触れて欲しかったのかも知れない。
最初彼は戸惑い遠慮して私に触れようとはしなかったけれど、彼に向けて両腕を広げたままじっと見上げていると観念してわたしを抱え上げる。
彼は私の膝の下に腕を挿しいれ背中を抱えると、よっ、という掛声と共に持ち上げてくれた。
その時の彼はとても驚いた顔をしていた。何故、とは思わなかった。私は判っていて頼んだ。自身の重みが標準的な女子よりかなり軽い事を。
「軽いでしょう、私。判ってるのよ。私の年齢ぐらいの女の子の平均ぐらいは知ってるからね。驚いた?」
私はいつもどおりの口調で少し挑発的に聞いてみた。いじわるかなとも思った。病気が原因でその結果体重が付かなかったのだから、言われた相手はどう答えればいいのかと戸惑う事だろうし。
「……ん。ああ、驚いたな。このみより軽いとは思ってなかったから」
そこでこーいう事を言ってしまう辺りがやっぱりこいつなんだなと、つくづく思ったけれど。
スカートが汚れるかもしれないが、あまり気にせず草原に座り、沈み往く夕日を眺める。この場所にいられるのもあとほんの数分だろう。
頬を撫でる風に草と水、そのにおいを感じながら私はそれを見つめている。
ゆっくりと沈む夕日。その光に照らされた私はどれほど赤く染まっているのか。
どんどん気温が下がっていくのを肌に感じながら、私は満足していた。
彼の隣に座り、草と地面に触れて、私は今世界を感じているのだから。
隣に腰を下ろしている彼を盗み見て、ちょっとした悪戯心で私はその膝の上に倒れこんでみる。
「ちょ、どうした郁乃っ!」
期待していたものとは違うけど、慌てる彼。
「ちょっと疲れただけよ。ゴメン、そろそろ限界かな。寒くなって来たわね」
本当はドギマギして欲しかっただけ。こんな私でも意識してもらえたらいいなと思ったから。

私はもう理解している。ああそうだ、いい加減に認めよう。今更自分で否定なんて出来ない。できるわけがない。

私は彼の事が、好きなのだ。

ただ初めて親しくなった男性だからか、それとも私の周りには他に年頃の近い男性がいないからか。それだけの理由かも知れないけれど、私は彼を想うようになっていたのだ。
いつの間にか、本当にいつの間にかその想いが育ってしまっていた。不覚、とも思う。そして良かった、とも思う。
私にも人並みに恋する心というものがあったのだから。
……自分で言ってて恥ずかしいけど。
でもそんな事今はこいつに伝えたりはしない。今伝えてそれで彼が応じてくれたとして、それが同情や哀れみではないと言い切れるだろうか。
彼はそんな人ではない、そんな事はわかっているつもりだ。だけどそんな不安を抱えてしまう事はおかしな事だろうか。
怖い。初めてのことは怖い。今までそういう機会がなかったのだから当然だ、初恋というものだろうし。初恋は実らないとか言う話もあるので全力で否定したいけど。
それ以上に彼の負担になるのがわかっていて、告げる事が出来るものではない。
もし手術が失敗した時に、彼は困るはずだ。今覚悟していたところで、実際にその時になれば、どうすればいいのかと思わないはずがない。
私は彼に後悔なんてしてほしくないと思うから。
当然断られたら、その場合も怖くて仕方が無いというのもあるけれど。
そんな事を考えている私を、彼は抱え上げて車椅子に乗せてくれた。そして荷物から上着を取り出すと、一旦肩に掛けていたストールを取ってから私に上着を着せかけ、その上からまたストールを肩にのせてくれる。
そんな行為の一つ一つが嬉しくもあり、手間をかけさせていると感じて心苦しくもある。
「それじゃあ戻るか。暗くもなってきたし。ごめんな、こんなところにまで連れ出したりして」
彼の言葉に私は満足している意を伝える。アリガトウ、とは言えなかったけれど彼は嬉しそうではある。

スロープを上って堤防に戻り、葉を付けた木々の辺りで私は彼に話しかけた。
「ねぇ。もし……ん、もし私の手術が失敗して、失明しても、あんた、その。わた……今までどおり来てくれるの?」
私は途中で言葉を変えた。本当は私のそばにいてくれるのかと聞きたかったけれど、それはちょっとあからさまな気がしたから。
大した違いはない気もするけど、どうしても譲れない一線というものは存在するのである
「なにバカ言ってんだお前は。失敗するわけがないだろう。郁乃なんだから、成功するに決まってるじゃないか」
なにを根拠に言っているのかと。でも、そんな言葉のおかげかなんだか手術への恐れが少なくなった気がする。
「それで手術が終わって学校に通えるようになったら、小牧とか連れて、いやいや他の連中……まあ俺の知り合い関係だけど。そいつらも一緒にどっか行こう。それに来年の春になったらここの桜でも見にこよう。こいつらもお前が元気になったら、その時は満開の桜で祝ってくれるさ」
そういって彼はその木々を指差す。
私は「そうね。その時は色々とご馳走してよ。あんたの奢りで」と答える。彼はやぶ蛇だったか、なんておどけてみせてくれた。
そして私は、『ああそうか。もう桜の季節は過ぎていたんだ』とその時になってようやく気が付いた。

それから病院に戻った時、姉がとてもいい笑顔で親指を立てながら出迎えてくれた。
ああ、なんか姉のイメージがガラガラと音を立てて崩れていく……元からこんなもんだった気もするけど……
「そういえば、生徒会長さんと何してたの?」
「あのね、書庫のことでちょっといい事あったんだよぅ」
何かあったのかな。機会があったら問い詰めてみよう。

そして数日過ぎ、手術の日が訪れる。
特筆する事もないけど、姉とあいつは学校を休んでまで私の元に来てくれた。
どうしたって次に顔をあわせられるのは明日になるのに。だからこそ、来てくれたのかも知れない。
二人は私に何かして欲しい事、欲しい物はないかと聞いてきた。
私は「そうね。三人でケーキでも食べたいわね。おいしいやつ」とリクエストした。
本当は回復した視力で桜でも見たかったけど、今の時期では難しいだろう。桜にも色々な種類があるからこの時期にも咲いているものはある。なので構わないような気もするけどそれを探すのも大変だろうし、この二人が知ってるとも思えないし。
桜は来年までとっておく。きっとその時私は両の足で立ち、歩いているはずなのだから。
私は自身の足で歩き、あの場所へ行くのだ。あの堤防の桜の木の下へ、彼と一緒に。

結局手術は成功し、数日後には包帯も取れた私は病室で暇をもてあましている。
する事がないわけでもない。編入するのだから勉強もしっかりとしておかねばならないし、筋力の不足を解消するため地道なリハビリをこなしている。
兎角ちょっと動くだけですぐに疲れてしまうので、こうしてベッドで休んでいるわけだ。
編入試験そのものは手術前に受けてとっくに合格しているので、今は一学期中の授業についていくための勉強中。それも一休み。
やはり長時間読み続ける、というものにまだ慣れていないから目も疲れやすい。
あの後すぐにでもケーキを買ってこようとしていた姉とあいつだが、医者に止められたらしい。
当面は食事制限。カロリー計算もきっちりとした状態でのリハビリ。
神経質になりすぎな気もするけど、まあ医者だって万全を尽くしたいのだろうと我慢する。
それもようやく解けてケーキぐらいなら食べてよし、となったわけだが。
多少うとうとしているとそのうち姉がやってきた。そう、姉だけが。いつものようにとドアをノックして声をかけてきて、扉が開いて、そこには姉しかいなかった。
落胆をしなかったとは言えない。そこに彼がいてくれる事を望んでいたわけだし。
いつもどおりのほややん、とした姉の顔を見ながらいつもどおりの会話。まあ調子はどうかなんて定番な事も聞いてきたけど。
姉は何も言わない、私も何も聞かない。あいつの事は。
ただ、姉がいつもよりもしまりの無い……緩んだ? いや、にやにやした表情をしているような気がした。
珍しい。この姉があんな顔をするのは新しいお菓子がおいしかった時ぐらいなものだ。
ちなみに勝率三勝六敗一引分、新商品に手を出してはずれだったのが六割でまずいともおいしいとも言えない微妙なものが一割。いやそれはどうでもいいんだってば。
そして姉は聞きもしないのに「郁乃〜、今日はいい事あるよ〜。うふふふふふふふ」と、怪しい笑いをしてくれた。
浮かれてるように見える。はっきり言えば今まで滅多に無かった事である。きっとアレだ、あいつがケーキを買いに行っているのだ。
姉はお菓子大好き人間だし。
それで結論を言うと。
「すまん、遅くなった。店並んでてさ」
とやってきたあいつがやっぱり抱えていたケーキの箱と、それとは別に持っているこぶし大の包みが遅れた理由を教えてくれたわけだ。
「途中るーこに捕まって紅茶飲んでけとか言われたけど、振り切った」
だからなんで他の女の名前を出すのかと。学習してほしいなぁ。いやいや、私がどう思ってるかなんて秘密なんだから仕方が無いのか。
そして彼の持つもう一つの包み。それは手術成功の祝いの品。
いや、あの、ケーキがお祝いじゃないのかな? これ以上何かしてもらうのは流石に気が引けるのだけど、姉はにたにたしながら受け取りな〜、と言ってくるし。どうやらあらかじめ知っていたようだ。
で、包みを開けるとそこにはクマのぬいぐるみが一つ。大きさは手の平に乗るぐらい? 頭の天辺にチェーンが付いてて鞄などに付けられる様になっている。ストールといいぬいぐるみといい、なんか申し訳ないな。
「これはだな、この間商店街に行った時に知り合いに良く似た、いやいやいや。知り合いの持っていた奴の大きさ以外がそっくりなのを見つけてな。あいつもなかなか気が強かった、じゃなくて気が強そうなクマでな、きっと郁乃とも気が合うだろうなと思っていたら購入してたんだ。まあ受け取ってくれ。おかげで俺の懐はかなりさみしいが」
いやもうなんか色々と引っかかる部分があるんですけど。知り合いに似たとか言わなかった? 気が強かったとも言ったわね。
どんな知り合いよそれは。私と気が合うというのはどういう意味か。
あとやっぱり厳しい出費なんじゃないのよ。いくらよ、流石にそのぐらいは出すわよ。
「気にするな。これは、まあ俺から郁乃への好意の証みたいなもんだ。ただこれ以上はしばらく無理だからな? ねだるのならせめてクリスマスか誕生日の時ぐらいにしてくれるとありがたい」
ちょっと照れた。きっとこいつにとっては深い意味は無いだろう「好意」という言葉に頬が熱くなってしまった。
その後は始終和やかなお茶会となり、持ちこまれたケーキは大変おいしかった。
そして私はクマのぬいぐるみを手の平に乗せながら、これは鞄に付けておこう。出かけるときも付け替えて常に持ち歩こう、そう思った。
その行為はやがて新しい友人を私の元へと呼び寄せてくれる事になる。ちょっと変わった所のある双子の姉妹とメイドロボ。
何故だか彼とも親しいのが気になるんだけど。

やがて私が退院する日が来た。まだ自力で歩いて学校に通えるほどではないけれど、ある程度は体力も付いた。
姉と彼、つまり二年生の修学旅行も終わり、いくばくか過ぎた頃。私は馴染んでいた病室を後にした。
お医者さんや看護婦さん、看護士の人たちが並んで作る道の中、車椅子に座り花束を抱え、お世話になった人たち一人一人に挨拶しながら両親と姉と共に、私は長くお世話になった病院を去った。
いや、二度と来る事がないわけじゃないんだけどね。定期健診にはこなきゃいけないんだし。私の病気は根本的には治ったわけではないから、治療は今後も続けないとならないし。
病院の門で彼が微笑んで待っているのがたまらなく嬉しかった事は、今でも私の秘密にしておく。
いやぁ、私の両親に固くなりながら挨拶する彼の姿は見ものだったわよ? 不思議と病室では会わなかったらしいし。
姉が言うに両親は私に気を使っていたという事だが。なんの気を使ってたのやら。

そして今、私は車椅子で学校の門にいる。あれから数日経ち、私は寸合わせ以外で初めて制服の袖に手を通した。
サイズは結構大きめ。ちょっと期待しすぎではないか? と思わないでもない。これ以上育ってくれるかどうか判らないというのに。
はっきり言うと、今の私は子供服のSサイズを着れてしまう自信がある。それもかなり余裕を持って。そんな自信欲しくもないのだが。
まあ、まだまだ私の筋力は不足しているので、今後次第でこのやたらと細い手足にも肉が付いてくれる事であろう。それが脂肪ばかりにならないことを祈るばかりである。
出来れば胸周りには特定の脂肪が付いて欲しいけど。

カラカラと音を立てて進む車椅子。それをニコニコしながら押してくれるあいつ。
その隣でやっぱりニコニコしながら歩いている姉。
教室の窓からはどんな光景に見えるのやら。姉はまだわかるけど、なんであんたもいるのよ。
「まだ階段上るのはきついだろ? 小牧一人というのも大変だろうし、それを手伝うつもりだ。それに、ちゃんと生徒会長のお墨付きだぜ?『新しくこの学園に通う事になる大切な仲間を、誰かが在校の生徒を代表して出迎えるのは当然の事です。そしてそれは個人的面識もある彼に任せるべきでしょう』てな。そういって教師一同に話を通してくれたんだ。先輩は俺が郁乃の見舞いに行ってたのは知ってるから」
中々融通の利く生徒会長ね。ところで、その人もしかして女じゃないの?
「よくわかったな。今年の卒業式の時に小牧、つまりお前の姉ちゃんに仕事頼まれてな。その時の縁からたまに仕事手伝う程度だったんだが、それなりに親しくなってな。……結果としてろくでもない人とも知り合ったが」
なんかムカつくわね。まあいいわよ。そのおかけでこうして初めての登校を一緒にできるんだから。

やがてたどり着く昇降口。上履きに履き替え車椅子の泥を落として、きれいにしてから下駄箱にくつを放り込んむ。
車椅子だからと履き替える事に意味がないと思うなかれ、これでも二、三十メートルぐらいは歩けるのだ。そのための杖も用意してある。つまりトイレとかはその、ね。自力で歩いて行く必要があるでしょ。
なので上履きに履き替えないといけないのだ。
まあ、階段を昇ったり降りたりするには、誰かしらに手伝ってもらわないとならないのだけど。
そしていきなり直面したのですよ。階段という問題に。まあだからこそ彼はいてくれるわけで。
さてどうするのかと思っていたら、この人いきなり私を抱え上げてくれました。精々横からで支えてくれる程度だと思ってたのに。
もう一人男子がいれば車椅子も一緒に運ぶけど、と言いながら抱き上げて、ちょっと意外な顔をしてくれた。
「えっとだな。なんか記憶にあるより重いぞ?」
女性に対して発するには中々に失礼な発言だと思いますよ、先輩。私はいいけど他の女性には言わないようにね。死を見るわよ?
「そりゃ私だって育ってるんだから、重くもなるわよ」
ふふん、と成長を主張する。実は多少だが胸囲は増えているのだ。ほんとに多少なのが泣けてくるけど。
胴回りはリハビリのおかげかかえって引き締まってくれているので、ちょっとはスタイルに自信あったりする。
今はまだスレンダーだけど今後に期待。
「そうか、こうして郁乃も……」
「なによ」
そんな私を見下ろしながら、何かを悟ったように彼は呟く。しかし、この体勢はいわゆるお姫様抱っこのような……
そうだ、首に腕を回してみようかな? いやいや、そんなことして誰かに見られたら、て姉がいる前で出来るかそんな事。
「子豚のように太っていくのか」
「コロース」
何言ってくれますかねこの人は。そもそも未だに標準体重にすら届いてないってのに。
「ほらほら〜。二人とも、早く行きましょう。郁乃のクラスの人たちも待ってるんだからぁ」
お姉さま。こやつの失言に対しては何も思うところは無いのでしょうか? 確か最近姉上様は体重が三キ————
「ここここここ、河野君。女の子相手にそういうことを言うのは良くないと思うの。ちゃんとお詫びしてあげてっ!!」
ふ。情報を制するものは戦いを制するのです。人を利用するとも言うけど。
「だそうよ。今度どこかに連れて行ってくださらない? 私、一度ハンバーガーというものを学校帰りに食してみたいと思っていますの」
うげ、と言いながら天を仰ぐ彼。ここは屋内だから空なんて見えないけどね。
一度使ってみたかった口調だが、まあもう使うまい。なんか背中が痒くなったし。
彼はわかった、と悲痛の表情で応じてくれた。流石に姉の分までおごれとは言わないから安心していいわよ。

そして彼は私のクラスに向かうために階段を昇りはじめる。

「あと、ゲームセンター、てのも行ってみたいわね。由真さんとは相当やりあってるらしいじゃない。今度一緒に連れてってよ。私がもう少し一人で歩けるようになってからでいいから」

彼の顔を見上げながらクスクスと笑い私は思う。

「わかったわかった。いつでも付き合ってやるよ、お前の行きたい所に。都合が付けばだけどな」

あけすけで、デリカシーもなく、お互い歯に衣を着せないで言い合えるこの男が大嫌いでもあるけど————

「……その時たとえ郁乃が子豚のように丸々となっていても」

「あんたは一言多いっ! さっきのハンバーガーの他に色々と追加するわよっ!!」

でもとても優しいから。

「やっぱり二人とも仲がいいわね〜。おいちゃんちょいと羨ましいよ」

「そこの姉っ!! 和んむな微笑むなにやにやするなお姉ちゃん甘い空気でお腹いっぱいだよな仕草をするなぁぁぁぁぁっ!!」


————誰よりも大好きなのだから。

もう手足はピリピリとしない。

今はもう、ぽかぽかとした温もりに包まれているのだから。

私の心も暖かさに満たされていく。

いつか彼に告げるべき言葉を、そっとその胸にしまいこんで。

————そして誰かが階段の上で待っていた。

「タカくーん、このみもお姫様だっこして欲しいでありますっ!!」
「話がややこしくなる事をいきなり言い出すなっ!」

なんだろう、ぽかぽかが「私の拳が真赤に燃える、お前を倒せと轟き叫ぶーー!!」みたいな熱さになってきた気がするのは。
貴明、覚悟しといてよね?

おしまい

ADZの……一言以上の何か。

捏造郁乃ルート想定。
原作愛佳ルートよりもかなり早く貴明が郁乃の病室に連れて行かれた、という事で。
当初の予定だと郁乃の『お姉ちゃん大好き』な思考を入れるつもりだったのですが、まあうまく行かないものですね。

こういうのもありですよね? ね?
ありだと言ってよバァァァァァァァァニィィィィィィィィィィ!!(誰だよ


兎角、AD発売前に間に合って良かった良かったと胸をなでおろしながら。
ADが出たら出たで性格とか口調とか違うかもしれないけど、その時はその時だw

らいるの何十言か。
素晴らしいですねぇ、いや、さすがにADZさんのいくのんへの偏愛が感じられるというか何というか。心理描写ひとつとっても気迫とか、あるいは手足の痺れの反照法みたいな修辞を小粋に効かせてみたり。やっぱ愛っすか?w
さすがに俄か郁乃、寧ろ偽郁乃SSしか書けない私とは違うなあ、と。いいんです、このみ偏愛主義だから……。と言いつつ、そのこのみSSすら書いてませんが。

……バーニィはあれですね、0080だったりポケットで戦争やってる何かのことですねw

『お姉ちゃん大好き』な思考は、それはそれで郁乃っぽいとも思いますけど、こういう郁乃視点だけで貴明とのことを描ききったものの方が私は好きです。別に姉妹愛が見たくてTH2ADを楽しみにしてるわけじゃないですしね……。

ADZさんへの感想や励ましなどは、
nao-sあとyel.m-net.ne.jp
へどぞー。