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---次は、横江、横江です。お降りのお客様は……---
2両編成の車内に、停車駅を案内する声が通り抜ける。
足元に心地よい響きを感じてぼんやりしていた瑠璃は、その声でふ、と車窓へ視線を向けた。
濃い緑の中が時折途切れ、線路から遠く古い民家を流していく。常願寺川を遥かに眺めながら平行して走る電車は、その間に深い森を挟んで終点の立山を目指してゆっくりと進む。
学校は夏休みに入っても、この時代に敢えて山深い自然に触れに行こうとする観光客もいない。子供の自然観察であれば、都会には科学館が完備されホログラフや移植した自然環境が整っているのだから当たり前の話だ。
乗降客も殆どいない車内の古めかしいボックス席は、もちろん相席する人間はおらず、最後尾のこの車両にも瑠璃が一人手荷物を網棚に載せて座っているだけだ。

あれから。
あの世界が暗闇に包まれた時から人に会いたくなかった瑠璃にとって、養父の御統浩一郎が勧めてくれた静養場所はぴったりだったのだろう。それはこの車内を見ても明らかだった。
瑠璃もまたそれに素直に従った、いや、何も考えずにただ頷いたというのが真実に近いだろうか、彼女にとっては誰もいない場所でさえあれば何処でもよく、その「近くに村はあるけれど村民も少なく、その家を訪れる人間は皆無」という言葉しか聞かずにただ頷いただけだったのだから。

直線で次第に速度を落としていく電車の揺れを感じながら、瑠璃は立ち上がると網棚に手を伸ばす。
開け放した窓から吹き込む夏の風が胸のリボンを揺らし、ぱたんと彼女の膝から滑り落ちた文庫本にも気づかないまま、瑠璃は気だるげに着替えや身の回りのものしか入っていない小さな手荷物を下ろし、ドアへ向かって行った。

襟の閉まったワンピースの裾を翻す彼女の背を、車掌のアナウンスが追いかけて行く。

---横江、横江です。横江を出ますと、千垣、有峰口、本宮、終点立山の順に停車して参ります。横江です。身の回りお確かめのうえ……---

幻想の庭〜盂蘭盆に還る魂〜

8月12日

「ああ、それなら上滝で降りた方が良かったねぇ。ここからじゃ、バスは出てないよ」
彼は見回して苦笑する。
「まあ、見りゃあわかると思うが」
「そうなんですか。小父様、いい加減な説明なんだから……」

小さな木造の駅、その無人改札を出たところで早速瑠璃は悪態をつく羽目になった。
夏の太陽は高く、ロータリーとは決して呼べない駅前のスペースに容赦なく自己主張している。暑さと陽射し、それに着いた途端のアクシデントのせいで、彼女には珍しく苛立ちを露にしながら呟く。
が、浩一郎だけを責めるのは酷というものだろう。事前に全く確認をしなかった瑠璃も手抜かりがあったということになるし、何よりうろ覚えの記憶で降りた駅なのだから、もしかしたら間違えて記憶していたのかも知れない。
確かに辺りを見回せば、むき出しのホームに古い木造駅舎、草むらの向こうに見える森、どう考えてもバスが走っているとは思えない。
けれども、正確な住所と行き方の書かれたメモは車内に置き忘れてしまった文庫本に挟んであり、事の非を責める相手が誰なのかを決定する手掛かりはもうない。

「ただ、お嬢ちゃんの言ってる住所が正しければ早瀬の親父が酒を運びに行くはずだから、もしかしたら乗せてくれるかも知れんよ」
駅前で人が通りかかるのを待って10分、ようやく声を掛けることができた農作業帰りの40代半ばくらいの男性は、ぶつぶつと口の中で文句を言う瑠璃を見かねたのか、記憶を辿るような仕草の後、そう言った。
「本当ですか。できればお願いしたいのですが」
もちろん、瑠璃がその言葉に一縷の望みをかけたのは言うまでもない。何しろ今から上滝に戻るにしても次の電車は1時間後であり、着いたからと言ってバスがあるという保証はない。
タクシーに乗れないほど手持ちの現金がないということもないが、肝心のタクシーが走っている雰囲気もなく、それどころか車が辛うじて走れそうな舗装されていない道しか見当たらないのだから、行く手段がなければとりあえず戻るか立山まで行ってホテルに泊まり、それから翌日改めて上滝へ戻るということになってしまう。
「じゃあ、ちょっと待ってな。聞いてきてあげるよ」
「ありがとうございます。お願いします」
深々とお辞儀をする瑠璃に手を振って背を向け、けれど数歩行った所で振り返り苦笑を浮かべる。
「ちょっとかかるかも知れんから、そこの待合室で待ってなさい」

安心したのか、白い肌を射す太陽にも関わらず炎天下の中で瑠璃はぼんやりと立ち尽くしていたのだった。

道は次第に荒れ果てたものになって行き、飛び跳ねるトラックの助手席はお世辞にも居心地のいいものとは言えなかった。
車体が何かに乗り上げる度に小柄な瑠璃の体はどんなに押さえつけても跳ね、青みのかかった髪が宙に舞う。それを見ていた早瀬の方は悪路に慣れているようで、視線は前に向けたまま笑うと、
「お嬢ちゃん、もうっ……ちょっと我慢できるかい」
「はいっ大丈夫でっ……す」
揺れに合わせて言葉も踊る。単なる光景としては「ああ、大変な道なんだな」で済むところだが、飛んだり跳ねたりしているのが小柄な美少女であれば少し事情は違ってくる。本来なら絶対あり得ない光景というのは、恐ろしいか微笑ましいかどちらかだ。早瀬にとっては、いや誰にとっても人形のような、それでいて単に大人しいというわけではなくどこか垢抜けた様子も感じられる少女がしゃっくりのように言葉を途切らせながら懸命にお尻をシートに落ち着かせようと苦闘している様は、どうやら後者だったようだ。
「はっはっはっ……っと!」
取られそうになったハンドルを体全体で押さえ込んで、それでも余裕を見せて続ける。
「もうちょっと行ったら早瀬の村道に出るから、それまでの辛抱だ」
「早瀬……あ、おじさんの名っ…前と同じですね」
森の中を走り抜ける未舗装路に入ってからかれこれ20分、相変わらず小柄な体は瑠璃の努力を嘲笑うかのようにぴょんぴょんと跳ねるが、心のゆとりは取り戻しつつあるようだ。村道がイコール舗装された道だとは言っていないが、話の流れからして間違いないだろうし村の名前を聞いてようやく無事到着できるのだという感慨もあるのだろう、駅に降り立った時の不安もなくなり今更ながらに気がついて尋ねる。
「何でもご先祖はそこの出身というか……ほら、これで大丈夫だろう、嬢ちゃん」
話を始めようかというその時に、鬱蒼と暗い森が突然終わり早瀬村の村道に出る。悪路の上り坂が続いていたせいか不意に体が軽くなった感じがして、道も平坦なはずなのだがなぜか下っているような感覚を受ける。
けれど、そんな不思議な感覚も束の間、明るく長閑な田園風景に包み込まれると思わず瑠璃は息をのんだ。
そんな様子を感じたのか、早瀬は前を向いたまま、
「どうだい、いいもんだろう」
その声には、話の腰が折れてしまったことに対する残念そうな響きは感じられなかった。
駅周辺も田舎ではあったが、それでも小さくてそれとわからないようながらもロータリーがありカード認証形式の販売機もあり道路もきちんと舗装されて、現代の日本に住む瑠璃にとって違和感を感じるものではなかった。道行く人の少なさに閉口したものの、ちょっと人口密集地から外れたところに来たな、そんな感じだったのだがここはそんな生易しいものではなかった。
山あいの小さな村のこと、一面の水田、とはいかないが棚田に近い形で斜面すれすれにまで広がっている緑の隙間から時折陽光に照らされた水がきらきらと煌き、向こうの山を背に寄せ合うように連なっている家々がミニチュアのようだ。

車は直ぐに畦道に入り、稲穂を掠めながら今度は飛び跳ねないよう速度を落として進む。それが早瀬の気遣いだとわかっていたが、瑠璃はお礼も言わずに時間に忘れ去られたような風景に見入っていた。

そうだね。
海みたいだね。

いつかきっと、こんな風になればいいね。

「どうしたい?嬢ちゃん」
もしかすると、美しい光景を眺めながらも塞いでしまった瑠璃に気がついたのかも知れない。早瀬が少しばかり心配そうな声を投げかける。
「いえ、何でもありません。それより、道が……」
車はいつか村落に入り、酒を降ろすはずなのだろう店の前を素通りしていく。
木造の古びた家屋の奥、背景に庭の光を浴びながらふいと顔を上げた店主の「おや?」とでも言いそうな顔を一瞬目に止めた瑠璃が尋ねるが、早瀬は事も無げに、
「案内ついでに送ってやるよ。大した距離でもないからなあ」
のんびりと答える。簡単にお礼の言葉を述べる瑠璃に、食料品はここ、雑貨はあそこ、とさして広くない道の両脇に並んだ店を説明して行く。商店街とも呼べない短い通りはすぐに切れ、恐らく村の中心なのだろう広場に出ると再び速度を落としてゆっくりと更に森の奥に向けて左折する。
「16日になあ、ここで村祭りがあるんだがね。気が向いたら顔だしてみりゃいい」
4,50人も入ったらいっぱいになってしまうだろう。小さな広場にはまだ櫓も組まれておらず、小学生くらいの男の子が犬を連れて彼らと交差するように駆け抜けていく。
都会の人から見れば小さくて詰まらん祭りだがね、そう言って苦笑すると虚ろな返事をする瑠璃に気分を害した様子もなく淡々と村の説明を続けていく。とは言え、この小さな村は既に外れまで来ており、目指す場所はここから少し森に入った先にあるのだと教えてくれただけなのだが。
「目を上げて見い。屋根が見えるだろう」
言われて顔を半分だけ窓から出して見上げると、緑の向こうに確かに屋根が見える。村からは歩いて上って4,5分と言ったところだろうか、うねうねとくねった上り坂が続いており完全に村はずれという感じはしない。
「随分昔からある屋敷だが……20年くらい前か、どこぞの社長が気まぐれに購入して手入れはされてるものの殆ど使われずに放置されてるらしいなあ。ま、避暑地にも向かんところだし、何のために買ったんだかがそもそもわからんしな」
早瀬の説明によれば、昔の地主の屋敷だったらしいが没落してそのままだったのを買われたらしい。彼ではないが、瑠璃も物好きな、という感想しか湧いてこなかった。

かろうじて村と関係できるほどの位置に立ち、しかしそもそも村自体が外界から隔てられたこんな場所の屋敷をなぜ買ったのだろうか。早瀬の話に曖昧な相槌を打ちながら、けれど何となくわかるような、人との接触を断ちたいがために屋敷を購入したどこかの社長の姿を想像して、浩一郎の知り合いではあるのだろうが彼女自身は見もしない人間に奇妙な親近感を感じる。
考えても仕方のないことに想像を走らせるようなことをするのは、どれくらいぶりなのだろう。今まで自分の思考は常に何らかの目的のために向けられてきた。結論と結果に向けて使われない思索は無意味だと思っていた。だからこそ、そういう思考回路を持たずその場の『ノリと勢い』で行動できる彼らが羨ましくもあり理解できない動物のようでもあり、そして妬ましかったのだ。
「考え」でなく、「想い」で行動できる人たちが。

今にして思えば、自分は人間としての感情など持ち合わせていなかったのだとも自嘲してみる。
あの頃は手に入れた思い出と新しい生活に我知らず有頂天になっていただけで、冷静に考えることができなかった、それだけのことだったのだろう。それは人の想いを理解した、自分のものとした、ということと同義ではないことに気づかないくらい、単純に思考能力が落ちていたのだ。
思いあがりだったのかも知れない。

「着いたぞ、嬢ちゃん。帰りも迎えに来てやるから、連絡しな」
取りとめのない思考の隘路に挟まっていた瑠璃を引き戻したのは、早瀬の声と夏に似合わないとすら思えてしまうくらいの、不思議な静寂だった。

これは何なのだろう。

早瀬にお礼を述べて見送り、濃い緑に当てられながら腰までの門を開け、きれいに敷き詰められた砂利を踏みしめながら歩く。
高い生垣が道を挟み込み、まるでトンネルにようだと思いながら垣に沿って進んで暫くすると、そこが玄関だった。

「何なの、これは」
今度は呟いてみる。言葉にして。
が、言葉に出したところで変わりはない、玄関はその数瞬前と同じ様相で瑠璃に対面しているだけだ。
けれども、言葉にした効果は多少あったようで、ようやくこれが瓜畑宅にあった引き戸と同じ構造であることに思い当たり、一人納得する。もちろん同じ建材が使われているはずもなく、あまり詳しくない瑠璃ですら嵌め込まれている摺硝子を一瞥しただけでそれが瓜畑の家で使われていたような大量生産の既製品ではなく、意匠にも凝られた、恐らく手作りのとんでもなく高級なものであることはわかる。
だから急にはこれが引き戸であり、それを自分は知っているのだということが跳んでしまったのだ。

午後3時の太陽が、容赦なく照りつける。
木陰になっているお陰で直射日光を浴びているわけではないが、だからと言ってここでこうして呆然としていても仕方ない。
ふう、と溜息をついてバッグから預かっていた鍵を取り出すとこれもまた古めかしくも風情を感じさせる鍵穴に差し込んで左に捻る。かちり、と小気味良い音に少しだけ気分を和ませながら鍵をしまうと、カラカラと音を立てながら引き戸を動かす。
ひんやりとした空気が室内から漏れ、けれどそれが冷房の涼しさでないことに気づいて思わず目を閉じて大きく息を吸い込んだその瞬間だけ、蝉の声が止んだ。
静寂と清涼に包まれて、刹那の時を止める。
広い土間も高い敷居も、その先に広がる室内とは思えない空間もすべてを目に入れず、瑠璃はじっとその瞬間を楽しんでいた。

自分の裡にある、悲壮と痛哀からこの一瞬だけでも逃れるかのように。

虚構はそれ自体で見れば夢と大差がないこと、ただ夢では原因が意識されていないのに、覚めている者〔虚構している者〕にはそれが感官の助けによってわかっていて、それらの表象像が、現在自分の外にある事物から来ているのでない事を判断できるだけの相違であるということに注意されたい。誤謬はしかし、すぐ明らかになるように、醒めながら夢見ているのである。そして誤謬があまり甚だしいとき、それは妄想と呼ばれる。

Tractatus de intellectus emendatione
Benedictus de Spinoza,1677

ならば、今ここにいる自分は何なのだろう。
今自分が夢見ているのは果たして虚構なのだろうか、それとも夢か、または妄想に該当するのか。

「お待ちしておりました、お嬢様」
恭しくお辞儀をする女性に、瑠璃は戸惑う。
「あの、千夏さんですか?」
「はい、そうです。一週間の間お世話をさせていただきます。粗相の無いよう努めますので宜しくお願いします」
再拝する千夏。
予定調和に安心する人間がいる。自分がそうだとは思っていないけれど、やはり予想と異なると自分の心に対して不安定になるものなのかも知れない。
浩一郎から聞いてはいたが、お手伝いさんという言葉から御統家の家政婦を想像していた。それが思ったより若く、どう見ても由梨歌と同じかそれよりも下にしか見えないので少し驚いてしまった。もちろん、浩一郎が話をつけてくれたあの家が、たとえ殆ど使われない別荘とはいえ適当な人材を宛てているはずもなく、若いけれどもそれなりの女性であるのだろう。
「お嬢様、お入りになられた方がいいですよ。お肌が痛んでしまいますから」
千夏の言葉ではっと我に帰ると、彼女はもう瑠璃の少ない荷物を持って既にあがりがまちで立っている。玄関に足を踏み入れると、まず下が大理石やタイルでなく、一枚の大きな石であることに驚かされた。
二畳ほどもあろうかという広さを覆う岩の存在にも驚いたが、その表面は水平に研磨され、長い年月を感じさせる重厚さと落ち着きを伴った光を投げかけている。呆気に取られているだけでも仕方ないので、瑠璃は小さく「失礼します」と声をかけて靴を脱いだ。そんな瑠璃を微かな笑みを湛えて待っていた千夏は瑠璃の妙な挨拶にも表情を変えない。分を弁えている、それだけでお手伝い、いや彼女の服装からしてメイドと言った方がその様子を如実に表せるかも知れない。
和風建築に関わらず、深い紺色に白いエプロンを着けた様子は違和感を感じさせないでもなかったが、よく考えれば和装より余程動きやすいだろう。趣の中にも合理との調和が取れているような彼女の雰囲気が、違和感を即座に消し去る効果を発揮していた。
あがりがまちはあまりの床の高さに2段に分けられ、靴を脱いで上がった瑠璃の体重でもみしりと音を立てる。けれどそれは不快なものでなく単に歴史を感じさせるといった類のものだった。
そのまま開け放たれた襖の向こうには、巨大で静謐な空間が広がっている。
3人で暮らすアパートは何だったのだろうかと疑いたくなるくらいの、贅沢な広さに畳と初夏の庭の匂いが溶け合う。
知らず、大きく息を吸い込んでその金の双眸を瞼の下に覆う。
不意に「この世界はなんて素晴らしいんだろう」という思いにとらわれて、あまりの脈絡のなさだけれど苦笑することすら忘れてしまう。緑陰濃い庭と涼やかな風鈴の音、夏とは思えない風、そういうものと縁のなかった瑠璃をさえ落ち着いた穏やかな気持ちにさせる何かがあるのだろうか、この空気には。
「いい家ですね」
堪能した瑠璃が振り向いて千夏に言う。
瑠璃の鞄を手にしたメイド服の彼女は、後ろに束ねた黒髪を風にたゆたせながら小さく口元に笑いを浮かべただけだった。

手入れはされているのだろう。乱雑に放置されているように見える鬱蒼と茂った木々も、どことなく池や東屋と調和しているように見える。
池から流れるせせらぎにかけられた小さな橋にような渡り廊下を通り、案内されたのは庭を南に迎えた北の対だった。
「こちらには4室ございます。それも掃除は済んでおりますのでお好きな部屋をお使いください。母屋まで行かなくてもお手洗いは奥にございますが、お風呂だけは南の対にしかありませんので……」
「はい、ありがとうございます、千夏さん」
何の気なしに名前で呼んだのだが、予備知識で瑠璃のことを知っていたのだろう、千夏はそのメイドキャップの下で流麗な顔を微かな驚きに染めた。
「……何か?」
怪訝そうに覗き込む瑠璃に、けれど少しも慌てずに笑顔を返す。
「何でもありません。それにお嬢様、こちらにいらしている間は私どもの主ですので、呼び捨てで結構ですよ?」
「でも、それは……年配の方を呼び捨てにはできませんから」
「でしたらお好きなように呼んで下さい」
にっこりと微笑みながら言う。
瑠璃と同じくらいに白いけれど、儚げな白さをまとう瑠璃と違って爽やかで、傍にいるだけで幸せになれるような健康的な白さと言えばいいのだろうか。
その顔で微笑まれると、なぜか瑠璃まで頬を染めてしまいそうになる。
「あの、私ども、と言うと?」
それを誤魔化すためもあるが、さっきから千夏以外に人の気配がしない屋内の雰囲気を感じたので、瑠璃が問う。
「買い物や修繕など、雑事を担当している後藤さんとお食事をご用意させて頂く大川さんがいます。それに、村から兼代さんが午前中だけ掃除や洗濯などを手伝いに来てくれています」
「そうなんですか。あ、この部屋で結構です」
「はい。では私は母屋におりますので、何か御用がありましたらこちらのベルでおよび下さい」
庭に面した縁側を持つ、12畳ほどの部屋の入り口に荷物を降ろすと、優雅な物腰で一礼すると去っていく。その姿を見ながらぼんやりと、お嬢様という言葉は自分や由梨歌ではなく、千夏に使われた方が相応しいのではないかと思ってしまう瑠璃だった。

ともあれ、荷物を部屋の奥に引き入れると瑠璃はぐるりと作りを見渡す。
明人が到着するのは明日の予定だから、今日一日は瑠璃一人しかこの母屋にはいない。由梨歌が来られなかったのは残念だ、そう思う。この作りなら本来の淑やかで落ち着いた由梨歌になれたろうに。
仕方ないか、そう心中で呟くと改めて部屋を眺める。
純和風のこの部屋も畳と夏の匂いが気持ちいい。
庭に面した障子の片面にこれも時代がかった文机があり、スタンドは落ち着いた意匠で鎮座している。
奥には大きな桐の箪笥があり、棹通しや持ち送りがきちんとついている造りの良いものだ。片開戸の帯金具にも時代が感じられる。
開け放した障子から夏の陽ざしが濡れ縁と部屋の縁にまで届き、何だかいろいろあった瑠璃は疲れてしまって座りこんでいたが、やがてそれすら億劫になったのか、そのまま体を後ろに倒す。

千夏は何かをしているのだろうか。
そう思ってしまうほどに静かな旧家。

ただ、風が木々を揺らす音と、遠くから聞こえてくる蝉の声だけが部屋の前を通り過ぎていく。
目に入った竿縁天井の木目を見ながら、いつしか瑠璃は浅い眠りに落ちていった。

≪なかがき≫
β版、夏祭りへようこそ。
昨年に引き続き、夏の限定公開SSの第一弾をお届けします。
『あの夏〜』もそうでしたが、どうしても夏や盆と言うと、日本の各地で見られるような風景を思い浮かべてしまいます。
田んぼ、蛍、50円のアイスクリーム、盆踊り、ラジオ体操、夏休みのプールへ向かう子供、花火……。
そんな風景に、例え2200年代とは言えカタカナの人名表記は似合わない気がしたので、今回も漢字表記にすることにしました。
そうは言っても、『あの夏〜』のように全く別のオリジナル・ストーリーというつもりはありません。あくまでも『空白の3年間』を舞台にしていますので、本編のナデシコに繋がっていると考えて頂ければ。

同時公開のLRS、『月と蛍』との二本立ての今年の夏祭り。
楽しんで頂ければ幸いです。