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輪廻なんて信じていないし、魂なんて存在しない。
人間は死んでしまえば無になるだけだし、体は灰となって消え去るのみだ。
だから今この世界、この時間にいきている間はせめて楽しく過ごそうと思うのだし、生きている間に行う努力なんてそのためだけのものでいい。苦しむためにつぎ込む労力はバカバカしいだけで何ら意味がないうえに、その努力が報われる確実性などありはしないのだから。
あと自分が何年生きられるのかはわからない。
明日死ぬかもしれないし、いやもしかしたら今この場で何らかの要因によってこの世から消滅してしまうかもしれない。生存証明は常に行うようにしているが、それは自分が所属している、単純にこの現実世界で生きるために刹那的な繋がりを持たざるを得ない社会——あるいは政治的結合関係にある組織——に対して、その中で存在を認められるために守らねばならない、くだらない現世的規則を仕方なく遵守する目的以外に意味を持っていない。
……まあ、有体に言ってしまえば、朝のHRでの出席確認に返事をする、だけのことだ。

そう悟ってしまったのが、彼が14歳になった時。
これといったきっかけはないから、14歳になった時に悟ったというよりは、たった14年間の人生で投げ遣りになってしまうような過去を歩んで来たのだと言った方がいいかもしれない。もちろん、生来の性格というものもあるのだろうけれど。
彼自身は心理学も応用分析学も行動学も、あらゆる人間を研究する学問というものを軽視していたし、たかが数万のサンプル程度で人間を科学するなど神に対する冒涜というか、人間様に対しておこがましいと思わないのかと考えている。だから性格が生来のものなのか環境に依るものなのかの論議を、ここでするつもりもなければ気にしてすらいない。多分、どちらもなのだろう。彼だけがそうだというわけではないが、それでも世間一般の中学生に比べれば相当に悲惨な人生を歩んで来ていることは事実だし、小学生の頃から歪んだ性格をしていたことは当時の指導教員がそれこそ証明の必要はないと信じられるようになるまで滔々と説明してくれると思われる。

そんな彼だったから現世にしがみつく意思は殊更に強く、他人との融合などを絶対に認めるはずがなかった。だからサードインパクトなど起こるはずはなかったし、人類補完計画もまた、当然のように失敗に帰結した。

neon genesis evangerion - こんな日

「人の噂も七十五日、とはよく言ったものだよね」
ようやく通い慣れてきたと言えそうな通学路で、咲き始めた金木犀の香りに鼻をひくひくとうごめかせながらシンジは隣を歩く少女に話しかけた。
「シンジ?そうやってると人の噂話に鼻を利かせてるみたいに見えるよ」
くすくすと笑いながら右腕にしがみつく少女の名前は「霧島マナ」。戦自所属のスパイだった少女は、特務中にスパイする相手に惚れてしまうという、任務に関して言えば大失態をやらかし戦自も同僚も投げ捨ててNervの庇護を求めた。正確にはシンジを通して加持リョウジに頼み込み、なぜか政府までを巻き込んだ大裏取引大会が行われた結果これまたなぜかはわからないけれども、サードチルドレン碇シンジの預かりとなってしまった。そのことを知ったシンジの台詞は、「世の中って色々な事柄で成り立っているんだなあ」というかなり間の抜けた、もしくは加持や裏で尽力した冬月(当時)司令代行の姿を一瞬にして灰燼としてしまった言葉だったと言われている。そりゃまあ、熱烈なお礼を期待していたわけではないが、苦労に見合った感嘆の言葉くらい欲しかったことだろう。
だが、マナが無事であれば良かったシンジとしては、途中経過に興味はなく結果だけがすべてだったから仕方ないことだ。彼らの厚意には純粋に感謝もしていることだし。
「え、いや金木犀がいいにおいだなってだけなんだけど」
サードインパクトも乗り越えた少年は17歳になり、大人しさが落ち着きと言えるようにまで成長したけれども、やはり好意を抱いている彼女には弱いらしい。少々慌てた口調で素早く言うとしゃっきりとした表情に改めて足を進める。その歩調はゆっくりと、彼よりもだいぶ歩幅が狭くなってしまった少女に合わせていて、そういう部分でも彼の成長が伺える。
「そんなに慌てなくも。そういうところは変わらないよね、シンジって」
おかしそうに笑いながら言うマナ。軽く笑いながら言っているけれど、彼女もまたサードインパクトを乗り越えているからその心中に込められた感慨は重い。
「そうかな。僕自身はまったく変わっていないと思ってるんだけど」
「まったく成長してないなんてことはないでしょ。背だって私より全然高くなったし声変わりもしたし。そう考えると前のシンジの声ってほんと女の子みたいだったよね」
「酷いなあ。でも身長はもうちょっと欲しいんだよね。秋吉ほどとは言わないまでも、せめて175くらいはあってもいいなあ」
「えー、いいよシンジはこれくらいで。私の方が欲しいくらいだもん。中学の時はクラスの中でも高い方だと思ってたのに、今じゃ低い方だし……」
尻すぼみに小さくなっていく声からすると、彼女はかなり気にしてるようだ。シンジにしてみれば今の自分の身長なら、マナがこれ以上伸びない方がバランス的にいいんじゃないかと思っているのだが。
「それに、胸だって……シンジの挟めないし……」
ごにょごにょと呟く声は小さ過ぎて彼には聞き取れなかった。
「え?なに、マナ」
「いい!何でもない、気にしないで!」
「?……うん、それならいいんだけど」
「あっそうそう、明日ちょっと付き合って欲しいんだけど。修学旅行の買い物に行かなくちゃ」
「マナってさ、わかりやすい誤摩化し方するよね」
「人のこと言えないでしょ」
ぷうっ、と可愛らしく頬を膨らませながら、そうだ、と付け足した。
「さっき言ってた噂、結局何のこと言ってたの?」
「ああ、あれね。うん、いやインタビュー受けてから今日がちょうど75日目なんだよね」
シンジの答えに、なるほどと頷く。

『人類補完計画ー虚像を求めてー』と題したB級映画が上映されたのは2年前のことだ。中断されたとはいえサードインパクト後の混乱の中で急造の俄造りだったから仕方ないと言えばそうなのだが、そのお粗末さはあまりにも酷かった。興行成績も悪い、というよりはあのご時世で誰がいったい映画などを悠長に見ようと言うのか、とシンジやマナ、あの「文化」にやたら煩いカヲルにそもそも「映画」自体を見たことあるかどうかすら怪しい綾波レイでさえ疑ったものだ。
結果は予想通り散々なもので。それでも諦めなかった自称「社会派」監督とプロデューサーが、サードインパクトの真実を世に公開するまではと志を新たにして挑んだ『Children』の公開がちょうど二ヶ月前だった。
サードインパクトをNerv、中でもチルドレンたちに焦点を当ててストーリーの中で検証した作品は今度は世間に認められ、空前のとまではいかないまでも公開前からかなりの期待を集めていた。そこへダメ押しとばかりに制作会社が仕組んだのが、チルドレンへのインタビュー。
世間の受け止め方は当初Nervが心配していたような、世界を救った英雄でもなければ、途中で止まったとは言えサードインパクトという世界を未曾有の危機に陥れた極悪人、というものでもなかった。どちらでもありまた、どちらでもなかったのだ。有り体に言ってしまえば「それどころじゃない」だったのだろう。『人類補完計画ー虚像を求めてー』が失敗したことからもわかるように、真相究明だの戦犯だの、そんなことを言ってる場合ではなかったのだ。個人や家族というものが、地球規模や政府のレベルよりもミクロだからといって混乱や悲嘆が小さいわけではない。むしろだからこそよりそれらは大きく、そしてそのレベルでの「復興」への道筋は国家規模の政策よりも切実で大変なのだ。
そんなわけで、保安諜報部を保安警備部と諜報部に分けてまでチルドレンたちの保護と隠匿に当たったNervはご苦労なことだが、世間的な風当たりや好奇の眼差しは彼ら4人には向けられなかった。
ただ、そんな風に拍子抜けしてしまったNervから彼らの、シンジ、アスカ、レイ、カヲルのデータが流出したことはだからと言って世の人々が放っておくはずもなかった。
マスコミが飛びついてチルドレンたちの経歴や使徒戦中の活躍、日常生活などを報道するに至ってようやくNervもそれ以上の情報流出を抑えるように働きかけたが、その頃には既に彼らは巷で有名人状態であり、ちょっぴりの批判と多くの同情と好意という意外な効果を生んだことでチルドレンのみならず驚いてしまった。
既にエヴァはなく、建造する技術も資料も何もかもが失われてしまった現在、先天的使徒っ子なレイやカヲルだけでなく初号機と溶けて後天的使徒っ子になったシンジの3人が「僕たちはATフィールド使えまーす」と言いふらさない限りは、彼ら3人を狙うのはマスコミのみ。使徒戦中のデータは余さず公開したし、どこぞの軍事組織やら秘密結社やらが狙う理由もない。さすがにATフィールドを使えるという事実が漏れれば研究機関などが彼らの身柄確保に動くだろうけれども、そのことを知っているのがそもそも4人しかおらず、だいたい使えると言ってもすぱすぱとモノを切ったり銃弾から身を守ったり、そんなスペシャルでグレイトなことができるわけもない。
思いっきり集中すれば不可能ではないだろう。実際、シンジは一度手を滑らせて落としてしまった包丁が足に刺さるのを弾いている。
カヲルやレイとて同じ程度なのだから、身を危険にさらしてまで公開したいものではない。
そんなわけで今まで気にもしなかったけれど、一度公開されちゃうと何となく気になっちゃった、で見てみたら可愛そうな境遇だしあらやだ何だか可愛いじゃない、と言った流れでなんちゃってアイドル化した彼らを、資金繰りに困ってリストラを進めてはいるものの既にして自転車操業どころじゃなくなったNervと使徒戦直後の映画が大きくこけて、後がなくなった映画制作会社との利害が一致、ここにチルドレン独占インタビューの運びとなったのが2ヶ月前、というわけである。
最初はどうあれ、途中からは別に隠していたわけではないのだが結果としてそうなってしまったチルドレンたちの生の姿が見られるということで、当日試写会場に集まった報道陣の数、およそ200。配給会社側が用意した会場では収まりきらず、急遽別会場を設定するという騒ぎになった。
内容そのものはどうということもない。報道陣の質問にチルドレンが答える、というごく普通の会見形式で行われ、「使徒と戦うことから逃げ出したくなったことは」という質問にシンジが「できればいつでも逃げ出したかったです」とあっさりはっきり言って、えらく格好よく演じてしまったシンジ役の役者や制作会社が慌てたり、「男女2対2のチルドレンの比率ですが(トウジは就役がわずか1日だったのであっという間に登録を抹消されているし、そもそも会見にも呼ばれなかった)、苦難を共にする皆さんの間で信頼関係というかぶっちゃけた話が恋愛に発展したりとかは」(意訳)にレイが「私は碇君のもの」という質問の内容に合ってるんだか合ってないんだかわからない答えを出して会場を大混乱に陥れたり、「エースパイロットだったサードチルドレンにお尋ねしたい」との前置きにアスカがぶち切れて保安警備部が駆り出されたり、「サードインパクト中の情況は、柱となった碇君にはどのように感じられていましたか」という酷く曖昧で抽象的な質問に困ったシンジの代わりにと出しゃばったカヲルが、「シンジ君とひとつに重なった瞬間の快楽は(以下検閲削除)」と、これまた故意だとしか思えない誤解を招く発言でレイのばれないように使われたATフィールドぼんばー(命名:マナ)を喰らって泡を吹いたり、我慢できなくなってNerv保安警備部と会場の警備員を瞬殺して飛び込んで来たマナとレイの間で奪い合いに発展したり、と、特筆すべきこともないごく普通の会見だったのだ。たぶん。

「そう言えば確かに、最近は煩く付きまとわれないね」
視線を宙に彷徨わせながら当日のことをうっすらと思い出したマナが答える。
「学校だってもう完全にいつも通りだしね。カヲルを避ける人が増えたことくらいかな、変わったのって。あと、シンジが人気出て来たこととかさっ」
ちょっとだけ怒りをその声調に乗せながらマナが言うと、シンジは腰が引けながら、
「そ、そんなことない……って……思う……」
最後が小さくなってしまったのは、彼らを追い抜いていった下級生が「碇先輩だー、きゃーやっぱりかっこいいー」とか何とか言いながら駆け抜けていったから。気にはしつつも彼は満更でもなさそうだが、その隣でボルテージを上げてご機嫌を下げまくっているマナにフォローはしておいた方が彼の健康のためだと思われる。いやもう切実に。
「もてるねーシンジってば」
びくっと体を震わせて、恐る恐る首を回す。ぎぎぎ、とロボットのように音を立てながらって現実にあるんだねシンジ君、とか何とかカヲルが横にいたら言いそうだが、まさしくそんな感じ。棒読みのマナがむちゃくちゃ怖い。ああ、今日も僕は枯れ果てるんだろうなあ、と周囲からすればてめぇこの野郎な思いを本人にしてみればひどく悲壮な気分で諦めながら、シンジは空を見上げた。
秋の空は高く、薄く引き延ばした雲がほんのちょっぴり。朝だというのに何となく学校に行くのが億劫になってしまうけれど、悲しいかな彼らは高校生、しかも来年は受験生。高校生の割にはただれた生活をしているような気がしないでもないが、昼夜逆転しているわけでもないのでまだマシだろうと割り切ってみる。もちろん、たとえそうであってもクラスの友人たちはそうは見てくれるはずもない。
霧島マナと綾波レイ。
おまけで渚カヲル。
どう好意的に見ても「碇が墨北高校トップ3のうち2人の美少女を飼っている(おまけで美少年も)」と取られてしまうのは仕方がない。ちなみにトップ3のもう1人は言うまでもなく真っ赤なお猿さん。
そんな訳で、昨晩は自分の番だと張り切ってシンジを疲れさせた同居人は未だ夢の中。まあ、シンジがいるからというだけで進学した程度だから、高校を卒業できなくても彼女は何の痛痒も感じないだろうが。残るもう1人はマナの嫉妬全開なオーラにびびって先に登校しているから、そろそろ学校に着いているだろう。マナもレイも、お互い納得ずくではあっても、やはりこの辺りは仕方ないのかもしれない。
純粋に嬉しいかと問われれば、難しい表情で黙り込んでしまうだろう。彼女たちの意思はどうあれ、彼の倫理的にはあまりよろしくない。ずるずると状況に流されている意思の弱さを何とかしようと思うものの、「シンジ君はどちらも好きなんだろう?何の問題があるんだい」と本当にわからない、といった表情でカヲルに言われてしまうと「いや倫理的に」としか答えようがない。
困難の末に絞り出したその回答すら「それはリリンの倫理だろう。君は純粋なリリンではないし、彼女たちもまたそうだ。何の問題が?」とこれまた真面目な顔で問われ、その結果こうしている。それに、嫉妬はしてしまうがお互いに認めてしまっているマナとレイにとってみれば、シンジの能登の金箔よりも薄い倫理観念なんてどうでもいいことで。はっきり言ってしまえば、「周りが何と言おうと自分たちが幸せならそれでいいじゃない」なのだ。周り、に当事者であるシンジが含まれているのはご愛嬌。

さて、そんなこんなで2人の通学路をのんびりと学校へ向かう彼と彼女。
涼やかな秋風が通り抜けて彼女の栗色の髪の毛を踊らせ、握った手は何があっても離れない、と彼の意思を表しているかのようにしっかりと。
学校まではあと少し。
追い越していく級友たちに少しの冷やかしと共に挨拶を交わしながら辿り着く正門前の坂道。
ぴた、と止まる足もきっちりと2人揃って。
どんな時も—特にレイがいるときは—絶対に離さない手を彼女の方からほどいて彼に向き直る。
「シンジ、大好きだよ」
「うん。僕もマナと綾波しか愛していないよ」
いつもの確認事項。習慣とか癖とか、そんな感じ。
最初のうち、「マナだけ」と言ってしまってレイからもマナからも不興を買ってしまい、物理的に痛い目に会ってからは決して間違えない、いつもの台詞。
そんな彼ににっこりと笑って、再び手をとり、賑やかになりつつある正門に向かってゆっくりと歩みを進めていく。
いつもの日常。
Nervもエヴァも関係ない、幸せな一日の始まり。

「ああシンジ君、僕は信じていたよ、君は必ず僕に会いに来てくれるって」
「や、そりゃそうだよ。同じクラスだし」
都立墨田北高校、その2年C組の教室にはいつも通りの光景が広がっていた。
隅田川に面した西側の窓は開け放たれ、川風が心地いい。廊下はまだ登校中の生徒やHR前に用事を済ませようという生徒たちの声で溢れ、ご都合主義ではなくレイの陰謀というか策動によって同じクラスになっている4人のうち3人が毎朝の挨拶を交わす。カヲルのボケもシンジの突っ込みも毎日同じ、というのも芸がないけれど、クラスメイトにとってみればここは笑うとこではなくて単なる習慣として流す所だから問題ない。
低血圧なレイは本日も遅刻。というより昨晩が激しすぎた。恐らく昼までは来ないものと思われる。それなのにシンジは元気。彼はエヴァを降りてもエースだった。撃墜数、本日で連続記録更新の1日5機(謎)。
「よ、碇。昨日のアレ、見たか」
「おはよう秋吉。いや昨日は綾波の番でさ。一週間ぶりだったから無理、無理」
窓側から2列目、後ろから2つめの席に向かいながら話しかけてきた友人に苦笑しながら返す。神奈川県特別自治区第3新東京市から東京都に引っ越した高校1年生の時からのクラスメイトだ。ひょろりとした彼の雰囲気はどことなくカヲルに似ているが、中身は俗物そのもの。そのギャップが可笑しくて何だか妙に気が合い、それからはよく一緒にいる。
その彼も、なぜ一週間ぶりかと言う……まあ、あまりお下劣なことをあえて口に出して聞いたりはしない。その辺りは心得ている。(男と女体の)違いのわかる男、秋吉ユウイチ。
「何だよもったいないな。昨日のは凄かったぜ、あれだけの映像を一気に見られるなんてそうそうないチャンスだったのにさ」
さすがに1年次で慣れたのか、高校生としてはどうよってな感じのシンジの答えにいささかも動じる気配がない。
「あれでしょ、『カメラは見た!衝撃の瞬間2018年度ベスト』。私は見たよ」
席は廊下側1列目の前から2番目と離れているはずのマナが、話に加わる。さっきまでB組の女子と話していたはずなのだが。
「そうそう、霧島お前も好きだねぇ」
「いやいや、秋吉君こそ」
にやり、と笑いを浮かべる2人にシンジはちょっと引き気味。
「相変わらずねマナ。そんな俗っぽい番組見て喜んでるのってあなたたちくらいなものよ」
とりあえず話題の転換でもしようかとシンジが思っていたところに、別の声が入ってくる。椅子に座っていた彼が仰ぎ見ると、そこにはしっとりと黒い髪の毛を後ろでくるっと纏めた、
「ああ、おはよう来島さん。でもああいうのって結構面白いんだよ?」
「そうよ、ツバキだって見たらわかるって」
「あーダメダメ、こいつは絶対見ないから。昨日だって見てた俺の横で「はんっ」とか鼻で笑いやがったし」
「当たり前でしょ。だいたい、あの時間は『世界の隅っこで貝を食べるケダモノ』を見たいって言ったじゃない」
「あんなのただのラッコの生涯じゃねぇか。その程度の下らないドラマなんかと一緒にするなっつの」
「何ですって、ユウ?もう一回言ってご覧なさい、返答によっては今日の夕食もあたしが作るわよ?」
「ごめんなさいすいませんもういいません」
寸前の威勢はどこへやら、あっさりと謝る秋吉に呆れつつもマナがこっそりとシンジに耳打ちする。
「あっさり折れるくらいだったら最初から突っ張らなきゃいいのに」
「まあまあ、秋吉にだって通したい意地があるんだよ。…………きっと、ね」
「それにしてもさ、ツバキの料理ってそんなに凄いのかな」
「ミサトさんほどじゃないよ。…………絶対」
2年前までの同居人にして現Nerv広報部副部長たる葛城ミサトのN2クッキングを思い出して、げんなりするシンジ。マナにしても多少の経験があるためか、顔色が悪くなる。
「そこ。こそこそとなあ〜に失礼なこと言ってるかな」
げ、と顔を上げると腰に両手を当てて仁王立ちのツバキと、その隣で疲れきっている秋吉。何だかアスカみたいだ、と暢気な感想を抱きながらも2人揃ってぶんぶんと頭を横に振り慌てて弁明する。
「いやいやいや、何でもナイデスヨ?ホントウデスヨ」
「あからさまに怪しい口調ね。ま、いいわ。ユウを絞って気は晴れたし」
ひでぇ。もちろん口には出さない。
「ところで、今日のHR、議題が何だか覚えているわよね」
始業前の時間は有限、そしてこの墨北で最も有名なバカップルであり且つ最も微笑ましい3人(?)のうち2人への、自分たちに関係すること以外には興味がありません的態度への不安は無限。
ツバキはとりあえず朝のうちに懸念材料は何とかしておこうと確認する。
「へ?えーと。なんだっけ」
語尾の疑問形と共にマナへ顔を向けるシンジに対して、
「んー、知らない」
ツバキの不安を完全に肯定してしまうマナ。この場にはいないがレイがいたらそのままマナの顔がレイに向けられ「問題ないわ」とでも言うのだろう。
そんな2人に秋吉の幼馴染にして実はミサトに負けないN2料理製造者であるところのクラス委員長は大きくため息をつくと、
「そりゃね、あなたたちに過剰な期待はしてないわよ?してないけど……先週あれだけ念を押したしマナだって楽しみにしてたじゃないのよ」
とほほ、な表情で諦めきったようにがっくりと肩をおろすツバキ17歳、クラス委員長趣味は編み物。
「あれぇ?あはははは、えぇっと、何だっけほら、やだなあ覚えてるわよほんとにほんとよまじなんだから」
「説得力ないって言うか、あれだけはっきり言った後だとこれほど不毛な言葉は類を見ないと思うんだけどね」
焦って言い訳を始めるマナに、いつの間にかやってきたカヲルが呆れ半分でにが笑い。シンジも思い出そうとうんうん唸っている。おでこに人差し指を当てて眉根を寄せ、軽く首を振る姿が2人とも全く同じ。その様子を眺めながらカヲルがちょっと嫉妬を抱いてしまったことはこのお話とは全く関係ない。
「来月の文化祭についてだろう、ツバキ君が言っているのは」
あまり2人一緒の姿を見ていると、嫉妬が際限なく膨らんでいきそうだ、と己を冷静に判断する墨北で最も端麗にして都内で最も危ない男、渚カヲル17歳趣味は碇シンジ。いろんな意味で危ない。一番危ないのはシンジの貞操だが。
「渚、お前もいい加減その口調何とかならないのか?」
ああそうかっとこれまたユニゾンで全く同じ動作をしながら頷くシンジとマナに、こちらは仲いいなこいつら程度の感慨しか抱かない秋吉がカヲルの言い方に突っ込む。その場においてどうでもいい内容に話を持っていくのは彼の癖みたいなものだ。
「私はあまり気にしてないけど?マナとレイ以外は渚君って全員『君』付けなわけだし。それこそ男も女も関係なく。これが私だけだったらさすがに気にするけどね」
「ツバキがいいなら別にいいんだけど。なーんか違和感あるんだよなあ」
「ふむ。けれどツバキ君のことを呼び捨てにすると秋吉君、君が困るんじゃないかな」
「ばっ、なっな……」
「バナナ?」
「ナッツ」
「つまみ食い」
「板のり」
「リン・ミ◯メイ」
「なにそれ?まいいけど……いかの沖漬け」
「けん玉」
「丸ごとイチゴ」
「好きだよね、それ。えーと、ゴルフ」
「ふき味噌ー!」
「そ、そ……租税」
「いくらチーズ納豆」
「いやマナ、あれはよそうよ……僕、あれ見ると食欲なくすんだよね」
「えー、だってアレ美味しいのよ?いくらのぷちぷち感とチーズのもっちり感、それに納豆の風味がたまらないのにぃ」
「そうかなあ」
付き合っているわけではないが、幼なじみのセオリー通り何となくいい感じで一緒にいるだけというのも、からかわれると普通に付き合っているのよりも照れてしまう。赤くなった秋吉とツバキをにやつきながら見ているカヲル、脱線したのをいいことに唐突にしりとりを始めるシンジとマナ。ちなみにレイとは決してやらない。有耶無耶のうちに負けてしまうから。
「ちょ、ちょっと!そんなことはどーでも良くて!」
延々と続きそうな雰囲気を打破すべく、慌ててツバキが声を上げる。
慌てるあまり、普段なら決してやらない、ずびしっと指を突きつける姿がやっぱりアスカみたいだなあ、と思いつつツバキに知られると半殺しでは済まないのでシンジは口にしない。
「あ、う、だ、だから、とにかく出し物がクラスの文化祭なの!HRに先週が言ったでしょ!」
「……ツバキツバキ、日本語めちゃくちゃ」
「あ、そ、そうね。こほん。文化祭でのうちのクラスの出し物をどうするか考えてくるように、先週のHRで言ったでしょ」
「あーそうだね。そうそう。うん、ちゃんと考えてきたよ」
「え、そうなの?まあ碇君なら大丈夫かとは思ったけど」
「うわ、ツバキそれすっごく私的に失礼な気がしないでもない」
「まあまあマナ、君には僕の素晴らしいアイデア達のうち、1つをあげるよ」
「カヲルのアイデアかあ……なんか、すっごく微妙な予感がするんだけど」
マナの懸念はきっと正しい。絶対に正しい。
「別にアイデアがないならないでも構わないけど。ただ、うちのクラスってあなたたちを中心に回ってるしね。できるだけ引っ張ってってもらえると私が楽できて嬉しいのよ」
「はっきり言うね来島さんも」
それは仕方ない。世の委員長と同じように、ツバキだってやりたくてやっているわけではないのだから。三つ編みなんかしてないし、眼鏡だってかけてないわよー!と叫んだものの、担任教諭も認めざるを得ない主体性も協調性も墨北一低いと言われる2年C組にあって、委員長など各役職の決定はアミダに委ねられた。つまり、運が悪い。
そんな「行事ぃ〜?かったるいからどーでもいいじゃん」「卒業できりゃいいわよ、いくら赤点だって所詮は公立、退学なんてないって」というC組で、有名人でもあるシンジたちが何となくクラス意思の中心となるのは自然な流れとも言える。他に意見出しそうな人間もいないし、何となく彼らがやることなら乗ってもいいかな、って程度で。
「で、シンジの案って何なの」
自分が考えていないことはひとまず棚に上げておき、シンジに問う。
「ありきたりなんだけどね」
苦笑しながら口に出そうとしたシンジを、朝礼のチャイムが遮った。
「おや。仕方ないね、シンジ君の麗しき案はHRまでのお楽しみとしておこうか」
カヲルが着席を促し、秋吉やツバキ、マナもそれぞれの席に散っていった。

超絶低血圧、だがシンジ限定で絶倫、な綾波レイが目覚めたのはシンジたちが「宇津保物語」の文法に苦しんでいる最中だった。
「……碇くんがいない」
ぼんやりとした頭で靄がかかったような視界の中を確認しながら呟く。彼らの棲息地であるところの「リバーガーデン墨堤#5」は、隅田川の畔で眺望よく、日当たりは良好、アンティークな佇まいが町並みによく似合い、朝方などは階段が奏でる音で目覚まし不要、な素晴らしい環境にある。
……つまるところ、川沿いで日当たりはいいが築25年の軽量鉄骨3階建て、周辺には一戸建てしかないから眺望は良くて当たり前、階段は今時カンカンと音の煩い鉄造りで防音って何それ?なワンルームのアパートである。そこの3階4部屋を彼らで借り切り、マナとレイの部屋を挟んで両端にシンジとカヲルが住んでいる。
部屋こそ別だがそこはマナ、レイ、カヲル。
食費を浮かすためと言いながら8畳しかないシンジの部屋に集まってうだうだ過ごし、寝る時と風呂以外には自室に戻ることもない。その就寝でさえ基本的には月・金がマナ、火・木がレイと7日のうち半分以上をシンジの部屋で一緒に寝ることにしており、結果羨ま……哀れなシンジ少年のプライバシーは週1日しかない、ということになっている。

計算違いではない。
水曜日と土曜日は、3人で寝る、ということになっているというだけだ。

さて、そのリバーガーデン墨堤#5の3階南東角部屋、301号室で白皙の少女はまぶたを開いてその透き通った深紅の瞳を見せた。
「……碇くん」
彼女の意識が明瞭になるまで、3分と22秒。シンジが計った実測値の平均タイムである。
「碇くんがいない……」
表情が歪み、泣きそうになる。そんな表情ですら整っているのだから、墨北の女子生徒がやっかむのも無理はない。本人にその自覚はもちろん、ありはしないけれども。
平均覚醒時間まで残り20秒、というところで意識がはっきりしてくる。目覚めたのがシンジの部屋で、うっすらとした残り香を感じて瞬間沸騰。この、起きた後の情事の跡を感じてしまうのはいつまで経っても慣れない。
しわくちゃのシーツ、胸元の赤い跡、下半身の疼き。
ふ、と視線を向けると部屋の中央に置いてある4人分の食事を置くと乗り切らず、いつも床にまで皿を並べて食事をするローテーブルに空の器が伏せてあり、シンジの手書きで「ご飯と味噌汁、冷蔵庫の中に卵焼きとほうれん草のおひたしがあるので食べてください」、その周辺に「ちゃんと学校には来るようにね。マナ」「神聖なる儀式を邪魔はしないけど、ちょっとくらい僕にもシンジ君を貸して欲しいものだね。カヲル」と書かれたメモが乗っていた。
未だ気怠さの残るか体を気合いで起き上がらせ、ほう、とため息を着くとベッドのパイプにかけてあったバスタオルを取って、とてとてとバスルームに向かう。
彼女の朝は、冷水のシャワーで始まる。体温がもとから低いのでシンジやマナたちほど冷たいとは感じない。むしろぼんやりした意識を覚醒させるのにちょうど良い。
狭苦しいユニットバスできゅっと蛇口を捻ると吐き出される水にその白い肌を晒す。肌で弾ける水滴を見つめながら、1年ちょっと前だったろうか、ここへ来る直前だったと思うがNervのプールでなぜかセカンドチルドレンが、肌に乗った水滴が大きく弾かれているのを見て急に怒り出したことを思い出す。ゲルマン系で早熟な彼女の体は既にして絶頂期を迎えており、後はミサトのように水が弾かれずべったりと肌に吸い付くようになっていくことを彼女は敏感に感じ取っていたのだろう。だからと言って八つ当たりは勘弁して欲しいものだが。
意識がはっきりしてくると、彼女はシャワーを止め、用意しておいたバスタオルで体を軽く叩くようにしながら部屋へ戻る。バスタオルで「拭く」ことをしないのも、どうやらセカンドチルドレンには気に入らない要因であるらしい。去年、学校の水泳の授業でも八つ当たられた覚えがある。
……何だかむかついた。
赤猿のことを無理矢理意識から叩き出すと、年頃の少女にしては飾り気も色気もない、純白の下着を身につけて食事にする。碇くんのご飯は美味しい。冷めてしまっているのが残念だけれども。この部屋で高級な部類に入る電子レンジでチンしても、やっぱり作り立てには叶わない。まあ、これは起きなかった自分が悪い。
もそもそと食事を済ませ、紺のブレザーにエンジのネクタイという何の変哲もない制服を身につけながらコーヒーをいれる。時間がないからインスタント。
時間がない、と言いつつものんびりと髪の毛を自然乾燥に任せている辺り、この少女には遅刻だから急ぐという概念はすっぽりと抜け落ちているらしい。
今日もいい天気。
太陽はそろそろ宙天にさしかかろうと言う感じ。かと言って夏のあの暑さは既に遠いものとなっており、秋の風が開け放した窓からゆるやかにカーテンを揺らしている。シンジさえいなければどうでもいい学校など、こんな天気の日に走ってまでして行こうとは思わない。
が、ちょっと待って。レイは急にネクタイを締めていた手の動きを止めた。
私が行かなければ碇くんが危険。
どこからそういう発想が出てくるかはわからないが、とにかくあのサードインパクトで誓った「碇くんは私が守る」は未だ有効のようだ。彼女にとっては少年の周囲に群がるあらゆる種類の人間が敵性体であり、特に女子は排除対象でしかなかった。
そして慌てて歯を磨き戸締まりをし、大きな音を立てながらドアを開ける。
急ぐあまり鍵を閉めるのもうまくいかず、がちゃがちゃと騒音をあげてようやく成功。
ローファーをつっかけて鞄を引っ掴み、青みのかった銀の髪を揺らしながらダッシュで駅へ。同じ隅田川沿いなのに高校は次の駅。面倒くさい。
ぶちぶちと口の中で文句を言いながら、結局は走って通学する綾波さんだった。

「あ。シンジー、やっと来たよ。遅かったね、レイ」
「……問題」
「あるよ。相変らず寝起きが悪いよね、綾波は。マナのボディプレスでも起きないわ、カヲル君にヘッドバッド喰らわすわ、挙句の果てには……」
「ちょっと待って碇くん。……マナ?」
じろり、と。
「え、あは、あはは……な、なによぅ、起きないレイが悪いんだもん」
なまじ秀麗な顔立ちだけに、無表情で目を細められると怖い。それはもうもの凄く。秀麗っていうより秋冷を感じさせるね、などとカヲルがどうでもいい感想を抱いている間にもマナとレイ、2大美少女の戦いはまあまあと間に入ったシンジによって終息へ向かっていた。
ともあれ、何とかお昼には間に合ったレイを加え、シンジ、マナ、レイ、カヲル、秋吉、ツバキは購買へ。お昼ご飯はお弁当、なんてことは高校生となったシンジにできるわけもない。というか、あの夜を過ごすと朝起きるだけでいっぱいいっぱいだ。
戦闘状態に入っている購買を見ても彼らが怯むことなどない。この学校ではそれくらいのことで怯んでいては毎昼の食事になんかありつけない。早速、いつものように人海戦術で昼食の確保作戦を開始する。一台しかない自動販売機にはマナとツバキが突撃して飲み物の確保。購買前の嵐の大海には上背のある秋吉が先陣を切って、まだ売り切れていないパンの種類を確認して販売機と購買の間に立つレイに大声で伝達。その間シンジとカヲルは秋吉が作った道を通って2手に分かれつつ購買前へ進撃。サンドイッチ系とその他系に分かれる為だ。
レイはマナ、ツバキから希望するパンを聞くと急いで戻り、人の群の後方から秋吉に伝える。それを更に秋吉がシンジとカヲルに伝え、2人はほとんど怒鳴るようにして注文、釣り銭の無いように代金を叩き付けて無事にブツをゲット。
基本的には以上の流れで食事を確保する。これを実際に本日の現場で見てみると、

「行くわよ、ツバキっ!」
「了解!」
「見えるか、秋吉ー!」
「問題ないっ、いくぞ、メロ、カレ、コロ、ツマ、ミックス、ハマ、キノピにイチクリ、サンドはハムタマツナだ!」
「了解」
「カヲル君、行けるっ?」
「問題ないよ、シンジ君。それにしてもここはいつも激しいねぇ。空腹ってことさ」
「伝達きたぞー!メロ1カレ5コロ3ハマ5キノピ2イチクリ1、サンドはハム4タマ2ツナ5!碇1180、渚1210だ!」
「OK、行くよっ!」
「了解さ」
とまあ、こんな感じである。飲み物は最初から決まっているしシンジとカヲルは殆ど毎日同じだから最初から計算に入れることができる。マナとツバキから要望を聞いたレイが瞬時に計算し、シンジとカヲルそれぞれの担当金額を伝えると、秋吉が自分のを入れて注文と同時に金額を追加して伝達する。
人数が多い事をうまく使った、墨北では最強のメンバーである。……はっきり言ってどうでもいい戦いではあるのだが。
ちなみに、
メロ=メロンパン(ここのは外がさくさくで美味しい)90円
カレ=カレーパン(かなり辛いのでレイは敬遠気味、マナはだいたいこれを2個)60円
コロ=コロッケパン(日によってメンチカツ、つまりメンチに変わる)60円
ツマ=ツナマヨネーズ(ちょっと焼いたマヨネーズが絶品)70円
ミックス=ミックスピザパン(チーズが最高だが高いので余裕がある時のみ)140円
キノピ=キノコピザパン(キノコ嫌いなシンジには無理)120円
ハマ=ハムマヨネーズ(ハム2枚使用。マヨネーズを挟んでるのが人気)60円
イチクリ=イチゴクリーム(なかなか大きな苺を使っている。ツバキは必ずこれを所望)70円
今日はなかったが、
ソバ=焼きそばパン(不動の一番人気。ソバと略されると食べる気をなくすとシンジが抗議中)70円
アン=アンパン(何気に人気あり。粒あんなのが人気の秘密か)50円
などもある。
サンドイッチ系はそれぞれご想像の通り。各110円、本日売り切れのミックスサンドのみ120円也。
一人では辛い購買の昼食戦線を戦果を得て無事に生還した彼らは、そのまま教室へとんぼ返りするとシンジの机に獲物を置き、周囲の席から椅子を引き寄せて座る。中学の時のように屋上へ上がりたいという気持ちはあるが、冷静に考えてみれば屋上へ自由に出入りできる高校など普通はありやしない。それに、
「そう言えばさ、うちの高校の屋上って飛び降り自殺があったらしいね」
はむはむとパンを咥えながら。
「シンジ君、あまり昼食時に話すことではないような気がするよ?」
「カヲルって変なとこに拘るよね、私は別にいいけど。それ、私も聞いたことあるよ」
意外なことに、カヲルは怪談が苦手。どうやらLCLの海に漬かっている間、シンジに好かれるにはどうすればいいかを様々な意識から吸収した結果、「お化け屋敷できゃーと言いながら抱きつくようなホラーに弱い『女』の子がかわいがられる」というそもそも方向性を間違えた知識を植えつけてしまい、それかららしい。
「へぇ、マナもあるんだ。私は知らないわね、ユウは?」
「あー、何となく。姉貴がここに通ってた頃に聞いただけだし、それすら噂だって言ってたから本当かどうかは怪しいけどな」
「ふぅん。ね、シンジは誰から聞いたの」
「ん?ああ、管弦楽部の後輩が言ってたんだ。何でもセカンドインパクト前、20年以上も昔のことらしいけど、教師と道ならぬ恋に落ちた女子生徒が妊娠してしまって先生を困らせたくないとか何とかで飛び降りたんだって」
「とか何とか、って。ずいぶん端折ったな」
「なーんか眉唾だよね。いかにもありそうな話だし」
「確かにそうね。それくらいで自殺してたら、マナなんて何回死ななきゃならないんだか、って感じだもんね」
「またまた失礼ねツバキ。そりゃ私だってシンジに孕ませて欲しいけど、ちゃんと避妊はしてるもん」
あっけらかんと言い放つマナに、さすがのシンジもむせ返る。秋吉もツバキも、もちろん当事者の1人でもあるレイは当然、まったく動じてはいないけれども。
と、そこへ、
「昨日可愛がってもらったのは私」
会話に加わらず、もくもくと食べていたレイがこればっかりは譲れないとばかりに参加する。
「むー……今日は私がいっぱいシンジに貰うんだもん」
何を?!いったい何を?!僕が何をあげるって言うんだよ!と、わかってはいるもののここで平然と受け流すのは高校生としてと言うか人間としてどうよ、と思ったシンジが心中で突っ込みを入れる。普段の光景ではあるがやっぱりかなり焦る。
ちなみに彼らの避妊方法は通常とはだいぶ異なる。
ゴムは嫌だという彼女たちのために、放つ瞬間にシンジがATフィールドで包み込むのだ。リツコ辺りが聞いたら嘆くこと間違いなしな使用方法だろう。というか、使徒や初号機も複雑な思いに違いない。
科学的にも人類学的にも重要なATフィールドを、避妊に使う男、碇シンジ。
「で?それがどうかしたのか、碇」
脱線し始めたマナとレイを横目に秋吉が問いかける。
「いや別にだからどうって訳でもないんだけど。カレーパン見てたら何となく思い出して」
何気ないシンジの答えに、ばっと手にしたカレーパンを見るカヲル。食べかけた断面から覗く具が、どろりといい感じに「一晩ねかせました」的雰囲気を醸し出している。とても旨そうだ。というか、ここのカレーパンは熟成カレーっぽくて冗談抜きに旨い。
旨いのだ。旨いのだが。
「……あの繊細なシンジ君はどこに逝ってしまったのだろう。食べたくなくなってきたよ、想像したってことさ」
しくしくと黄昏れるカヲルに、さり気なく酷い言われようをされたシンジはおろおろ。「ごめんねカヲル君」「いいんだ、どんなに図太い神経になってもシンジ君はいつまでも僕の好きなシンジ君なのだから」「あ、ありがとうカヲル君。でもほんと、酷いこと言ってしまったね、ごめん」「気にしないでいいよ。君に傷つけられることもまた、愛のひとつのかたちなのだから」と、噛み合ってるんだか噛み合ってないんだか判断の難しい寸劇を繰り広げる2人を見ながら、意に介しない少女3人+秋吉はどことなく背徳的な匂いを感じつつ、放置して食事を進める。
この程度のことはやっぱりいつものことだから。
だから今日もまた、食事を終えたレイにカヲルが「もーほーは用済み」とエルボーを脳天に落とされるまで続くのだ。
昼休みは、はじまったばかりである。

ばんばんばん!
「はい静かにー、HR始めるわよー。ほらそこっだまらっしゃい!」
教卓を手でばしばし叩きながらツバキがHRの開始を告げる。さっさと終わらせて帰りたいのが丸見えって感じ。
「来島さんって、結構口悪いよね」
「見た目はおしとやかなのにね。レイと同じ?」
「聞かれても」
「……なぜか、とても失礼なことを言われたような気がするのは気のせい?……気のせいなの?わからないわ、私は3に」
「いやレイ、それは関係ないと思うよ、僕は。それにそろそろそれもマンネリ……あぐふわぁっ!」
言うまでもないが、シンジ、マナ、レイ、カヲルの順番である。友人である割にツバキに協力しようという感じがあまりしない。
「さー、さくっと決めちゃうわよ。事情は省略、ほら、さっさとアイデア出す」
ツバキには特別な協力は不要なのかも知れない。
「喫茶店でいいんじゃね」
「飲食関係は面倒よ。手続きとか検査とか、色々しなきゃならないみたいだし」
「お化け屋敷とか」
「映画上映にしといて流しっ放しなら楽じゃん」
「カップル喫茶」
「お前、いつの時代の人間だよ」
「ならジャズ喫茶とか?」
「ビリヤードがいいなあ。客待ちしてる間に自分たちが遊べんじゃん」
「それなら私的にはダーツかな」
てんで勝手なことを言い始める2年C組。やはり協調性は欠片も存在しないが、担任もその辺はもう諦めきっておりHRに顔を出しもしない。それでも案を出すだけマシな方だろう。
「あーもう!バラバラなこと言ってても決まらないでしょ。いいわ、じゃあ飲食系と遊び系に分けてとりあえずどっちにするか決を採っちゃいましょ」
眼鏡をかけてないし三つ編みでもないがさすがは委員長。ざっくりと方向性だけ決めてしまうことにしたようだ。このクラスの場合は大正解かも知れない。
「じゃ。まず飲食系がいい人、いるー?」
考える時間も与えず、とっとと決を採り始めたツバキを横目で見ながらマナがシンジに話しかける。
「シンジは?何か考えてきたんじゃなかったっけ」
「ああ、うん。別にいいんじゃないかな。やりたいって訳でもないしさ」
どうやら、決を採りながらツバキが言った「飲食系は検便受けなきゃいけないから、そのつもりでね」という言葉が効いたようだ。飲食系で挙手していた生徒たちが一斉に手を下ろし、検便するよりは、という何だか情けない理由でゲームなどの遊び系に決まった。
「なんだかね」
その様子を横目で眺めながらマナが呟く。
「どうしたの」
そのマナの独り言に返したのはレイ。
マナはどうだか知らないが、レイはシンジが挙手した方に票を投じると決めていたようだ。ちらちらと、ではなくじっとりねっとり、ねぶるようにシンジの一挙手一投足に注目している。
見られているシンジにしてみれば毎度のことながら落ち着かないこと限りない。こんな程度でそこまで凝視しなくても、とも思うのだがレイの好きにさせてやりたいという気持ちから、もぞもぞと居心地悪そうにしながらも我慢する。そういえば時々レイが先に目覚めた時なんかも腕枕しながらこうして見られているなあ、なんて思い出しそうになって慌ててここが学校であることを言い聞かせつつ。学校ではやばい、うん。
「うーん、面倒なのはわからないでもないけど、だからと言っていい加減に決めて更に面倒になるのはどうかと思うの」
「一理あるわ」
「でしょ。というわけでー」
がっ、とシンジの手を掴む。
「な、なにっ?!へっ……マナ?」
勃っちゃダメだ、勃っちゃダメだ、勃っちゃダメだ、と相も変わらず高校生らしからぬ呪文を口の中で唱えていたシンジがびっくりして顔を上げる。だが、その瞬間にはもう遅かった。
「はい、碇君」
ツバキの声にみんなが一斉にこちらを振り返る。
うわ。
そんな様子にどん引きなシンジ。薄っすらと浮かべた額の冷や汗を拭おうとするならまだしも舐めようとするレイを無理やり引っぺがし、
「えーと、いやあの、その……」
「そうか、シンジ君には案があるんだったね」
「そういやそんなこと言ってたよな。碇の案って結局なんだったんだ」
どんな遊びがいいかを論じていたカヲルと秋吉が揃って尋ねてくる。カヲルにとってはシンジの案以上にい案があるはずもなく、そして秋吉に至ってはツバキの負担を減らすためだけに会話に加わっていただけであり、シンジが何か具体的な案を持っているのならばそれに越したことはない。
教室中から注目を浴びてしまったシンジは仕方なく、
「あの、さ。お化け屋敷なんてどうかな、って」
何でこくれくらいのことでここまで視線を集めなきゃならないんだろう、と思いながら発言する。予想通り、教室のあちこちからは賛成とも反対ともつかないような声があがる。
「まあ何というか、ありきたりだな」
「悪くはないけどね」
「検便するよりマシって考えればまあ、それもありだなあ」
「儲けにはならないけどね」
微妙。反応がとても。
うわ、こんなことだったら突飛な意見いって賛否両論になる方がマシだよ、と少々悔やみながら言葉を続ける。
隣で碇くんの意見なら何でも素晴らしい、と言わんばかりに赤い瞳をきらきらさせているレイに、また何かつまんない少女漫画読んだね、レイ、と突っ込みを入れながら。
「お化け屋敷って言うよりホラーハウスなんだけど」
「何が違うの?」
尋ねるマナに、苦笑しながら答える。
「マヤさんの発案なんだ」
「……やめた方がよくない?」
「だから言いたくなかったんだよ」
言わせたのはマナだろ、と軽く睨む。ごめーん、と言いながらもマナは頭の片隅で「でも、それもアリかな」などと考えていた。
伊吹マヤ。かつてNervで赤木リツコ博士の片腕として、またオペレータとして白衣の影や司令塔にちらちらと存在感を残していた彼女は、使徒戦の後はNervを退官して彼らと同じように東京都へ越してきており、怪しげな企業の妖しげな研究室に勤務している。Nervの良心とも言われた彼女のこと、マッドサイエンティストではないはずだったのだが、そこは元の素質なのか敬愛していた赤木リツコ博士の影響なのか、はたまた使徒戦や機密と言った枷から外された安堵からなのかわからないが、時折見るからにヤバ気な薬を調合しては彼らに自慢しに来る。死に至るような危険性がないのは幸いだが、だからと言って安全であるという保障もない。
「何となく想像がつくねぇ」
「カヲル君は最大の被害者だもんね……」
「半分は自業自得」
「きついね、レイってば」
「事実を言ったまでよ」
「仕方ないのさ、僕がシンジ君を求める心はたとえ怪しげな薬を使ってでも、というほどに強いのだから」
「それでいっつも返り討ちされてたら意味ないんじゃないかと思うんだけど」
「マナ、返り討ちって、誰にだかわからないんだけど」
「日本人のくせに日本語が苦手」
「う……」
シンジの呟きは皆に聞こえてはいないし、たとえ聞こえていたところで彼らがマヤの危険性、もといマヤの薬の危険性を認識しているはずもないのでどちらにしても結果は変わらなかったかも知れないが、とりあえず彼ら2年C組はお化け屋敷で行く、という方向で落ち着きそうだ。
あーあ、と言わんばかりの表情を浮かべながらも、言っちゃったもんは仕方ないかという気分でそんな様子を眺めていたシンジたち4人は、それでも最後に耳に入ったツバキの言葉で揃ってため息をついた。

「じゃあC組はお化け屋敷ってことで」

秋の日はつるべ落とし。
赤く染まり始めた学校から駅へ続く道を歩きながらカヲルが言う。
「レイは今日いったい何しに学校に来たのかわからないね」
「そうだね、昼を食べに来たって感じかな」
「……物理を受けたわ」
「5現だけってことじゃない。要するにお昼食べて物理受けて文化祭用のHRに出て終わり、でしょ。6現のHRなんて発言すらしてないんだから、今日はほんとに物理だけの日だね」
シンジの言葉に反論するも、マナに指摘されて撃沈。
うう、と唸りながら上目遣いで睨むレイに、反則技だけど私には意味ないよ、と思いながら少し後ろからついてくるシンジとカヲルを振り返った。
「ね、シンジ。結局さ、お化け屋敷でどんな実験するつもりなのかな」
「実験てマナ……」
「彼女のことだから、幻想が見えるガスを充満させるとか、入場前にドリンクでも配ってその中に薬物を混入しておくとか」
苦笑するシンジに、即答するカヲル。
ついでにレイが付け加えた。
「もっと直接的な手に出る可能性もあるわ」
「直接的?どんなの?」
「拉致って注射」
「んーそこまでするかなあ……するわね、きっと。いや絶対」
4人が脳裏に浮かべたのは、マヤの幻覚剤によって普段と変わらない机と椅子が並べてある、「え?ここってお化け屋敷だよね?」と足を踏み入れた瞬間に質問を投げかけてしまいそうなほどにいつも通りな教室に、幻覚剤によって恐怖にのた打ち回るお客さんの姿。
黙って傍から見てたらこれほど間抜けな光景はない。いや、事情を知っていれば間抜けで済むが、事情を知らずにその光景を見てしまったらシュールな恐怖に打ちのめされそうだ。
「これは……ある意味でホラーハウスには違いないね」
「ね、シンジ。やっぱ今からでも止めさせた方がよくない?」
「無理だよ。来島さん、HR終わったら生徒会室に企画書提出して帰るって言ってたし」
シンジの答えに、自分が発端なだけに少しずつ罪悪感が滲み出てきたマナは、がっくりと肩を落とした。
「まあ、それとなく釘は刺しておくよ」
シンジの言葉に、
「駄目っ!」
「だめよ」
マナとレイの言葉が重なる。思わず腰が引けたシンジにカヲルがくすくすと笑いながら、
「シンジ君でないと言うことを聞いてくれないのは確かだけれどね。安全な文化祭の開催とシンジ君、さてどっちを取るか……」
「碇くんに決まっているわ」
「ごめんね、みんな」
情け容赦のないレイの言葉とマナのまったく誠意を感じられない謝罪に、シンジとカヲルは苦笑し、けれどもそれを咎めようとはしなかった。
……だって、「ならシンジかカヲルがマヤさんを止める?」と聞かれても困るし、そもそも共感するところ大だったから。
少年少女たちの信頼をすっかり失ってしまったNervの元オペレータは、今頃くしゃみでもしているのだろう。2回くらい。

空はすっかり闇色に染まり、きっとサードインパクト前はそんな時間でもネオンや街灯といった、人の息遣いと都市の喘ぎで星々など見えはしないくらいに明るかったであろう空も、今の時代では想像もできないようになってしまった。
オリオンの小三つ星までがきれいに見える夜空を眺めながら、シンジは狭いベランダでサンダルをつっかけ、そんなことを思う。
ついさっきまで繰り広げられていたいつも通りの賑やかな食卓、その後片付けを終えた4人はそれぞれが思い思いの時間を過ごしている。マナはレンタルしたDVD、どうやら例の『Children』らしいが、それを見ると言って唯一プレイヤーのあるカヲルの部屋へその主を引き連れて篭ってしまい、レイもまた見たいドラマがあるらしく自分の部屋へ戻った。本当は3人ともシンジの部屋で見たいのだろうが、オーディオ機器と言えば「音質なんてわかりゃしねぇよ」という秋吉の考えに、チェロをやっていたにも関わらず賛同しまくったシンジの選んだ、コンパクトさとシンプルな操作パネルだけが取り柄のデータプレイヤのみで、DVDプレイヤーはおろかTVすらないのでは仕方ない。それに、幾ら4人ともが一緒にいたいと共通の思いを持っていたとしても、別々に過ごす時間くらいあってもいいと思うし。
「……想像もできなかったなあ」
ちらちらと星の瞬く夜空を見上げ、呟いたシンジの脳裏には、5限の休み時間にたまたま廊下で会った(真実はどうであれ、彼は確かにそう信じている)、アスカの言葉が甦っていた。

『あれ、アスカ。久しぶりだね』
『あんたねぇ……昨日もこの時間に会ったわよ』
『そうだっけ?まあいいや。それじゃまた』
『ええ、また……って、オイっ!』
『なに?僕、忙しいんだけど』
『ふん!エースパイロット様はお人形や戦自のイカレポンチといちゃつくのにお忙しいってわけ』
『そんな言葉良く知ってるね、あまり古いビデオばっかり見ない方がいいよ。知ってる?アスカって「顔はいいけど話が破滅的に合わない」って理由で人気ナンバー1になれないんだよ?』
『……そ、そうなの?』
『うん』
『……』
『あ、あのアスカ?まあそう気を落とさないで……じゃ、じゃあ僕はこれ、ぐぇっ!』
『待ちなさいよ。まだ話は終わってないどころか始まってすらないのよ。ふ、ふん、そそそそんな程度で私が落ち込むわけな、ないでしょう』
『落ち込むっていうか、動揺してるね』
『うっさいわね!そんなことはどうでもい……良くはないけど、今はその話じゃないのよ』
『だから一体、何なのさ。さっきも言ったけど、僕も暇じゃないし休み時間は有限なんだよ?』
『わかってるわよ。だから話の腰をいちいち折るなっての。えーと、なんだっけ。……そうそう、来週の月曜、Nervから召集かかってるわよ』
『Nervから?僕だけ?』
『そ。それもファーストやフィフスにはばれないように来いって。だから直接あんたに伝えられてないのよ』
『どうしてさ』
『あんたバカぁ?一体いつ、どこで、どうやれば、Nervがあんただけにコンタクト取れるってのよ。四六時中あのアバズレどもの誰かが一緒に引っ付いてるでしょうが』
『……アバズレ、ねぇ。まあ評価を下げるのはアスカだからいいんだけど』
『何よ』
『いえいえ、何でもございませんです。でもさ、先生に伝えれば先生が僕だけを呼び出して伝えることもできるじゃないか』
『だから、誰にも知られないように、ってことよ』
『……ふぅん。何か嫌な予感がするなあ』
『予感?はっ!あんたはやっぱり図体だけデカくなってもバカね。私とあんただけが呼ばれてるのよ、そして今エヴァがないとは言ってもコアは残ってる。で、その残っているコアが』
『初号機と弐号機、なるほどね。そう言えば白人主義のどこぞの秘密結社が蠢動してるってミサトさんが言ってたね。ゼーレとは関係ないらしいけど』
『シンジにしては上出来ね。そこまで推察できてるなら、もうわかるでしょ、私とあんただけが呼ばれた理由が』
『うん』
『そ。じゃあ来週の月曜日、ファーストたちを先に帰らせて校門で待ってなさい』
『やだ』
『……は?』
『嫌だよ。僕はもうNervと関わりたくないし、それに今の話を聞く限りではアスカも行かない方がいいと思うけど?』
『なんでよ』
『わかってるんだろ、本当は』
『……』
『もしNervに行くんなら伝えておいてくれないかな。僕がマヤさんたちと接触を持っているのはあの人がNervと無関係になったからだし、ミサトさんのことを嫌がらないのもNervの話を持ち出さないからだって。この間のインタビューとかはあくまでもサービス。マナのこととかでお世話になったし、良識的に言って恩返しはしないといけないしね。だからエヴァの新造やNervと他の組織との鍔迫り合いに関われって言われてもご免だよ』
『あんた、本気になってるNervを相手にそんな子どもみたいな言い訳が通用するとでも』
『思っているし、残念ながら本気だよ。僕と綾波、それにカヲル君にマナ。この4人がNerv以上に本気になったとしたら勝てるのかどうか、冬月副司令にでも聞いてみるといいよ。ミサトさんじゃわからないだろうけど。それに、アスカは今の生活のすべてを捨てられるの?』
『……いいじゃないのよ。Nervと……私とあんたの2人っきりの生活になったって。1人じゃないんだから』
『……』
『シンジ?』
『ご免ねアスカ。アスカの言いたいこともわかってるしずいぶん前から気づいてもいた。でも、悪いけど僕は君とずっとどころか何時間も2人きりでいることすら耐えられそうにないよ』
『え……』
『同居してる頃、いや使徒戦の頃って言った方がいいのかな、あの頃アスカから受けた仕打ちを忘れられるほど大人ではないし、水に流せる程度の侘びを君やミサトさんから貰っていない。そもそも僕は君を受け入れることなんてできない』
『……』
『あ、予鈴鳴ったよ。それじゃNervやミサトさんによろしくね』

人類の危機と言われても、自分一人のことで手一杯な人間に言っても実感など湧かなかったあの頃と同じように、今の彼には4人のこの幸せな日常を守ることだけで精一杯で、それ以上のことなど考えようもない。
ましてそれがNervの利権争いならば尚のこと、かんがえられないどころか考えたくもない。例の映画のインタビューに参加したことでマナの件のお礼は十分返したつもりでいるし、だいたいアレの収入がなかったら組織抗争などにうつつを抜かせるはずもないのだ、Nervは。
だからもうこれ以上、Nervからの強制を受ける謂れはない。手伝えることは手伝ってあげたいとは思うが、彼らの狙いがわかってしまった以上、この件についてはアスカ一人に頑張ってもらおう。あれだけこっぴどく振ったのだ、学校にだって来づらいだろうし渡りに船といった感じで彼女はNervに協力するんだろうから。
恐らく冬月と加持くらいは知ってるだろう、彼らのATフィールドのことを。もちろん張子の虎、抑止力のブラフくらいにしか使えないが、あれからNervの実験に協力はしていないから彼らにも3人の使えるATフィールドがどの程度のものかなんて知られていないはずだ。だから、アスカを通してあれだけ脅しておけばそう簡単には手を出してこない。Nervから手を出してこないのなら自分たちからしかける必要はないし、そこまでするほどNervに含むところがあるわけではない。
要は共存共栄、いや相互不干渉、それがお互いにとって一番いい。アスカが協力するのであればシンジのことは諦めてくれるだろう。
「まったく。母さんも息子に余計な苦労を残さないで、さっさとコアと同化しちゃえばいいのにさ」
思わず溜息を混じらせてしまう。初号機のコアを完全生成するのにシンジが必要となるのは、結局のところ碇ユイが完全に同化していないことに起因する。ユイの自我が消滅するまで完全に同化してしまえばもはやシンジなど必要とされないのだ。
ほんとうに息子のことを考えてるのなら、さっさと消えて欲しい。
それが偽らざる彼の本音だ。接触も少なく記憶も曖昧なものでしかない母親のことなど、今の生活を棒に振ってまで想わなければならないものだとは考えていない。
そこまで考えたシンジの背後に、いつの間にか、
「そんなことを言ってはダメ」
「綾波……」
ドラマが終わったのか、レイが静かに立ってこちらを見ていた。体ごと振り返ると、赤い瞳がこちらを見つめている。その静かな瞳の中には、言葉の内容から推察できるような責める色も、普段のようにひたすらに彼を求める力も、どちらも見いだすことができず、ただ眺めているだけ、そんな感じだった。
「ドラマは終わったの、綾波」
だから彼も落ち着いて受け答えをする。
黙って頷いたレイは足音を立てずに窓際まで来ると、1人部屋なのに何故か4足揃えてあるサンダルのうち1つをつっかけるとシンジの傍らに立った。
「あなたのお母さんがいなければあなたは生まれなかった。そして初号機に取り込まれなければ私が生まれることもなかった」
以前の彼女に戻ったかのような口調。シンジのことを「あなた」と呼ぶのも久しぶりで、その口調から彼は彼女が少しばかり怒っていることをようやく悟った。
「……うん、そうだね、ごめん」
「いい。でも碇くんがいないことを想像させないで」
その言葉に柔らかく微笑むと、彼はレイの頭をゆっくりと撫でて返事の代わりとした。彼女もシンジのなすがままに身を預けている。
月がきれいな夜。川面を渡ってくる微風が心地よく、そのままレイの頭を撫で続けていたシンジはふ、と思い出したように口を開いた。
「ねぇ、綾波。前に……いつだったか戦闘終了後に3人で寝転がって星空を見てたこと、あったよね」
3人というのに弐号機パイロットが含まれているのは当然のことで、レイはゆっくりと顔をあげると多少不満げな表情を浮かべた。そこに浮かんだ意味を意訳すれば「こうして私と2人でいるのに他の女のことを考えるなんて……どうしてそんなことするの」あたりだろうか。
だがシンジはわかっていながらも構わず続けた。
「あの時の僕たちは幸せだったのかな」
「あの時?」
「うん。あの頃って言ってしまうと、幸せだったとは思えないような気がしたから。何だかわからないうちにパイロットにされるわ、綾波には平手打ちされるわ、アスカやミサトさんには家政婦みたいな真似をさせられるわで散々だったからね」
「……ごめんなさい」
「ああいや、別に気にしてるわけじゃないよ。そう、うん、思い出したんだ。あの後綾波が言ったこと」
レイはきょとんとした顔でシンジを見上げ、そして考え込む。
「何を」
シンジは苦笑を漏らし、
「そっか、綾波はあの時2人目だったもんね、はっきり覚えてなくても仕方ないか」
そう言うと彼は思い浮かべるように目を細め、視線を上空に投げた。
「あのまま草原でアスカが寝てしまって……綾波がこう呟いたんだ。『闇を削ることは不明を減少させること。それでも人には永遠は訪れない』って。独り言だと思ったし、その時は何のことだかわからなかった。でも」
レイは黙ってシンジを見つめている。けれどもその赤い瞳はその時のことを思い出し、いや急に蘇っただけなのかも知れないが、2人目の自分が言ったこと、その前の彼らの会話の内容からそれがシンジの疑問に対する回答であることを確信しているように見えた。
「最後の使徒戦だと今なら言えるんだけど戦略自衛隊との戦いの最中に突然わかったんだ。ああ、あれは綾波が僕にくれた回答だったんだって。僕の言った、『だから使徒は攻めてくるのかな』に対する綾波のくれた答え。闇を削り不明を消失させていくこと、つまり知恵の実を得るもしくは得た人が永遠を生きられない。後で調べたんだけど、創世記第三章だよね」
「ええ。『見よ、人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るものとなった。彼は手を伸べ、次は命の木からも取って食べ、永久に生きるかも知れない』」
レイは完全に思い出していた。その時の自分が何を思い、何を、なぜ言ったのか。そしてそれは彼女にとって自分ではない自分が、そして恐らくは彼に会ったことすらない原初の自分すらも彼のために生まれ、彼のために生きていたことを確信させるものであり、その確信は彼女を満足させるものだった。
「永久に生きることは今の人には許されていない。知恵の実を持つ人が生命の実を持つ使徒を倒すことは神の思し召しではない。だから」
「だから綾波は僕にそのことを教えたかった。第壱拾七使徒まで君が動かなかったのは、最後の使徒を倒すまでは人に猶予が与えられていたから。生命の実をもぎ取るその直前までならば、神の怒りは発現されることはないということを、綾波は知っていたから」
「最後の戦い、第壱拾八使徒たる人、その先兵となる戦略自衛隊とゼーレのエヴァ、彼らとの戦いに勝たなければ人類に生命の実が与えられることはない。そう、勝たなければ神の怒りの具現者である碇、神の児たるシンジという2つの名を冠したあなたの怒りを買うことはない」
「それに気づいた僕は、ゼーレのエヴァを撃破するのではなく初号機に取り込んだ。綾波の零号機との融合もあったから一瞬のサードインパクトは起こったけれど、これで初号機が人の手で倒されなければ使徒を全滅することにならない」
そこまで言ってシンジは言葉を切った。視線をレイに戻すと、
「……全部、君のシナリオ通りなのかな」
微笑を含みながら言う。それを向けられたレイは、ちょっとだけ困ったような表情を浮かべてシンジに返す。
「シナリオ通りよ」
「もしも僕がそのことに気づかず、そうだなあ……相変わらず戦いから逃げ出してどこぞの隅っこで膝を抱えたまま震えてたりしたら、どうなってたの?」
「無理矢理初号機に乗せられてゼーレのエヴァを撃滅、知恵の実と生命の実の融合を行う儀式に参加させられていたわ」
あっさりと返すレイに、シンジとしては苦笑を返すしかない。それがどんな儀式なのか想像できないし、したくもないけれども、少なくともロクなものではないことくらいはわかったから。
「だから思ったんだ。何も知らなかったあの時の方が、すべてを知った今よりも幸せだったのかどうかって。もちろんその後に来る苦しみのことを考えるとあれなんだけど、あの一瞬だけだったらどうなんだろう、って」
そんなシンジに、レイはこれもまた明快に言い切った。
「幸せを比較することに意味はないわ」
「ふふ、うん、そうだね」
彼女の回答を予感していたのだろう、シンジも笑って頷くとそれ以上話題を進めることをしなかった。
その代わり、話題を転じた。
「ね、綾波。あそこ……結構明るい連星が見えるかな」
「?どこ」
「えっとね」
シンジはレイの後ろに周り込むと、後ろから多いかぶさるような格好で背後から腕を伸ばし、顔をレイの顔に出来る限り近づけると中空の一点を指差した。もちろん、レイが赤くなっていることには気づきもしない。
「ほら、あそこ。この指の先あたり。わかるかな」
「……ええ、わかった」
見つけたことに満足してシンジは体を離し、先ほどと同じようにレイの隣に立って夜空を見上げる。レイの方は不満そうだったが……どうやらいくら体を重ねても、こういったコミュニケーションはそれはそれで嬉しいもののようだ。秋吉が見ていたら『初々しいねぇ』とにやけた表情で言ったことだろう。
「ちょっと暗いけれど、あの星って何だかわかるかな」
「……あの位置は、くじら座?」
「正解。よく知ってるね。正確にはβ星のデネブ・カイトスだよ」
どちらかというとシンジがここまで詳しいことの方が不思議である。サードインパクトを超えたからと言って超人的な知識が自然と彼に流れ込むなどという便利な設定は存在しないし、それを裏付けるかのように彼の成績は至って平凡、まあ、それよりも上ではあるけれども。テスト前には他のクラスメイトと同様、憂鬱そうな顔になるのは毎度のことだ。それに、確か彼に星座を見る趣味はなかったはず。
そのことをレイが指摘すると笑いながら、
「うん。有名な星以外で知ってるのはこの星だけなんだ」
とはにかむように答えた。いちおうはレイの知るシンジとの整合が図れたものの、問題はなぜシンジがこの星だけをここまで詳しく知っているか、だ。
「それは綾波の方がわかるんじゃないかな。前、使徒戦の頃だけど星に関する本も読んでたじゃない」
そう言われてレイは記録の中から星に関する知識を引っぱり出す。シンジやカヲル、マナと違って初めから知識だけは膨大に持っていた彼女のこと、答えはすぐに見つかった。
「くじら座の連星はルイテン726-8」
「そう、だからβのデネブ・カイトスがあそこまで明るい連星であることはおかしい」
その言葉にはっとしてシンジの顔を見る。彼は悪戯が成功した童子のような表情を浮かべていた。
「初号機のコアは偽物だよ」
「……どういう」
「ことか、だよね。Nervで復元に躍起になっているのは偽物。そこに母さんがインストールされていることは事実だけど、それは僕が最後の最後で初号機と零号機、それにゼーレのエヴァやアダムなどを融合させた初号機のコアと母さんの魂を分離させた結果だよ」
「なら、本物の初号機のコアは……あっ」
「そう、デネブ・カイトスと連星になってる。もちろん天文学会は気づかないだろうね、あれは僕たち3人、使徒の魂の欠片を残している僕と綾波、それにカヲル君にしか見えないから」
「なら、碇くんはあの時、神になっていたのね」
「……あれが神の力なのかなあ。コアを分離してあそこまで跳ばしたら、それでもう何の力もなくなっちゃったけど。そうか、神の力って意外としょぼいんだね」
不遜なことを言っているようだが、実際に神の力などを経験していないレイには「そんなものなのだろうか」と思うしかなかった。
「デネブ・カイトスは96光年。とても人類が辿り着ける距離じゃないよね。だから本当のところは僕は初号機の復元なんてどうでもいいんだよ。対岸の火事程度にしか思っていないし、別にそれに協力しても構わない。出来上がるのはダミーですらない、母さんの魂しか入っていない偽物のエヴァンゲリオン初号機だから」
「なら協力するの?」
「しないよ。何となく面白いじゃない。それに、Nervには何か夢中になれるものを与えておかないと妙な気を起こされたら困るからね。初号機復元にかけている間はインパクトだの何だのと余計なことを考える余裕もないでしょ」
シンジの笑いはさっきよりも悪戯っぽかった。
それを見ながらレイは、「碇くんはずいぶん意地悪になった」と思ったが口には出さなかった。そんな程度の意地悪は彼らにしてみれば保険にも楽しい遊び程度にも考えられるものだったし、シンジの言うことにも一理あったから。Nervにしても、「絶対に無理」と言われるよりも、少しでも可能性が残されている方がいいだろう。
彼らは並んで星を眺める。
その表情にはかすかに笑みが浮かんでいた。

そしてまたいつもの朝が始まる。

「レーイー!早く起きないと朝ご飯なくなっちゃうよー」
「だめだよマナ、そんな程度でレイは起きやしないさ。さて、僕が……ぐほぁっ!」
「相変わらずだねカヲル君も。そんな位置にいたらヘッドバッド喰らうってわかってるのに」
「カヲルはMね、間違いなく」
「ううう……しくしく」
「ほーらー、レイ!さっさと起きる!」
「まあ、綾波を起こすのは任せるねマナ。僕は朝ご飯の準備しちゃうから」

幸せな、こんな日が。

《あとがき》
今後もLRMSかLRS、もしくはLMSしか書かないような気がしますですよ……。
長い割りに内容が単なる彼らの一日、しかも特別な出来事はなしという、これ以上ないくらいに退屈なSSですが、それでもLRMSがイイ!という人はどうぞ。
て、これ「あとがき」じゃなくて「はじめに」とかの方がいいんじゃ……ま、いっか。

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