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—次は、河原町、河原町。因美線はお乗り換えです—
乗り換えと言ってもだいぶ歩かなきゃならないんだから、このアナウンスって詐欺だよね。そう思いながら降りる準備をする。
鳥取駅から千代川沿いに走る縦断リニア線で15分。高校に入学してから何度か来たことがあるけれど、こんなところにニュータウンが出来るとは思ってもみなかった。車窓から眺めた限りでは急激に発展したという雰囲気はなかったけれど、鳥取駅まで近いから生活はまあ何とかなりそうだ。それはつまり、高校まで近いということでもあるし。
川を見下ろしながら走っていたリニアが静かに停止し、ホームに降り立つ。
風が気持ちいい。今まで住んでいたアパートは市内だったから、ここまで爽やかな感じじゃなかった。これはちょっといいかも知れない。
ホームから見渡すと、因美線と反対の方に田園が広がり、その向こうに立ち並ぶ家々の屋根が太陽を反射している。徒歩で5、6分というところだろう。広告に偽りはなし、と。
先に来て見ているって話だったから、迎えには来ていないかな。
きょろきょろと周囲を見回すけれど人影はない。まあ、目で見なくても彼らの騒がしさはきっと降りた瞬間に耳に入るはずなんだけど。
今頃はモデルルームで部屋決めとかしてるのかも知れない。
高校生だけの集団にきっと、販売会社の人たちも困惑しているだろうな、と思うとちょっとおかしくなった。
「さて、と」
きっとここから新しい生活が始まることになる。
それはとても楽しい日々なんだろうな、そんな気がして改札へ向かう僕の足は自然と軽くなっていた。

neon genesis evangelion - 幸せな日常

彼女と初めて会ったのは、第3新東京市で僕が中学生をやっていた時だ。
やっていた時、というのはどうにもその頃の僕には中学生であるという実感が湧かなかったから。それも当たり前だろう、Nervとかいう怪しげな組織でエヴァンゲリオンとかいう更に怪しげな、しかも人造人間というもはや「ハア?何それ」的ロボットのパイロットをさせられ、学校生活を楽しむどころかサードインパクト阻止のためという大義名分のためにほとんど徴兵された生活を送っていたのだから。
ただし、だからと言って学校にまったく通わなかったわけではない。
保護者だった葛城三佐が、彼女自身のカタルシスのために徴兵した僕を半ば強引にさっき言った「第3新東京市立第壱中学校」に通わせていたのだ。そこで当時2年生だった僕はA組に編入され、面白くも何ともない中学生活を送らされていた。平穏を好む僕にとって、学年でも有名だったらしいA組の喧しさは苦痛でしかなく、毎日が「喧騒」の2文字だけで表現できてしまうその学校生活で、僕が垂れ流す言葉と言えば「うん」「いいや」だけだったような気がしないでもない。ただ、そんな中学校でもそれは確実に現実であり、僕にとっては面白くもないが捨ててしまえるほど価値のないものというわけでもなかった。
つまり、そう、ロボットなんて馬鹿げた非現実よりは幾らかマシだというレベルで。

そんな中学校という現実、そしてNervという非現実的の間でだらだらと生きていた僕の前に、突然現れたのが彼女だった。
突然現れた、と言ったがこれは比喩ではない。いつものようにいぎたなく眠りこける葛城三佐を叩き起こし、どうして被保護者たる僕がしなければならないのか理不尽さに憤りつつも朝食を食べさせて出かけた学校で、僕はいつものように朝のHRをぼんやりと窓の外を眺めつつ過ごしていた。

『碇シンジ君ね』
そんな声が頭上が降ってきたので、何事かと思って視線をあげた先に彼女はいた。
いつの間にやらHRが終わったらしく、いつも以上にざわざわと落ち着かない教室で僕がその顔を見た瞬間に最初に浮かんだのは「誰だこいつ」だったことも彼女には伝えていない。いやだって、怖いから。
とにかく、編入されてから1ヶ月、未だクラスメイトの名前すらまったく覚えていなかった僕であるからして、それが転校生だなんてわかるはずもなかったのだ。だいいち、覚えたところでその記憶の使い道がない。僕から声をかけることなんてなかったし、エヴァの何たらテストとか戦闘訓練などで休みがちだった自分が、このクラスの中で「ともだち」だの「仲間」だのというコロニーに入ったところで継続できないことはわかりきっていたから。
それはクラスメイトたちも同じように考えたらしく。もしくはひょっとしたら僕があまりにも近寄らないでくれオーラを振りまいていたのかも知れないけれど、彼らもまた僕に積極的に関わろうとはしなかった。
ところが彼女は違った。
『私、霧島マナは本日6時に起きて、シンジ君のために征服しにきました!』
おいおい、ヤバいよこの人。誰か助けてあげようよ。
っていうか征服しに、って制服を着て、じゃないのかよ。
と、あまりの事態に呆然としながらも心の中ではしっかり突っ込んでおいた自分を褒めてあげたいとは思ったけれど、そんなものは目前のこの問題の解決にはならず、当然のことながら誰も助けてはくれなかった。というか完全に遠くで取り巻いて関わりたくない雰囲気バリバリだった。世の中って世知辛い。自業自得なんだけど。

彼女の攻撃はその後の授業中にまで及び、
『シンジ君って呼んでいいよね』
いやもう呼んでしまってから言われても。つーかそれ許可求めてないから。
『私のこともマナって呼ぶと私が喜ぶよ』
誰も頼んでないし、君が喜ぶのかよ。
『ねぇシンジ、教科書見せて』
もう呼び捨てですか。
『シンジってさ、可愛いよね』
いやもう何がなにやら。ていうか霧島さん、授業中なんですけど。あまりにもあんまりな言動にさり気なく、いやこれは僕的にはさり気なかっただけなんだけど注意するも、どうやら向こうの世界の住人には効果はないようで。
彼女の攻撃はそれからも一向に止む気配を見せなかった。

僕は日常にあまり興味がなかった。
こう言うと、非日常になら興味があるのかと言われそうだが、正直な話、非日常というのがどんなものなんだか僕にはよくわからない。学校ではマナ——結局僕は彼女のことをこう呼ばされていたのだが——の何かしらの電波を受信したっぽい言動に振り回され、Nervではエヴァというどうにも生々しいロボットに乗せられる。家に帰ったら帰ったでマナ以上に頭がおかしいとしか思われないヒステリックウーリーモンキーと家事のできない駄目保護者にこきつかわれ、時折できる時間の隙間にベランダで星を眺めながら「空はどうして広いんだろう」と、哲学的で投げ遣りな思想に耽ることしかできない生活の中で、いったい日常というのがどれを指すのか教えてほしいくらいだった。偉い人に聞いて「すべてが君の日常だ」とか言われたらその場でちゃぶ台を引っ繰り返しそうだし、精神衛生上よくないから聞かないことにしていたけれども。
だから学校生活とNervとを現実と非現実だと分類することはできていたけれど、それらの中から日常というものを抽出する作業だけはできなかった。
そんな僕が興味を持っていたとすれば、何もない平穏な日々にこそだろう。朝起きて用意されている朝食を摂り、アイロンがけされたシャツを着て登校し、休み時間に一言二言話す程度の学校生活を送って授業が終われば真っ直ぐに帰る。そう、真っ直ぐにだ。数少ない趣味(といえるかどうかはわからない。趣味だと思い込んでいただけの可能性も捨てきれないから)であったチェロをやるために管弦楽部に入るくらいならいい。けれど、帰りに財布の中身を気にしながらタイムサービスを狙ったりスタンプを集めたりシールを貰ったりする放課後では、断じてない。
そう、僕はただ、幾分普通の中学生よりは大人しく静かな中学校生活を送りたいだけだったのだ。
実際、先生の家での生活ではそうだった。
身の回りのことは自分でやらなければならなかったけれど、飽くまでもそれは自分1人のものだけであって、スケスケレースやら紐やら、あるいは中学生にしては派手な女性用下着を洗濯させられたり中学生なのにビールをカートン買いしなければならなかったり、風呂の温度を日によって微妙に調節させられたりということはなかったのだ、決して。
中学校は土地柄や生徒が少なかったということもあって静かな田舎の中学校という感じであったし、町全体が静穏な緑に囲まれた温もりのある土地で、この第3新東京市のように近代的で便利だが煩くて無機質な町ではなかった。
大騒動が起こるわけでもなく、かと言って毎日がルーチンのまま過ごすわけでもないぬるま湯のような平穏さ。そんなゆるい生活で十分に満足していたはずだったのに、珍しく湧いてしまった好奇心のせいでこんな喧騒の日々を過ごすことになるとは思ってもみなかった。

この第3新東京市に足を運ぶことになったきっかけは、一通の封書。
入っていたのは裏紙程度のメモ、一枚の趣味の悪い赤いカード、それから見知らぬ女性の写真だけ。
しかもそれぞれが別の人間によって用意されたものらしく、差出人には「Nerv」としか書かれていなかった上に、それぞれに書かれていた内容がめちゃくちゃだった。曰く、メモ用紙には「来い。ゲンドウ」、写真には「私が行くから待っててネ(↓ここに注目)」。それらを目にした僕が呆然としながら「なんだこれ」と呟いてしまったのは、正常な反応なんじゃないかと思う。
我に返って最初に脳裏を過ぎったのはまず、悪戯の可能性。Nervなんていかにも悪戯っぽい名前だし「ゲンドウ」も写真の女も記憶になかったから。それでも何度か読み返して、炙り出しの可能性も考えて色々な手段を講じた挙句に思い出したのは、ゲンドウというのがもう何年も前に僕を捨てた父親の名前であるということだけだった。
しかし、しかしだ。
一体全体、この女性は何だろう。それに赤いカードに貼られた写真は忘れもしない、というか毎日見ているから忘れようがない僕の顔写真だ。しかもつい最近、学生証を失くしてしまって近所の写真屋でサヨナラしていく今月分の小遣いに胸を痛めながら撮ったものだ。予備を含めて3枚受け取り、学校に提出したのは一枚だけだったから手元に2枚残っているはず、そう思って机の引き出しをあけて中を確認してみたら確かにそこには2枚の写真が残っていた。ということは、考えられるのは写真屋がどこぞの誰かにネガか何かを渡した、ということだけなのだが、面倒だったので確認する気にはなれず、その3枚を見ながら僕は自室の机に肩肘ついてぼんやりとしていた。
『だいたい、来いって何だよ。差出人の住所もないのに何処に行けって言うんだ』
ひらひらと封書を振りながら思わず口をついて出てしまった言葉と同時に、封書の中からひらりと落ちた長方形の紙が1枚。
何だ、と思って見てみたらお約束のように第3新東京市行きのリニア特急券、しかもグリーン券だった。
『ふぅん……』
中学生がグリーン席でどこかに行けることなんて、まずない。今年の春にあった修学旅行も、管弦楽部の先輩に聞いたらリニアの普通席でずいぶんと窮屈な思いをしたようだし。幸い、学校も部活も厳しくなく、特にいくら覚えがないとは言っても父親から呼ばれたということであれば2,3日の休みは許してもらえるだろう。記憶にない父親の顔を見てみるだけでもいいかも知れないし。そう思った僕の手は、既に携帯を握っていた。その後に続く激しい後悔をその時はまだ、知らずに。

それからのことはあまり思い出したくもない、というのが本音だ。
グリーン席の快適さに目を細めつつまどろみの中にいた僕は、第3新東京市湯元駅に放り出された。
その後はもう、喜劇だ。
仕方なく先生に連絡だけでもしておこうと思って携帯でかけたら変なアナウンスで「電話の使用ができません」。
何のことやら、と思いつつ公衆電話でかけてみれば呼び出し音だけで一向に繋がる気配もない。
繋がる気配どころか、気がついたら人の気配すらない。
振り返って周囲を見回そうと思った僕の目に、見たこともない少女の姿が飛び込んで一瞬で消える。
ますます訳がわからなくなってぼんやりしていたら頭上から爆音。
慌てて見上げたらそこにいたのは……今なら使徒だとわかるけれど、とにかく醜悪な怪獣。
そいつが叩き落したVTOL機が向かってきて、もう駄目だと思った瞬間に目の前に止まった青いルノーからあの写真の女、葛城(当時)一尉が何をトチ狂ったか黒いスリットの深い、よく言えばとんでもない、悪く言えばキッツイ服装で僕を車内に引きずり込んだ。
……その後のドライブのことはさすがに思い出したくない。
とにかくNervに着いて、金髪白衣のおば……お姉さんに着いて来いって言われたもんだから、もう何もかも面倒になって黙って着いて行ったら赤いプール、LCLで満たされたケイジへ連れて行かれ、そこでエヴァとご対面。
真っ暗な中を歩かされたから、明かりがついた瞬間にはエヴァ初号機のまん前で。紫色の壁しか見えなかったから「何です、この壁」って言ったらもっと離れて見なさいって怒ってたけど、だいたい何で明かりを消しているのさ。周囲で整備の人たちが仕事してたじゃん。どう考えても僕のせいじゃないよなあ、と思って何となくむかつきつつその場に立っていたら勝手に説明を始めてくれちゃって。
『ロボットじゃないわ、人型最終決戦兵器、人造人間エヴァンゲリオンその初号機よ』
っていや、僕まだ何も言ってないし。つーか見てもいないしさ。
このままこの人たちにどんどん進められちゃっても困るから、仕方なくちょっと離れて見上げてみれば紫色した変な顔。
『うっわぁ……すごい色ですね』
正直な感想述べたらパツキンな白衣の人にむかつかれちゃったし。それで、そうかこの人が色を決めたんだと思って、金髪なのに眉毛黒いしと何となく納得。思わず態度に出てうんうん頷いていたためかぴきぴきと井桁マーク出しながら、あっさりと「シンジ君、あなたがこれに乗るのよ」っておい大丈夫かこの人。その後はもう……何ていうか喜劇の方がまだマシなんじゃないかと思うくらいの大騒ぎ。
葛城三……一尉がぎゃあぎゃあ喚いていつの間にか上のガラス窓の向こうに髭生やしてグラサンかけたおっさんが何か言ってて、よく聞き取れないうちにあれよあれよという間に筒、エントリープラグに押し込められて水責め、いや水攻め。一体僕は何しに来たんだっけ、とあまりな展開に忘れていたことを思い出そうとして、「あの、父さんとまだ会ってませんが」って言ったら通信モニタの向こうで童顔の女性が苦笑い。「さっきケイジで会ったわよ」って、え、そんなこと言われても。
とにかくもう完全に諦めの境地で、言われた通りにしてさっさと終わらせて帰ろうと思っていた僕。
……まさか本当に戦場に出されるとは思ってもみなかったよ。
予想外のことだったし、あまりにも現実離れしているからまだ余裕があったみたい。ぼけっとしていたらやられまくり。酷いよね、フィードバックのことくらい、最初に教えといてよ。おかげであっと言う間に気絶しちゃって、次に気がついた時にはベッドで引っくり返って天井眺めてたし。
別にどこも痛くなかったのであれはもしかして夢なのかとも思ったけれど、病室を出て綾波に会って、葛城一尉から今後の僕の処遇やら何やら様々なことを聞いたらそんな期待はあっと言う間に消え去ってしまった。

とりあえずもう先生の所には帰れないみたいだったし、一応は給料もちゃんとくれるようだったからもうどうしようもないと悟ってパイロットになることはOKしたんだけど、どうして葛城一尉と同居しなければならないのかだけは納得がいかなかった。まあ、こうして一緒に暮らしてしまっているわけだから、結局のところ僕が粘り切れなかったってことなんだけど。
そしてあれから何体も使徒はやってきて。
痛くて、怖くて、どうして僕がこんな目に会わなきゃならないのさ、っているのかどうかもわからない神様を呪ってみたりもしたものの、環境や情況は何ひとつ変わることなくこうして現在に至っている。いや、どちらかと言うと悪化した。
葛城三佐一人でも大変だって言うのに、自信過剰・天上天下唯我独尊なセカンドチルドレンまで同居なんて、一体何を考えてるのやら。葛城三佐はまだしも大人の分別が多少なりともあるみたいだけど、セカンドはもう駄目だ。自分が子供だということを理解していない子供は手に負えない。無知の知でなくって知の無知、いや無知の無知なのかなと思うけれど、何であろうととにかくどうしようもないことだけははっきりとわかった。
太平洋艦隊で会った時から嫌な予感はしていた。これで僕も解任して貰えるかという期待は煮立った練乳よりも甘かった、というのは非常に残念だったけれど、パイロットとしては彼女の方が先任者だしそれだけ戦闘訓練なんかも長くやっているはず、それならばエリートとして僕の負担を下げてもらいたい。そう思ったからこそ下手に出ていた。それなのに、ああそれなのに。
性格破綻者の方がよっぽどマシだよ。比べるのはそれだけで悪い気もするけど、まだ綾波と話している方が穏やかでいられる分だけいい。……まあ、それほど会話したこともないんだけどね。

とにかく。
こうして益々僕の生活は非現実と非日常だけで満たされていくことになり、次第に麻痺していく心が自分でわかるような気がした。
使徒とアダムの接触によるサードインパクトによって、人類が滅ぶのが早いか、それとも僕の精神がNervや同居人たちによって破壊されるのが早いか、どっちかの問題でしかない。それならさっさと壊れてしまいたいと思ったんだけど、どうしてだか僕って環境に適応しちゃうというか環境を受け流しちゃうんだよね。はあ……。

朝ごはん作ったり洗濯したり掃除したり洗物したりお風呂沸かしたり。
お弁当作ったり荷物持ちさせられたり罵倒されたり叱られたり。
その合間に、使徒と戦ったり何となく綾波と無言で向かい合って待機してたり。
こんな生活が日常になったら嫌だな、と思いつつも僕の体は意志とは無関係にしっかりと環境に適応して動いており、見た目は大きな問題もなく時間は流れていく。
何の変哲もない日々。強制されたり強要されたり、僕の周りには僕自身の意思で動いている事柄は多くはなかったけれど、マナと過ごす時間だけは少し違う気がしてきていた。
最初は「絶対こいつ電波入ってる」と思ったりもしたけれど、それにつき合わされているうちに彼女のそれが表層的というか……無理をしているな、と感じるようになり、気がつくと目で彼女を追っている自分がいて。好きだとかそういう気持ちは正直言ってよくわからない。誰の目にも止まらぬよう、誰のことも自分の中に浸透させないように生きてきたせいで、他人の気持ちどころか自分の気持ちさえよくわからないようになっていたから。だからクラスメイトに彼女とのことを冷やかされて慌てたりもしたけれど、それは半分演技だな、と自分でも気がついていた。
そう、知識だけでこういう場合は赤くなって否定するものだ、と知っていたからそうしただけ。つまり僕はそばにいると穏やかだけれど積極的に関わりたくないな、と思っていた綾波と何も変わらない。だから彼女がどうしてああなのかわかる。恐らく彼女も知識としては人間関係や感情というものを理解しており、やってみろと言われれば人なみの感情を示して「見せたり」できるはずだ。それが証拠に、つい熱くなってしまった第伍使徒ラミエル戦の後での彼女との遣り取りで「どういう顔をすればいいのかわからない」と言っていた。「笑えばいい」と言った僕に微笑んでみせた。あれは「微笑む」行為をどんな状況で使えばいいのかわからなかっただけ、そういうことだ。そして、今でもちょっとだけむかつくんだけど、Nervの長いエスカレーターで父親を信じられないと言った僕に加えてくれやがった……ん、と感情的になるのはよくないかな。あれだって怒っていたわけで、いったいぜんたい綾波が感情を持っていないと嘘をついたのは誰なのか。……って、ああ、リツコさんだ。
どうしてリツコさんがそんなことを言ったのか、その時の状況や会話のきっかけなんかはよく覚えてないけれど確か葛城三佐の家でカレーを食べていたんだと思う。いやいいんだ、そんな気がするってだけで。思い出したくないんだから細かい状況説明は勘弁してよ。

話が逸れてしまった。
とにかくマナがどうしてだか理由は知らないけれど仮面を被っていることを確信してしまった時点で、僕はもうマナに捕われてしまったのだと思う。
うっすらと靄がかかったように流れていく周囲の風景と時間。その中にあって自分を当事者と認めない妙な感覚で生きてきたのに、彼女といる時間だけそれらははっきりと明るく周囲を見せてくれていたのだから。彼女といる時間を得難いものだと思い、彼女のことをもっと知りたい、どうして無理をしているのか教えて欲しいという欲求を抱えながらも聞き出すことのできない臆病さに苛立つようになったのだから。
無理矢理約束させられて連れ出された芦ノ湖。
彼女は初めてのデートだと無邪気に喜んでいたけれど、彼女のことが気になりだし始めていた僕としてはそんな余裕なんてなくて。ただマナの言うがままに動いてろくすっぽ思い出らしい思い出を作らないままに終わってしまった。
ねだられるままに一緒に行くことになった美術館も。
絵に造詣なんてない僕には何がなにやらさっぱりだったけれど、マナには楽しい時間だったみたいで、そんなマナを見ているだけで自然と心が軽くなったことに慌てて「これは違うんだ、エヴァの訓練とかで荒んだ中学生活が芸術によって潤わされているんだ」なんて、強引に自分を納得させてみたり。
学校での、移動教室で手を引っ張られた時に感じた暖かさとか、2人だけになった放課後の教室で気まずくなってしまった僕の顔を覗き込んだマナの顔がとても可愛らしかったこととか、小さなことまで数え上げたらきりがないほど、僕はマナとの時間を重ねてしまった。深入りをするつもりはなかったのに、気づいたらもう引き返せないほどに彼女の時間の中に僕は埋まっていたのだ。
そして僕は悟った。ああ、これはもうダメだ、と。
そして多分、僕はマナが好きなんだな、ということも。
出会いは最悪だった(と思う)。電波系だなんて、はっきり言って僕の趣味じゃない。同じ電波系なら綾波のような低周波タイプの方がよっぽどマシだ。どうして低周波なのかはよくわからないけれど、とにかくそうだ。だから本当ならマナのやってきたことって印象を悪くするだけなのに……ほんと、ずるいと思うよ。
そう、そのままだったら絶対に僕はマナと距離を取ろうと努力したと思う。綾波とは用がない限り接触しないようにしているのと同じように、そして葛城三佐や赤木博士、伊吹二尉が「名前で呼んでいい」と言っているにも関わらず葛城さん、赤木博士、伊吹さんと呼んでいるのと同じように。あ、いやまあ……赤木博士のは単に綾波の言い方が移っただけで他意はそれほどないんだけど。
マナだけは違った。誰だって仮面を被っている。二重人格でない人間なんていない。人によっては多重人格、言ってみればステレオ音声多重人格?くらいの人だっているだろう。明確に人格が2つ以上存在することを言っている訳ではなくて、ただ周囲に合わせてその場の自分という存在と意味を微妙にずらしながら生きているという点では、全人類がそうだと言っても過言ではないと思う。
そうではない、と言い切れるのは数少ないながらも僕の知っている人たちの中で言うと、綾波だけなんじゃないだろうか。そしてその正反対にセカンドがいる。そして僕は綾波にもセカンドにも近くて、それでいて遠い。自分のことを正確に理解できているわけではないけれど、加持さんの前でのセカンドと家でのセカンド、学校でのセカンドの違いほど激しくなくても人によって対応を大幅に変えている点では僕とセカンドは一緒だ。その表現が小さいか大きいかの違いでしかない。そして、そのことを一度でも接したことのある人であれば見抜けてしまうほどに子供っぽい対応だという点でセカンドと僕は大きく異なる。逆に綾波は誰に対しても同じような対応をする点で僕と異なるけれども、根底にある最初の基準が「自分と他人」というあまりにも大きなカテゴライズであるということと、その本質を本人もまるで理解していなければ理解しようともしていないという点で僕と似ていると思う。
マナは。
マナはそのいづれでもない。彼女の仮面は最初から剥がれることを前提にしているような気がする。普通、誰もが自分のつけている仮面を剥がされることを恐れ、それは他人との関係の変化に恐怖することと同じなわけだけれども、少しでも欠けたらそこを修繕し、取り繕い、掛け直し、新しいものに掛け替える。剥がされることを前提にすることは相手との駆け引きの中であるだろうけれども(それはよく葛城三佐が使っている。本人が意識してやっているかどうかは別だが)、剥がれることを前提にしている場合というのは滅多にない。
誰かによって、あるいは何かによってというのならば尚更だ。そしてマナはそのことを確定事項として考えている節もある。
だから僕にはよくわからない。
彼女が何を考え、どうしたいのか。そして彼女はいったい、何に怯えているのか。
そう、はっきり言ってその時には完全にマナに惹かれていた。それは確かであるにも関わらず、呆れたことに僕はまだそのことを否定しようと躍起になっていた。
彼女の力になりたい。
生まれて初めてそんなことを考えたのに。

それでもそのことをどうにかすることはできず、日々は流れていった。
父に通信越しに労われて、ちょっとだけ浮かれてしまった自分の単純さを呪って自己嫌悪に陥ったり、加持さんがまだ葛城三佐のことを諦めていなかったり、そのことでセカンドが荒れていい加減うんざりした僕が彼女の望むままにキスをしたり、いろいろあったけれど、どれも取るに足らないことだ。
僕が知りたいのはマナのこと。彼女を知りたい、それだけ。
そのことをようやく知ることとなったのは、バルディエルと呼称されるようになった第拾参使徒を撃退し、あまり接触はなかったけれどもクラスメイトだった関西弁の少年がそのパイロットであったという事実を知った後だった。

「シンジ」
「マナ?どうしたの、こんな所で」
LCLをシャワーで流し、帰ろうかとNervのゲートを出た直後にかけられた声に僕は意外な人物の出現を発見して足を止めた。
ジオフロントから出てしまえば、地上のNerv正門は特に立ち入り禁止区域にあるわけではない。もちろん中に入ることはできないがゲート前まで来ることは一般人でも普通に可能だ。だから彼女がここにいたっておかしいことはないのだけれども、普通Nervの職員は環状リニアから直通の専用リニアを使うためにここをあまり通らないこと、来ること自体に問題がないとは言え警備員というよりは戦闘員の待機しているこの周辺に一般人が足を踏み入れることは滅多にないことなどとはまた別に、僕の直感がこのタイミングで現れた彼女に何らかの意味を告げていた。
僕自身はあまりNervジオフロントへの直通は利用していない。Nervへも自宅となっている葛城三佐のマンションも、どちらも僕にとっては居心地の良い場所とは言えず、こうしてできるだけ間の時間を稼いで自分一人でいたかったから。静かな道が最寄の地上リニアの駅まで続くので、考えごとをするにもただぼんやりと歩くにも都合が良かった。
大雨の日以外に直通リニアを使っていないから、この第3新東京市に来てNervに関わりを持ってからほとんど歩いているわけだけれども、その間ここを使う人に会ったことはない。そんな中で声をかけられたものだから、僕の声はびっくりして裏返ってしまっていた。
「あはは、なぁにシンジ、その裏返った声」
「マナが急に声をかけるからだろ。それにいったいどうしたの、こんな所で」
「うん。ちょっと、ね。シンジに話したいことがあって待ってたの」
「話したいこと?」
思わず鸚鵡返しに尋ねる。明日は火曜日だし学校もある。何もこんな時間にこんな所まで来なくたって、明日学校でいくらでも話せるだろうに、そう思ったのだ。けれども、何となく声を潜めてしまったのは先ほどマナに会った瞬間に感じた直感が、やっぱり、という気持ちを引き出していたからかも知れない。
「なら、場所を変えようか?駅までの途中に公園があるから」
「うん。ありがとう」
珍しくしおらしい態度でお礼を言うマナに、これも本当のマナのひとつなんだろうな、と思いながら彼女を促して足を公園に向ける。いつもの帰り道から少し横道に入り、木々の茂ったちょっとした林を抜けるとなくたって侵入できないという程度の幅なのに車止めのついた入り口が見える。
ざっと見渡して見ても周囲に住宅はない。それなのにこんな所に公園を作るくらいだから第3新東京市ってお金持ってるんだな、と以前呟いたことがあって、その時、ちょうどそれを耳にした日向一尉に、予算というのは必要な金額を設定するのではなく必要とされるであろう金額だから予算なのさ、と言われたことがある。その時は何のことかわからなかったけれど、前の中学校では授業をきちんと聞いていたので今なら理解できる。
ここに着くまで黙って歩いていたマナだったけれど、公園に着いたことがわかって少し余裕が出たのか、同じような感想を口にした。
「こんな所に公園を作るなんて、Nervってお金持ちなんだね」
「公園を作るのは第3新東京市役所の仕事、Nervじゃないよ」
苦笑しながら答える。そりゃまあ、誰だってこんな林の中に突然公園が出てきたらそう思うよね。
「わかってるけど」
歯切れの悪い調子で答えたマナに違和感を感じつつも僕は小さな住宅街にでも存在していそうな公園に足を踏み入れ、ブランコの横にあるベンチに腰を下ろした。

マナは迷っていた。
シンジのことを想う気持ちの嘘偽りはないし、自信もある。自分はシンジのことが好きだ。ずっと。
ただ、シンジが自分を信じてくれるかどうかは別問題だ。単純でお人好しではあるけれど、こと自分が絡むこととなると異様な猜疑心と慎重さを表す彼のことだ、マナのことを信じてくれているかどうかもわからないのに、彼女が彼を好きだという気持ちを信用してくれるかどうかは大いに怪しい。
いや、そんなことはどうでもいい。
自分の気持ちを信じてくれないのは、それはとても悲しいことだけれども彼が傷つくくらいなら自分が傷ついた方がよっぽどいい。飄々として無関心、流されるままに生きているように見えているから気づいている人間は多くないけれど、ほんとうの彼が傷心を抱えながらその痛みを無視できるようにあらゆることに無関心を装っているだけであることを、マナは知っていた。
今回のことだってそうだ。第壱拾参使徒と認定されたエヴァ参号機は、彼らのクラスメイトである鈴原トウジがパイロットに選出されていた。シンジがそのことを知らないはずがない。何と言ってもそのエヴァ参号機……バルディエルを殲滅したのはシンジなのだし、ここ数日、鈴原が教室にいないことにも気づいていたはずだ。興味のないふりをしながらも、彼の視線はしばしばその主のいない席と、委員長を行ったり来たりしていたから。
だから彼は知っている。クラスメイトの名前をマナが出す度に、「誰だっけ?」とトボケた様子を偽っているが、わざとぼかした言い方をしたり間違えてみたりする時にも、彼はしっかりとついてきている。
そのことに気づいた時、マナは確信した。
何だかちょっと違うけど、間違いなくこのシンジもシンジなのだ、と。
けれど、だからこそ言うのが怖かった。
自分を受け入れて貰えるのかどうか。
自分が隠していることを信じてもらえるのかどうか。
だから彼の提案に乗った。

……いや、今更きれいごとはやめよう。
シンジが、自分を好きになってくれるかどうか、が怖かった。
シンジにとっては初対面でもマナにとってはそうではない。戦略自衛隊で今回の特務を拝命した際にも情報は与えられているし、それから特務に就くまでの間も遊んでいたわけではない。調べられる限り調べ、彼の身長や体重、視力などの身体的特長から預けられていた家の構成、場所、通っていた学校、交友関係、成績など様々なデータが頭に叩き込まれている。第3新東京市に入ってからはぷっつりとデータが切れ、Nervの保安諜報体制が意外にまともなことが証明されている。それはマナにとってはありがたいことで、だからこそこうしてNervの内偵という特務を得てシンジに会うことができた。
内偵をしている隊員はマナだけではない。10人や20人ではきかない程度に入り込んでいるだろう。実情はもちろんマナ程度の階級では知りようもないけれども、恐らく戦自だけで2、30人、日本政府やNervの支部、国連、各国軍に産業スパイなども含めれば100人なんて単位でないことくらいは容易に想像できる。かつて海に沈む前の首都、旧東京はスパイ天国だと言われたそうだが、セカンドインパクトで低迷する世界経済の中で完全に昔日の威光を取り戻した日本の首都候補地であり、エヴァを擁する特務機関Nerv本部の所在地とくれば、マナの想像など遥かに超えた状況であるかも知れない。
戦自でも彼女の動向や報告に期待はしていない。どちらかと言えばやっかい払いであることも、彼女は承知している。
操作性と予想されるコストパフォーマンスのあまりの悪さに計画自体は実験機を待たずに潰れてしまったし、秘匿するほどの効果をあげなかったトライデント計画は諸外国に対してブラフとしての情報価値も持たない。実験機製造前に集めてしまった候補生たちに概要は説明してあるが、当然のことながら各方面の期待する情報など彼らが持っているはずもない。
つまるところ、ムダな駒を遊ばせておかずそれなりの情報を得られたら儲け物、万が一捕らえられて情報を引き出そうとしても戦自の重要な情報は欠片も持っておらず痛くも痒くもない、という捨て駒程度にしか考えられていないのだ、マナは。
他のトライデント計画候補生たちも似たり寄ったりで、ムサシは香港の軍需産業の一端を担うHMRという企業に潜入しているし、ケイタは日本政府内閣官房情報資料室の下部の下部、その更にダミーである会社に送り込まれている。彼らがどう頑張ったところで碌な情報など集めようがない。その意味では、第3新東京市のしかもエヴァパイロットの調査に送り込まれたマナは、少しは期待されているのかと思いきや、定時連絡を入れても担当者が常に異なっており、しかも彼らの反応と言えば「ああ、そんな内偵もあったな」という程度でしかない。
普通ならば腐るところだが、元来が不遇な状況で過ごしてきた彼らのこと、この程度の扱いであっても少なくとも衣食住と小遣い程度の自由な金が手にできるのだから喜んで任務に就いている。

マナが置かれているのは、そんな状況だ。
だから彼女としてはシンジを連れてどこかに逃亡するという手もあった。もちろんマナに逃亡する理由はない。そんな大袈裟な言い方をしなくとも、マナが第3新東京市から消えたところで気づくのは学校の友達や近所のおばさん連中くらいだ。戦自では気づいたとしても、ムダ駒がひとつ勝手に消えてくれたとは思うだろうが、それ以上でもそれ以下でもないだろう。
純粋に彼のためだ。
シンジがこれ以上傷つかないように、更に熾烈を極め、彼の心を破壊するための戦いから彼を遠ざけるために各方面の手が届かない所に逃げる。もちろんマナと違って彼の場合はNervの特級機密であるし、日本政府を始めとした各国政府及び軍隊、その他諸々が虎視眈々とその身柄と情報を狙っているのだから逃亡は実質不可能であると言っても良い。
けれど、捕まったとしてもNervでさえなければ状況は悪化しない、とマナは思っている。相手が政府であろうと軍部であろうと、サードチルドレンたるシンジに求めているのは情報だけではない。自分たちでエヴァンゲリオンに匹敵するものを開発したところでパイロットがいなければ動かせないし、そもそも開発するためにチルドレンの抱える秘密を欲しているのだ。よほどのマッドでなければ解剖したり薬漬けにしたりと言ったことはないだろう。
だから逃亡ではなく、正確に言うと他の組織に保護を求めると言う方が正しい。
けれどもそれを実行に移せないのはマナの力ではそう言った組織に接触を取る手段を持たないこと、接触の機会があったとしてもそこが信用するに値する組織であるかどうかを判断する情報を持てないことの2つの理由からだった。
そしてもうひとつ。
最も重要かつ重大な問題は、シンジを保護してもらっても自分がどうなるかはわからないこと。
いや、自分の身がどうなってもそれはいい。拘束や軟禁に近い状況であっても、そこがシンジの傍であれば、彼の存在を感じていられる所であるのならばマナに否やはない。けれどもそこがシンジの傍でない可能性の方が高いのだ。チルドレンを欲してはいても、そのおまけなどに情けをかける必要性を彼らは持たないだろうし、いくら戦自がどうでもいい扱いをしているとは言え彼女の身分はやはり戦自隊員なのだ。無用な軋轢を生むくらいならば引き渡す、というよりもシンジだけを確保してマナは処分するか放逐するかだろう。
それだけは困る。
シンジの傍にいたい、それだけで彼女はここまで生きてきたのだから。シンジがもし望んでくれるならば、どこに行こうと傍にいられる可能性はあるけれども、肝心のシンジがそう望んでくれるかどうかの自信がない。

そう。
シンジのマナに対する気持ちがわからない。
それだけが彼女の恐怖だった。

シンジは悩んでいた。
マナが何かを抱えていることは気づいていた。だが、それが一体何なのかがわからない。
力になってあげたいとも思うけれど、自分からそれを聞くことは彼女の雰囲気から躊躇われた。学校でも外でもあんなに明るいマナが、こうして隣のベンチに座って言葉もなく俯いている様子に胸を痛めるが、だからと言って彼にはどうすることもできなかった。
ただできたことは、彼女が何かを言い出すまで、隣に座って同じ時間を共有してあげることくらい。
そんな無力な自分が心底恨めしかった。

見上げれば夜空に月が浮かんでいる。
Nervを出た時は夕暮れだったが、いつの間にか日は落ち公園の街灯に火が入ってぼんやりと辺りを照らしている。彼らが通ってきた道以外に、周辺に車の通行が可能な道路もなく、静かな公園には虫の音が響き始めいていた。
「……マナ」
小さく、顔を空にかかる月に向けたまま呟くように声をかける。それでもその声はマナに届いた。
シンジの声に反応したのか、マナがこちらを向いた気配がする。
その表情を確認するでもなくシンジは言葉を続けた。
「僕はマナの力になりたい」
もう二度と、大切な人を失いたくないから。その言葉が彼の口をついて出ることはなかった。本心だけれど、だからこそ彼の心の中だけの決意として留まった。
不安や悲嘆を胸に隠して、本心を表現する方法を教えてもらえないままに子供の時代を過ごした少女は、明るく振舞うことしかできず周囲の大人たちもそんな彼女の苦痛を知りながら手を差し伸べようとはしなかった。それは彼女の同僚と言うべき子供たちも一緒で。いや、彼らは子供だからこそマナの心情を推し量ることも出来なくて、ただマナに求めることしかできなかったのだ。
「わかって欲しい」「受け入れて欲しい」と。
彼女はそれに応えてきた。ぼろぼろになった心を抱えながら彼女は、いや彼女と同じ境遇にあった少女達は皆、甘えてくる少年達の母であり続けた。求められるまま体を開いた少女もいる。そしてそのまま、今でも使い捨ての少年兵たちの安定剤としてしか望まれていない彼女らに比べれば、その点でマナはまだ幸せかも知れない。
ムサシやケイタは彼女に母親と憧れ以上のものを求めなかったから。もっとも、彼女自身が例え求められたとしても決して許さなかっただろうが。
そして何より、こうしてシンジに会うことができたのだから。

シンジはそんな彼女を正確に理解していた。
あれは……そう、ついこの間の第壱拾参使徒戦の前だった。無精髭のニヒルぶったおっさんが「他人を完全に理解することなどできない」とわかったような口をきいてくれたが、シンジはある一瞬とかある部分に関しては他人を完全に理解できるのだ、と今はっきりと感じていた。
だから、
「僕は」
ぽつり、と。彼女の心の痛みを自分のものとして感じるように。
「僕はマナに出会えて良かった。マナだってすごく傷ついているのに、マナは僕に優しくしてくれた」
その方法はどうかと思うけれどね。心の呟きはあくまでも心の中に。
「マナがいてくれたおかげで、こんな非現実的な毎日の中でも中学生らしい生活を送ることができたと思ってる。それが僕の望んでいたものなのかどうなのかはわからないけれど、この第3新東京市に来る前までの何もない穏やかな生活も良かったと思うけれど、それでもマナと一緒にいたおかげで僕のここでの日々はずいぶん救われた」
「シンジ……」
マナもシンジの視線を追うようにして空を見上げた。いつもと変わらない星々の瞬きの中にぼんやりと、けれども変転しないで輝き続ける月が見えた。
「忘れたかったんだ、全部。嫌なことから逃げ出してようやく得た安穏とした生活を先生の所で送って、僕はこのまま日々が続いてくれればいいと願った。楽しいことも悲しいことも程々で、それは平坦な毎日で。でも僕はそれで満足だった」
かさ、と葉陰が鳴った。
少し風が出てきたらしい。蒸し暑い夜が続く第3新東京市だが、時折こうした涼しげな風が吹いて子供たちを安眠に誘う。公園の静けさと涼やかな風の中で、シンジとマナはベンチに腰掛けてこれからの彼らを決めようとしていた。
「だけど父さんからの手紙が来て。好奇心から行ってみようと思ったのが間違いだったんだろうね、こんな馬鹿げた非現実に巻き込まれてしまった。気づいた時には手遅れ、ってやつなのかな。だから僕はもう諦めて、何もかも忘れようとした。冷めきってしまえば楽になれると思ってそうしようと努力もした。マナが転校してきた時も、僕は『電波系か』って思い込もうとした」
シンジの発言に妙なひっかかりを感じたマナは、視線を戻すと彼の横顔を見つめながら問いかける。
「あの、シンジ?もしかして」
「でもさ、無理だったんだよ」
けれども彼女の問いかけは最後まで発せられることはなく、シンジの言葉の続きに遮られた。
「無理だったんだ、マナのことだけは」
だって、楽しかったから。
そうシンジは付け加えて、初めて彼女の方へ顔を向けた。
月明かりに照らされたその表情には、今までの彼に張り付いていた冷めた諦観はなく、ただ以前と同じような優しい微笑みだけがあった。
「嬉しかったから。マナにまた出会えて」
無理だったんだよ、最初から。そう言ったような気がした。もちろんそれはマナの空耳に過ぎないけれど、彼の言いたいことが全て心の中に直接響いてくるような、そんな不思議な感覚を覚えていた。風の音も星の瞬きも聞こえない。ただ彼の言葉だけが傷ついた彼女の心に染み渡り、彼女はその穏やかで涙が出そうな感覚に浸っていた。
「シンジぃ……」
泣きそうになる。
だって、こんなにも嬉しいから。
彼に受け入れて貰えたことが、何も言わなくても彼だけは自分を理解して、何も聞かずに受け入れてくれたことがとても嬉しくて、マナは涙を堪えた表情でシンジを見つめる。
「変な顔してるよ、マナ」
笑いながら言うけれど、そこに非難めいた口調はまったく感じられなかった。
「シンジの意地悪……だって、嬉しいんだもん。すっごく嬉し……もん……」
最後の方は言葉にならなかった。
何も考えられなくなって、ただ俯いて涙が地面に染みを作っていくのを見ることすら叶わなくて。ぎゅっとスカートの膝の上で握り込んだ手に爪の跡がついてしまうことも、何の問題にもならなくて、彼女はただ静かに泣き続ける。
彼女が大事に被り続けていた仮面はもうない。彼のそれもまた。
明るい笑顔と冷たく無関心な仮面を被り続けて、相手と自分を騙すことで心の平均を保ってきた2人だったけれど、もうそれも必要ない。それを外した後に現れたのは、人としての惨劇を以て心を破壊された少年と、幼年期をことごとく奪われて尚少年に対して優しさを捨てなかった哀しい少女がいるだけだった。
そして少年は、まるでこれまでの埋め合わせをするかのように声を押し殺して泣き続ける少女の握られた手を、そっとその聖痕の刻まれた両手で包み込む。
星は静かに煌めき、月は変わらずに光り続ける。
風は2人を通り抜け、優しい時間だけが公園のベンチに漂っていた。

「シンジ」
「なに?」
しばらく後、ようやく落ち着いたマナが顔を上げる。何気なく返事をしたシンジだったが、その表情を見て思わず腰が引けてしまった。
「私のこと『電波系』だって思ってたんだ」
「あ、いやその……それはほら、すべてが嫌になっていたというか、投げやりになってからというか…………………………………………………………ごめんなさい」
伊達に戦自の訓練を受けてはいない。歴戦の勇者だとか実戦経験者だとか言う訳ではないけれども、うすらぼんやりしたシンジ程度であればあっさりとひと睨みで陥落させることくらいは造作もないことのようだ。というか、どうせ勝てないんだからさっさと謝る方がいいに決まっている。
「それって、シンジがこっちに還って来てからだよね」
「うう……だからごめんってば。だって、マナを好きになっちゃったらまた辛い思いをしなきゃならないのかって思ってたし」
「なら、私のこと好きになるとは思っていたんだ」
「うん」
それははっきりと言える。最初から予感はしていた。敢えて抵抗してみたけれど、それも結局徒労であろうこともわかっていた。でも漢には戦わなければならない時もある。と言ってもそんなことで戦うこともないのだが。
「ならいいや。ねぇ、シンジ」
あっさりと許しを与えると、マナは急に甘えたような声を出した。
「私のこと、その……えっと……」
変なの。
シンジは思わず笑みを漏らしてしまった。幸いなことに一生懸命なマナには気づかれていないが、あれだけあからさまに好意を表していたのに、いざ本人を目の前にするとその言葉はなかなか出てこないらしい。いや、自分の気持ちではなく、相手の気持ちを聞くのだから緊張するのかも知れない。
「その、す、すす……す……」
どもり続けるマナの口に指を当てる。え、という表情で見上げてくるマナに、
「僕はマナのことが大好きだよ」
彼の14年+αな人生で、こうまで明快に感情を表したことがあったろうか。そう思えるほどはっきりと自信を持ってシンジはマナの目をまっすぐに見ながら言い切った。そりゃあ照れるに決まっている。決まってはいるが、こうもマナが真っ赤になって照れまくると却って落ち着いてしまう。
「好きだよ、マナ」
だからはっきりともう一回。いや、何度言ってもいい。気持ちを伝えずに後悔することだけはしたくないから。そしてこの気持ちは紛れもなく、純粋な彼のほんとうの気持ちだから。
「あう……シンジ……」
薄暗がりでもわかるほど、というか月明かりで青白い世界の中であるにも関わらず熟れたトマトどころではなくなっていることがわかるほどに赤面したマナは、あまりの事態に口をぱくぱくさせるだけ。自分で望んでおきながらコレだもんなあ、とシンジは半ば不思議な現象を、要するに理科実験でも見ているかのような錯覚を覚えた。
「マナの気持ちも聞きたい」
「えっ?!あ、わた、私は……」
あたふたと両手を振りながら焦るマナがあまりにも可愛らしくて、微笑みを抑えることができない。
「ふー、ふー……はぁー……」
面白いので見続けていると、おもむろにマナが妙な呼吸を始めた。
何だ、と思っていると、
「ふぅぅぅぅぅ……やっと落ち着いた」
「マナ?」
「もうっシンジずるいよ!」
「へ?」
「そんなに落ち着いちゃって。私ひとり焦って馬鹿みたいじゃない」
みたい、じゃなくて完全に馬鹿丸出しだったということは、サードインパクトを超えて少しだけ賢くなった彼は当然口にしない。サードインパクト云々は関係ないけれど。
「うん、ごめん。それで、マナは?」
そして蒸し返す。
けれど既に立ち直ったマナは、赤くなった頬は隠しきれないが今度は焦ることなく、
「私も大好き。シンジのこと、すっごく好きだよ」
彼の横に座り、斜めに顔を傾けて月光を浴びながら微笑む彼女は、はっきり言って反則だった。
どれくらい反則か、と言えば、
「マナっ!」
「きゃっシンジぃ……あっ、ん……んぅ……」
要するに、シンジのセカンドチルドレンと同居しながらも手を出さなかった鋼のような自制心を容易く断ち切ってしまうほどだった。
「あん、こんなとこ……ろで、んっ、する……の?」
特殊な環境下で訓練漬けの日々を送ったからと言っても、マナだって年頃の少女に過ぎない。初体験に対してはそれなりの、何というか、まあ理想も持っていた。シンジと出会ってからはその夢の中の相手をシンジに置き換えて想像してしまったりもしていたのだが、ここに至って彼女の脳裏からそのことすらすっぽり抜けてしまっていた。
夢はあくまで夢。たとえ現実がそうでなかったとしても構わない。
大切なのはお互いの気持ち。
相手がシンジであること。
だから。

「あの、ごめんマナ。痛かった……よね」
何度目かの、月下での謝罪。
「大丈夫だってば。それに、シンジとだからこの痛みさえも愛しいの」
「あう」
月もだいぶ中空高くなっていた。芝生の切れ端がところどころについた制服の乱れを直しながらマナも何度目からの言葉を口にし、そしてシンジはそれを聞く度に照れてしまっていた。
幸せって、こういう時間のことを言うのかも知れない。
シンジはそう思っていたし、マナはマナで、
想いが通じ合うって、こんなに嬉しいことなんだ。
と考えていた。
どちらにしても初めてが外で、という中学生にしては衝撃的な現実でありながら落ち着いており、寧ろとてつもなく長く感じた時間の末に結ばれた、という事実の方に気持ちが完全に向いていた。
「ね、マナ」
「なに、シンジ」
こんな呼びかけと答えの遣り取りすら嬉しい。
けれど、照れたり浸っている場合でないことも確かだった。気持ちはもう通じ合っているからそれはいい。それでもお互いに確かめなければならないことが他にもあった。
思わず綻んでしまいそうな頬を意思で抑えつけ、シンジは気になっていたことをマナに尋ねた。
「マナはどうしてこの世界に?」
曖昧な聞き方だったが、マナはシンジが聞きたいことがわかっていた。
「シンジに会いたかったから。どうしても会いたかった。まずそれが目的。それから方法は、取引の結果として彼が送り込んでくれたの」
「彼?」
聞き返しながらシンジには何となく予測ができていた。あの赤い海からマナの気持ちを掬い出し、この世界に送り込める『彼』など一人しかいない。
「ナルシスホモ」
「や、その言い方はいくら何でもカヲル君が可愛そうだよ、マナ」
「ナルシスホモって言い方でわかるシンジもシンジだよね」
「……まあそれはそれとして」
「ほんとは、ね……」
ぽつりぽつりとマナがあの赤い海であったことを話し出す。

意識の統合や結合ではなかった。あんなものはただの連鎖だ。
無限に繋がっていく意識の連鎖は、魂の融合などとは到底言えない薄気味の悪いものだった。周囲を見渡しても何の影もなくただ赤い空間が広がる。誰かが自分に触れているようで、はっと見てみるとそこには誰もいない。常に誰かに見られている、誰かに触れられているようなざわざわと落ち着かない気分のまま、ずっとこうしていなければならないのかと思うとげんなりした。一緒になって個をつないでしまえばこんな違和感はなくなるのかも知れないが、そんなことは何があってもご免被りたかった。
「気持ち悪い……」
パーソナルスペースを常に、しかもゆるりと浸食されていることは今までに経験したことがないほど気持ち悪かった。思わず口に出した瞬間に、ホ……カヲルは現れたのだ。
「霧島マナさん。君はシンジ君を知っているね」
「あなた誰?」
「それはリリスたる綾波レイの台詞だよ」
苦笑しながらたしなめるような口調。初めてこの世界で出会った完全なる個であったが、それは安心感を与えるものではなかった。
「なに、それ」
「わからないならいいさ。そんな話は本題じゃないからね。さて、僕がこうして君の前に現れたのは」
そこで言葉を止め、値踏みするかのようにマナを見る。あまり気持ちの良い視線ではなかった。
「君と取引をしないか、と思ってね」
「取引?」
意外な言葉に驚く。目の前にいる、この現実離れした銀髪に赤い目の——綾波レイのようだ、とは思わなかった。なぜだかはわからないが——少年がどこの誰で、いったい何の目的でここにいるのかわからないが、自分に取引する何物もない。こうして赤い空間に漂うだけで、持てるものはこの、あるかないかわからないような命の他に存在しないのだから。
だが、そんなマナの困惑を目にして少年は自嘲気味に取引前に大事なことを忘れていた、と笑った。
「僕は渚カヲル、別名は第壱拾七使徒タブリス。まあ、使徒としてはシンジ君に殲滅されたから、どちらかと言えばカヲルと呼んでくれた方が嬉しいかな」
シンジの名を出した瞬間だけ、彼の瞳の色が少しだけ変わったことにマナは気がついていた。殲滅された?と疑問は浮かぶが、とりあえずその彼の目の変化だけでシンジに敵愾心を持っているわけでなく、むしろどちらかと言えば好意を抱いていることがわかりマナは満足していた。それだけでいい、シンジを傷つける存在でなければそれでいい。
「それで?取引っていうのは」
カヲルもまたマナの心中を読み取ったようだった。彼の瞳に、取引に応じたことからかシンジへの未だ冷めない愛情を感じたからかわからないが、マナと同じように満足気な色が浮かぶ。
「君はシンジ君に会いたがっているね。彼を傷つけてしまったことを後悔し、そのことを謝りたい。許してくれなくても、今度はシンジ君にどんなひどい言葉を投げかけられようとも彼の傍にいて彼を癒してあげたい、そう思っている」
「カヲル、君、あなたにそこまで見透かされているのは何だか気持ちよくはないんだけど……そう、もしまたシンジに会えるんだったら、今度こそ彼を傷つけない。でも……」
「もう会えない。そのことが君の深い悲しみの基だね」
「うん」
「君は今度ムサシ君とシンジ君、どちらかを選らばなかればならないとしたらどうする」
俯いたマナに問いかけるカヲル。
その質問はもう、あれから何度となくマナの中で繰り返され、そのたびにいつでも同じ答えを導き出していた。言うまでもないことだ。
「シンジを選ぶ」
「誰かを選ぶという行為は罪深いね。人と人との関わりの中で、必ず悲しむ人間が生まれてしまう」
「でも、どちらも選ばなかったら、2人とも傷つけてしまうもの。だから私は今度こそ迷わない。私の思ったままに行動するの」
「そうかい。ならば君にチャンスをあげるよ」
「チャンス?」
「もちろんただではないけれどね。そこで取引、だよ」
カヲルはにやり、と笑う。何だか彼の雰囲気に合わないな、とマナは思った。それに、どうやら彼は持って回った言い方とか無駄な会話で時間を引き延ばすことを楽しんでいるようだ。いや、会話そのものを楽しんでいるのだろうか、いずれにしても長く関わらずにさっさと用件を済ませたいタイプだ。
「僕はね、シンジ君だけがヒトという種族の中で唯一好意に値すると思っているんだ。はっきり言ってしまえば……」
最初からずっと浮かべていた微笑が消える。なぜか寒気がした。
「シンジ君さえいれば、他の人間なんていらないね」
それでもカヲルの言った言葉は、マナにも同意できるものだった。
「わかるよ。私もシンジだけが欲しい。シンジさえいてくれるのなら、この世界にずっと2人きりでもいい」
「奇遇だねぇ、僕たちは気が合いそうだ」
カヲルは再び口元に笑みを形作ると、
「けれどシンジ君はそれを望んでいない。悲しいことだけれどね」
「なら、シンジは何を望んでいるの」
「彼は人が人と関わり合う世界を望んだ。その結果彼らは元の姿に戻ったけれど、再び他人の恐怖が始まり、そしてシンジ君はその中で結局孤立してしまった」
「シンジが?」
どういうことなのか、カヲルの言っていることがよくわからなかったけれど、シンジが今でも孤独の中にいることだけはわかった。
「彼が望んだことだし、今の状況もまた彼が進んで作り上げたものだよ。それは君の知っている碇シンジではないけれどね。そう……君と知り合う前のシンジ君、と言っておけば間違いないかな」
「うーん、難しいことはよくわからないけど、とにかくシンジは望んで孤独になっている、ってこと?ならシンジは今幸せなの?」
マナにとって重要なことはシンジの幸せであり、一般的な幸福論などではない。友達がたくさんいることに価値と幸福を見出す人間もいるだろうが、その逆で静謐と孤独を愛する人間だっているのだ。他人との恐怖はその価値観の相違から生じて押し付けが心を破壊していく。
だから、もしシンジが孤独であることで幸せであるのならば問題はなかった。
「仕方なく、そう言った方がいいかも知れないね。彼は別に孤独を望んでいるわけではない。けれども他人と一緒にいることを望んでいるわけでもない。シンジ君はただ、誰かわかってくれる人間が傍にいてくれることだけを望んでいる。とても狭い他人との関係を望んだんだね」
「この世界のようにただ1人ではなくて、元の世界のように他人ばかりの世界でもなくて、って感じなのかな」
マナが小首を傾げながら自分なりに理解したことを答える。カヲルは当たらずとも遠からず、まあそんな感じだよ、と笑った。
ならば今、シンジは理解してくれる誰かを求めて、でもそれが得られなかったから結果として1人でいる、ということなのだろうか。
「彼なりに努力はした。今までの記憶はないけれど魂が覚えていたから、この誰も存在しない世界にならないように、心を容易に壊されないように他人と積極的に交わろうともした。当たり障りのない範囲で他人と接触するのは難しいことだけれど、シンジ君はそのぎりぎりのラインを見極めて観察しながら、踏み込むことのできる人間を探した」
でも、いなかった。
そう言ったカヲルの表情は、ここまでの彼では信じられないくらいに暗く沈んだものだった。彼もまたシンジが少しでも苦しんでいることが辛いのだから。
「結局、シンジに何が起きたの」
マナは先を促した。それに対するカヲルの答えはいたって短く簡潔なものだった。
「サードインパクト」
「……サード、ってことは、結局起きちゃったんだ」
「そう。君の死後、シンジ君はひどく打ちのめされていた。本当ならその一事で君を許すことはできないんだけれども、まあ今は深く反省しているみたいだしね」
「……うん」
言葉の通り、カヲルの目にも口調にも責める様子はない。今となっては、と割り切っているのかも知れないが、完全にマナのことを許したわけでもないことは何となくわかった。そこはまあ、今後の態度で示していくしかないのかも知れない。機会があれば、だが。
「その後も碌なことがなかった。当たり前だけどね、ゼーレはシンジ君の心が壊れることを期待していたのだから。それでも彼はぎりぎりで踏みとどまって戦い続けた」
そっか。シンジ、頑張ったんだ……周囲に誰も助けてくれる人間がいないのに、あんな寂しい状況で1人で頑張ってたんだ。
そう思うと、マナは自分がシンジの心を壊す一端を担っていたのだ、と改めて思い返されて涙が出そうだった。
「極めつけは僕さ」
はっと顔を上げた先に見たカヲルの表情は、苦悩に満ち、秀麗な作りなだけに恐怖を覚えてしまうほどの歪みを見せていた。カヲルがマナを憎みきれなかったのは、マナが自分と似ていたからに他ならない。それは表面的なものや性格的なものでなんかなくて、シンジを追い込む一端であったという境遇の問題であったのだが。
「僕はシンジ君が好きだった。今でも好きだし、その時の気持ちはほんものだった。けれども生まれたばかりの僕には第壱拾七使途としての本能の方が強すぎて制御できず、結局僕をその手で殺させるという愚かな真似をしてしまった」
マナは黙って彼の懺悔を聞いている。自分に彼を責める資格なんてないことはよくわかっていた。2人は揃ってシンジを大切に思っているのに、それなのにシンジを傷つけるという愚行を犯してしまった。そんなことはしたくなかったのに、流れに逆らえなかった。
「そして壊れた彼を依代にしてサードインパクトが発動し、人類は補完された」
「ホカン?」
補完、保管、どっちだろう、とあまり勉強してなかったことを悔やみつつ尋ねる。
「人の心は欠けている。その欠損部分を全員が集まることによって補完しようという計画さ。人類全員がお互いの欠損部分を埋めるから、そこに個は存在しない。自分は他人であり、他人は自分である、そういうことになるからね。気付いているだろう、この落ち着かない、いつもどこかに誰かがいるような感覚に」
なるほど、さっきからの違和感はそれか、と思わず手を打ちたくなる。でも待てよ。
「じゃあ、ここは人類が、補完された世界ってことなんだ。……じゃあ、シンジは?シンジは一体どこにいるの。ここに居ながら孤独を感じてるの?」
言い募るマナに、カヲルは前髪を弄りながら答えた。
「言ったろう?シンジ君は元の世界に戻ったって。リリス……綾波レイが彼を還したよ」
その時、視界がぐにゃり、と歪んだような気がした。変だな、と視力両目共に4.0の狩猟民族も裸足で逃げ出すマナが目をこすると、
「そろそろ時間のようだ。簡潔に説明するよ。シンジ君は綾波レイが世界に戻した。時間の因果律を変えてしまったこの世界はそろそろ崩壊する。ここはシンジ君が戻った先の世界での未来に変革される。さて、本題だが」
どこか遠くで、何かがひび割れるような音がした。
「この世界に影響を及ぼせる存在は生き残った使徒である僕と、綾波レイだけだ。けれども2人とも複数の人間を元の世界に送り還すことなんてできない。なぜなら、一緒に戻ってしまうからね。片道のみ、お1人様限定のタクシーみたいなものさ」
「戻る……それでっ?」
カヲルの話の先に光明が見えて、マナは勢い込んで尋ねた。
「お察しの通りさ。僕は君にもう一度シンジ君に会う機会をあげよう。そして君は、僕に彼と一緒になる機会をくれ」
「……うわあ……ホンモノって私初めて見るかも」
「何だか微妙に失礼なことを想像されてる気がするのは気のせいかな。具体的には、僕は彼の息子になりたい」
「はっ?!」
「つまり、だ。友人や恋人では絆が弱すぎる、と僕はそう思うのさ。異性同士ならば恋人でも十分強い絆が結べるのだろうけれどね、僕とシンジ君では友情がせいぜいだ」
「あ、なんだ。シンジと恋人になりたいわけじゃないんだ」
「当たり前だよ。君は僕を何だと思っているんだい」
相変わらずカヲルは笑顔だが、心なしか頬のあたりがひくついている気がする。うん、見なかったことにしよう。
「ま、まあ、それで僕は考えた。僕とシンジ君の間の絆を最も強く保つためにはどうすればいいか」
「前口上はいいから、早く本題に入ろうよ。時間ないんでしょ」
「……せっかちなリリンだね。まあいいか。とにかく僕は君と一緒に戻るけれど、当分シンジ君には会えない。自由になったらすぐに体を捨てるから、その時に君かシンジ君の体に間借りさせてもらう。そして君たちが結ばれれば」
「ちょ、ちょっと待って!私たちの子供として生まれたい、ってこと?!」
あまりにも現実離れした提案に、さすがのマナも大声で止めた。まあ、この世界自体が現実離れしているのだから、今更気にすることでもないのかも知れないけれど。
「さすがにそれはちょっと……生まれてくる子供が誰か知ってるなんて、変だよ。それに……シンジと私が結ばれるかどうかなんて、わからないし」
後半は言ってみたものの、それだけで寂しくなってしまった。もしシンジと結ばれないのなら、戻ってもこれほど寂しいことはない。もちろん、シンジの幸せが第一だから、誰と結ばれようとシンジが幸せであるのならば祝福はしてあげられるかも知れない。でもきっと、その後でめちゃくちゃ泣くんだろうな、とそこまで想像できてしまう。
人間なんてそんなものだ。やっぱり自分だって幸せになりたい。
「だからそこは取引さ。それと、君を信用するってところかな。君はシンジ君と結ばれるように努力をし、僕が自由になって体を捨てるまで肉体的に結ばれることを避ける。子供のことなら心配いらないよ、生まれてくる頃には僕は魂だけの存在なのだし、男か女かすらわからないのだから」
「うー、でも……」
また遠くで、ぱきん、という音がした。少しずつ増えてきている。時間がないことだけは確かだった。決断しなければならない、取引に応じるか、それとも崩壊していくこの世界でシンジとの思い出を抱えて残るのかを。
問題はある。あるけれどもそれはすべて、シンジに再会できるという喜びの前には障害になり得なかった。
「うん、わかった。取引に応じる」

マナの答えに、今度こそカヲルはにっこりと本当の笑みを浮かべた。

「あのさ、マナ」
「なに、シンジ」
あーもう可愛いなあ。にやけてしまう頬に気づいて慌てて引き締める。こんな微笑みを見せられて名前を呼ばれてしまうと、これで陥落しない男はいないだろうというくらいに、マナは可愛らしい。シンジは心の中で、それも全部マナの純粋さがあってこそだよなあ、とか何とか惚気ているが、実際はそれどころではない。
「今の話からするとさ……まずいんじゃない?いろいろと」
「あー、シンジとヤッちゃったこととか?」
「や、ヤッちゃったって……しかもなぜにカタカナ」
こういうあっけらかんとした所もマナの魅力だ、と思ってしまう彼は、相当重傷だろう。今は接触などないに等しいが以前は3バカと呼ばれていた鈴原と相田がいたらきっと「いや〜んな感じ」と言われること請け合いだ。
「シンジの疑問はもっともだけど。でもヤッちゃったものは仕方ないんじゃないかなあ」
そう言っている間もマナの顔は自然とにやけてしまっている。シンジと通じ合えたという一事は彼女にこれ以上ない幸せを感じさせており、ぶっちゃけた話がカヲルとの約束などもうどうでもよくなっていた。そんな、ふにゃふにゃと軟体生物のように「私幸せです」感を辺り構わずまき散らしているマナを見ていると、明日からの学校が少し心配になってしまうけれど、それでもやっぱり幸せであることはシンジも変わりなくて、彼女の姿に彼もまた頬が緩んでしまう。ごめん、カヲル君。
「それに、何も初めての時じゃなくたっていいんじゃないかな。……シンジはこれからもいっぱい私を愛してくれる、でしょ?」
ああ、そんな上目遣いで不安そうな瞳でもじもじされると僕はっ僕はあっ!と心の葛藤をもろに表情に出しながらシンジはおたおたする。公園でいきなり野外プレイを演じておきながら今更だろうとは思うけれど、だからと言って人が絶対に通らないという保証はない。それでも、あまり激しくしないようにしよう、とくらいにしか考えない辺り、やっぱり彼も健康な14歳の少年だった。
「マナ……」
「シンジ……」
「約束するよ、僕はずっとマナだけを愛し続けるって」
「嬉しいよぉ、シンジぃ……」
見つめ合う2人。
夜はそんな2人に時間をあげるかのようにゆっくりと更けていく。太陽が連れ去っていった蝉の声はなく、月に誘われてきた虫の音だけが彼らを包み込む。
そっとマナの肩に手をかけて抱き寄せる。胸に頬ずりしながら嬉しそうにしているのを見て、シンジは肩においていた手を回し、強く抱きしめた。くん、と犬の鳴き声みたいな声を聞きながら更に抱きしめる腕に力を込める。どんなに強く抱いても足りない気がした。

「お楽しみのところ、悪いんだけどね」
がばっ!
突然、背後からかけられた声にもの凄い勢いで離れて振り返る。
シンジとマナの目に映ったのは、月明かりに光る銀の髪、痩身に第壱中学校指定の制服を来てポケットに手を突っ込んで、その整った顔立ちを呆れ顔にして立ち尽くす使徒。渚カヲルだった。
「か……カヲル君っ!」
呆然とその姿を見やっていたシンジが真っ先に我に返るとカヲルに駆け寄る。そのままがばっといっちゃうのか、いっちゃうのかいっちゃうのかあっと妙な想像に期待を膨らませていたマナの予想を裏切り、直前で立ち止まるとカヲルの両手をとった。
「カヲル君……会いたかった……」
「相変わらず絹のように滑らかだね、君の肌は。体位に値するよ」
「ちょっと待て!何よ、その体位ってー!ていうかどんな体位?」
「マナも何を期待しているのさっ?!」
「体位。たいい−ゐ 1 【体位】
(1)身体の発育・発達の程度。また、体力・運動能力の程度。
例文「ーの向上」
(2)体の位置・姿勢。
それがどうかしたの?」
「あ、綾波ぃっ?!」
「体位がどうかしたの、碇君」
「いや別に……」
「レイ?もしかしてほんとにわかってないの」
「ええ、わからないわ。私は多分337人目だと思うから」
「うわ多っ!多すぎだよ綾波。ていうかいつの間にそんなに入れ替わったのさ」
「碇君が愛してくれないのは、この体が気に入らないのだと思ったから。常に新鮮な肉体をと思って取り替え続けていたの」
「いやそれ何か根本的に違うよ、綾波」
「そうなの、わからないわ」
「……はっ、だ、ダメよシンジ!レイも、シンジは私のものなんだから!」
「碇君を還したのは私。だから彼は私のもの」
「そんな無茶な……あ、でも3(ピー)もいいかも」
「あなた、それは伏せ字になってないわ」
「あのさ、そういう問題でもないんじゃない?」
「碇君を還したのは私、そのために世界は変わった、だから碇君は私のもの。すばらしい三段論法」
「三段論法になってないうえに論旨がめちゃくちゃです、綾波サン。それにしても綾波にしては長い台詞だよね」
「そうね、って、だからそんなこと言ってるんじゃなくてー!」
「あの、そろそろ僕のことも思い出して欲しいな、と思うんだけど」
一体いつの間に来ていたのか、綾波レイが加わって収拾がつかなくなりそうだった混乱をおさめたのはカヲルだった。
「そ、そうだね、まずはカヲル君と綾波にお礼を言わないとね。還してくれてありがとう、綾波。それに、マナを連れて来てくれてありがとう、カヲル君」
「も、問題にゃいわ」
「ふふふ、やはり体位に値するよ」
じっと正面から見つめられて瞬間沸騰し、なおかつ舌まで噛んでいるレイとやっぱり訳のわからないカヲル。サキエルとかも人間みたいな形だったらこうなのかな、とシンジは思った。
「それにしても、2人ともいつの間に?」
シンジの当然の問いに、答えた2人の言葉は簡単だった。
「最初からいたわ」
「そう、リリン式結合を始める前からね」
その言い方、なんか嫌。マナの呟きにシンジも顔を赤らませながらうんうんと頷いた。
「あそうだ、カヲル君。マナとの約束のことなんだけど」
思い出したように言う、というよりはこの話の流れを何とか変えるためにシンジが慌てて口を挟むと、こちらは思い出したように複雑な表情を浮かべて、
「それなんだけどね。あの約束の具体的な方法は、シンジ君の精子に紛れてとかマナ君の卵子にだとか、そういうやり方な訳ではないんだ」
あまりにはっきりとした言い方と単語に、思わずシンジは赤面する。だが照れているのはシンジだけでレイもマナも平静だった。こういうのは実は男よりも女の方が明快な言い方に慣れているのかも知れない。
「なら、どうやってするつもりだったの?」
マナの問いに答えたのはレイだった。
「私たちが生まれ変わるためには、あなたたちお互いの気持ちが重要だった。別にセックスの時でなくても問題ないわ、初めて気持ちが通じ合った瞬間のあなたたちどちらかの心に溶け込むのだから」
「そうなんだ……意外と『ろまんちっかー』なんだね、使徒って」
あっけらかんとしたマナの言い方に思わず3人は口元を緩ませた。教室でも町でも、どんな時でもマナの明るさがシンジの救いになったように、彼女のこういう所はカヲルやレイにも好意を感じさせるものであったようだ。
「まあいいさ。シンジ君と友情を深められれば。君たちの家族になれなかったのは残念だったけれど、家族では結べない絆ってのもあるだろうしね」
「私は?」
カヲルの吹っ切れたような表情とは別に、レイの表情は浮かばなかった。
「え、綾波?」
「私は碇君との絆を持っていない」
「そんなことないよ、綾波!」
思わず大きな声を出してしまっていた。傍にいたマナも頷いてシンジに同意している。学校ではシンジとの関わりが目立ち過ぎていたが、レイがシンジを連れて来てくれたことを知っていたマナは何かとレイに話しかけ、クラス内では「組み合わせ的にあり得ないだろ」と評される友人となっていた。
「少なくとも私とは友達でしょ。それにシンジだって」
「でも。碇君が冷たいから哀しかった」
「う……ごめん綾波。でももう辛い想いはしたくなくて。綾波からも逃げてしまったのは謝るよ。でも君だって僕のこと叩いたよね」
「いちおう同じにしてみただけ」
恨みがましい視線が絡み合う。それに、とレイは続けた。
「碇君が優しくしてくれなかったから」
事情を知らなければ非常に怪しい台詞だ。事実、マナはじとっとした目でシンジを睨みつけている。あの赤い空間で欠片だけだがレイの心に触れた彼女にはレイの気持ちもわかっている。だから煩いことも言いたくないし、シンジを独占しないのであれば共有してもいいとも思っていたが、やはり完全に納得することは難しかったようだ。
「ごめん。これからは優しくするよ。逃げる必要もないんだし……いいよね」
後半はマナに。顔を向けて尋ねる。
マナに異論はない。最初から独占したいとは思っていなかった。多少の嫉妬を感じてしまうのは仕方ないことだけれど、マナとしてはシンジの傍にいて彼を感じていたいという欲求が最大なのだから、それを妨げられないのであれば、ましてや相手がレイであればどうという問題はない。
だから最大限の譲歩と友人としての親愛からこう言った。
「うん、もちろん。でもちゃんと私のことも見てね」

「あれっ?」
しばらく4人でベンチに腰掛けて月を眺めながらのんびりと話をしていた時、シンジが急に頓狂な声を挙げた。
「どうしたの、シンジ」
マナの問いにシンジはカヲルに向かって言うことで答える。
「なんでこの時期にカヲル君がいるの?あ、よく考えればマナが転校した時期もあまりにも早すぎるような」
今更かよ、という表情を3人が浮かべ、シンジはばつ悪そうに体を縮こめた。
やれやれと言いながら3人が交互に説明を始める。
「まずシンジ君が還ってきたのは第参使徒サキエルの襲来後。さっきも言ったけれどね、君が還ってきたという事実だけで歴史というのは変わってしまったのさ。だから戦自のトライデント計画も早々に潰れてマナ君が第伍使徒の襲来後に転校してくることになった。その間の因果関係はまあ、背後関係や政治的な問題まで説明すると長くなるから省くけれどね、時間の流れに小さな石をひとつ投じただけでこれほどまでに変わるってことさ」
「私はマナより前に還ったわ。第伍使徒戦の直前。ただ、碇君が変わっていたように思えたからどう接していいのかわからなかった」
「だからシンジと以前のように接したのね」
「ええ」
「私も同じ、かな。とにかくシンジに少しでも楽しい気持ちになってもらおうと必死だったから」
「僕はちょっと遅かったね。途中でマナ君がじっとしていてくれないものだから随分と遅い時期に跳ばされてしまったよ」
やれやれとカヲルが言う。言葉とは裏腹に顔は楽しげだ。きっと彼も今の状況を結果オーライと考えているに違いない。
「既に第壱拾弐使徒まで倒されていたからね。焦って出て来たはいいけどちょっと被害を出し過ぎたようだよ。それなのに僕的計画にも間に合わなかったしねぇ」
ため息をつく。が、問題はそこでなかった。
「被害、って何」
嫌〜な予感を感じつつ尋ねるシンジに、カヲルは事も無げに答えた。
「いやあ、出てくる時にドイツ支部の連中が止めるものだからね、ちょっと暴れ過ぎてしまったよ。でもまさかあの程度で壊滅するとは思わなかったんだけど」
「タブリス、あなたは加減というものを学んだ方がいいわ」
「君に言われたくないね、リリス」
お互い様だなあ、とマナは思った。シンジは知らないことだが、何しろレイは第拾使徒サハクィエルがシンジを押し潰そうとした時に怒り狂って爆発させている。そう、あの大爆発は使徒そのものではなくレイのATフィールドに依るもの。まさか真相をNervに話すわけにはいかないけれども。だいたい、第壱拾弐使徒の時も虚数空間に無理矢理介入して初号機を取り戻すわ、以前と同じにするしかなかったという割には暴走し過ぎだ。
ふ、と視線を戻すと言い争いに発展した2人の手元に赤い光が出現している。
「ちょ、ちょっと2人とも!こんな所でATフィールドなんて出さないでよ」
慌てて止めるが、カヲルとレイはきょとんとした表情で止めに入ったマナと逃げに入ったシンジを見つめている。
「どうして?あなたたちに被害は出ないわ」
「どうしてそんなことが言えるのよ」
恐る恐る戻ってきたシンジも不思議そうにレイの言葉を反芻する。
「被害が出ないって?」
「ATフィールドで守ればいいわ」
「は?」
2人して間抜けた声を出すが、レイもカヲルもやはり不思議そうに顔を見合わせるだけだ。それでもようやく合点がいったのか、
「そう……知らないのね」
「だから使徒戦で苦戦していたんだね、シンジ君は」
「だから、何がさ」
シンジが答えを急かすと、
「碇君もマナもATフィールドを張れるわ」
「意識して集中してみてご覧よ。僕たちと同程度のフィールドは難なく張れると思うよ」
訝しげに自分の手を見つめるマナとシンジ。やってみなければ始まらない、そう思った2人が一瞬視線を合わせて頷くと揃って集中し始める。指の先がぼんやりとし始めてすぐに赤い光となり、瞬くうちに彼らの目の前に視認できるほどの赤い壁が出来上がった。
驚きに目を見開く彼らにカヲルが笑いかける。
「だからと言って僕たちと同じように使徒になった、というわけではないから安心していいよ。でもそれがある以上誰も君たちを傷つけることはできない。僕はてっきりリリスが教えていたものだと思っていたよ」
「……忘れてたわ」
「綾波ぃ……こういうことは教えといてよ。知ってればもっと楽に戦えたのに」
呆れてがっくりと肩を落とすシンジ。いったいあの怖い思いをしていたのは何だったんだろう、と今までの疲れが一気に襲って来た気がした。
対照的にマナは嬉しそうだ。
「すごい、すっごーい!ね、シンジ、ほら見て見て!」
壁を出したり消したり。形を変えたり分散させて弾け跳ばして花火のようにしては遊びまくっている。シンジは心底からこの陽気さがうらやましいと思った。
「はぁ、まあいいや。それで、これからのことなんだけど」
遊んでいるマナを横に、シンジが話を変える。
「これから、と言うと」
「いや、これからどうするつもりなのかな、って。カヲル君はドイツ支部を壊滅させてとんずらして来たんでしょ、このまま逃げ切るつもり?」
「そのことかい。僕としてはシンジ君と一緒にいられるのならどうでもいいんだけどね。ふむ、2人で愛の逃避行というのも」
「反対ー!ダメー!却下ー!だいたいカヲル君、あなた真性のホモじゃないんでしょっ!」
カヲルの独り言にマナが反応する。シンジの右腕をとってしっかと巻き込み、絶対に離さないというアピール付き。空いた左側につつ、と寄って来て同じようにしがみつくレイはおまけ……の割にはシンジも満更でもなさそうだが。
「冗談だよ。でもシンジ君さえいればいいというのは君たちも同じだろう」
「うーん、そりゃまあね。シンジさえ居てくれるならNervだろうと戦自だろうと、どこに居てもいいかな」
「私も」
シンジ、幸せの絶頂。ついでに左右の腕に小さいながらも柔らかい何かが当たって理性も限界の絶頂。そんな3人を一人だけ向かいから眺めつつ苦笑したカヲルは、
「なら、ドイツ支部からの逃げついでにNervからもとんずらしようか」
どうやら「とんずら」という言い回しが気に入ったらしい。
「え?でも、使徒は?またインパクトが起こっちゃったら問題じゃないの」
マナの疑問も尤もだ。カヲルも頷いて同意を示すが、
「でも、起こらなければ問題ないのだろう?アダムの魂は僕と共に、リリスの魂は綾波レイと共にある。そして2人ともここにいるのにインパクトは起きない。さて、導き出せる結果は」
「どーやってもインパクトなんて起きない、ってこと?」
「マナ君、正解。使徒はやってくるよ、ゼーレも量産エヴァを揃えている。だけど僕たちがいなければ彼らがどう足掻こうとサードインパクトは発生しないし、当然のことながら人類補完計画は成功しない」
カヲルの言葉にマナの表情がぱあっと明るくなる。もうシンジが辛い思いをする必要がないのだ、とわかったから。
「なら、4人でどこかに逃げることも可能だ、と」
自信なさそうなのは、シンジがまだどこかで疑っているからか、あるいはNervから逃げることなんて不可能だという潜在意識下での刷り込みが行われているからだろうか。だがレイの答えは単純明快で彼の不安をあっさりと吹き飛ばした。
「私たちのATフィールドを破れる兵器はないわ。捕まえに来ても撃退するだけ。邪魔者は殲滅、くすくす……」
「あ、綾波、何だか人が変わったね……」
「使徒をたこ殴りにして目覚めたんでしょ、レイ」
そう言えばマトリエルの時も一番容赦なかったのって綾波だったなあ、と暢気に思い返すシンジ。カヲルはどことなく青ざめてレイを伺っている。
「母たるリリンが……」
使徒としての役割に、ちょっとだけこだわっているようだった。
「ならさ、そうしようよシンジ。私、シンジと一緒ならどこでもいいもん」
右腕に絡み付いたまま、その腕に少し力を込めて見上げる。シンジもまたそこにぬくもりを覚えて微笑んだ。
「そうだね。でもマナの行きたい所でいいよ」

そして、結局。

—……、第3新東京市に襲来した使徒との戦闘はまたも有耶無耶のままに終わった感じですね。いかがでしょう、神尾解説員—
—そうですね、世論がNervの戦果と役割に疑問を持ち始めている中、戦略自衛隊が撃退に成功した先日の例もありますし、だいぶNervにとっては風当たりが強くなってくるでしょう。国連も来月の理事会において……—
「あーらら、またやられちゃったみたいね」
お茶の間でつけっ放しになっていたテレビの音声に、縁側に座っていたマナが呆れたような楽しんでいるような、そんな微妙な声をあげた。
「無様ね」
これは赤木博士ではない。庭でシンジと一緒に「麻呂」と遊んでいたレイだ。麻呂というのは先日、レイと同じゼミの学生が自宅で生んだ仔犬の引き取り手を探しており、「飼っていいでしょ、お願い世話はちゃんとやるから」+上目遣い+涙目で訴えられたシンジがあっさりと陥落して飼うことになった犬だ。ちなみに名前はマナがつけた。どうして麻呂なのか、ということは聞かなくてもわかってしまったくらいに「麻呂っぽい」顔をした、その名の通りにおっとりした仔犬だ。
「マナもレイも辛辣だね」
苦笑しながら、今度はシンジ。仔犬飼って事件でOKを出した翌日、妙にすっきりつやつやしたレイと対照的に枯れ果てた感じだった彼は、その更に翌朝にはマナの部屋から輪をかけてやつれた表情で出て来ている。まあ、まったくの余談ではあるが。

と、シンジの近くにがちゃっと何かが落ちた音がして見ると、なぜか布団鋏みが転がっていた。
上を見上げた彼に、ベランダから身を乗り出すカヲルが見えた。
「ああ、ごめんよシンジ君。怪我はなかったかい?」
今日はカヲルが洗濯当番、レイが料理、マナは掃除、シンジが予備だ。毎週のローテーションで決まっているが、結局はこの予備というのが全ての当番のヘルプに入らなければならないので大変だったりする。オールマイティな彼がここに固定されているのはまあ、仕方ないことだろう。全員がシンジと一緒の当番になりたいのだから、という理由もあるけれども。
「うん、大丈夫。いくよ」
そう言うとATフィールドに乗せて2階へあげてやる。つくづく便利だなーとマナがお茶を啜りながら呟くと、隣にやってきたレイが座りながら、
「こんな使い方をしているのは碇君くらいだけれど」
「そうだよね。でもレイ、ナンパの撃退でアレはちょっとやり過ぎだと思うよ」
「そうかしら、わからないわ。たぶん私は5042人目だと思うから」
「また多っ!ていうかあれから替わってないでしょ!」
レイの代替はすべて破壊してきた。だから337人目から増えることはない。引き上げて来てスペアにしても良かったのだが、シンジの「僕にとってはここにいる綾波だけが綾波なんだ、僕の大好きな」という言葉で瞬殺された。
「殺したわけじゃないからいいんだけど。でも、Nervも最近ちょっかい出してこないし、なんかせっかくのATフィールドも宝の持ち腐れだよね」
「ええ、詰まらないわ」
「…………レイってば、やっぱり過激」
「そう。よかったわね」
「………………ま、慣れたけど」
2人が話していると上からトントンと階段をおりる足音が聞こえ、カヲルが顔を出した。
「布団はいいねぇ。日本人の生み出した寝具の極みだよ」
訳がわからないのはレイで慣れている。こんなことにいちいち反応していたら突っ込みキャラになってしまうので、マナは黙って立ち上がると台所へ行ってお茶を煎れる。
「やあ、ありがとう。ところでシンジ君は」
「さっきまで庭で麻呂と遊んでたけど。散歩にでも行ったのかな」
「碇君なら出かける時は必ず言っていくわ」
「そうだね、まあのんびり待っていよう。お昼まではもう少しあるし」
お茶を飲みながら縁側で3人、ゆっくりと、時折思い出したように会話をしては緩やかな日曜日を楽しむ。去年、新鳥取南高校から揃って新鳥取大学へ進んだ彼らは一昨日までは講義によっては夏期休暇の前にやる前期試験で大変だったが、その戦いも終わった今、思いは既に休みの予定に飛んでいた。
「カヲル君も終わったんだね」
「やあシンジ君、どこに行っていたんだい」
「麻呂を小屋に連れて行っただけだよ」
言いながらシンジの声を聞いた瞬間に自然と空けられたマナとレイの間に腰掛ける。右にマナ、左にレイ、そのレイの横にカヲル。いつもの並び順。レイが指先から細く紡いだATフィールドを伸ばしてテレビのスイッチを切る。見とがめたシンジに、横着しちゃダメだよ、と叱られるのもいつもの風景。優しく叱られるのが好きでわざとやっている、とマナが文句を言う事も。

世界は緩やかに変革している。
使徒は相変わらず攻めてくるけれど、第壱拾七使徒たるカヲルがここにいるためか襲来順序がめちゃくちゃになって、挙げ句の果てには勝手に進化してしまった。
サキエルの小型版が来たり、イスラフェルが4体同時に現れたり。ただ、進化したというのは語弊があるかも知れない。言ってみれば「分割」されただけだから。もしかしたらこのまま群体として存在することを選ぶ可能性がないとも言い切れない、みたいな。
だいたいがカヲルがここにいるのにどうして使徒が世界各地に現れるのか。
カヲルによれば「本能だけで生きてるからねぇ。僕がアダムの気配を世界中にまき散らしたから訳がわからなくなって混乱、自棄になってるだけじゃないかな」とのことだが、そんないい加減なやつらに振り回されていたのかと思うとシンジの胸中は複雑だ。
その対応にNervは追われているけれども、初号機と唯一コンタクト可能なエースパイロットたるシンジを欠き、どのエヴァともシンクロするカヲルは居らず、そのうえレイまで失った痛手は予想以上に大きく、慌ててパイロットとして鈴原トウジなど数名を登録するも弐号機パイロットの唯我独尊厚顔不遜なセカンドチルドレンとまったく連携がとれず、なかなか戦果を挙げられない。お金だけはかかるから世論も国連もいい顔をせず、そろそろ解体再編制がささやかれるようになってきた。戦略自衛隊や各国の国軍の方がよほど戦果を挙げているのだから当然かも知れない。
とはいえ、そんな世間のことには彼らは一切関知しない。
彼らが望むことは、ただ穏やかな日々をずっと一緒に過ごすことなのだから。

「すぐに夏休みだね」
「もう来週からだもんね。あー、ほんっと待ち遠しかったよ」
「マナ君は特に試験が多かったからね。だからシンジ君と同じ講義はやめておいた方がいいって言ったんだよ」
「仕方ないわ、マナが自分で選んだことなのだから」
「レイってばずるいよね。しっかりシンジの取った講義で課題の少ないものだけをちょいすしてるんだもん、私にも情報くれたっていいじゃない」
「ははは、まあまあ。あ、そうだ。綾波は大丈夫なの、サークル」
シンジとマナはサークル活動をしていないが、レイは福祉関係のサークルに、カヲルはなぜか文学部の日本文化研究会に籍を置いている。カヲルの方はさほど活発に活動しているサークルではないから問題ないが、レイは時々突発的に活動が入ることがある。
それを心配してシンジが尋ねたのだ。
「問題ないわ。夏休み中はお盆の前後に一週間ずつ、養護ホームのお手伝いがあるだけだから」
「そっか。後は、アルバイトはみんな問題なしだったよね」
Nervからの給料は全てきっちり持って来た。お金にさほど困るわけではないが、だからと言って資金が潤沢であるとも言えない。主にマナがどこかから購入している兵装に消えていくのもどうかと思うのだが、できるだけATフィールドで市民を巻き込まない、と言ったのはシンジ自身であるからいかんともしがたい。
ただ、最近はATフィールドでNervや政府の犬を撃退した方が被害が少ないんじゃないか、とも思っているが。
とにかく、マナの趣味に大金が消えていくため彼らがアルバイトで稼ぐことは必須であり、シンジは新鳥取大学近くの洋食屋でコックを、マナはセカンドインパクト以来増えているサバイバル関係の市民講習の講師を、カヲルは家庭教師で稼いでいる。シンジなどは特にカヲルのアルバイトについては、いつか問題を起こすんじゃないかとはらはらしているのだが、「ならシンジ君が僕の相手をしてくれるかい」と本気なんだか冗談なんだかわからない表情で言われてしまうので、この頃は考えないようにしている。男としての貞操は守らなければ。うん。
レイだけはアルバイト免除になっている。サークル活動が結構活発で大変なこと、それを通じて社会や地域に貢献していることを理由にシンジが免除した。「シンジって、レイに甘いよ。私にも甘くしてー」というマナの抗議は夜の甘い時間で相殺することにした。
「そろそろ予約も取らなきゃいけないし、候補、考えてくれた?」
3人の顔を見渡しながらシンジが問う。
真っ先に答えるのは、こういう場合必ずマナだ。
「海ー!鳥取さきゅー!」
「……や、それいつでも行けるし。綾波はどう」
「碇君と一緒ならどこでもいい」
「……それって嬉しいけど困るんだよね。ていうか今は夏休みに行く場所だから、何か出してもらわないと。カヲル君は……やっぱりいいや」
「ああシンジ君、酷いじゃないか」
「だって、何だか予測つくし」
「まあまあ、聞いてくれよ。境港にいい店を見つけてね」
「だからそこもいつでも行けるってば」
結局、僕が選んで決めなきゃならないんだよなあ。
シンジは空を見上げてため息をついた。隣ではマナ、レイ、カヲルがぎゃあぎゃあと騒いでいる。
不快でなんて、決してない。こんな騒がしくも楽しい日常は大歓迎だから。家事にしてもバイトにしても、何だか色んな負担を強いられているがそれも「負担」とか「強いられている」と考えたことはない。

楽しいから。
マナのために、レイのために、カヲルのために何かをすることは、シンジにとってどんなことも楽しくて嬉しくて、とても幸せなことだから。
見上げた先には夏前のどこまでも高い青空が広がっている。
うっすらと浮かんだ薄紙のような雲がアクセント。
新鳥取市の片隅、3年前にできたニュータウンの小さな一軒家。麻呂に子供用プールを出してあげられるくらいの小さな芝生の庭、2本の梅と1本の桜を植えた裏庭、8畳の居間に24インチの液晶テレビと食事の時だけ出すちゃぶ台。キッチンだけは広めで最新設備。1階にシンジとマナが一緒に眠る寝室、2階の2部屋がそれぞれレイとカヲル用。
たったそれだけの小さな家だけれど、きっとこれからずっと4人で幸せを紡いでいく、そんな家。

未来のことはわからない。
大学を出たら、学んだ経営学を活かせるかどうかは甚だ怪しいけれど、何となくレストランでも開きたいなとは思っている。マナはきっと、そこでウェイトレスをやると言って聞かないだろう。
レイは相変わらず「碇君と一緒なら」と言っているし、カヲルもこの家を出て行こうだなんて欠片も思っていない。

だから僕たちは、ずっとここで生きていく。
4人で、幸せを紡ぎながら。

《あとがき》
いえなんて言うかですね、ただ書いてみたかっただけなんですよ。鋼鉄はプレイしてないしよくわからないんですけど。
プロット的にさらっと流して書いただけですので、内容が薄いことも承知しています。それと階級なんかもわざとですので、あんまりいじめないでくださいね……

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