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綾波レイ、推定16歳、いや自称とか詐称とか他にもいろいろとつきそうなのだが、とにかく彼女は今猛烈に悩んでいた。
何に悩んでいるのか、と問われれば「感謝の言葉がうまく言えない」という、ごく普通の人間であれば「なんでそんなことを」と呆れるであろう内容だけれども、彼女は非常に真剣だったのだ。
何度か頑張ってみようと試みてみたものの、実行できない。
それはタイミングが悪いのか彼女の努力が足りないのか、はたまた別の理由か。

いや、機会は与えられているのだ。割と。
問題は彼女の……何と呼べばいいのだろうか、そう、照れとかなんとか、そんな感じの何かが邪魔をしてしまって、ようやく言おうと思った時には完全にチャンスを逸してしまっている。
こんな自分に誰がしたー! なんてキャラに合わないことを内心で思って、髭司令とかパツキン科学者とかのせいにして心の中でじったんばったん暴れてみるのだが、そんなことをしても問題の根本的な解決になりはしない。

そして今日もこうして機会を逃してしまう。

「あ。綾波、消しゴム落ちたよ……はい」
「あ……」
キーんコーンカーンコーン。
「おや。では今日はここまで」
「きりーつ、れーい」
「あ、あ……」
「? どうしたの、綾波」
「おーいシンジ。飯食おうぜ」
「あ、うん。それじゃ綾波、また午後ね」
……そう、眼鏡とジャージは私の敵なのね。

とまあこんな感じに。
最近の第三新東京市立第壱高等学校1年E組のクラスメイトたちは、神秘的な雰囲気をまとった美少女が、半開きにした口をそのままにがっくりうなだれるという、かなりお間抜けなふいんき(誤字にあらず)を見慣れた光景として、礼儀正しく見なかったことにするのであった。今日も。

neon genesis evangerion - ありがとう。

そうなのだ。
以前呟いたように、「ありがとう。感謝のことば。初めてのことば。あの人にも言ったことないのに」なのである。いやまあ、あの人のことなぞ今となってはどうでもいいことなのだが。それは彼女が生まれてから16年間、そんな機会についぞ会ったことがなかったとも言え、だからと言ってそのまま放置した髭とかパツキンとかサングラスとか眉黒とか、とにかく彼らの責任がまったくないかと言われればそんなこともないと思ったりもするのだ。

「そんなわけで、責任とってください」
「き、急に何なのだ、レイ」
Nervの誇る局地戦用人型決戦少女、つまるところ主に男性専用の最終兵器であるところの綾波レイ嬢、詐称16歳の襲撃を受けた司令室では、碇ゲンドウがびっくりしてずり落ちたサングラスを掛けなおしながら口を開いた。
「せ、責任とか、そそそ、そんなことは何も……っておい冬月! なんだその疑わしげな視線は」
「別になんでもないぞ」
「嘘をつくな、いかにも『俺のシナリオにはないぞ』とか言いそうな目つきだったではないか!」
「話の辻褄が合わんぞ碇。何を動転している。まさかお前……」
ジトリ、と擬音が出そうなくらいの胡散臭げな視線を流す。
対するゲンドウは汗ダクダクだ。ゲンドウの名誉のために言っておけば、確かに冬月が疑うような何事もない。が、それまでの言動が言動なだけに、これまたゲンドウなだけに……そんなことはいいとして、レイが無表情に言うとどんな台詞でもものすごくリアルに感じられる。
「そう。私はもう用済みなのね」
「ぬがぁっ?! レイっ、こんなところでそういう事を」
「あら、いいじゃありませんか。私も興味ありますわ」
「ひぃっ?!」
どこから湧いたのか、にっこりと笑う白衣の悪魔。その名も碇ユイ、推定年齢……やめておく、何だかとても無駄な気がするから。
「ふむ、『もう』ってことは今までは何らかのコトがあった、と」
「ふ、ふふ、冬月っお前は何もないことなぞ知っておろうがぁっ! それ以前にカタカナで言うなっ」
「あらあらうふふ(棒読み)。さて、レイ、私がこの外道に責任を取らせてあげるから、悪いけれどあなたは他を当たりなさいな」
わかっててやったとは言え、さすがのレイにも今のユイはちょっと恐ろしかったようだ。カクカクと首を振ると逃げるように司令室のドアを出て行った。

ドアが閉じたところでほっと息をつく。
冗談じゃない、司令はどうしてあの人をああまでして求めたのだろうか。下手したら使徒より恐ろしい。いや、間違いなくそうだ。
とにかく、あの目はもう忘れることにしよう。うん、精神の安定のためにもそれがいい。
そう決めるとレイの足は司令室から遠ざかっていく。私は何も見なかった。司令室、なにそれおいしいの? みたいな。そう、何も見てない。

後ろから追いかけてくる断末魔っぽい悲鳴も聞かなかったことにしようと思った。

「そんなわけで責任とってください」
「あのねぇ……」
自室と化した研究室で、赤木リツコ女史さんじゅうげふんげふんはこめかみを押さえつつ呆れた声を発した。
ゲンドウとの絆を断ち切った彼女は最近とても穏やかな日々を過ごしていたのだが、そのせいなのかどうかマヤがやたらと引っ付いてきたり、雰囲気が柔らかくなって頼みやすくなったせいで色々な雑事を押し付けられたりと、ここのところちょっぴり機嫌が悪い。
そんな所に突然現れたレイの一言がこれだ。
「藪から棒に何だって言うのよ。そもそも私に何の責任をとれ、と」
「それは、かくかくしかじかだからです」
「なるほど」
「わかったのですか」
「ええ。『かくかくしかじか』ってのが非常に便利な言葉だってことと、この作者がここまでの、たかが80行程度で飽きるような下衆野郎、ってことはよくわかったわ」
「……そう、良かったわね」
「それで? 確かに私にも責任の一端はあるとは思うけれど、シンジ君に言えるかどうかなんてあなた自身の問題でしょう。その言葉を教えなかったわけではないわ」
リツコの言うことも尤もである。
むー、と黙り込んで私不機嫌です、を態度で表すレイ。リツコとて今は可愛い 作品 我が子というか妹のように思っているレイのこと、何とかしてやりたいとは思うものの、「ありがとう」がシンジに言えないなんてことを解決しようもない。
そりゃまあ、薬とか薬とかクスリとか、手がないわけではないけれどもそんなことでは根本的な解決にはならないわけだし。どうしてレイがその言葉を、しかもシンジにだけ言えないのかなんてリツコにはさっぱり(優歌的な意味で)お見通しなのだ。だから彼女が自分の気持ちの発露としてきちんと彼に伝えなければならない。

そう考えて久しぶりにする穏やかな視線でむぅぅ、となったレイを見つめる。
頑張りなさいレイ、と心中で声をかけつつ、慰めて背中を押して、そんでもってとりあえずちゃっちゃとお引き取り願おうと思った。なにせ仕事がたまっている。

が。
こんな時に限ってよりにもよって、という人間が邪魔をしてくるのはお約束みたいなもので。

「あっら〜レイ。そんなこと簡単じゃないのよ」
「……魅詐堵」
「ちょ、ちょっとリツコ! なんなのよその当て字はっ」
「気にしないで。あなたの扱いを雰囲気だけ漢字にしてみただけだから」
むぅぅ、ではなくぬがぁっ! と化け物ちっくに騒ぐ加持(旧姓葛城)ミサト御年さんじゅうぐふんげふんんっンウンッンッ惨状。もとい、参上。
これで絶対ややこしくなるわ、主にシンジ君が。と再びこめかみを押さえるリツコ。が、対象がシンジであるだけにちょっとだけ他人事。痛みもさほどではない。
「まったくよね、ファーストもそんな簡単なことで悩むなんて、バッカじゃないの」
「……施奸怒」
「あんたもかっ! いらん当て字するな!」
今度はがおーっとセカンドチルドレン省略登場。
出てくると煩くなるだけ、な2人の登場にレイとリツコは揃って溜息をつくが、それがまた彼女らのカンに触ったらしい。
「まったく失礼しちゃうわね。リツコが困ってるようだから助けてあげようと思ったのに」
「ほんとだわ。ま、アタシはファーストが困ってようが何だろうがいいんだけど。面白そうだからこのアタシがズバッと解決したげるわよ」
「ミサトはともかくとして、アスカ、あなただってレイと似たようなものじゃないの」
「そんなことないわよ。アタシだってお礼くらいちゃんと言うわ」
「そうかしら」
アスカの言葉に首を捻るリツコ。
確か……

『あ、リツコさん』
『こんにちはシンジ君。どうしたのこんなところで。今日は休みじゃなかったかしら』
『はあ、まあそうなんですけど。何か、家よりNervの方が安らぐっていうか』
『職場の方が安らぐってのはどうかと思うけれど。家のことで何か悩みであるんじゃないの……って、そうね、聞くまでもなかったわね、あのミサトと一緒じゃ』
『ははは……まあそうなんですよね。家事をするくらいは別にいいんですけど』
『あら。なら他に問題があるのね』
『そうですね、何て言ったらいいのか。こう、やりがいがないというか』
『やりがいがない? 家事の、ということ?』
『ミサトさんもアスカも、僕が家事をして当たり前みたいに思ってますから。料理にしたって、それなりに考えて作ってるのにミサトさんは何食べても「美味しい」しか言わないし、まあそれはまだ言ってくれるだけマシなんですが』
『アスカ、ね』
『アスカはもう、何をしても文句しか言ってこないですからねぇ。お礼が欲しいわけじゃないけど、やっぱりやった甲斐がないですよ』
『困ったものね。幾ら家事をすることに負担を覚えなくても、結果がそれじゃあね。そろそろシンジ君も入試が近づいてることだし……家の方が精神的負担が大きいってのは問題だわ。ふむ……』
『リツコさん?』
『決めたわ。シンジ君、あなた引越しなさい。いいきっかけだわ、両親といつまでも別居しているというのもそろそろ不自然だし』
『は?』

「とまあ、こんな会話がシンジ君の引越しに繋がったんだけど? 何か言いたいことはあるかしら、アスカ」
「ぐぅ」
事実だった。折角シンジがユイやゲンドウとの同居を断って、ミサトやアスカとの生活を選んでくれたのに、それを自ら壊したのだから。

「赤木博士、『ぐぅの音も出ない』とはこのようなことを言うのですか」
「今出てたでしょう、だからもうちょっとやり込められた時のことを言うのよ、レイ。こういう時の台詞は……」
「無様ね」
「GJ!GJよ、レイ。さて、アスカの無様はこれでいいとして、ミサトにしたってシンジ君が出て行くきっかけを……」
「そ、それよりもほらっ! レイの問題を解決しないと、ね、ねっ!」
矛先が自分に向きそうになったミサトが、慌てて話題を戻す。
リツコもレイも、そんなミサトをちょっと白い目で見たが、とりあえずの問題が解決していないことは確かだ。
「まいいわ。でミサト? あなた『簡単』だって言ってたわね。何かいい方法でもあるわけ」
「もっちろんよ」
自信満々に胸を張る。その誇らしげな双丘を見てレイが顔をしかめつつ、
「どんな方法ですか、加持三佐」
「ふっふ〜ん、リツコ、あんたアスカがシンちゃんにお礼を言わないみたいなこと言ってたわよね」
「シンジ君が自分で述懐したことだけれどね。でも私だってアスカにお礼なんて言われたことないわよ」
そう言いながらレイに確認の視線を流す。
受け取ったレイもこくん、と頷いて同意を示した。
「ところがどっこい」
「年がばれるわよ、ミサト」
「うっさいわね、とにかくアスカだって感謝くらい示せるってことよ。ほれアスカ、起きた起きた」
床に撃沈していたアスカを起こすと、
「私とかリツコとか、Nerv関係には突っ張ってた過去があるからなかなか直せないのよね。で、シンちゃんに言えないのはいわずもがな」
「ちょっとミサト! 余計なこと言わないでよね!」
「あっら〜ん、余計なことって何かしらん。ああ、アスカがシンちゃんにツンデr」
「わーわーわーわー!!」
「煩い、施奸怒」
「その当て字止めなさいっての!」
怒りなのか照れなのか、耳まで真っ赤に染めたアスカ。このままじゃ進まないと思ったかミサトが苦笑しながら、まあまあと宥める。
「とにかく。こんなアスカでも照れずにお礼を言える方法があるってことよ」
「だからそれを早く言いなさい、ミサト」
ミサトの「こんなアスカ」という言葉に反応してぶつぶつ言うアスカを視界からあえて外しながらリツコが尋ねる。レイも興味深々の目つきでミサトを見つめた。
「ふふふふふふ、それはね」
「それは?」
「ずばり、ドイツ語よ」
「ドイツ語?」
「ああ、なるほどね」
鸚鵡返しのレイ、何かに納得したリツコ。

「そう、アスカがお礼を言う時って大体ドイツ語なのよね。かく言う私も、シンちゃんにお礼を言う時って結構『さんきゅー』で済ませてしまってるし」
「それは大人としてどうなのよ」
「やっぱほら、母国語だとどうしても照れが入ったりするじゃない。外国語だと軽い気持ちで言えるんじゃないかな、と」
「なるほどね……ミサトにしちゃ的を射てるじゃないの。わかるような気がするわ」
ふむふむ、とリツコ。
そのままレイへ向き直ると、
「レイ、まずは軽く言えるところから始めてみたらどうかしら。ミサトの言うことも一理あるわ」

そんなこんなで「ありがとう」でなければ軽い気持ちで言える、という結論を得たレイは、どうでもいいから全員さっさと出て行けといわんばかりのオーラを出すリツコの部屋を後に、とりあえず次のステップへ進むことにした。

「お礼の言葉だって? 英語でサンキューじゃだめなのかい」
マコトは作業の手を休めてレイに振り返った。
「それではインパクトがありません」
「インパクトって。レイちゃんならサードもフォースもインパクトならお手のものじゃ……ごめんなさい」
下手なジョークを言う青葉シゲルをひと睨みで黙らせる。
どうやらお礼と言うと同時に、シンジに更に強く自分を印象付けようということらしい。ノーリスク・ハイリターンを狙う女、綾波レイ。
「英語じゃダメとなると」
「ドイツ語とかは。アスカちゃんが喋ってるから、教えてもらえるじゃない」
「セカンドと同じでは印象が弱くなります。それに日常会話くらいならセカンドに教わらなくても問題ありません」
先輩から言いつけられた仕事、全然終わらないのになあ、とちょっとブルーになりながら、あ、でも終わらなかったら先輩から愛のお仕置きが……、とどうにもあっちゲな妄想を繰り広げるマヤが提案するも、4ヶ国語くらいは素で話せるレイにより却下。

「オランダ語とかは」
「ドイツ語と大して変わりません」
「じゃ、フランス語」
「はんずぼ〜ん、ながずぼ〜ん、とか言う言語は嫌」
「何、それ。うーん、ラテン語」
「グラティアス・アゴ。なんか顎が嫌」
「顎ってレイちゃん……じゃあポルトガル語」
「碇君が勘違いしそうです」
「どう勘違いするんだ?」
と、こんな感じで次々とダメ出し。乙女心って難しい、とマコトやシゲルが思ったかどうかは知らないが、数十ヶ国語を提案しては却下され、しまいには「どうやって調べればいいんだ」ってくらいにマニアックな言語まで出した末に。

「それでいくわ。3人とも、ありがとうございました」

つかつかとオペレータルームを出て行くレイ。
その後ろ姿を見ながら疲れた表情でマコトが呟いた。
「言えるじゃん、お礼」

「大丈夫、綾波? 何かして欲しいことがあったら言ってね」

どうしてこんなことになったんだろう。

保健室のベッドの上で、綾波レイは毛布を整えてくれる碇シンジを見ながら呆然としていた。いや、呆然というか、ぼぅっとしていた。
保健室にいるからといって、別に熱のせいではない。
バレーボールでつき指したとか、そういう怪我をしているわけでもない。だいたい今日は体育の授業はない。
月に一回のあの日でもない。そもそもレイにそんな日は存在しない。

「水、飲むかい?」
毛布を整え終わったシンジが覆いかぶさるようにして聞いてくる。どうやら気を遣って小声で話しているため、聞こえるようにという配慮らしい。
が、そんなシンジの真剣に優しげな顔を間近に見てしまったレイの反応はと言えば。
「あっ、だ、大丈夫、綾波。なんかさっきよりも苦しそうだよ。顔も赤いし……熱が出てきちゃったのかな。辛かったら病院行こうか」
「へ……平気」
小さく口の中で呟くのが精一杯。
こんなに美味しいシーンに、(偶然)なったのだから病院へ行くなどとんでもない。もったいなくてそんなことはできっこない。
「そう、じゃあ僕は教室へ戻るから……って。綾波?」
後ろ髪を引かれつつも、今はまだ授業中。しかもシンジの苦手な代数・幾何。仕方なく教室に戻ろうとしたシンジの裾を、つい、と引っ張る感覚に彼は視線を向けた。
真っ赤な顔を毛布の下に隠しつつ、目だけを少しだけ出して、
「あ、あの、碇君、もう少しここに……」
それ以上は言えない。なんかすごく恥ずかしい。
お礼を言うよりも。

でもシンジにはここにいて欲しい。
ぶっちゃけた話、どこも悪くないし、生理がないことを除けばそこはリリス、並の人間なんて比較にならないくらい健康優良児そのものなのだから、保健室なんて彼女の学校生活においては最も縁遠い場所。
そんな非日常な場所で、シンジと2人きり。
そう、ここは誰にも邪魔されずに2人きりになれる場所なのね。

誤った知識をインプットしつつ、お願いがどうしても言えなくてシンジのシャツの裾を握ったまま黙り込んでしまう。
そんなレイの姿をしばらくきょとん、と見つめていたシンジだったが、
「うん。わかったよ綾波。君がいいって言うまでここにいるから。だから安心して休んでていいよ」
は、と顔を上げて手を離したすきに、丸椅子を引き寄せてレイの枕元に位置取る。

シンジはシンジで、レイが丈夫なことはわかっているのだが、彼女がリリスであることが科学的に理解できないため、やっぱりそういうのって何かこう、身体に変調をきたすこともあるんだなあ、なんて思っていた。
だから、自分にはよくわからないし、治してあげることもできないけれど、綾波が望むのなら、それで少しは楽になれるのならいくらでも付き合ってあげよう、そんなことを考えていた。

一般教室から離れた、中庭に面した保健室で、あけっぱなしの窓から入る風がカーテンを揺らす。
音楽の授業が、学科を終えて鑑賞に入ったのだろう、中庭を挟んだ向こう側の特別棟からクラシックが流れてくる。

そんな穏やかな時間の中で、少しばかり眠気を覚えたレイ。
いつもと違う光景とゆっくりと寄せてくる無意識への誘いから、ちょっとだけ大胆になれたのかも知れない。

「あの、碇君」
「なに、綾波」

「手を……握っててくれる?」
一瞬だけ、驚きに目を見開く。
けれど、風に撫でられたシンジの前髪が降りる頃には、すぐにいつもの微笑みを浮かべて、
「うん、いいよ。綾波」

教室は戦場。
物騒なことを考えながらレイは教室の扉を目の前にしていた。
ここを開けて、廊下側2列目の真ん中辺り。このドアからすぐに声をかけられる位置に座って、きっと友達と話をしている碇君に、昨日から練習したあの言葉を言う。
登校してすぐの挨拶が「ありがとう」なんてことはそうそうないシチュエーションだが、そこら辺は抜かりない。昨日の帰り際、Nervに用事のなかったシンジからIDカードを忘れたフリして借りていたのだ。
つまり、

『綾波、今日はNerv?』
『ええ。……あ』
『どうしたの』
『カードが』
『忘れちゃったの? あ、なら僕の貸してあげるよ。今日はNervに用事、ないから』

とまあ、そんな感じ。
もちろん、レイのIDカードはしっかり彼女の鞄の中に入っていたが。

とにかく。
IDを借りたお礼を言うのだ。
シミュレーションはOK。まずドアを開ける。碇君が気づく。「おはよう、綾波」「おはよう碇君」ここまでは問題ない。これくらいの挨拶は日常だ。
そのまま碇君の机に行ってカードを取り出し、お礼。
完璧。

ふー、と大きく息を吐き出すと、レイは教室の扉を開けた。

「あ、おはよう綾波」
「おは(↑)よう、碇君」
「?どうしたの綾波、何か声が裏返ってるけど」
「な、なんでもにゃいわ」
「……ほんとに大丈夫?」
「だ、大丈夫よ」
「そう? ならいいんだけど」
「あ、あの碇君っ!」
「ははは、はいっ?!」
「こここ、これ、IDカード……」
「あ、ああ、昨日貸したやつね」
「あ……」
「綾波?」
「アイタッ!」
「え? どこか痛いの、綾波っ! やっぱりどこか悪いんじゃ……ちょっとゴメン、綾波を保健室に連れて行くから。先生に言っといて!」
「え、え、あ、あれ……い、碇君?」

どこをどう間違えたのか。
いや、間違いとかではなく、ただ単純にそうとしか聞こえない、というのがレイの敗因(?)だったのだろう。
「Aitäh」、エストニア語で「ありがとう」。発音すれば「アイタ」。
挙動不審で顔を上気させ、きょどりながら言えばシンジでなくても勘違いしそうだ。

でも、結果オーライ。

気持ちのいい風と穏やかな時間だけが流れる保健室で、レイは眠りに落ちつつ満足そうな笑みを浮かべた。
そう、これはとても気持ちのいいこと。
シンジにお礼も言えた。
こうして2人だけの時間も作れた。
さらには、手を、繋いでいてくれている。

一石二鳥どころか一石三鳥に……なった……わ……。

眠りに落ちる直前、シンジの声を聞いたような気がした。

「無理しなくていいよ、綾波」
まぶたが完全に閉じて、軽い寝息をたてはじめたレイを見つめながら、シンジは呟いた。
ここ数日、レイが何かに悩んでいる様子だったのは何となく感じていた。
それが何かはわからないけれど、きっとそれは今朝の挙動不審に関係があるのだろう、と思う。
そしてその悩みが解決されたのだということも。
こうして安心して眠っているのだから。

悩みがあるのなら言って欲しいと思うし、使徒戦から2年とちょっと、時間は短いけれどそれなりに濃密な時間を過ごしてお互いに少しは分かり合えてきていると思う。
だから、何かを抱え込んだままでいられるのは不満にも思うけれど、誰にだってそういうところはあるのだろうし、まあ仕方ないかな、と納得しておこう。
それに、これからの時間もあるのだから。

普通の高校生、大学生、そして社会人として過ごしていく中で自分とレイがどうなるのかなんて、明確な答えを出せる人なんていない。けれどきっと、自分にとって綾波レイという少女が、女性になっておばあちゃんになって、どれだけの時間が経ったとしてもきっと、最も大切な存在であることだけは自信を持って言える。
重ねていく時間の中で、自分もまたレイにとってそういう人間になれればいい。
そのためにこれから、もっとお互いをよく知っていけるように努力しよう。

微風に動いた蒼い髪を撫でてやりながら、シンジはそう思った。

だから。
少しずつわかりあって行こう。
そう決めたのだから。
そのために、サードインパクトを乗り越えたのだから。

「僕たちには、たくさん時間ができたんだから」

開けっぱなしの窓から入ってくる風が、少しだけ熱を帯びてきた。
そろそろ昼が近いということなのだろう。太陽の位置がさきほど眠りについた時よりもだいぶ高い。
廊下の向こうにざわつきはないから、まだ昼休みにはなっていないと思われる。

ふ、と目を覚ましたレイは、身体を起こすと右脇に目をやる。
そこには当たり前だけれども、自分自身の右手。
そしてそれに繋がれた思いびとの手。
その先にはいつの間にか眠ってしまったクラスメイトで戦友で、将来の旦那様(と勝手に決めている)である少年、碇シンジ。

まだ夏まではもう少しある。
熱を含んでいるとはいえ、まだ湿気を持たない乾いた風が気持ちいい。
こうして穏やかで、幸せな時間を過ごせるのもシンジがレイの存在を望んでくれたからだ、と思うと愛しさが一層大きく深くこみ上げてきて、寝ている彼を抱き締めたくなってしまう。

———ダメ、碇君が起きてしまう。

そんなわけで彼女は、彼が目を覚ますまで楽しかったこれまでと、幸せな今をかみ締めながらのんびり待つことにする。
繋がれた右手をそのままに。

そうだ。
不意に思い出す。そういえば目的をまだ、果たしていなかった。
ゆっくりと眠っている少年に覆いかぶさるように身体を近づけ、レイは小さな声でそっと囁いた。

「ありがとう、碇くん」

夏が近づいていた。
きっと彼と彼女にとって、楽しい思い出ばかりになるだろう高校2年生の夏が。