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どこかで音がした。
遠い、とてつもなく遠い時間と、長い、とてつもなく長い空間の挾間で。
彼はその音を、ずっと昔に聞いたことがある、と思った。
いつだったか、どこだったか。それはわからないけれど、果てしなく深い記憶の底の底、眠る意識の下でその音は未だに鳴り続けている、そんな思いを持った。

「会いたいな」

その記憶は何かとても懐かしく、そして同時に哀しい記憶なのだと。
それは彼に告げていた。

neon genesis evangerion - Selbst Verständnis Welt

碇シンジの朝は、幼馴染の怒鳴り声で始まる。

「バカシンジっ! いい加減起きなさいよ!」
程よい大きさの目覚まし代わり……とはいかず、鼓膜を突き破って壁にぶち当たるのではないかと思われるほどの大音量が、耳元でがなりたてる。本人に言わせれば、目覚まし代わりに美声を聞けるのだから感謝しなさい、となるのだが、彼にしてみれば臨死体験したヒキガエルの断末魔で起こされた方がマシ、となる。もちろん、そんなことは恐ろしくて口には出せないが。
「んぁ、アスカ、おひゃよふ」
「まぁ〜だ寝惚けてるみたいね。じゃあ、いつものアレ、お見舞いしま」
「起きました! きれいさっぱり起きました。ついでにあっちはちゃんと寝ました!」
常日ごろから臨死体験をしている彼にしかわからない、幼なじみの剣呑な技名が出てくる前に慌てて覚醒する。
「はぁ?何言ってるのよ。ちゃんと寝たって、何のこ……」
言いかけながら気づいたのか、アスカの顔がみるみる赤くなる。なるほど、温度計みたいに下から赤くなっていくのって、漫画やアニメの世界だけじゃないんだなあ、とシンジが数秒後に迫る生命の危機を感じ取ることもできずにのほほんと考えていると、
「こっ……」
「こ?」
ワナワナとアスカが震えだす。彼女の脳裏には、思い出したくもないが先日見てしまった、立派な円錐が浮かび上がっていた。
「このっ……バカーーーっ!!」

どかんがちゃん。
日課となった息子の部屋から聞こえてくる、破壊音や悲鳴やら、様々な雑音を耳にしながら、それでも碇ユイは動じずに朝の準備を着々と進めていく。
「あらあら。シンジにも困ったものね」
「ああ、そうだな、ユイ」
これまた何の変哲もない、ただ聞き流しながら返事を適当に返したという感じの答えが返ってくるのもまた、日課のひとつではあるが、こちらはユイにとっても何か言ってやらないといけないもののようだ。
「あなた、新聞読みながら食べるのは止めてくださいっていつも言っているでしょう」
「ああ、そうだな、ユイ」
返ってくるのは先ほどと同じ返事。まあ生返事でも返してくるだけマシかも知れないが、碇家の主婦はそう甘くなかった。
「あ・な・た」
むぎゅっ。
「ぐぉっ! いだ、いだだだだ、痛いぞ、ユイっ」
耳を掴みあげられて悲鳴を上げる夫、ゲンドウに凍りつくような微笑を浮かべる。
「毎朝毎朝、いい加減にしてくださいね。シンジが真似したらどうするつもりです?」
「あだだだだっわ、わかった、わかったから許してくれ、ちっ、千切れてしまうっ!」
「まったく、もう」
涙目で懇願するゲンドウに、溜息をつきながらようやく手を離す。どうせ明日になれば忘れてまた新聞を読みながら朝食を摂るのだろうが、動物に対する躾と同じで、毎日やればそれなりに効果が出てくるだろう。
というか、そもそも涙目の髭づらのおっさんというのを毎日見たくはないから、そういう意味で早いところ改心して欲しいものだ、と思う。
「おはよう、父さん、母さん」
片方の耳を押さえながらゲンドウが突っ伏したところに、シンジが着替えてやってくる。ユイは常々不思議に思っているのだが、
「おはようシンジ。ところでアスカちゃん?」
「はい、なんです、おばさま」
シンジの後ろから、ひょこっと顔を出した日独ハーフ、さすがのユイもあまりの美少女っぷりに時折眩しく感じてしまうシンジの幼馴染が答える。
「アスカちゃんって、シンジが着替えている間、どこにいるのかしら」
ぎくり。
と心臓の音が聞こえてしまうのではないか、というくらいに反応を示したのはシンジ。アスカの方はいたって平然とした顔で、
「シンジの部屋で教科書やノート、宿題をちゃんと終わらせているかのチェックです」
「……はぁぁぁ。ごめんなさいね、ダメ息子で」
「まあ、シンジですから。それに私がいないとてんでダメなのはもう、わかってることですし」
「そうよね。ってほら、シンジ。早くご飯食べちゃいなさい。アスカちゃんはいつものミルクティー、温めにしてあるから」
「ありがとうございます」
3人家族のダイニングに、椅子は4脚。ダイニングテーブルなんて、だいたいセットで売っているものだから4脚あるのはおかしくないが、その古び方が全く同じなのは、こうしてアスカが毎朝使うからに他ならない。
自分の席に腰掛けてシンジが慌しく朝食を済ませるのを待ちながらミルクティーを楽しむ。
これが惣流アスカの朝の日課であり、そんなアスカと会話をしながら所々でゲンドウとシンジに小言を言うのが、碇ユイの日課であった。
当然のことながら、ゲンドウとシンジにとっては楽しい朝の日課であろうはずもなく、どうにかしたいと思うものの原因はすべて自分たちにあるのだから、これはもう仕方のないことであるのだが。

「ほらシンジ! ぐずぐずしない」
「わかってるよ。もう、アスカは煩いなあ」
並んで通学路を早足で歩きながら、まだアスカの小言は続いていた。ぽんぽんと、よくまあ出てくるものだと思うほどにそれは澱みなく止め処ない。
一方のシンジの方も、文句を言いつつも彼女の顔を真っ直ぐ見ることができない。中学に上がってからというもの、アスカはその血のせいか他の同級生の女子よりも大人びてきて、子供の頃によく言われていた「可愛い」から「きれい」の方が似合ってきつつあるから。
早足のせいでなびく髪は朝の光に艶めいているいるし、校則違反ぎりぎりのリップに目を奪われそうになるし。
起こしにくる時は寝惚けていることもあって、単に煩いだけだとしか思えないのだけれども、こうして普通にしていると幼馴染ってだけでやっかんでくるクラスメイトや上級生たちの気持ちもまあ、わからなくもない。
「そう言えば、さ」
「なによ」
見惚れてしまいそうになるのを隠すためか、やや強引に話を変える。
「今日、転校生が来るんだってね」
「ああその話ね。昨日相田が騒いでたやつでしょ。ま、この町も首都になって、これからどんどん人が入ってくるから、そのうち珍しくもなくなるんじゃない」
「うん。どんな子なのかなあ」
「どんな子、って。シンジ、あんた女の子だって知ってるの?」
「なんで? 知らないよそんなこと」
「なら、どんなヤツか、かも知れないじゃないの」
呆れながら溜息をつくアスカに、
「そりゃそうだけどさ。女の子だったらいいなあって話。きれいな子だったらもっといいんだけど」
うっとりと、絵に描いた餅どころではない妄想に鼻の穴を広げるシンジに、アスカは不快そうに言い放った。
「ふん、なによ。ばっかみたい」

そこに恋心があるのか、と言われれば、彼女は即座に考えることもなく否、と答えるだろう。
独占欲はある。ただしそれは、友達が他の子と仲良くしているといわれのない嫉妬を抱いてしまうような、そんな淡い感情に過ぎないし、彼女の場合は幼馴染でありただの友達、よりも長く親密な関係を築いてきた時間が強くそうさせているだけだ。

「おはよ、ヒカリ」
「おはようトウジ、ケンスケ」
だから彼らの通う、第三新東京市立第壱中学校2年A組の扉を開け、挨拶と同時に飛んでくるコミュニケーションも軽く流すだけ。
「おはようアスカ」
「よ、シンジ」
「おはようさん、センセ。なんや、今日も仲ようご登校かいな」
「そりゃまあ、隣同士だからね」
そこはシンジも同様なのか、それとも単に慣れただけなのか。彼は彼で考えることもあるのかも知れないが、そう軽く受け流されると、自分だってそうなのになぜか苛立ってしまう。
「まったく。相変わらず3バカは3バカね」
「アスカ、いい加減聞き流したら? 相手にしてたらキリがないわよ」
ヒカリの言うことは最もだし、アスカにだってわかっている。だから教室のドアを潜って冷やかしの言葉を聞くところまではどうということもないのだ。問題は、シンジの答え方にあるのだから。
もちろん、そんなことをヒカリに言うわけにはいかないし、ましてや3バカに聞かれてしまうのも困る。3年の先輩たちの誰よりも大人びている美少女が、まるで小学生みたいな嫉妬をしている、なんて。
「わかってるわよ、ヒカリ。安心して。3バカを相手にするほどバカじゃないから」
「なんやて? 相変わらず傲慢な女やな」
「まったく。その性格がカメラには写らないことに感謝するんだね」
「なんですって? もう一回言ってごらんなさい、このジャージバカ」
「じゃ、ジャージバカやとっ?!」
「まあまあ、アスカもトウジも、いい加減にしておきなよ」
「うるっさいわね、バカシンジは引っ込んでなさい!」
「そや、センセ、これはわいとこの高慢ちきの問題や!」
そして始まるいつもの喧騒。
間に入っておろおろしているシンジと、次第にヒートアップしていく2人を見ながら、クラス委員長であるヒカリはいつ止めに入るか、というか言ってる傍から挑発に乗るってどうなのよアスカ、とこめかみを押さえながら呟いていた。

「おっはよー諸君っ! 今日も元気かねー?」
がらり、と勢い良くドアを開けて入ってくるのは、クラス担任の葛城ミサト。
豪放磊落、明朗快活、些事無用のうえ問答無用なその性格で生徒には人気だが、先生、特に教頭の受けはあまりよろしくない。友人である理科担当教諭の赤木リツコなどは、度々指摘して生活態度から授業態度まで改めるよう口をすっぱくして言っているのだが、直る気配は見えない。
さすがに彼女の授業の隣で授業をするのは嫌だ、と新任教師に言われるような授業方法だけは何とかして欲しいものなのだが。
「ぃよぉ〜しっ! 出席は……全員いるってことにしておいて、と」
いやそりゃまあ、見ればわかるけどさ。ってことにしておいて、と生徒の前で職務放棄するような発言はどうよ、なんてA組の生徒は誰一人思ったりしない。夏休み頃までは突っ込む生徒もいたが、さすがにもう慣れた。
「じゃあ、HRは終り。みんな、後でねー」
「って先生!」
「それで終りじゃないだろー」
「何か抜けてるって、何かっ!」
いきなりHRを終了させて教室を出て行こうとしたミサトを、さすがに生徒が止める。
転校生の話題は昨日からあったのだ。これから珍しくもなくなるというアスカの指摘は全員がわかっていることだったが、とりあえず今現時点では珍しいことと、始業式ではなくこんな時期に転校してくるということも彼らの興味を激しくそそるのだから、それをなかったことにするってのは勘弁して欲しい。
「あははは、やっぱり知ってたのね」
そりゃそうだ。というか昨日、帰りのHRで言ったの先生じゃん。という突っ込みを生徒たちは呑み込んだ。ここで拗ねて長引かれても困るし。
「んー、なら紹介しましょう! むっふっふっふ……」
怪しい笑いを浮かべる。男子も女子も、未だ性別が明らかにされていないのでどちらもが興味深げだ。
ミサトは自分の発言に生徒が注目していることに満足すると、
「喜べ!」
がたんっ!
全員が身を乗り出す。シンジやアスカも例外ではない。何となく周囲の雰囲気に呑み込まれてしまったようだ。唯一平静でいるのはヒカリくらいだろうか。
「女子ー! とびっきりの美少年よーっ!」

もの凄いことになった。真剣にシンジはそう思った。
耳を押さえながら。
男子の落胆と女子の歓声に、シンジとてがっかりしたのはしたのだが、あまりの反応の凄さに引いてしまった。
「———、————!!」
「えー、なにーっ!聞こえないよ、アスカぁっ!」
「—!———、——っ——!」
「わかんないってばぁーーっ!」
隣の席のアスカと会話をするのでさえこれだ。アスカも耳を押さえて一生懸命がなりたててるようなのだが、何を言っているのかまるでわからない。恐らくシンジの声も届いていないだろう。
諦めて溜息をついたアスカから視線をずらし、その前の委員長を見てみると、こちらは完全に机に突っ伏して沈黙していた。度々一人でこの状況を作り出すくせに、自分自身は免疫がないらしい。

「静まれ、静まれーーっ! こぉらあんたたち、紹介できないでしょうがっ!」
さすがにミサトにとってもこの騒動は想定外だったらしい。ミサト自身が作り上げたと言ってもよいクラスの雰囲気だが、若者の適応力と発展性を舐めたらいかんなあ、とちょっとだけ反省。
ミサトの声に反応したのか、次第に収まるクラスに、ようやく紹介できる、と溜息をついてドアの方へ手を差し出す。ちょいちょい、と手招きをしながら、
「さ、入ってきていいわよーん」

教室の前方の扉に注意が集まる。
ドアが開き、転校生が教室に一歩を踏み出す。
2歩、3歩、教卓のミサトへ近づいていく姿に、女子も声を出さずに見入っている。

少年がミサトの隣に立つ。
「じゃ、自己紹介してもらえるかしら」

「はじめまして。渚カヲルです」

「なんなんだよ、まったく……」
昼休み、中庭の花壇の縁石に腰掛けてシンジはぼやいた。
校舎の影が辛うじて夏の陽射しを遮る一角。視線を先に延ばせば、真っ白に輝く芝生が眩しい。照り返しがあるものの、外にいる分だけ風通しは良く、人いきれのする教室にいるよりは涼しく感じられる。
時折、風が彼の前髪と葉を揺らして通すぎていく。
そんな日に似合わない暗い溜息をつき、見上げた視線を足元に落とす。土の上には風がたまったまま、そよとそよぎもせずに熱気を積もらせていた。
「はぁっ、なんで僕がこんな目に合わなきゃならないんだよ」
転校してきた生徒は男子生徒だった。これはいい。シンジとしても女子生徒の方が、それも可愛ければ可愛いほど良かったのは確かだが、別段それほど気にしているわけでもない。
その少年は、そう、同じ男であるシンジから見ても美少年の類に入ることは間違いないほどのもので、そのことで女子生徒が大騒ぎをし、とてもHRどころではなくなってしまった。これも別に構わない。そもそもあの葛城先生のHRがまともに行われたことはないのだから。
そりゃまあ、男としてはやっかみを多少感じてしまったことは否めない。シンジだって不能なわけでもホモなわけでもないのだから。
そう考えて、彼は再び大きな溜息をつく。
そう、ホモではないのだ、彼は。

『じゃあ、渚君は一番後ろのあの席ね』
『はい』
ようやく落ち着いた教室を、最後尾に向かって歩く。その姿さえ女子の羨望を集めるらしく、彼の背後に視線が集まる。
後ろから3番目、シンジの席まで来たところで彼の足が止まる。
何事か、と思って見上げたシンジの目に、なぜか黒い彼の髪が銀色に見えた。
『あ、あれ?』
こちらを見つめる瞳にも赤みが混ざっている。けれどシンジは、"彼がこちらを見ている"という事実にも気づかずその場で足を止めた転校生を凝視していた。
『君は、碇シンジ君だね』
周囲の生徒もその雰囲気に妙だ、と思い始めた頃、ようやくカヲルを口を開く。
『えっ? あ、うん。そうだけど』
カヲルの台詞に気づくのが遅れたシンジが、はっとして返答する。
その様子を見たカヲルは、一度シンジから視線を外して教室を見渡した。
窓側の奥から廊下側へ視線を動かし、そこから前へ進ませようとした彼の眼が途中で止まる。そこにあったのは茶色の長い髪、アスカもまた興味深そうにこちらを見ている。
その様子を見たカヲルが、ふ、と口元に微笑を浮かべる。
周囲の女子がまたきゃあきゃあと騒ぎ出すが、彼はそんなことに頓着していなかった。
『君たちの時間には、負けないよ』
呟いた台詞は女子の声にかき消されそうになったが、辛うじてシンジの元には届いていた。
『えっ?』
何のこと?そう尋ね返そうとしたシンジに、もう一度顔を向けて繰り返す。
『君たち幼馴染の重ねてきた時間に負けない、ということさ』
『それは』
彼の言いたいことが全く理解できなかったシンジが再度問い返そうとしたが、理解できた女子生徒たちの喚声にかき消され、カヲルに届くことはなかった。

「どういうことなんだろう、あれって」
青く、高い空を見上げながらシンジは、けれどもあれが何を意味しているのかわかっているのだ、と思った。
繰り返すが、まずもってシンジはホモではない。そしてあの転校生、渚カヲルもなんとなくだけれどもホモには思えない。耽美的だかなんだか、女子が騒いでいたようだが、それは同性愛とは異なるものだろう、きっと。
ということは。
宣戦布告、要するにそういうことだろう。
幼馴染の、ということは自分とアスカ。それ以外に幼馴染と呼べるような間柄の友達はいない。ケンスケやトウジは中学校に入学してからだし、ヒカリは2年生になって初めて同じクラスになった。小学校で一緒だったクラスメイトくらいはいるが、それとて幼馴染と言えるような関係ではなく、挨拶やちょっとした会話を交わす程度だ。
幼稚園、いやそれ以前から一緒に過ごしてきたのはアスカしかいない。
負けない、それは彼がシンジとアスカが重ねてきた10年以上の時間に負けないということであって。
「別に、僕とアスカはそんな関係じゃないんだけどな」
というより、いったい彼は何なんだろう。自分とアスカのことを知っている、ということは彼の記憶にあってもよさそうなものだが、よほど記憶力が悪いのだろうか、どんなに記憶の底をさらってみてもあの少年の面影は出て来なかった。
それはアスカも同様なようで、今も他の女子からの追求を逃れてシンジと同じようにどこかで時間を潰しているのだろうが、さきの休み時間に顔を合わせた時も特に何も言ってはこなかったし、朝のHRの時も興味がありそうな表情はしていたもののそれは周りの女子が騒いだからであって、彼女自身が何かに突き動かされたわけではなさそうだった。それくらいのことは、どれほど鈍感なシンジにだってわかる。物心ついた頃から一緒にいる幼馴染なのだから。
「幼馴染、かあ」
虚空に向けて放ってみても、実感は湧かない。その関係が当たり前すぎて、それがどういったものなのか改めて考えようにも考えられない。アスカは人気があるから、他の男子が彼とアスカの幼馴染という関係に嫉妬していることはわかっているが、シンジにしてみれば生まれた時からの環境であって、そこに嫉妬されても困る。
だいいち、幼馴染だから何だというのか。そりゃあ、朝は起こしてくれて一緒に登校するが、下校は別々だし、同じクラスにはいるものの学校にいる時間でそれほど話すわけでもない。
アスカと気安く会話するということならば、彼女はシンジと違って人見知りを殆どしないからそのことを以って幼馴染がうらやましいとはいえないだろう。
転校生だって彼の方から話しかけて仲良くなれば、それを拒むようなアスカではないのだから、「負けない」がいったい何を意味しているのか、シンジにはわからなかった。

「会ったことはないし……何だか謎だらけだな、渚君って」
「まったくね、何なのよあいつは」
「え…って、あ、アスカぁ?!」
思わずのけぞる。
不意にかかった横からの声に見上げたら、すぐそこにアスカの顔があったものだから、思わず声まで裏返ってしまった。
「何よシンジ。変声期前みたいな声出して」
隣に腰を下ろしながら、やれやれ、と溜息をつく。その溜息が今のシンジの反応に対してなのか、それとも今朝のHRから続く渚カヲル関連の騒動についてなのかは判別しかねた。
「どうしたんだよアスカ。委員長は?」
てっきり一緒に食事をとりつつどこかに避難しているのだろうと思ったシンジは、そのまま疑問を口にした。
「さっきまで一緒だったけど。あんまり付き合わせるのも悪いから私一人で逃げてきたのよ」
ヒカリにも鈴原にもね、そう付け足して苦笑する。シンジもそれに合わせながら、そう言われた時の委員長の真っ赤になって否定する顔と、そういったことにまったく気づかない鈍感な友人の顔を思い浮かべた。
「そんなに凄かったんだ。まあ、ここのところコレと言った事件もなかったからねぇ。仕方ないって言えば仕方ないんだけど」
「何ひとごとみたいに言ってんのよ」
むすっとしながら、けれどそれ以上の罵声を浴びせる元気すらないのだろう、口の中ではぶつくさと呟きながらシンジの隣に腰を下ろす。
いつものようにまた僕が愚痴を聞かなきゃならないのか。アスカの愚痴を聞いてると最後は結局口喧嘩になっちゃうから嫌なんだよなあ、と口には出さずに考える。アスカがいかに優秀であろうと、人間である以上何がしかのストレスは発生する。通常、学校ではその聞き役は友人のヒカリであり、シンジは自宅に戻ってからヒカリにすら猫を被っているアスカの、更に鬱屈した感情の捌け口としての役割を半ばというか完全に強引に求められる。
最初はアスカの愚痴をただ聞くだけだが、彼が控えめに反論や異見を述べ始めると次第に空気が険悪さを含む。彼に無関係な内容だったはずが、いつの間にかやれ『これほど優秀な幼馴染がいるという事実そのものに感謝せよ』だの『あまつさえ朝起こして貰うなんて分不相応である』だの言いはじめ、もちろんシンジがそれをただ甘んじて受けるだけということはなく、『生まれる環境なんてどうしようもないんだから、文句ならそれぞれの親に言え』『なら起こさなくて結構』と反論。
結局、何についての話だったのか2人ともどうでもよくなるくらいにわやくちゃになり、最後は『なによっ』『なんだよっ』、そして重なる『ふんっ!』で終わり。
両家の親も呆れるほど繰り返される日常なのだが、それでもアスカはシンジに愚痴を言うことをやめないしシンジもまた、最初からアスカに『聞きたくない』と言うことはない。仲がいいのか悪いのか、微妙なところだけれども、これまではこんな関係でうまくやってこれた。
そしてこれからも2人はこんな関係で過ごしていくのだろうと思っていたのは、シンジだけだろうか、それともアスカもか。少なくともシンジの中では、なんとなく今までのような幼馴染ではいられないのではないか、という漠然とした不安が湧き始めていた。
そんな不安を押し隠しながら、
「ひとごと、か」
「なによ。あんたにとってはひとごとでしょ、あたしのことなんて」
おや、と思った。いつものように攻撃的になるのかと思って身構えていたのだが、隣に座って正面を向いたままのアスカから返ってきたのは、どこか拗ねたような、甘えたような感じのする言葉だったから。
顔を向けてアスカの横顔を探るが、少しだけ俯き加減の横顔は栗髪によって、彼女がどんな目をしているのかは隠されていた。
「だって……僕に言ったってことは、僕に対する宣戦布告だよね」
色々と省かれてはいるが、もちろんアスカにはシンジの言いたいことはわかった。渚カヲル、あれがホモでシンジを狙っているとしたら、同じ『幼馴染同士の時間に負けない』という台詞は彼女に向けて放たれていたろう。
だからシンジの言う通り、あの言葉がもし宣戦布告なのであるのなら、それはアスカとシンジの間にある、幼馴染としての時間とそれによって培われてきた親密さに負けない、そういうことだ。
だとすれば確かにシンジにとっては他人事であり、普段アスカが口にしている「単なる幼馴染」としての関係以外をアスカに対して感じていないのであれば、シンジ自身はカヲルに「お好きにどうぞ」としか言いようがない。
それはわかっているのだが、だからといってアスカの心情がそれで納得するかどうかは別問題だった。
「そうかもね。でも、だったらシンジにも関係あるじゃないの」
「どうしてさ」
引き際だった。
多分ここが分水嶺で、これ以上何事かを口走ったら、否、これ以上シンジとこの会話を続けたら何か取り返しのつかない結果になるような気がする。そうアスカは内心で気づいていた。
けれどもそれが何なのか、またどんな結果になるのかはもちろん全くわかっていなかった。
「……あ」
「あ?」
何を言おうとしているのだろう、途中どころか冒頭で停まってしまったアスカの台詞の続きを聞こうと、シンジが少しだけ身を寄せる。彼としては耳を寄せたつもりだったのだけれども、隣に座っていたアスカからするとシンジが急接近してきたように見えてしまった。
「っ?! ちょ、あんた何してんのよ!」
「へ? 何って……続きを聞こうと思って。あ、が何なのさ」
アスカが真っ赤になっているのに対し、彼は平静なまま「わからない」という表情で見上げた。それもそうだ、シンジはただ聞きづらかったから耳を近くに寄せた、それだけなのだから。
ただしここでも、そのことをアスカがどう取るかは彼の理解の範疇外であって、
「なっ……も、もういいわよっバカっ!」
あっけにとられたシンジを横目に突然立ち上がると、スカートについた芝生も払わずにずかずかと立ち去っていく。その赤い髪を見ていたシンジは、ふ、と視線を落とすとアスカに聞こえないくらいの声で呟いた。
「だって、仕方ないじゃないか。僕達は単なる幼馴染なんだから」

放課後になっても相変わらず転校生の周囲にはクラスメイトが群がっていた。もちろん、大半がというよりほぼ全員が女子生徒ではあったが、例外としてケンスケがいたのは目的がはっきりしすぎているためシンジには突っ込む気すら起こらなかった。
「シンジ、帰らへんのか」
ぼんやりと支度をしながらそんな集団を眺めていたシンジに話しかけてきたのは、トウジだった。
「ん、ああ、そうだね、帰ろうか」
「惣流のやつはどないしたんや」
「アスカなら……ほら、そこ」
鞄を持って立ち上がりながらトウジの質問にあごをしゃくって答える。その先を追ったトウジの視界に入ったのは、先生にでも呼び出されたか何かの委員長を待っているアスカが、頬杖をついて退屈そうにカヲルに群がる生徒を眺める姿だった。
「惣流は興味なしか。ま、そらそうやろな」
「どうかな。アスカの好みはよくわからないけど……どちらかというと転入早々、面倒を起こしてそれに巻き込まれたことを恨んでるだけだと思うよ」
「そうなんか」
「多分ね。元々誰かを強く憎んだり嫌ったりしないから、アスカは。この騒ぎが収まったら、割とあっさりと友達にはなってるんじゃないかな」
心なし『友達』という単語を強調したことに、トウジは気がついたがシンジはまるで気づいていなかった。そのことを知ってか、トウジは軽く溜息をつくと視線を集団に戻す。
「ケンスケのやつは……あそこか。あいつも懲りんやっちゃな。どないするシンジ、先にとっとと帰るか」
「それしか選択肢はなさそうだよ。だいたい、もうあんな騒ぎに巻き込まれるのは僕だって願い下げだし」
苦笑しながら言うシンジに、トウジも昼休みの喧騒を思い出したのか、けれど彼自身には被害がなかったので豪快に笑い飛ばした。
「ははははは、そらそやな。ほな、帰るか」
言いながら先に立って教室の後扉へ向かう。通り過ぎる際、アスカに「じゃ、先に帰ってる」とシンジが声をかけたが、アスカは面倒くさそうに手を振って答えるだけだった。

教室を出る直前、シンジは何気なく振り返る。
やはりカヲルの周囲には人が群れていて彼の姿は確認できないし、アスカは先ほどと同様、頬杖をついて退屈そうな表情のままだった。それが何というわけでもないが、何となくシンジは落ち着かない気分で、焦れたトウジに促されるまでぼんやりと教室の光景を眺めていた。

転校生のニュースなど、普通なら話題に上るのはもって1週間だろう。
だが、彼、渚カヲルの周囲には未だに人が絶えず、そして彼に関する噂は彼に群がる女子生徒以上の量と話題性を振りまいていた。曰く、
『転校元に病弱な彼女を残してきたらしいわよ』
『そうなのっ? 私は彼の方が彼女に捨てられたって聞いたけど』
『そうそう、だからこそのあの憂いを含んだ翳りがあるんだって』
だの、
『聞いた? 3年の蓮沼先輩がアタックして玉砕したって』
『聞いた聞いた。しかもあれでしょ、あの先輩が遊んでること知ってて、お飾りになるつもりはないとか何とか、結構こっぴどく振ったらしいよ』
とかのどこかで聞いたんだか想像なんだかわからないようなものから、
『不治の病で明日をも知れぬ命』
なんて、ならそもそも学校に来ないだろ、と思うようなものや、
『父親がフランスの貴族で、どうやら愛人の息子のようだ』
という、どう考えても漫画の読みすぎなもの、
『とある研究機関で育てられ、実はIQが230もあって飛び級で中学に来てる』
だのいう、お前の方がキテルよと突っ込みたくなるようなものまで様々だった。
そんな噂が飛び回る中でも当の本人は噂のことを知ってか知らずか、いや恐らく知っていて否定するのも肯定するのも馬鹿らしいと思っていたように思えるのだが、とにかく平然としていたものだから、それがおぽんちな女子中学生たちには『超然としている』という、なんかこの間知ったからとりあえず使ってみたくなったみたいな言葉を利用して更にその熱気を加速度的に上昇させていた。

「だからまあ、かなり暑苦しいというか、もうやってられないというか」
「まあねぇ。彼が転校してきてからもう1ヶ月だってのに、全然冷めないってのも凄いね」
ケンスケの、彼にしては珍しい心底うんざりしたという口調に同調したのはシンジだった。
夏前でちょうど気持ちが浮つくような時期であることも関係しているのかも知れないけれど、今この時間はもう無人だがとにかく未だ群がる女子生徒が絶えない渚カヲルの席の辺りに目をやりながらいうと、隣でぐったりしているトウジに視線を移す。
「トウジ、いい加減に諦めたら?そうやっていても事実は変わらないと思うよ」
土曜日の放課後。
教室に残っているのはもう彼らだけだ。一週間の中で最大、部活に使える時間があるこの1日だから皆もうそれぞれの活動に散ってしまっている。本来であればジャージで学校生活の大半(つまり入学式と恐らくは卒業式以外)を過ごすトウジもまた、バスケ部に行っているはずなのだが。
「あかん。わいはもう終いや……みんな、スマン。先立つ不幸を許してくれ」
「大袈裟だな。たかが課題の再提出くらいで」
呆れたようにケンスケが言うが、
「そのケンスケも同じなんだけどね。ていうか僕はもう帰るよ」
「なにぃっシンジ! お前がそんなに薄情モンやったなんて!」
「くっ、その余裕ぶった態度……好意に値しないぞシンジ」
「あのねぇ」
溜息をひとつ。部活動への参加率が高いこの学校で珍しく帰宅部なシンジにとっても、普段より早く部活動に参加できる土曜日の放課後は貴重であるのだ。それが証拠に、同じ帰宅部であるところのアスカはとっくの昔に帰宅している。
「だいたい僕は残る理由なんかないじゃないか。トウジとケンスケがなんだかんだ言って引き止めるから残ってるだけでさ」
2人の前に置かれた、未だ真っ白な課題のプリントを眺めながらちょっとだけ強く言う。
だいたい、愚痴をこぼしている暇があるのならさっさと諦めて終わらせればいいのに。
「そうは言ってもさあ」
「こんなん、今日中に終わるかいな」
「終わるよ。トウジとケンスケがぐだぐだしてなければね。じゃ、僕はほんとに帰るから」
さすがにそろそろ付き合いきれない。帰って何をするわけでもないけれど、このまま自分が残っていれば相変わらず彼らはよた話を続けるだけで課題は一向に終わらないだろう。
ここは自分が去った方がお互いのためだ。
そう考えて立ち上がると、恨み言を背中にドアへ向かう。
扉に手をかけて、
「じゃ、また月曜にね」
顔だけ振り向いて、頭を抱えて唸る2人を見やる。仕方ないな、と苦笑するとシンジはドアを閉めた。

「まったく。さすがにお腹すいちゃったよ」
部活組の彼らは最初からコンビニでパンを買ってきているだろうが、シンジは食べるものなど何も持ってきていない。さすがに昼食抜きで2時近くまでいると空腹も限界だ。そろそろ通り越して何も食べたくなくなる頃だなあ、と昼食を用意している母ユイの怒った顔を思い浮かべながら3階の廊下を階段へ向かう。

ちらちらと光が彼の目に飛び込む。
「ん?」
何だろうか、と思って足を止め、開け放された窓の外を見る。教室棟と管理棟を挟んだ中庭で吹奏楽部が休み明けの文化祭の練習なのだろうか、幾つかの小集団を作ってパート練習をしていた。どうやら金管系楽器が時折、夏の光を反射しているらしい。
この暑い中わざわざこんなところで練習しなくても、と思ったが、 「そうか、文化祭も中庭でやるんだっけ。音の反響を確認するためか」
とは言ってもいちいちこんな暑い時期にやる必要はないと思うけれど、まあそんなことは自分に関係ない。
心にもない同情を形だけ示しながら足を進めようとしたその時、シンジの目に栗色の髪が映った。
「え」
向かいの管理棟、同じ3階にあるのは音楽室に準備室、楽器庫それに視聴覚室。彼の場所から正面に当たるのはちょうど音楽室だった。
「アスカ?」
その前の廊下を自慢の髪をなびかせながら歩いているのは、ずいぶん前に帰ったはずのアスカだった。突き当たりにある音楽室の扉がゆっくりと閉じかけているのを見ると、どうやら今までそこにいたようだ。ただ、アスカは楽器なんて何も経験がないし吹奏楽部からの誘いがあったとも思えない。そもそも吹奏楽部は今彼の目の下で練習をしている。
どうしてこんなところに?
そう思ったシンジの怪訝そうな目に答えが入ったのはすぐだった。
「渚君……」
完全に閉まる前に音楽室から出て来たもう一人の人影。それは見間違えようない華奢な体つきと遠目でもわかるほどの美形な転校生、渚カヲルだった。
それだけならシンジもこれほどショックを受けることはなかったろう。だが、彼の目が捉えたアスカの表情がシンジの胸に嫌な不安を残した。ちくちくと痛む視界を中庭からの吹奏楽部の光にせいにしたかった。そう思い込みたかった。
男子生徒に対してうわべだけでも取り繕おうとしないあのアスカが、カヲルに呼び止められて笑顔を見せているだなんて。そのせいで胸が痛いのだなんて、思いたくなかった。
だから、逃げた。
締め忘れらた突き当たりの蛇口、水滴のシンクを打つ音が煩いだなんて心の中で言い訳をして、その音から逃げるふりで足早に階段を下りていくことしかできなかった。
それが逃避でしかないことなんて、わかっていたけれども。

「惣流さん、ちょっといいかな」
「なによ」
土曜日の2限は理科2分野で移動教室だった。ちら、と教室を見渡してみると先生に準備を言いつけられたヒカリは既に教室を出てしまっており、シンジもおそらくいつもの3バカで物理実験室に行ってしまったのだろう姿が見えなかった。
まさかそのタイミングを狙ってきたのだろうか、そう思ってしまうほどアスカの周囲に友達がいないタイミングで、カヲルはアスカに声をかけた。
「放課後、話したいことがあるんだ。時間もらえないかな」
「話だったら今ここですればいいじゃないの」
刺々しい対応はいつもの通りだったが、それでカヲルがへこたれないのも日常だった。
「ちょっとここでは話し辛いことでね。できれば他人には聞かれたくないんだ」
いつになく真剣な表情で頼み込むカヲルだったが、それでもアスカにとってはどうでもいいことに変わりはなかった。カヲルがどれだけ深刻な話をしたかろうと、それは自分にはまったく一切関係ない。そんないつもの態度で、
「あたしには話すことなんてないわ。放課後の貴重な時間を削ってまであんたと話をしたいとも思わないし。どこかの間抜けた女子でも捕まえればいいじゃないのよ」
傍で聞いていてもはらはらするような攻撃的な言い方で切り上げると、さっさと実験室へ行こうと教室の前へ足を向ける。だが、
「それがシンジ君のことでもかい?」
カヲルの口から漏れた名前で、動きを止めた。

「アスカ、渚君と何かあったのかな」
シンジの呟きに答えるものは、
「さあ。私も全然気づかなかったけど。碇君の方があの2人に近いんじゃない?」
いた。
「確かにアスカは幼馴染だけど、渚君とはあまり話したことないよ。それに最近はアスカともあまり話してないし……」
シンジの答えに、ヒカリははぁっと大きな溜息をついた。
「だけど碇君がわからないんじゃ、私だってわからないわよ。それこそ本人たちに聞くでもしないと」
それは無理だ。そんなことはヒカリだってわかっている。それが可能であるくらいにシンジに勇気と決断力があればこうして自分に話したりはしないだろう。
とは言え、自分も気にかからないでもない。
何にしても、クラスメイトや先輩・後輩としての一線を決して崩さず、生徒や先生をして「壱中の不沈空母惣流」とまで言わせしめたあのアスカが、
「まさか碇君以外の男子生徒を名前で呼ぶなんてね」
鈴原、相田と呼ぶのと同じように渚と苗字を呼び捨てていたのが、カヲルに変わったのはいったいいつ頃のことからか。
ヒカリも何度かアスカと出かけたりしていたが、その時は特にカヲルの話題は出てこなかったこともあって全く気づかなかった。
そしてそれはどうやらシンジも同じようで、
「そうなんだよね。いつの間にあんなに仲良くなったんだろう」
シンジの場合は、談笑する2人を中庭の渡り廊下越しに見てから何となく雰囲気が変わり始めたとは思っていたが、まさかそこまで急激に近づいているとは思っていなかったのだ。同じマンションの幼馴染とは言ってもテスト期間前一週間からテスト終了まではヒカリと同様、登下校が一緒になるわけではない。たまにマンションで出会っても、テストの準備だとかその程度の会話だけで、カヲルのことにアスカが全く触れることもなかったためにあの音楽室の前でのことも忘れかけていた。
その矢先にこれだったから、2人ともどうしても気になってしまう。

「やっぱりあれかな、渚君が転校してきた時に言ってたこと、そういうことだったのかな」
「転校してきた時に? ……ああ、あれね」
シンジの言葉に一瞬、宙を睨んで思い出そうとする。すぐに思い当たって、ヒカリはげんなりとした表情を見せた。
「何だっけ、『幼馴染には負けない』とか何とか。クラス中が大騒ぎになった件でしょ」
「うん。あの時は騒ぎになったのが鬱陶しいなあと思っただけだったんだけど、今になって思うとそういうことだったのかな、って」
そう言えばどうして彼がシンジとアスカの関係を知っていたのか、そんな疑問も湧いたのだったが今の今まですっかり忘れていた。
アスカが特にカヲルに対して興味を示さなかったことや、爆弾発言の割にはカヲルがシンジに絡んできたりとそう言った場面がなかったからだろうか。シンジ自身もケンスケやトウジたちと遊んだり、期末テストの準備で必死になったりと特別カヲルを意識しなければならないようなことは、あの音楽室の件以前にはなかったのだし。
「それで。碇君はどうしたいの」
給水塔の影になっているとは言え、完全に暑気は抜け切れていない。生ぬるい風を受けて纏わりつくお下げの髪を、ヒカリは面倒気に後ろへ流した。
「どうしたい、って……アスカと渚君の問題だから、別に僕が口を挟むことでもないし。ただ、あまりにも急に変わったし、でもアスカは何も言ってくれなかったから、委員長だったら何か聞いてるのかなって思って」
「アスカと渚君がくっついてもいいのか、ってこと」
「はっ?」
「考えてなかった、ってことはないでしょ。そんなに気にしてるくらいなんだから」
ヒカリの言葉に黙り込む。
その通りだ、と言い切れる訳でも、そんなことはない、と断言できる訳でもない。
気にしているのは事実だが、それがどういう気持ちに起因しているものなのかまで深く掘り下げて考えてみたことなどなかったから。

いや、それも詭弁だろう。
考えてみたことがなかったとしても、それは「今現在わからない」ということに繋がらない。そのことは他ならぬシンジ本人が最もよくわかっていた。

「そう……そうだね」
しばらくの時間を置いて漏らされたシンジの言葉に、ヒカリは顔を向ける。
諦めの混じった表情をしているのか、と思いながら。
「碇君?」
けれどそこには、ヒカリの想像していたようなシンジはいなかった。

アスカが誰と仲良くしようと、構わないと思うようになったのは中学生になった頃からだった。

それまでは幼い独占欲からなのだろう、アスカが自分の知らない子どもと仲良くしているのを見ると嫌な気分になったものだ。いくら幼馴染とは言っても、小学校から中学校までずっと同じクラスだったわけがない。当然、違うクラスになって、アスカもシンジも、お互いにそのクラスの子たちと仲良く遊んだりもした。
だから、そこにいることが当たり前のように育ってきた2人には、初めての経験となった小学校3年時、別々のクラスになった時にその気持ちは沸きあがってきた。
はじめはそれが何なのかわからず、困惑しては周囲に当り散らしたり、あるいはもっと直接的にアスカと喧嘩したりもした。シンジの方からだったりアスカから突っかかってきたりだったから、恐らくアスカもシンジと同じような気持ちだったのだろう。
3年、4年と別のクラスで別の時間を過ごし、5年生で再び同じクラスになった時に安堵し、6年生でまた別になり。
中学に上がってからも1年生の時は同じ時間を共有することは朝の登校時だけで、稀なことになっていた。それなのに小学校3年生の時のような嫉妬とも独占欲ともつかない幼い気持ちに捕われなかったのは、彼らがほんのちょっと大人になった証だったかも知れない。

くっつき過ぎず離れ過ぎず。
傍から見れば常に一緒に登校しているだけでも、この年代であればそれは「くっつき過ぎている」ことになるのだろうか。実際、幾度かそれぞれの担任にそれとなく注意されたことはあった。男女交際など、遠い言葉だと思っていた彼らには、教員の注意も馬耳東風だったけれど。
それでも彼女、惣流アスカにとって碇シンジは最も近しい人間であり、彼、碇シンジにとって惣流アスカもまた最も身近な異性であった。
言葉にすれば単にそういうことなのだけれども、その言葉から受ける意味が異なるだけだ。つまり、ただそれだけの関係でしかないという意味において。
生まれた時から一緒だったから、それが異性同士だから、それだけのことで恋愛感情にまで発展するというわけではない。ただ「幼馴染」という関係が当たり前のことであるというだけで、それ以外のことを考えられないのだ。

「だから、僕とアスカの間に、みんなが期待するようなことはないんだよ」
そういうシンジの表情に嘘はない、そうケンスケは思った。
「なんや、つまらんな。あの惣流が自分から話しかけるたった2人の男子、シンジと渚がこう、めくるめくスペクタクルってのを期待しとったのに」
「なんだよ、それ。わけかんないよトウジ」
無責任かついい加減な言い様だが、彼が心底から思っているわけではないということをわかっているシンジは、苦笑しただけで答えた。
「ほれ、あれや、いいんちょとかがよく話しとるやろ。三角関係がどうだとかのグダグダな関係」
「トウジは僕にいったい何を期待してるのさ」
今度は呆れて溜息をつく。いくら何でもそれはないだろう。シンジに、というよりは中学生にそんな爛れた関係を期待するのが間違っている。
「女子なんかは本気で期待してそうだけどね。俺たちはそこまで本気じゃないさ。ただ、まあ、ちょっとした娯楽を提供してくれればなあと思っているだけで」
「ケンスケまで……まったく、何考えて学校来てるんだか」
「けど、この分じゃ期待できそうにないってことはよくわかったよ」
「そやな」
急に物分りよくなった2人に、シンジは怪訝そうな顔を向ける。
その顔に向かってやけに爽やかな笑いを浮かべたケンスケが、あっさりと言い放つ。
「シンジはシンジでしかない、ってことさ」

それはそれで、とても的確ではあったが、何かが変わってしまったようにも感じてしまう言葉でもあった。

「す……好きです、碇君。付き合ってください!」
「え?」
彼、碇シンジが唐突に告白されたのは、期末テスト期間に入ったためにアスカと一緒の登下校がなくなり、明日からは返却期間だから再び幼馴染での登校が始まるという日の午後。
朝の下駄箱に鎮座ましましていた手紙で呼び出された彼は、テスト終了の開放感からはしゃぐトウジやケンスケの誘いを断り、こうして裏庭の焼却炉前にいる。

どうして自分はこんなところにいるんだろう。
彼より先に来ていた少女を前にしても、シンジはそんな場違いなことを考えていた。
どうしてもへったくれもない。
生まれて初めて『下駄箱にラブレター』という稀有な現象に恵まれ、テストの内容など殆ど頭に残らなかった落ち着かない半日を終え、彼の気持ちを代弁するような速さで教室を出てこうしてここに来ている。
つまるところ、告白される、という甘いシチュエーションに年相応の期待を抱えて心情に沿った行動をそのままとっただけの話だ。おかしなことなど何もない。シンジでなくとも、普通一般の中学生男子であれば同じような行動と心情を持ったことだろう。

俯いたままで表情は伺えない少女の、髪の隙間から覗く耳が真っ赤になっているのを見ながら、シンジは違和感に思い当たった。
—— ああ、そうか。
アスカのことをちらとも考えていなかったことだ。
告白される、なんて大事なことまで行かなくとも、あの子が可愛いとか好みだとか、或いは友だち同士での諍いなど彼と彼女の周りの人間関係や学校生活についてのことは、ほぼアスカとの間で共有されていた。同じクラスでなかった時でも、マンションで会わない日などほぼ無かったのだから、シンジとアスカが幼馴染の関係になった時からずっと、彼らの間で知らないことがないような状態だった。
だから恐らく、今までのシンジであったならば下駄箱の手紙の内容までは言わなくとも「手紙をもらって呼び出された」くらいのことはアスカに言っていたに違いない。そこに何らかの意図があるわけではなく、純粋にその時々に起こった重要な出来事について、お互いがお互いのことを知っておけるように、ただそれだけの習慣に基づいて。

けれどそれが健全であるかどうかは別だ。
この数週間、具体的に言えばカヲルが転校してきてからアスカと話す機会がめっきり減った。それだけでなく、アスカのことを考える時間が減っていたように思う。
お互いが別の人間であり別の意思を持っていて別々の人生を歩む、そんな当たり前のことをようやく認識し始めたと言って良いかもしれない。
だから、健全な方向に向かっているのだろう。
アスカにはアスカの生活があり、今までシンジがいた場所にカヲルが入ることだってあり得るのだ、それもまた当たり前のことだし、こうしてシンジが告白されてそれを受け入れ、アスカがいた場所にこの少女が入ることもあり得るのだ。そんな当たり前なことを今まではしてこなかった。「シンジ」と「アスカ」であることを認識していても、その2人が「他人」であるとはどこかで考えていなかった。
シンジが考えたこと、出会ったことと、アスカが考えたこと、出会ったことを共有して当たり前だと、そんな不健全な幼馴染という関係をずるずると続けていた。

—— 渚君に感謝すべきなのかも知れないな。
シンジは思う。
ここから、アスカが渚カヲルと距離を縮めたことから、ようやく自分たちは普通の関係になっていくのだろう。閉鎖的な幼馴染という関係、今までともに過ごしてきた時間の長さに縛られた関係から、解放されていくのだろう。
そうなれたことは、あり難いことじゃないか。
自分たちだけでいたならば、いつそうなっていたかわからない。居心地に良い2人だけの関係をいつまでも続けていた可能性が高い。外部からの刺激が、いつかは彼らに必要だったのだ。

シンジは少女を見る。
どう返事をするのか、どきどきしながら不安な眼差しを地面に落とし、彼の言葉を待っている少女を。
かさり、と手元の手紙を見て名前を確認する。
どう呼びかけたものか。いきなり名前は馴れ馴れしいし、やはり苗字に「さん」をつければいいのだろうか。こんなことすら、今までの彼ならばアスカに相談していたかも知れない。
これからは、シンジはシンジとして生きていく。
—— よし。
呼び方を決めたところで声をかけようと、半歩だけ静かに踏み出す。
息を軽く吸って、そして。

—— さよなら、アスカ。

「ねぇアスカ、こんなこと聞くのはどうかと思ったんだけど」
「ん? なによヒカリ。私たちの間で遠慮はなしって約束したでしょ」
テスト期間が終わると、特別教室が開放される。音楽室では吹奏楽部が、体育館ステージでは合唱部が、家庭科室では調理クラブが、そしてグラウンドでは各運動部がテスト終了初日から活発に活動を始めるからだ。今までの鬱憤を晴らすかのように、たぶんいつもと変わらないのだろうけれど、本人たちも傍から聞いていても、普段よりも元気な声を張り上げる。
理科実験室は天文部と科学研究部が活動の拠点としているが、生物室はどこのクラブも使っていない。教室に居辛い時など、財布に余裕がある際には購買横の自販機でジュースを買ってよく来ていた。

「渚君と、何かあった?」
「ぶっ! けほっ、げほっ!」
アスカが軽い感じで言ったきたので、気を遣う必要もないのかなとヒカリも簡単に言ったのだが、思いの他ダメージを与えたようだ。
「あ、ご、ごめんアスカ、大丈夫?」
「こほっ……だ、大丈夫。でも何よ、急に」
むせ返ったせいで涙を浮かべた目を向ける。
「あぁっと、その、何だろう、クラスの雰囲気がちょっと、ね」
もごもごと視線を逸らしてしまうのは、アスカが気づかなかった雰囲気の変化を今更言うことに躊躇いがあったからか。
「まあ、当事者ほど気づかないってことはあるわよね。あのね、アスカ。アスカと渚君は気づいてないかも知れないけれど、あなたたち2人が半分公認のカップルだと思わ」
「はぁっ?! なによ、それ!」
全部を言い切れなかったヒカリは、やっぱりそんなもんよね、と溜息をつくと、
「そんなことを本人たちに面と向かって言う人はいないもんね。でもアスカ、あなた渚君のこと名前で呼んでるでしょう」
「そうだけど……その程度で、どうしてカップルだなんてことになるのよ」
「その程度って言っても、碇君以外では初めてじゃないの。そりゃ、みんな驚くわよ。それに最初の頃と随分付き合い方が違うし」
付き合い方、というところで眉を寄せたが、我慢して先を促す。
今のところは言い訳よりも、ヒカリからクラスでの自分たちの扱いを聞きだすことの方が重要だ。

「うちのクラスで幼馴染って関係を持ってる人がいないせいもあるのかも知れないけど、アスカと碇君の関係は『まあそんなもんなのかな』くらいで済むわよね。でも、渚君はそうじゃない。それなのに碇君への接し方に近い。そうなるとどうしても……邪推してしまうわけよ。もちろん、だからどうだって訳じゃないんだけど、碇君、あれで結構人気あるみたいだから、アスカが渚君と、その、そういう関係になったってことが他のクラスにまで知れ渡ると……何か動きがあるかも知れないし。あなたたちは興味なかったかも知れないけど、アスカと碇君ってうちの学校じゃ結構キーパーソンだったりするのよ?」
潔癖症のクラス委員としては言い辛いことでもあるのか、所々つっかえながらも現状をアスカに話して聞かせる。時折、眉間の皺を深くするところもあったが、アスカは黙って聞いていた。
「それで。その話って、シンジも知ってるってことよね」
黙って頷くヒカリ。
数日前にシンジと話したことがあったが、明確にアスカとカヲルがどうだということは言わなかったものの、クラスの雰囲気には気づいている様子だった。彼はぼんやりしているように見えてその実、周囲の空気に敏感だから。
アスカのことになると何かしらのフィルタがかかってしまい、他のことに比べて若干鈍感になるのが彼らしい、とその時は思ったのだが。

「いいわ。別に他人に言いふらすようなことじゃなかったから特に言わなかっただけなんけど。ヒカリには話しておくわね」
「アスカ、別に私は……」
聞き出そうとして言ったのではない、という言葉はアスカの右手に遮られた。
「言わなかったことに理由があったわけじゃないから大丈夫。それに、他の連中にどう思われようと知ったことじゃないわ。ただ、シンジに言わなかったのはマズかったかも知れないけど……うん、今日帰ってからでも話しておくし」
特に重苦しい話、ということでもなさそうだ。アスカの態度からそう判断したヒカリは、それならば聞いておこうという気になった。あまり家庭や当人だけの問題に首を突っ込むのは彼女の望むところではなかったのだから。

「何から話したもんかしらね。えーと、そう、まずカヲルはシンジのお兄さんよ」
「…………はいぃっ?!」
思わずヒカリは素っ頓狂な叫び声を上げてしまった。
え、なにそれ、何の小説の話? それとも映画?
「あ、ごめんごめん、お兄さんになる、ね。正確に言えば。と言っても別におじ様の隠し子だとかそういうオチじゃなくて、おじ様の親友だったんだって、カヲルのお父さんが。小学校の時に両親が亡くなって、孤児院に預けられていたんだけど、おじ様がそのことを知ったのが遅かったみたい。アメリカに単身赴任してたしね。それで、最近そのことを知ってカヲルの居場所を調べて、養子縁組することにしたんだって。手続きに手間取っててまだシンジには教えてないみたいなんだけど」
一気に話すと、ストローを加える。飲みかけのジュースはかなり温くなってしまっていた。
「え、え? でも、えぇえっ?! だって、名前」
「苗字でしょ、言いたいのは。言ったじゃない、まだ手続きに手間取ってるって」
「あ、ああ、そう、そうね。ええっと……」
未だ混乱するヒカリを横目で眺めながら、落ち着くまで待つか、と更にずずっと一口。
「でも考えてみたら不自然だもんね。あんな時期に転校してくるなんて」
繋ぎの言葉でヒカリを待とうとしたが、幸いヒカリの混乱はすぐに収まり、溜息をつくと情報の整理を始めた。

「つまり、碇君のお父さんと渚君のお父さんが親友で、渚君のご家族が亡くなったので碇君のお父さんが引き取って養子にすることにした。碇君はまだそのことを知らないだけで、渚君は手続きが住んだら碇君の家に行って、正式に兄弟になる、ということでいいのね」
「ま、ぶっちゃけるとそういうことね」
「どうして碇君に言わないの? 手続きだけの問題なら、もう一緒に住んでもいいじゃないの」
ヒカリの疑問は最もだった。
アスカもカヲルからその話を聞いた時に同じ質問をしたのだが、その時のカヲルの返答をそのまま伝えることにした。
「びっくりさせたいんですって」
「は?」
そりゃそうよね。とアスカはヒカリの反応を見て思った。
自分だって似たような反応をしたのだから。
「だから、シンジの驚く顔が見たいんだそうよ。おじ様もカヲルも。趣味悪いのは実の親子みたいで嫌よね。シンジの方が養子みたい」
そのために先にシンジと仲良くなっておきたい、だからシンジの情報を色々と教えて欲しい。
それがあの日、音楽室で言われたことだった。
「バカバカしいことに無駄な労力使うとこも似てるのよね。そんなもん、自分から仲良くなって聞けばいいのに、わざわざ幼馴染しか知らない情報を含んでシンジのことをすべて知ってる状態から近づいて、そのことでも驚かせたいとか。ほんとバカね、あいつ」
言葉は辛らつだが、それなりに楽しそうに見える。
ヒカリから言わせれば、その辺りの悪趣味さはアスカだってカヲルと大して変わらないようにも思うのだ。とすると、シンジの父・ゲンドウとカヲル、アスカは似たもの同士ということになる。
ただでさえ苦労性の彼が、3人を引き受けて四苦八苦する姿が脳裏に浮かび、心中で合掌した。気が早いけれども。

「はぁー……まあ何て言うか、蓋を開けてみればそんなこと、ていうか凄い話ではあるんだけれど、渚君の性格がバカバカしい話にしちゃってるって言うか。あれ? じゃあ、あの台詞って」
「あの台詞?」
「ほら、転校初日に『幼馴染としての時間に負けない』とか」
「ああ、あれね」
アスカは今度こそ心底呆れ果てた、という表情で椅子の背もたれに背中を預けきって、ハンッと鼻で笑いながら言った。
「決意表明だって。シンジと本当の家族になりたいって言う」
「……なんか違くない?」
「だからズレてるんだってば、あいつは。正確には『惣流さんとの幼馴染の時間に負けないくらい君のことを知って、本当の家族になるつもりだからよろしく』って言いたかったわけよ」
今度こそヒカリもがっくりきた。いくらなんでもそれは「ズレてる」とか言うレベルではないだろう。もはや全く別の意味にしか捉えようがないではないか。
こめかみを押さえつつ、けれど、
「いいけど。どうせ苦労するのはアスカだし。渚君係りにでも任命しておくから、後はよろしくね」
「ちょ、なによそれヒカリ! あんたも一緒に苦労しなさーい!」
ばっと手を伸ばして捕まえようとするアスカから逃げ、
「嫌よ、もう碇君も渚君もまとめてアスカが担当。あははは……きゃっ!」
立ち上がろうとしたところで椅子の足に躓いてしまった。
「ヒカリっ!」
危なく窓に頭から突っ込んでしまうところだったが、間一髪アスカの手が間に合った。
「もう、危ないじゃない。気をつけなさいよ」
「ゴメン、アスカ。何かいつもと立場が逆ね」
「私はそんなにお転婆じゃありませーん」
「ふふ、そうね……って、あら?」
お礼を言いながら体勢を戻したところで、眼下の光景が目に入った。
清掃終了後は誰も寄り付かない、校舎の影の焼却炉。そこに人が立っていたから。
「どうしたのヒカリ……あれは……」
す、とアスカの表情に影が走るのを見て、ヒカリは嫌な予感を覚えた。
「シンジ?」

帰宅後の彼は、確かに彼らしくなかったろう。
いや、恐らく帰宅途中もそうだったに違いない。
ユイの不審気な言葉もさもあらん、いつもは陰気ではなくとも決して快活とは言えないシンジが、鼻歌でも歌いだしそうな雰囲気で帰宅し、いつもより半オクターブは高いだろう声で「ただいま」の挨拶をしたのだから。

「シンジ? どうしたの今日は」
「え、何が」
だから食卓でユイが尋ねたのも当然であり、それに対するシンジの返答は明らかに誤魔化しているか嘘をついているかであった。
「ずいぶんご機嫌ね。学校でいいことでもあったのかしら」
「あ、え、べ、別に……何もないよ。そう、あの、宿題が今日は少なかったんだよ」
「宿題が、ね。ふーん、そう」
「そう、そうなんだ。あ、今日は鮎か。美味しそうだね、いただきます」
息子のあからさまな動揺に、何かあったことを隠しているのだと見抜けないようなユイではない。というよりも、致命的にシンジは隠すのが下手だった。
が、悪いことではなさそうだし、勉強なんかできなくてもいいから学校生活を楽しんで欲しいと願うユイとしては、特に問題はないだろうといつものように2人の食事を始めた。

けれど、シンジが楽しんでいれば良い、という訳にいかない人物もいた。

食事を終え、居間に移動したシンジが何気なくテレビのスイッチを入れたところで、彼女はやってきた。
チャイムの音に「はーい」と言いながらドアへ向かう母親の背中に一瞬だけ視線を向け、誰だろうと深く考えることもせずテレビに戻す。画面では彼が楽しみにしているバラエティが映っているが、視線は向けていても視界には入っていない。
考え事をしている、というわけではない。顔は笑っているが、別にバラエティ番組が楽しいからというわけでもない。
傍から見れば不気味なことこの上もない、ただ画面に映っているのがバラエティだから免れてはいるが、要するにただ画面に向かってにやついているだけだ。もちろん、その理由は放課後にある。
勉強ができるわけでも運動ができるわけでもない、全てにおいて平均点を自認しているシンジには、女の子からの告白などは生まれて初めてのことだった。
いや、中学2年生であればそれなりに恰好が良くて勉強も運動もできる生徒であっても、そうそう告白イベントなどに遭遇することはないだろう。
そんな稀有な機会が自分に訪れたことに、驚きはしたが素直に嬉しかった。
特にこの数週間は、一般的な中学生であればそれだけで憂鬱なテスト勉強に加え、アスカとカヲルのこともあって、もやもやとはっきりしない陰鬱さに参っていた。相手の女の子は見かけたことはあるような気がするものの、彼にとってはほぼ初対面であり、自分の気持ちを明確にすることは難しいにしてもそのことはどうあれ、少なくともアスカのことを吹っ切るきっかけにはなった。
それだけでも今の彼は、放課後までの彼とは違っていたのだ。
そしてそのことを、幼馴染の少女は的確に見抜いた。

「シンジ」
「え……アスカ? あれ、母さんは?」
リビングの扉が開く音で母が戻ってきたと思い顔を上げたシンジの目に映ったのは、幼馴染の姿だった。
「うちに来てママと話してるわ」
「ふぅん?」
曖昧な返事をして視線をテレビに戻す。特に見たいわけではない。ただ何となく目に入ってくるだけ。それはアスカと話すことと同じくらいに、特別な意味を持っていない日常の行為でしかない。ただそれだけだ。
流れ出る聴衆の無意味な笑いを聞き流していると、
「放課後」
「え?」
アスカの言葉に顔を向ける。
「何か言った、今?」
「放課後……何してたのよ」
「放課後って……」
思い出したのか、微かに赤い顔をして目を逸らす。ソファに座るシンジの横に立ったままアスカは動かない。伏せた目がどう動いているのか、上からではまるでわからないけれども、それでもアスカにはシンジの心が彼よりも理解できた。

3階の生物室からでもシンジと少女が何をしているか、よくわかった。
手にした手紙が何でもないものであるはずなどないだろうし、少女の行動とシンジの驚いた表情は彼女たちからもよく見えた。
それだけでも、もう何があったかなんて明らかなのだ。

「今日、見えたのよ。焼却炉って生物室の真下じゃない」
だから、いつものシンジであってくれればいい。
指摘されたことに慌てふためいてどもってくれれば、こちらもニヤついて追究してやろう。そうすれば彼は数分ともたず、洗いざらい白状するのだ。こっちはそれをからかってやればいい。
思う存分からかったらあの少女の名前を聞いて—— もちろん、下の名前だ ——名前を呼ぶ練習だとか言って更にからかおう。
そして気が済んだらいつもの2人に戻ればいい。いや、戻れる。
明日こそちゃんと起きなさいよね、わかってるよアスカは煩いな……

「……アスカには関係ないだろ」
「……なんですって?」
今こいつは何を言ったのだろう。
あすかニハカンケイナイダロ?
私が。
もうずっと一緒に過ごしてきた、私が。
自分のことに関係ないと言ったのか。

「僕が誰と何をしようが、アスカの気にすることじゃないだろ」
自分だって僕の知らないところで。
その言葉は呑み込んだ。それを言ってしまっては自分自身の発言が拠って立つところを失ってしまう。
そう、僕達は別の人間で、幼馴染で、クラスメイトで、兄妹みたいに過ごしてきて。
—— それでも結局は他人なのだ。
トウジだってケンスケだって、委員長だって、父さんや母さんですら。
碇シンジではない、それだけでもう周りのすべては他人でしかないのだ。
それが悪いとも悲しいとも思わない。当たり前のことなのだから。
共存しようが依存しようが、反発しようが親和しようが、個が個であり続ける限り人はすべて他であり交わって同一の存在になることはないのだ。そのことにいつ気がつくか、どの程度の強度で線引きをするかは人によって違うのだろうけれども。
だからシンジは、アスカがカヲルとどれほど仲良くなろうが詮索はしなかった。
アスカはアスカであり、シンジはシンジだから。幼馴染やクラスメイトという関係はなくならないし、シンジがアスカを大切に思う気持ちは変わらないけれど、それでもやっぱり他人だから。
アスカが誰とどういう関係になったとしても、アスカに対して抱いている気持ちは変わらない、シンジはそう気がついたから。

「僕が誰と何をしようと、アスカには関係ないよね。アスカが誰と何をしていても、僕には関係ないように」
そうだ、結局人と人との関係はそこに集約されてしまうのだ。
けれども。
アスカの言い方につい反発してしまったが、隠す必要もないことは話してもいいだろう。それは、今も昔も変わらない、自分達のそれぞれの生活がどうなっても変わらない、シンジとアスカの関係なのだから。
ふぅ、と小さく息をつき、横に立つアスカを見上げて口を開く。
「綾波と付き合うことにした、それだけだよ」
言った瞬間、乾いた音が鳴り響き、頬に熱を感じた。

どこかで音がした。
遠い、とてつもなく遠い時間と、長い、とてつもなく長い空間の挾間で。
彼はその音を、ずっと昔に聞いたことがある、と思った。
いつだったか、どこだったか。それはわからないけれど、果てしなく深い記憶の底の底、眠る意識の下でその音は未だに鳴り続けている、そんな思いを持った。

「音じゃなくて。声だったんだね」
閉じていた目を開けると、そこには予想していた赤い海は存在していなかった。
変わりに彼の目に飛び込んできたのは薄い水色。水面と同化してしまいそうな淡い色の髪を揺らめかせて、綾波レイはシンジの顔を上から覗き込んでいた。
「ずっと呼んでいてくれたの?」
シンジの問いかけに軽く目を閉じ、否定の意を表す。答えをその唇が結ぶ前に、シンジは口を開いた。
「そうか、待っていてくれたんだね。僕が今の僕であることを認識するまで、ずっと」
「ええ」
ようやくレイが言葉を発した。周りの景色はゆがみ、ながれ、たゆたい、水中にいることを疑うべくもない様相であるのに、彼女の声も彼の発言も、空気中を伝導するように曇りがなかった。

「どれくらいかかったのかな」
柔らかい感触を惜しみつつ上体を起こすと、膝を崩すレイの前であぐらをかく。お互い何も身に着けず裸体を晒しているのに、なぜか恥ずかしいと思う気持ちは浮かび上がってこなかった。
「5回。はじめはオーバー・ザ・レインボーで弐号機パイロットに頬をはたかれたとき。次は大学の学食で他の娘に色目を使ったと言われて。第一志望の高校を黙って変えたとき。子どもの習い事で意見の相違。それから今回」
「それって全部、アスカ?」
指折数えながら説明するレイに、思わず苦笑する。
が、レイの答えは違っていた。
「最初と最後だけ弐号機パイロットだったわ。2回目は戦自の子、3回目は1歳上の先輩、4回目は長い黒髪の子」
それだけ色々な子に頬をはられなければ戻ってこれなかったのか。僕ってどんだけ自我が弱いんだろう、と少しだけ憂鬱になる。

「それは違う。あくまもできっかけだから、碇君の自我と直接の関係はないわ。トリガーとしても意味のあるものではないから」
「そっか。……でも、結構待たせてしまったよね。なんかさっき、子どもがどうとか言っていたし」
シンジの謝罪に首をふると、
「いい。こうして碇君は私のところへ還って来てくれたから」
そして。
戻ってきたシンジが、レイから離れることは、たとえ一瞬であってもないのだから。
レイの言葉は足りなかったけれども、シンジには全てわかっていた。目の前に広がる水、彼ら以外の生命体の存在しない世界、重さも疲れも痺れも痛みも感じない体。
たとえこの世界に他者が存在していたとしても、彼(それ)らはきっと、シンジとレイを認識できないし、できたとしても彼らを個体として判別することは不可能だろう。

「そうだね。5人の僕になったおかげで、ここに戻ってこれた」
結局さ、と。
「どの世界でも綾波はいるんだけど、綾波が見ていただけだったおかげで積極的に僕と絡むことは無かったんだよね」
軽く頷く。そこに微かな気持がのっているような気がした。
「だからどこかで『ここは僕のいるべき世界ではない』って思ってた」
綾波レイがいない世界に意味はない。レイの不在に気づいた途端に崩壊し、次の世界へ。それを繰り返してシンジは最後の世界に行き着いた。あれ、でも、とレイを見つめる。
「最後の最後で、どうして綾波が出てきたの」
見つめられたレイは、ふい、と視線を外す。
照れている、というよりは。
「綾波?」
覗き込むと、ついと目を逸らす。
「あの……綾波サン?」
ああ、とシンジは思った。こんなレイを見るのはサードインパクト前、赤い海に漂っている間、自我の再構築中、すべてを通して初めてだったから気づかなかった。
「もしかして、拗ねてる、のかな」
無言のままだが、シンジにはわかる。そう、わかるのだ。
人として個でありながら「他人ではない」シンジとレイならば、何を言わなくてもお互いのことが理解できる。それがリリンでは辿り着けなかった階梯。特別な力があるわけではないと思う。ただ、個でありつつ互であるというだけの話だ。
いくらちっとも自分の元へ還ってきてくれないシンジに拗ねたのだとしても、最後の最後に呼びかけたということはきっと、あれがレイでなくとも終わったのだろう。ただ、あまりに遅い彼に業を煮やし、ちょっと呼びかけてみただけだ。

シンジは少しはにかんだように笑うと、砂浜に置かれたレイの手に自分の手を重ねた。そっと包むようにして握ると、
「ありがとう、綾波」
「いい。碇君さえいてくれれば」
ありがとう、に含まれた微量のゴメンを感じ取ったレイは、気にするなと伝える。そう、彼女にはシンジさえいてくれればそれでいいのだから、それこそ本当に「気にするな」だ。むしろこの状況は望むところでさえある。
言葉に出す必要はない。
人間としての、碇シンジと綾波レイという形象すら不要だ。
彼は彼女であり彼女は彼でもある。
それでもこうしているのは、きっとまだ今までのイメージが強いためだろう。あと数百年もすれば他のカタチになっているかも知れない。

「あと40億年くらいかな」
「太陽の寿命に巻き込まれるまでなら、それくらいね」
太陽が膨張し、地球の公転軌道がそれに伴って外側へ大きく膨らまされる。ヘリウムとの核融合の影響が地球の地表へも影響を与え、すべての生命は死に絶えた単なる鉱物の塊となり、同じように死を迎えた太陽を周回するだけの星となるまで40億年。
地球表面上での生命の死だけならば、恐らくもう30億年もしたら完全に成し遂げられてしまうだろう。その先は他の星へ移るか、居続けて宇宙空間を漂う氷塊のひとつとなるか、それはその時に決めればいい。
大事なことはひとつだけだ。

地球が滅亡しようと銀河系の収縮が始まろうと。
彼らがずっと一緒にいるということ。
ただそれだけだ。

<あとがき>
……何だこれ。ほんとはもっと違うのを書きたかった気がするんですが。いやほんと、何だコレ。