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知っていた。
知っていたのだ、自分は。

秘められた想いも隠された会話も。

知っていて、それでいて知らない風を装うしかなかった。
周りの誰が知っていようと、自分が知らないと言えばそれで済むことだから。
だから、言い続けた。

「ああ。だから安心していろ、ユリカ」

機動戦艦ナデシコ - 砂の城(後編)

初夏がそこまでやってきている。

中庭の緑の匂いを吸い込みながら、ルリは眩しさに手を翳した。
風に葉摺れの音、それに混じってさざめく人々の声が調和している。
ひときわ目立つ葉桜の下、ベンチに腰掛けて微笑んでいる2人。
その姿を視界から外さないルリの心に、近づく一足ごとに高まるもやもやとした不安が生じてくる。
嫌だ。
こんな気持ちで2人に接したくない。
そう思うのだが、ルリが願えば願うほど、不安は鈍い痛みを伴って彼女の心にじわじわと広がっていく。

2人が死んだのだと、そう思っていた頃にはあれだけ望んでいた光景が、今は胸に突き刺さる。
望んでいた景色、そしてもう望まない景色。

爽やかな風と裏腹に、ルリの心には重く暗い雲がかかっていた。

『幸せは歩いてこない、そやから歩いていくよ〜ん、って古い歌にもあったよね』
自分の台詞だ。
何気なく、冗談を含めて言った言葉だったが、今は違う。
あの頃は、待っていれば王子様がやってくると思っていた。
そして実際、いやこれは偶然だけれども、アキトという王子様がやってきて出航間際のナデシコを助けてくれた。
連合軍に拿捕されそうになったナデシコを取り返すきっかけを作ってくれたのも。
火星突入前の会戦、ディストーションフィールドを破って敵戦艦を撃破したのも。
自分の失策に苦しんでいた時に、そっと肩に手を置いてくれたのも。
ゲキガンタイプに苦戦していたナデシコ、そして自滅と町の破壊から守ってくれたのも。

そして、遺跡に融合させられた自分を助けてくれたのも。

そんな彼を『王子様』であると信じた彼女に、非があるだろうか。
少なくとも本人は是であることと疑わない。
自分は確かに、『よき艦長』たり得なかった。
それは認めよう。通信士やオペレーター、パイロットに整備士と言った末端ならともかく、艦長という重責に就いたのは自らの意思からであった。
自分の指示ひとつひとつが結果を生み出し、それには相応の責任が付いて回ることを理解しながらわかっていなかった。
火星でアキトを追いかけたことに罪はない。
周囲の策敵は行っており、アキトを追ったことが結果として生存者の発見に至ったのだから。
だが、敵勢力圏で策敵のみで安心してしまい、木星蜥蜴がチューリップから出現するのであるという当時では子供でも知っているようなことを失念していた……いや、それこそが理解していながらわかっていなかった。
挙句、相転移エンジンを止めてしまい、彼らはナデシコに押し潰された。
大気中では効率が下がることも、一度着陸した戦艦がそう簡単に再浮上できないことも理解していた。が、わかっていなかった。

いち民間戦艦であるナデシコが、非公式ながらもあくまで国家であり対内的主権に領土・国民を持っている木連に、対等な立場で和平交渉などできようはずもないこと、それも理解していた。
そんなことは連合大学で教わるまでもなく、女学院時代の政治学で既習である。
けれどやはり、わかってはいなかった。
その結果が白鳥九十九の死であり、和平交渉の失敗であった。

そのことをナデシコクルーも連合も非難しなかった。
ナデシコ下艦後の抑留理由は他のクルーと同じであり、単独で国家を代表しようとした罪に関して問われたことはない。
アキトもまたそのことがわかっていた。
決定にはナデシコクルーの総意があったこと、白鳥九十九を一方的に信用するだけで背後関係や木連内部の徹底的な調査を行わなかったこと、責められるなら全クルーが等しくその責めを受けるべきだろう。
言うならば、最も罪悪感を感じてしかるべきはテンカワ・アキトとホシノ・ルリであろう。
火星での市民権と選挙権を持ついい大人が、ゲキガンガーなどにうつつを抜かした挙句、正義の味方に酔いしれる。
パイロットになることに対し、明確な拒否の姿勢も示さずに自分をコックだと言い張りパイロットとしての危険手当を受け取りつつも戦闘訓練も行わず、他のパイロットとの連携・フォーメーションを叩き込もうともしなかった。
ボソンジャンプが可能であることとナデシコの甘い雰囲気を盾に、戦闘本能の高揚を感じつつも戦争が嫌だと駄々を捏ねては所属組織であるネルガルの意向に悉く逆らう。
戦後、数々の検閲を受けながらも出版された『機動戦艦ナデシコ〜その功績と罪状〜』において、それでもナデシコを常勝戦艦として戦術に聊かの煌きを残したユリカと異なり、その8割を非難に割かれたのも致し方ないとい言えよう。


だから自分とアキトは、相応の罰を受けた。
火星の後継者に拉致され、アキトは救出されたものの人体実験により著しい五感の低下という罰を、そして自分はアキトに救い出されるまでの2年間を遺跡との融合に費やした。
幸福の絶頂からどん底へ落とされ、夫が人体実験に使われる様を、自分が辱めを受ける様を具に見てきた。
意識を強制的に飛ばされ、見たくもない夢を見させられ、抗う気力も意思も大量の薬によって根こそぎ攫われて、漸く救い出されたと思ったらこうして病人として人生で最も輝かしい時期をリハビリに費やさなければならない。

十分であるとは言わない。
これからも罪の意識を負って、自分たちが見殺しにしてしまった人たち、そしてネルガルに、社会に、その代償を支払い続けるだろう。
けれど、自分たちが犯した罪の一部は返済できたのかも知れない、そう思っても誰が彼らを責められよう。

だからこそ。
だからこそ、同じ罪を、会社の財産であるナデシコを強奪してクルーをその気にさせておきながら、そして本人も無意識の内に年齢を免罪符として彼らが負債を払い続けてきた間ものうのうと暮らしてきた彼女に、これ以上ユリカが支払うべきものなどない、そう言える。

アキトは今、ネルガルのシークレットサービスとして、アカツキが会長である間だけという条件付の社会生活基盤を得ている。
代替わり、もしくはアカツキの変節でいつそれが奪われるかわからない。
給与の大半は、ナデシコが火星で圧死させた火星市民の数少ない遺族で構成する遺族会、そしてアキトが直接的に手を下したわけではないと言え、彼の落としたコロニーに見学に訪れていただけで復讐に巻き込まれて命を落とした人たちへの寄付として使われている。
ユリカもまた、退院した暁にはアキトを倣うことを決めている。
何があっても、彼らがその決意を変えることはない。
受難によって己が罪に気付いた、けれど今からでも遅くはない、自分たちにできる限りの償いをしなければならないと思うから。
どんなに苦しくても、生活難に喘いでも、それだけは変わらない。
アキトにはユリカが、ユリカにはアキトがいるのだから。

だから、ユリカはたったひとつのささやかな、アキトとの幸せを手放すつもりはない。

みっともなくしがみ付いてでも。
この手を離さない。

緑と光の中で、気遣うように自分の肩にそっと手を回すアキトの手、その暖かさを感じながら彼女の瞳はその光の先に向けられる。

「ルリちゃん、たとえあなたでも、ね」
視界の端に変わらず美しい妖精の姿を認め、アキトに聞こえないほどの小さな声で漏らしたユリカの決意は、けれど強く大きな意思がこめられていた。

ルリはユリカがこちらに気付いていることをわかっていた。
わかっていながら、それでもこのまま2人の傍に行くことが躊躇われたのだ。
数々の苦難と悲しみ、それらを包括して『時』は、人をどのように変えるのだろう。
動かない足を彼らの方へ運ぶことを諦め、ルリはぼんやりと光の中に立ち尽くしてユリカの視線を流していた。

今はユリカが憎い。

ユリカが生きていたこと。
それが、アキトの生存を確認できたあの墓地での出会いと同様に嬉しかったことは紛れもない事実だ。
一緒に暮らしてくれたこと、何かとルリを案じてくれていたこと、彼女の好意には感謝している。ただ、それは理性的に。
H.Y.スフォルツは嘆いた、『ああ、なんと人への心は御し難いものなのか。それが自分と同質である存在であればあるほどに』と。
彼の苦悩は神への信仰に比していたが、根本的にはルリの懊悩と同じだ。ルリが表情に明るさを取り戻したのは、アキトとユリカの死を完全に受け入れたから。
その事実を事実として認識した時、初めて彼女は微笑むことができるようになった。

酷い女、最低な人間。
そうだろう。
ナデシコで、長屋で、そしてアキトの狭いアパートで一緒に暮らしていた頃は見せなかった笑顔を、彼らを失うことで得たのだから。
ルリ自身、幾度もそう思っては留まることを知らない自己嫌悪の渦に飲み込まれていった。
けれど、それもまた一面での捉え方に過ぎない。
ナデシコに乗っている間、そしてシャトル事故までの生活の中で、ルリの視界は薄い膜がかかったように不明瞭だった。
何が大事なことなのか、自分は何のために生きているのか、自分の居場所はどこにあるのか、そして自分は一体誰なのか。
何もかもがぼやけていて、それでいて何もかもを知っていてもおかしくないだけの知識量だけを誇って。
わかっているようでわかっていない、そんな曖昧な存在の自分を持て余していたことも確かであり、それが故に「ばかばっか」を口癖にしていた。

物心つくまで、眠る時以外は完全に隔離された部屋で育てられた。
人間研究所で同じような子供たちと共に授業を受けるようになったのは、死を教育として受けて後のことだった。
時折減っていく子供たちの数を数えては、「ああ、これが死なのだ」と理解したが、彼女たちには結局本当の死を理解する機会は与えられなかった。
全ての教育を全員で受けるわけではない。
大半は各自の部屋でそれぞれの進捗にあった授業が行われ、だから他者との比較から自分というものを仕上げていくという、平凡だが人間としての基本的な作業が欠落したまま成長してきたルリ。
ナデシコでクルーたちを「ばか」と呼ぶことで蔑んでいたわけではなく、そう呼ぶことで彼らと自分の距離を測り、少しばかりの安堵を得ていたに過ぎない。
「ばか」なナデシコクルーと、そうでない自分。
ばかでは「ない」自分を確認する、そう、自分が何で「ある」かを突き詰めることは、結局ナデシコではできないままに終わった。何かで「ない」ことで自分を認識することしかできなかった。
だから「私らしく」ありたいというユリカから何かで「ある」ことを知りたいと思ったし、死の苦悩に転げまわるアキトの姿を他のクルーと比較してそうで「ない」様子から何かを見つけようと思った。
結局、それで幾許かも成果を挙げることはできなかったが、それでもナデシコに乗艦する前よりは少しだけ、靄が晴れたような気になった。

新しい生活が始まり。
明確な形を採り始めた世界に変わって、今度は心に霞がかかる。
ルリに向かった細く開かれたドアの隙間を覗き込みながら、それ以上踏み込むことが躊躇われたのはそんな微かな戸惑いのせい。

家出、屋台、チャルメラ。

目まぐるしく変転を続ける環境に翻弄されながらも、彼女は自分を作り上げて行った。
少しずつ積み重ねていく自分と記憶、その中でルリの心に芽生え始めた感情が更に霞をかけていく。
そして。

気付いた時には、既に手遅れだった。

『け、結婚することに……したんだ』
アキトの告白は最後通牒。
足元がぐらつく感覚を覚えながらも、それでも彼女はにっこりと笑ったのだ。
『おめでとうございます、よかったですね』
何がよかったのか。
重ねてきたほんとうの記憶、舞い降りる捏造された笑顔。
相反する2つの狭間で、ルリは心を閉ざそうとした。
そうすれば以前のように悲しむという感情すら感じずにいられると思ったから。
すべての靄が払われた後の、何もかもがはっきりとわかる気持ちと裏腹に、視界はぼやけて眼前のアキトすら見えなくなっていく。
手を伸ばすことはしない。
支えを求めたりしない。
自分は、人であることをやめるのだから。

あらゆるものを閉じ込めた、けれど空っぽな心にアキトの声が虚ろに響く。
それは次第に祝福という鐘を伴って遠くの風景をルリに引き寄せる。

『おめでとう』
『よかったねえ、テンカワ』
『おめでとう、ユリカ』

鐘の音に混じる祝福を、ルリはうっすらと笑顔を張り付かせて聞いていた。
頭上で鳴り響く音は、遠く近く。
振りまくユリカの笑顔がうっとおしくて。
能天気なアキトに憤りを感じて。

目を閉じたかった。
耳を塞ぎたかった。

けれど。
彼女のできたことと言えば、何も映さない瞳でただ口元の筋肉を不自然に歪めることだけだった。
何もできず、ただ木偶のように立ち尽くして。
風に舞う紙吹雪が、まるで自分のようだと。
ただ、立ち尽くしていた。

だから、2人が死んだ時に、寂しさと同時に安堵がよぎったとしても、仕方ないことだったのかも知れない。

これでもう、苦しむことはないと。
出口のない隘路から抜け出すことは永遠に叶わない、そのことを思い知らされる日々から解放されるのだと。
だから笑った。
初めて笑えた。

『ルリルリ?』
そうミナトがいぶかしむほど、ルリは笑顔を作れるようになった。
そしてそれと同時に、まったく霧が晴れるように心は澄み渡って行き、あのもやもやの正体がはっきりとわかるようになった。

愛している。

ひどく短い、けれど表現するのにこれほど困難な言葉もない。
そのことに気付くまで長くかかったルリには尚更。

その言葉を知ったルリにとって、彼らが居なくなった後だったのは僥倖だったのかも知れない。
2人がいたら。
とても恐ろしくて、きっと逃げ出してしまっていたから。

枷を外したルリは、とても自然に心から笑ったのだ、だから。

アキトとユリカが生きていてくれたことは嬉しい。
純粋に、嬉しかった。
けれど、この想いの行き場をどうしたらいいのだろう。

ユリカとラピス。
少しだけギクシャクとしたルリとの関係を、ラピスに求めているのかも知れない。そうアキトは思う。
ラピスがユリカにこんなにも早く打ち解けるとは思わなかったが、それは嬉しい誤算というものだ。
自分と同じルリを頼っているのもわかっているが、けれど同じだからこそ踏み込めない部分がラピスにはあるのだろう、それとももっと大きな包容力をユリカに見たのだろうか。
どちらにしてもユリカ、ラピス、そして自分の3人の生活が懸念していたよりも上手く行っていることに安堵を覚えずにはいられない。

同時に不安もアキトの胸をよぎる。

ユリカが遺跡と融合していた間も、意識があったことは知っている。
目覚めた後少しの間、彼女はそれを夢だと思っていたようだが、聡明な頭脳はすぐに火星の後継者に見せられていた、そして彼らの陰謀に使われていた『現実』とアキトの『夢』、それから残る意識で見続けていた外界をすべて理解した。
ユリカが遺跡に融合させられていた間も続けられていた、ネルガルのボソンジャンプ実験、そしてボソンジャンプを使った大規模な開発であるヒサゴ・プラン。
ジャンプは須らく、遺跡への情報伝達を必要とする。
イネスに言われるまでもなく、アキトは自分自身が度々行っていたジャンプで、ユリカの微かな意識を感じ取っていたのだから。
ただ、ユリカ自身がそのことを隠したいのなら、自分は何度でも言ってやるだけだ。

『安心していろ、ユリカ』と。

何に安心するのか、それはアキト自身にもわからない。
これから続いていく3人の幸せなのか、それとも。

きっとユリカは知っている。
アキトに芽生え始めていた想いを、あのアパートでの生活の時から。
あの頃ならば、ユリカはルリを許せたろう。
自分が幸せな時は、寛容になれるものだから。
けれど、今、あの幸せが一時のものであり、それは一瞬で崩れ去る可能性があることを知った今、ユリカはその恐怖に怯えている。
音を立てて簡単に崩れてしまえる幸福が、だからこそどれほど貴重なものなのかをユリカは知っている。
この今の幸せにしがみつくのは、執着するのはだから、当たり前のこと。
執着は独占欲に変わる。
そして彼らが苦しんでいた間、どう過ごしていたかを遺跡を通して知った以上、彼女がルリを受け入れられるわけがない。
全力で今の生活を守ろうとするだろう。
実際に、彼女はそうしている。

そしてアキトは、複雑な感情を抱えながらもユリカをやはり愛している。
同じ苦しみを味わった者同士の連帯感もあるだろうが、逆恨みだとわかっていても、心のどこかでそんな自分に唾棄しながらも、ルリを許すことのできない自分がいることもわかっている。
ルリがどんな想いで彼らのいない2年を過ごしてきたか、そして悪夢に苦しむアキトをどれほど献身的に支えてくれたかも。
わかっている、わかっていながらも、ユリカとルリの二者択一を迫られたアキトには、どうしてもユリカを突き放すことなどできないのだ。

だから彼は、複雑な色を瞳に浮かべながら答える。

『ああ、だから安心していろ、ユリカ』

永遠に交錯する。
光、緑、風。
爽やかな初夏の風景も、3人のローカスをひとつにすることはできなかった。

苦痛、懊悩、幸福。
どれも理解していた、あの頃は。
けれど今は。

そのすべてをわかってしまった3人には、この世界は砂上の楼閣でしかないこともわかっていた。
崩れやすいものだからこそ、その維持には優しさなど入り込む余地がないことすらも。

5月の庭で、3人は動けない。
ただ風だけが彼らを撫ぜていった。