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「秋って、風が優しいね」
見渡す限り桜色だった堤が緑のトンネルに変わり、そして再び上も下も、視界を埋め尽くす赤になる。梅雨の合間、晴れた日に水溜りを避けるように飛び跳ねていた彼女も、今は彼の横で静かに落ち葉を踏みしめている。
「風が優しい、か。このみは詩人だな」
貴明は真っ直ぐに前を見詰めたまま、小さく笑って返す。
「ん。何となくね、そう思ったの」
このみもまた、貴明と同じようにゆっくりとした歩調を崩さずに微かに笑みを浮かべた。
以前、そう桃色が新緑に変わろうとする葉桜の頃であったならきっと、頬を膨らませながら「もー、茶化すなんて酷いよタカくん」と言ったのだろうが、今のこのみは涼しくなり始めた風が紅葉を静かに降らせるこの季節にとても合っていた。
いつ頃からか、それはもう忘れてしまった。ただ、貴明は少しずつ変わっていくこのみをごく自然に受け入れ、そして彼もまた少しずつ変わっていった。
だから、足を止めて風の匂いをかぐような仕草をして、
「うん、そうだな。何となくそんな気がするよ」
「ふふ」
「どうした」
「ちょっとね、嬉しかったの。タカくんが同じことを感じてくれたから」
「そうか」
半歩先で立ち止まり、彼の言葉を受けて振り返ったこのみの笑顔に、自然な笑みで答えていた。

ToHeart2 - I'm here,My Dear

「そう言えば」
どちらともなく再び足を進め始めた2人が桜紅葉の半ばまで来たところで、思い出したように貴明が口を開く。
「雄二が、来週の日曜に家に来いってさ」
「え」
翳りを含んだ声でこのみが聞き返す。もちろん貴明はこのみが何を言いたいのか、なぜ湿った声で返すのかわかっていたから、右肩の下辺りで揺れている表情を見つめ返して苦笑した。
「このみも」
「あ、わたしも?」
「ああ。デートは来週にお預けだな」
思案顔になるこのみを見ながら、最近ようやく抵抗のなくなってきた言葉を口に出す。だからと言ってそのデート当日、簡単に手を繋いだりできるかと言われると返答のしようもないのだが。
「ふぅん……あ、タマお姉ちゃんが帰って来るってことなんだ」
「正解」
毎週日曜日は、特に用事がない限り2人で出かけることを雄二も知っている。それを圧して向坂家へ来いと言ったのだから、それ相応の用事があることは明白だ。彼らの間でそれなりの用件と言えばそれしかなかった。
「久しぶりだよね。この前帰って来たのが、えっと」
「9月の半ばじゃなかったか。まだ暑かったから半袖で行ったの、覚えてるよ」
「そっか、じゃあ2ヶ月振りだね」
デートがなくなったのは残念だけれども、環に会えるのは嬉しい。口に出さずとも表情が如実に表していた。
「なんでも学祭があるらしいんだけど、タマ姉はどこにも所属してないから単純に休みになるだけなんだってさ。雄二が残念がってたよ」
「どうしてユウくんが残念なの」
きょとん、とするこのみ。その表情にちょっと前の、子犬のようだった姿を重ねて貴明は、やっぱり変わらないところもあるんだな、と妙に安心した。
「九条院だからさ。大学とは言ってもやっぱり九条院、お嬢様学校であることには変わりないからな。タマ姉が学祭に出ていればそれを口実に女子大生の花園に堂々と侵入できるだろ。
高校と違って大学は部外者でも足を踏み入れ易いけどさ、少数ながら男子学生もいるとは言え、基本的に女子大みたいなもんだしな」
「そんなものなのかな」
首を傾げる。紅葉を透けて落ちてきた午後の柔らかい木漏れ日が、このみの髪にすべって落ちた。
「そんなものだろ。俺だってやっぱり躊躇うよ」
タマ姉には来いって何度も言われてるけどな、そう付け加えて肩を竦める。
「タカくんも行って見たい?九条院の学祭」
いいや、と首を振る。
「どうせ来年には、そこにいるんだから」
「……そうだね」
「このみ?」
足元の枯葉を踏みしめながら呟くように言うこのみに、貴明は訝しげな表情を浮かべる。彼の予測では「ずいぶん自信あるんだね、タカくん」くらいは言ってくるだろうと思っていたし、もちろんその自信の裏付けとなる努力もしてきたつもりだったから、返す言葉も思いついていた。

実際、このみと付き合い始めてからの彼は何事にも前向きになった。いやいや付き合っていたミステリ研も、子供っぽさではない、純粋な気持ちで取り組んでいる花梨を少しでも手伝いたいと思ったから部員勧誘に取り組んだし、なんとなく手伝い続けていた愛佳の書庫の整理やささらの生徒会も、明確な目標を持って参加してきた。
そのせいかどうかはわからないけれど、ミステリ研は去年のうちに同好会として認可される人数を確保できたし、書庫は縮小されながらも図書室の片隅に、その痕跡を残すことができた。
卒業して行ったささらも、時折まーりゃん先輩を自分から誘ってやってきては笑顔を見せてくれるようになった。今は貴明と雄二と愛佳と、このみの4人で構成している、水槽のある生徒会室で。
平均をうろうろしていた成績も、日頃から予習・復習を欠かさず、加えて自学自習でやっていた受験勉強も、受験が終わったささらや環に指針を与えられ効率的に行うようにした。この夏も積極的になった貴明に触発された雄二と、予備校の夏期講習を受け、環のアドバイスに従っていよいよ受験のテクニックを身につけるため、本科の受講を申し込み九条院合格を目指して頑張っている。
先月の模試では九条院がC判定だったものの、弱点も見つかったしこのまま頑張ればAとはいかなくてもB判定くらいは貰えそうな気がする。実際、力試しだからと複数受けた別の模試ではB判定が出ているのだから、貴明の強気な発言も裏づけがないものでもない。九条院が3教科受験プラス小論文であったのが幸いしたのだろうか、スタートが遅かった割には貴明や雄二に合っていたらしい。

その貴明や雄二の努力と結果をこのみも知っているし、だから言い返そうと言葉も用意していたのだが。
「どうした、このみ」
足を止めてしまったこのみに合わせて、貴明が立ち止まって俯き加減の表情を伺う。
「わたし、春って嫌い」
「え?」

一昨年の春は待ち遠しかった。
一足先に卒業してしまった貴明や雄二のいない学校で、長い受験生の一年を過ごし、友達と別れるのは悲しかったけれど春休みには環も帰ってきて、これでまた幼馴染の4人で一緒にいられると思ったから。
その次の年の、去年の春に環が九条院に合格して再び向坂家を出て寮生活に戻ってしまったが、それでも貴明と雄二がいた。新しい高校での友達もできたし環のいない寂しさを紛らわすことはできた。
けれど、今度の春にはまた貴明が卒業してしまう。せっかくこうして並んで歩くことができたというのに、貴明はまた環と一緒の所へ去ってしまう。どんなに望んでも、どんなに努力してもこれはもうどうしようもないことで。
わかってはいるのだけれど、自分が貴明たちと同い年でない以上、仕方のないことだと理解はしているのだけれども、ふ、としたことで思うのだ。
来年の春に、貴明がこのみの傍にいないのだ、と。
今までは卒業したと言え、通う学校が違っても朝は一緒だったし終業ベルの後で校門まで迎えに行けば、帰り道も一緒だった。休日には隣の家に行けば貴明の顔が見られたし、月に一度のお泊りの日もあった。
けれども、九条院進学が実現すれば貴明は家を出て行く。
もともと不経済であったけれど、貴明が卒業するまではと貸さずにおいた彼の一戸建ても、長期になりそうな両親が先日ついに決心して賃貸ではなく売りに出すこととなった。それに合わせてかどうか、貴明の受験校も九条院だけは郊外にあるが、それ以外の大学は全て都心の私立大学である。だから、貴明の進学先が九条院であれどこであれ、春になれば柚原家の隣家は彼らが生まれる以前からあった表札を掛け換えてしまう。
それは耐えられなかった。
耐えようと、一年の辛抱だと思い込もうとしたけれど、感情のどこかが納得していなかった。

「このみ、どうした」
再度問いかけながら、それでも貴明は彼女の懊悩に気づいていた。
最近、特に彼が受験の話をする度にふと見せるこのみの表情に、気づかないでいるままの貴明ではない。去年までの朴念仁だった彼ならそうだったかも知れないけれど、このみと幼馴染だけの関係を自ら進ませた彼は。

仕方のないこと。
日本に残りたいと言った彼のわがままを、2年にも渡って許してくれた両親が彼の大学進学を機に決めたことに対して、今までのことを感謝こそすれ、文句などは言えない。
海外に用意された住居には会社からの補助があるとは言え、日本での彼の生活費の他、固定資産に係る費用を考えれば決して楽な負担ではない。だから彼自身、2年で両親の帰国が実現しないのであれば、せめてアパートに引越し、アルバイトで最低でも小遣いくらいは稼ごうと思っていた。
無謀とも思えた九条院を第一志望にしたのは、もちろん環からその門の狭さを聞いて負けん気を出したことや、花梨の「不思議」に付き合っているうちに興味を持った文化人類学の研究が盛んなこと、どうせなら就職に有利となる学歴が欲しいこと、様々な理由があるけれども、その中に郊外にある九条院であれば生活費や家賃が安く済むということがあるのも否定できない。
だから河野家がなくなってしまうことは、完全に彼と彼の家の事情によるものであり、そのことをこのみにわかってくれとは言えなかった。彼女の寂しさもわかるし、地元から通える範囲にここならば、という大学がないこともあるけれど、彼自身都内の大学へ進むことによってこのみと離れてしまう、そして生まれ育った家が他人の手に渡ってしまうという寂しさを感じてもいた。
アルバムを開けば、幼い頃のものはすべて柚原家か河野家で撮影されたものだ。「命名・貴明」と、決して達筆ではないが両親の愛情が感じられる墨蹟の前、まだきれいな壁や畳の写った、眠っている自分、場所を変えて、けれども同じように「命名・このみ」と書かれた前で春夏に抱かれたこのみ。
貴明一人が写っているのは最初の一年だけで、その後はずっと雄二や環、このみと一緒にこの町のどこかで、そして河野家、柚原家、向坂家のどこかが必ず思い出の中にあるのだ。その場所を離れてしまう、そして帰る家もなくなってしまうというのは彼にとって初めての経験であり、大学受験よりもそちらの不安の方が勝ってしまうことだってある。その度に、想像でしかないのに、と自分に苦笑してしまうけれども。
だからと言って、このみにもその寂しさを理解しろというのは酷だろう、そう貴明は思っている。
去る者よりも残された者の痛みの方が強いことを、小学生の時にもう知っていたから。
そして、寂しいとか嬉しいとか、人間の感情は理屈だけで抑えきれるものでないことも、なんとなく彼にはわかっていたから。
我慢することはできる。理解することもできる。
けれど、そのことが彼と彼女の感情を変えたことにはならない。
寂しいものは寂しいし、不安だって消えるわけではない。きっとこのみは、口には出さないけれども大学へ行った貴明が別の子と仲良くなってしまうことも不安に思っているのだろう。こればかりはいくら口で大丈夫だと言ってもなくなる不安ではない。現実に、高校では愛佳や由真、花梨にささら、これは仲良くなったと言っていいのかどうか貴明にとっても微妙なのだがまーりゃん先輩など、このみの知らない1年が存在もしていたのだから。
貴明にとっても同じことで、自分が去った後おいそれと会うこともできないこのみに、他の男が寄って来ないかどうかは心配で仕方ない。明るさはそのままに、落ち着きを身に着け始めたこのみの人気が同じ2年生のみならず、貴明たち3年生や1年生の間でも高いことは今更雄二に指摘されるまでもなく知っている。彼が卒業した後、例えば……そう、例えばだが「彼氏がいなくなった」などと誤解されでもしたらどんなことになるのか、想像もしたくない。

自分のこと、このみのこと、そして2人のこと。
沢山の不安が折り重なって、秋の風に混じる。
そのすべてを今この場で解決することなんてできやしないけれども、時が解決してくれるのを待つだけでは成長はないとも思う。2人で並んで一緒に歩いていくためには、考えて努力して足掻いて、間違ったことや見当違いの方向に進んでしまいながらも前へ進もうとしようとするからこそ、時間がその手助けをしてくれるのであって。
最初から、解決を先延ばしにするような「再来年このみが追いついてくればその時にわかるさ」という考えは、今の貴明にはなかった。彼が考えなければならないことは、このみの不安をどうすれば和らげることができるのか、そして彼がしなければならないことは考えたことを実行すること。
幼馴染という、最も安定して、けれど微温湯のように平穏すぎる変化のない関係に終止符を打った以上、彼ら2人はもう変わっているのであり、あとはその変化を安定させ持続させることだった。
だから貴明は考える。
目の前の大切な人を、不安に埋もれさせたままでいるだけでは、胸を張って恋人だと言えないから。

秋風にこのみの髪が揺れている。
一瞬目を閉じた貴明は、ゆっくりと話しかける。
「このみ」

秋の風は別れの前触れ。
冬の木枯らしはひと時の温もりを得るためのやさしい嘘。
そして春風は大切な人を連れ去ってしまう。

愚にもつかないけれど、そんなことを考えてしまうのは自分があまりにも弱くなってしまっているせいなのだろうか。
同じ春風でも、きっと再来年には違うふうに感じているはずなのだから。だから、これはただ自分の心が脆くなってしまっているせいに違いない。そうこのみは思う。
変わらないものなんて、ない。
すべてのことがらは常に変化していくのだし、それは環境も人の心も同じこと。いつからか貴明のことを幼馴染としてだけではないと思い始めたことも、夏前に切った髪の毛が伸びてきたことも、足元の枯葉が風に巻き上げられて位置を変えることも、いつか長くなった影も。
それはそれとして受け入れなくてはならないものだとは思う。きっと人はこうして変わっていく。成長なのか退化なのか、それは後になってみなければわからないけれど、貴明と自分に訪れる変化もきっと悪いことだけではないはず。
貴明を兄代わりとして甘えてきただけの自分が、こうして恋人になって、そしてこれからはお互いが支えあって進んでいかなければならないと思うようになっていることも、恐らくどこかで変化の契機があって、それを自分が受け入れたからなのではないだろうか。ずっと幼馴染という変化のない関係から一歩を踏み出したことだってそうなのだから、貴明が卒業してしまうことだって。
そうは思うのだけれども、長い時間を幼馴染で過ごしてきたこのみにしかわからない、それこそしばらく離れていた環にもわからないであろう寂寞とした不安がどうしてもまとわりついて離れない。
——タカくんと離れてしまう。
それだけなら一昨年貴明が高校進学した時にも感じたことだったが、今度のはあまりにも重過ぎた。まだ11月、彼が卒業してしまうまで4ヶ月もあるのに。
来月、きっとクリスマスには二人の時間を過ごせると思う。正月だって、彼の両親が帰ってくるだろうけれど、毎年のことだから河野・柚原両家で祝うのだろう。受験勉強も佳境に差し掛かり、3年生は自主登校となって実際に入試のある2月でもまったく会えないということはない。
そして彼はこの街を離れ、一人暮らしを始めてしまう。けれど自分は、貴明のいないここで、河野という表札のない家の隣で、彼のいない1年間を過ごす。
長期休暇には会える。旧家の跡取りである雄二には、大学だけは許されても、その後まで向坂本家を飛び出していく自由は与えられていないから、当たり前だけれど向坂家は存在するのだし、貴明もここへ戻ってくるとすればそこに部屋を借りるだろう。
……考えないでもなかった。向坂の家はあるし、部屋なんて有り余っている。あの広さの屋敷なのだし、向坂の両親も貴明とは実の息子と変わらない感覚で接している。貴明本人が頼めば、二つ返事で彼の部屋を用意するだろう。
大学だって、無理すれば通えないわけでもない。もちろん、交通費は相当にかかるが家一軒維持することに比べればよほどマシだ。事実、環は戻る際に一度、両親から通学を勧められている。それ自体はさすがに真面目な環のこと、取り易い講義、ではなく取りたい講義を選んだため1限からびっちり埋まる講義スケジュールとなったことと、元から寮生活で慣れていたこともあって断っているが。
そう言った現実的な問題はともかくとして、けれどもそれはこのみが言ってはならないことだった。自分の「会いたい」という気持ちを優先させるだけで相手の都合お構いなしでは、支えあう関係ではないから。

そしてそれは、貴明にしても同様だった。
このみと離れるのは辛い。そして彼には最終手段として雄二の家に住ませてもらうという手段がある。多少、いやかなり無理をすれば何とか大学4年間くらいは、いやこのみが高校を卒業するまでの1年間だけならどうとでもなるかも知れない。
もちろんそれは、言わば赤の他人である貴明が住むのに親友たる雄二は出て行く、というわけにはいかないから、自動的に雄二もまた一人暮らしができなくなるわけであり。雄二が駄々を捏ねるという可能性が非常に高いものでもあるが。
そんな事情を除いたとしても、貴明にはそれを選ぶという考えは、浮かんだものの選択肢には端から入っていなかった。
子供は子供らしく、が通じるのは高校までだ。彼の両親にしても春夏にしてもそれは同じなのだろう。だから彼の両親はごく自然に家を手放して貴明を放り出すことを選択したし、春夏もまた寂しそうにしながらも当たり前のことと受け止めていた。海外赴任が決まった際にあった、柚原家で暮らすかどうかという話し合いはまったく行われなかったのだから。
そう、つまり向坂の家は向坂の両親のものだし、貴明が都内の大学に進むのは自分自身に責任を持たなければならない年齢に達した彼自身の選択と意思によるものだ。その事実だけで、彼にとって向坂の家を頼るなどということは、選択のひとつとしても挙がるものではなかった。

だから、つまるところ。

彼らがこの後1年間、離れて暮らすことは不可避で確かな可能性でしかないのだ。

「このみ」
このみの不安を今、ここで取り除いてやることなど自分にはできない。けれど、だからと言って何もせずに時間に委ねることはしたくない。
どうせ言葉は不完全だ。
それがわかっていたから、貴明はゆっくりとこちらを向く、彼女らしくもない翳りを作った表情を見つめて深呼吸をする。
「……ふぅ」
「タカくん?」
うん、だいぶ落ち着いてきた。そう確認して体ごとこのみに向き直る。
手のひらは汗ばんでいるし、舌はもつれそうだ。雄二に言わせれば「その程度のことで」となりそうだが、彼女が出来たとは言え貴明にはまだまだ高いハードルのようだ。
「どうしたの、タカくん」
怪訝そうなこのみが、ふっと表情を変える。
土手の向こうに沈みそうな秋の陽射しが貴明の顔で遮られ、少しずつこのみの上に影を作っていく。
呼吸さえ感じられそうな距離になった瞬間、2人は同時に目を閉じた。

「えへへー」
「な、なんだよ」
「嬉しいでありますよ、タカくんからキスしてくれるなんて」
しかもこんな場所で、と続けてこのみは以前のような口調と表情でにへら、と笑った。
「でも、どうして……って私が聞くのも変だよね。ごめんねタカくん」
言葉では謝りながらもやはりこのみは嬉しげだった。調子狂うな、と思いつつも貴明はあえてこのみの謝罪に水をさすようなことはせず、黙って左手で彼女の右手をとった。
2人で歩調を合わせながらゆっくりと堤を歩く。
「なあ、このみ」
「うん」
「口でいくら言っても、このみの不安を消すほどの力があるとは思ってないんだけどな」
「……うん」
「それがわかった上で、それでも言っておくぞ。俺はこのみが好きだし、たとえ離れていたってこのみのことを忘れることなんて絶対にない」
「忘れない、だけ?」
握った手に少しだけ力を込めて、このみが尋ねる。
貴明もまた同じ分だけの力で握り返した。
「毎日このみのこと考える」
「毎日?」
「毎時間」
「毎時間?」
「毎分」
「毎分?」
「毎秒」
「むぅー」
このみが頬を膨らませる。最近、大人びてきたと思ったけれどこんなときは変わらないのな、と貴明はほんのちょっぴり安心した。いつまでも子どもだと思っていた幼馴染が静かな雰囲気を身につけていくのは、どことなく違和感というか寂寥感があったらしい。
「大丈夫だよ、このみ」
私が聞きたいのはそんな言葉じゃないのに。そうこのみが思っていることくらい、彼にもわかっていた。以前のような幼さを取り戻した彼女に……そう、安心してちょっと遊んでしまっただけ。
だから彼は、夕日の照り返しで光る水面を、向こうの欄干の先に見ながら、
「いつもこのみのこと考えてるよ」

「私ね、もしタカくんが浮気したら絶対に取り返してみせるから」
「あり得ないな」
「どうして?」
自宅の近くまで来る頃には、すっかり陽は沈んでいた。
こうして住宅街を歩いていても最近は、貴明と一緒に過ごした時間ばかりを思い出して哀しくなっていた。集団登校の集合場所まですら一緒に歩いた小学校、寂しがったこのみを見て体験で入った部活動に本入部しなかった中学校。結局、生まれてからずっと、どちらかの修学旅行の時以外で2日と会わなかった日は一度もなかった。
だから最近感じていた不安は、もしかしたらいつも一緒にいた人が傍にいなくなる、ただそれだけの不在に対する不安だったのかも知れない。
貴明もこのみも、どちらも相手の気持ちを疑っているわけではなかったのだ、きっと。
繋いだ手だけでこんなにも安心できるのだから。
それでも念のため、と釘を刺そうとした言葉は、あっさりと貴明に否定されてしまった。
「浮気しないから」

単純かつ明快に答えた貴明に、このみはしばし、ぽかんとしていたが。
すぐに破顔すると、
「うん!」
繋いだ手に力を込めた。

街灯に照らされた足元の青白い光が、ぽつんぽつんと続いている。生まれてからずっと一緒に歩いてきたこの道そのものにも、2人の思い出は刻み込まれている。
もうあと10歩分先には、アスファルトの補強工事の最中に、面白そうだからというだけでおじさんたちに見つからないようこっそりと埋め込んだ枝。家の前の電信柱には、小学校で歌った歌に影響されて、たった一度だけ刻んだこのみと貴明の背の高さの傷。あそこで竹馬の練習をして、あそこで転んで。
思い出の場所から貴明がいなくなってしまうのは寂しいけれど、思い出の場所がなくなってしまうわけでも貴明が消えてしまうわけでもない。
この道は来年、このみ一人の思い出に変わり、そしてその次の年にはまた新しい場所で彼ら2人の記憶が作られていく。
大事なことは場所ではなく、2人がいつも一緒にいること。
そこに今までの思い出も持っていけばいい。

幼馴染4人で登校した川沿いの堤とか。
貴明と2人で歩いたこの道とか。
クラスメイトと過ごした教室とか。

それはきっとその場所にではなく、いっしょに過ごした人と共にあるものだから。
だから、

「ね、タカくん」
わたしは。

「ここに、いるよ」
いつまでも、あなたのそばに。