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その日は朝からおかしかった。
何が、と問われればこう答えるしかない。
「すべてが変」と。

ToHeart2 - このみ好き好き大好き大作戦・後編

まずは朝だ。

いつもの時間に目覚めた貴明は、朝食をとり、着替えていつも通りの時間に柚原家のチャイムを鳴らした。
「はぁ〜い」
パタパタとスリッパの音が聞こえ、顔を出した春夏の第一声もいつもと同じだった。
「あらタカ君、おはよう」
「おはようございます。このみ、起きて……って、どうしたんですか春夏さん?」
そう、いつもと違うのはここからだった。春夏が笑顔なのは変わらないのだが、何というか、そう、質が違う。微笑みというよりはむしろ、笑いを堪えているように見えた。
「タカ君もすぐにわかるわよ」
「はぁ、そうですか。で、このみは」
よくわからないが、すぐに、と言うのなら敢えて今追究しなくてもいいか、と気を切り替えて先を促す。相変わらず「寝ている」という言葉が帰ってくるだろうと思っていたが、ここでも日常を覆されることになった。
とたとた、ではなくばたばたと。というか、どすどすと言ってもいいように思える足音が聞こえ、「今日は早いな、このみ」と声をかけようとした貴明の口が「き」のままで止まる。つまり、一音すら発することができなかった。

「なによ」
「あー……いや、えーと、このみ?」
何故に語尾が疑問形。と尋ねるのはこの場にいない人間だけであろう。
「ほかに何に見えるっていうのよ」
変な人に見える。と答えそうになった貴明の口が、慌てて別の言葉を捜す。が、あまりの事態にこれといって適切な言葉を見つけることができなかった。

「う、うん、あの、今日は早い、な」
「別に。タカくんのために早起きしたわけじゃないんだからね」
「そりゃそうだろ。遅刻して困るの、俺じゃないし」
思わず素で突っ込んでしまったが、明らかに異常だ。助けを求めて春夏に視線をやるも、背を向けてしゃがみ込んだまま肩が小刻みに震えている。どうやら堪え切れなかったようだ。貴明としては笑い事ではないのだが。

「どうでもいいでしょ、うるさいわね。ほら、さっさと行くわよ。着いてきなさい」
思わず「はい。雪歩様」と答えてしまいそうになるが、穴掘って埋められそうなのでやめておいた。
すたすたと先に歩き出すこのみを追って、慌てて玄関を出る。春夏に「いってきます」と言うのを忘れたが、ドアが閉まった途端に聞こえてきた爆笑を聞く限り、言ったところで返事はなかっただろう。

「おはよう、タカ坊、この……み?」
「おっす、貴明、ちびす……ブーーーーーッ?!」
いつもの待ち合わせ場所で環が呆然とし、雄二が噴出す。
「あの、このみ?」
「なに、タマお姉ちゃん」
「いえ、『なに』って、私の台詞だと思うのだけれど」
「ちび助、ちょっと来い。いいから来い」
どうやら貴明以外と話す時はいつもの口調らしい。ということを認識する間もなく、頭を抱えた雄二によって有無を言わせず少し離れた位置に連れ去られ、ひそひそ話を始める。

「ちょ、ちび助、お前そりゃ何のつもりだよ」
「え、なにって、昨日ユウくんが……」
「ちっげーよ! ちげーだろ、それはツンデレじゃねぇ、ただのヤンキーだ! しかも口調はヤンキーと違うし!」
「えー」
「そもそも、そんな制服じゃ学校に入れないでしょ。どこの制服なのよ」
疑問はもっともだった。雄二も大きく頷く。

彼らの学校の制服は環も指摘したように、桜色を基調とした割と派手なものだ。全員が着ている学校内では目立たないけれども、駅や街中では異様に目立つ。そのことによって校外での不良行為を予防しているのだ、という説もあるが。
スカートも他校に比べればだいぶ短めで、けれどそれも実のところデフォルトだ。生徒が勝手にしているわけではない。
が、今のこのみの恰好は—— そう、地味だ。
うん、色は。
普通のセーラー服と同じ紺を基調にして、襟と袖に白いライン、胸元にも同じラインにエンジのタイ。色はとても地味で、生徒指導には確実に注意されないであろう色合いだ。色だけならば。そして、それが指定制服の学校であれば。
更に、スカートが膝下程度で、靴の踵を踏んでなくて、袖をまくっていなければ。
ああ、あと木刀持参は恐らくセーラー服指定の学校であっても校則違反だろう。

「そもそも制服が違うし、そんな不良みたいな恰好。まさか、わざわざ買ったわけではないわよね」
「うん。お母さんが貸してくれたの」
高校時代の制服をとっておいたのだろうか。いや、そうであったとしてもおかしい。春夏は確か西園寺女子出身のはずだ。決してセーラー服ではない。
だとすると、趣味?
ここまで想到して環はぶんぶんと頭を振った。その先を想像するのはマズい気がする。色々と。いや、もしかしたら将来の結婚生活において有意義な何かを得られるような予感もあるけれど、それはそれとしてまた今度聞いておこうと思う。

とにかく言えることは。
柚原春夏、恐ろしい主婦であった。

このみが早く起きたおかげでいつもより早い時間に待ち合わせ場所に着いたのは幸いだった。もの凄い、としか形容しようのない速さで自宅に戻ったこのみが着替え、正門で彼らに追いついたのはちょうど予鈴が鳴る頃だった。
昇降口で別れる時にも、環や雄二にはいつも通り挨拶したのに、貴明には「ふんっ」とそっぽを向いて「ちゃんと勉強してよね。タカくんのためじゃなく、私が恥ずかしい思いするんだから」と自分のことを棚にあげまくったありがたくもない発言をしてくれ、さすがの貴明も、
「なあ雄二」
「ん?」
「何なんだ、あれは」
と尋ねるしかなかった。
もちろん、雄二からはかばかしい回答は得られなかったけれども。

そして昼休み。

「いやー、腹減ったなあ」
いつものように屋上に出て、いつものように雄二が声をあげる。そしていつものように「はしたないわよ」と嗜めながら環が弁当を取り出し、貴明に、
「はい、これ」
……いつも通りではなかった。
「え? このみ?」
困惑の声が貴明の口をついて出る。環と雄二はわかっていたのか、当たり前であるかのような表情で平然とし、自分達の弁当を広げている。
その様子に違和感を覚えたが、それより何より、このみが自分の弁当を持参したという驚きが勝った。

「あの……まさかこれ、このみが作ったとか?」
思わずここでも疑問形。コーンフレークとくさやの朝食がよみがえる。あれは悪夢だった。
つい腰が引けてしまう貴明の前に、ずい、と弁当箱が差し出される。
「そうよ。でも勘違いしないでよね。別に、タカくんのために作ったんじゃないんだから」
「いやいやいや、なら何のために作ったんだよ」
目の前に差し出されている以上、これを食べろということだろう。それを違うというのなら、一体何のための弁当なのか、というかわざわざ目の前に差し出さなくてもいいだろうに。

が、そんな貴明の疑問も次のこのみの行動で吹き飛んだ。
「私のために決まってるじゃない」
「へ?」「は?」「え?」
3人の声が重なる。何を言っているのか、と唖然とする3人の目の前で、このみは差し出した弁当をそのまま引っ込めると、自分用の少し小さめの弁当箱と一緒に開けて食べ始める。

「こ、このみ? そんなに食べて大丈夫なの」
いち早く正気に戻った環が声をかける。微妙にいつもの口調が戻っていないあたり、彼女の同様が窺い知れる。頓狂なことを尋ねてしまったようにも思えるが、そのことを責めるのは酷というものだ。貴明や雄二は未だ混乱のさなかにいるのだから、現実に戻れただけでも誉められてしかるべきだった。

「うん。3時間目が体育だったから、おなか空いちゃって」
えへへ、と笑いながら。
ころころと態度の変わるこのみについていけない貴明を置き去りに、雄二が呟いた。
「……また何か間違ってるな。それなら最初から貴明に渡そうとする必要がねぇじゃんか」
雄二が何を言っているのかわからなかったが、貴明には明らかなことがひとつだけあった。
「……俺の昼飯、なしってこと?」

そして放課後。

「ねぇねぇユウくん、タカくんは」
「今週は掃除。それにしても」
はぁ、と大きな溜息。
「ちび助、今日のお前はダメダメだな」
「雄二、ちょっとは言葉を選びなさい。……いくら事実だとは言っても」
「あー、ユウくん酷いよ。タマお姉ちゃんまで」
むぅっとふくれるが、事実は事実。さすがに今日のこのみの言動は、『もう、このみったら、そんなところも可愛いんだから』なんてレベルで済ませられるものではなかった。

「つってもなあ……貴明、確実にドン引きしてると思うぞ」
「えええーー! でもでも、ユウくんが言った通りにしただけなのに!」
「言ってねぇ! つか、完全にお前の勘違いと暴走の結果だろうが。俺に責任押し付けんな!」
やれやれ、と呆れた口調の雄二に口を尖らせて抗議するもあえなく反発に合う。さすがに今回は環も助けてはくれなかった。が、そのままというわけにもいかなかったのか、フォローの手は差し出してくれた。
「まあ、過ぎたことは過ぎたこととして。これからフォローしておけいいだけの話でしょう。このみも今日は一日タカ坊のパワーを吸い取ってないから、そろそろ会いたいんじゃないの」
「うん。もうタカくんパワーがゼロだよ……早くくっつかないとマイナスになっちゃうよ」
「ほぅ。マイナスになるとどうなるってんだ?」
「うーん……巨大化?」
「いや聞くなよ。それにマイナスにもなってねぇし」
「ほら、バカやってないで行くわよ」
一向に話が進まない2人に苦笑しつつ、環が促す。
うん、と答えて先頭きって駆け出すこのみ。
向かう先は、もちろん貴明の教室。

「あれ、草壁さん?」
「はい、私です」
箒を手にした貴明の前に立つのは、ちりとりを持った草壁優季だった。掃除の当番は男女3人ずつの計6人を出席番号順に区切り、2班が一週間受け持つ。
ひと組が教室、もうひと組は各クラスに割り振られたトイレ・裏庭・正門・昇降口などの共有部分を受け持っている。グラウンドや特別教室などは当然のことながら、使用する部活動が担当している。今週の彼らのクラスでは、貴明からの出席番号順3人、斉藤と清水、女子は愛佳から小峯、清宮までだ。だから先週終わったはずの優季がいて愛佳がいないのは明らかにおかしかった。

「小牧さんは何か仕事があるとのことだったので。今日は私が代わったんです」
にこやかにいつもの笑みを浮かべる優季。もちろん、私の当番の時に代わってもらいますけど、と笑顔で付け足すのも、ちりとりを持ったままだが、何だか妙に似合っていた。っていうより草壁さんに似合わない恰好てあるのか、と考えながら今日一日このみの奇行に振り回された感のある貴明は癒される感じがした。

「貴明さん、今日はお疲れだったようですね」
貴明が集めたゴミの前にしゃがんでちりとりを差し出す優季に、慌てて箒を動かす。
「あー、うん、まあね。何か今日はこのみのヤツが変でさ」
「変、ですか」
「朝はちゃんと起きてるし……ってこれはその方が助かるんだけど、長いスカートはいて他校の制服着てるし。あ、いやアレは他校のなのかどうか微妙だけど。妙に不良っぽかったし」
「今時『不良』って珍しいですね」
「そうなんだよ。あんなのドラマ以外では始めて見た」
なかば感心したように言う貴明に小さく笑うと、ふ、と真顔になる。
「あ、でも。昼休みの後も、ぐったりしてませんでした?」
言いながらも貴明の動きに合わせてちりとりを引いていく。
「ああ、あれね。いつもならタマ姉、3年の幼馴染が作ってくれてるんだけど、今日はこのみに譲ったらしくて。でもさ、確かに作ってくれてはいたんだけど、『タカくんの為じゃないんだからね』とか言って自分で食べちゃってさ。おかげで今日は飯抜きだった」
「あら。じゃあ5限目は厳しかったですね」
5限は体育だった。非常に間の悪いことに。
はぁーっと大きな溜息をついて箒を杖代わりに使うと、貴明は大仰に肩を落とした。
「まったくだよ。しかもフルマラソン。体育の授業でフルマラソンとか、一体うちの体育教師は何考えてるんだ」
「フルマラソン……42.195Kmですか。体育の授業時間内で走れるものじゃないですよね」
「走れたら世界新どころか、人間超えちゃうよ。まあ、だから結局、チャイムが鳴るまでひたすら走るだけの耐久マラソン状態だった」
そう言うと貴明は再度箒を使って、教室の廊下側へ向かう。先ほどと同じようにゴミを集める。他の4人は貴明と優季がどいた場所の机を戻し始めた。

「一体なんだったんだろうなあ。言葉遣いもおかしいっていうか、冷たかったというか。うーん……」
呟いた貴明の言葉に、意外にも即座に答えが返ってきた。
「思うんですが。それは『ツンデレ』じゃないですか」
「……驚いた」
手を止めて体ごと優季に向き、真顔で言う貴明。
「このクラスの人ならみんな知っているんじゃないですか」
「マジでっ?!」
そんなに特殊なクラスだったっけ?! と驚きつつ首を回す。
「おーい、清水!」
「んー、なんだよ河野。さっさと掃いちまえって」
「わかってる。お前さ、『ツンデレ』って知ってるか」
「アレだろ、普段ツンツンしてて、たまに甘えてくるってやつ」
「何で知ってる?!」
「そりゃ、このクラスにいりゃぁなあ。小峯も知ってるだろ」
斉藤が頷くのを見ながら、隣で椅子を運んでいた女子生徒に声を掛ける。
「知ってるわよ。私だけじゃないと思うけど」
小峯に視線を向けられた清宮も、苦笑を浮かべながら黙って頷く。
「え、え、何で? そんなに市民権を得た言葉だったっけ?」
うろたえる貴明に答えたのは斉藤だった。
「いや、そんな訳ねーだろ。さっきから清水も言ってるじゃん、このクラスにいればって」
「え?」
「しょっちゅう言ってるじゃない、向坂君が」
清宮の言葉に、ああ、なるほど? と。良かった、特殊なクラスじゃなくてとも思ったが、果たしてクラス中が『ツンデレ』の定義を答えられることが特殊ではないと言えるのだろうか。甚だ疑問だ。

「ツンデレ、ねぇ。ただの二重人格っぽいけど。あ、ありがとう草壁さん。ゴミは捨てておくよ」
ちりとりに集め終わったのを見て貴明が声をかけるが、優季はしゃがんだまま顔を背け、

「べ、別に。お礼なんていらない。貴明の為じゃないもん、仕事だから仕方なくやっただけなんだから」
「へ?」
急な態度の変化に戸惑う。
「あ、あの、草壁さん?」
「なによ」
「あ、えーと」
言葉に詰まる。が、不意に制服の裾を掴まれる感覚に優季を見ると、彼女は不安そうな目つきで貴明を見上げ、
「あの、ね。一緒に行くのは、ダメ?」
—— 何かが破壊されたような音を、貴明は聞いた。
「あ、いやその。うわ、か、かわいい……」
何のことはない、理性とか冷静さとか、そういうのが壊れた音だった。
「こういうのがツンデレですよね。それにしても……」
「はっ?! え、え、なに」
「かわいいだなんて。照れてしまいます」
顔を伏せたことで、長い髪がさらりと堕ちる。のぞいた耳が赤かった。
後半、小さく呟くことも、当然のことながら彼女は忘れていなかった。

—— 完璧。
心中でガッツポーズ。
草壁優季。環による『危険度ランキング』1位の実力は健在だった。
そのまま一気呵成に攻勢に出ようとした彼女の目論見はしかし、次の瞬間には打ち砕かれてしまった。

「あー! タカくん、赤くなってるー!」
「タカ坊、ちょっと話しましょうか。いえ大丈夫よ、痛くはないわ。辛いだけだから」
「貴明テメェ……この、恋愛絶対王政め!」
新しいな雄二、なんて言葉を発する余裕もなく、彼にできることはすっ飛んできたこのみを抱きとめ、遠くなりそうな意識を必死につなぎとめながら呟くのみだった。
「ミサイルかよ、このみ……ぐふっ」

—— 結局のところ。

「このみはこのみのままが一番ってことだよ」
朝の通学路は空気が爽やかで、その空気と貴明の言葉が栄養分でもあったかのように、このみに満開の笑顔が広がる。
「ほんと、タカくん?」
「ああ」
頷きながら頭をなでる。すぐに、えへーとふやけた笑顔。
こういう素直なところがこのみのいい所なんだからさ、とこれは言葉には出さない。以前なら何の衒いもなく言えたのかも知れないが、高校生になると何となく恥ずかしい。

「散々振り回された気もするけど……まあ、これでよかったのかも知れないわね」
「貴明にはインパクトなんて必要ねぇってことだな。良かったな姉貴、いらん恥かかずに済んで」
2人の少し後ろを歩く環に、ニヤニヤしながら雄二が言う。
「な、何のことよ」
「打算もなしに姉貴があんなことに協力するとも思えなかったからな。どうせ、ちび助で反応見て、良ければ自分もとか考えてたんだろ」
雄二の指摘に黙り込む。普段なら損得抜きでこのみの為になることであれば何でもやっているに違いないが、貴明が絡むと私情と計算が入り込んでしまうことは否定できない。
とは言え、今回に限って言えば、自分が「ツンデレ」るというのはさすがに想像できなかったけれども。

視線を、前を歩く2人に移す。
嬉しそうにじゃれつくこのみと、苦笑を浮かべながら相手をする貴明の姿が映った。
雄二の言う通り、貴明に意外性は必要なかったかも知れない。彼はありのままをちゃんと受け入れてくれる、だから自分もこのみも、そしてその他有象無象(環視点)も惹かれてしまうのだろうから。

そんな感慨に耽りながら学校前の長い坂道を登る。
生徒が増えてきて、日直か何かだろうか、早足で息をきらせながら彼らを追い抜く生徒もいる。
「あ」
そんな声に環が顔を上げると、貴明がこのみをひっつけたまま小走りで坂を上がっていく先に人影が見えた。彼が声をかけるよりも早く、向こうも気づいたようで、
「おはよう、たかあきくん、柚原さん」
「おはようございます、小牧先輩」
「おはよう愛佳。どうしたの、こんなところで」
歩いていたわけではなく、生徒の流れを避けて脇に立っていたことに不審を覚えて尋ねる。

「うん、たかあきくんを待っていたの」
「へぇ?」
待たれる理由に心当たりはない。なので間抜けた声をあげてしまった。
「たかあきくん、郁乃のリハビリにたくさん付き合ってくれたし。だから改めて何かお礼をしたいなって……ほら、郁乃」
振り返ると、愛佳と電柱の影に隠れていた郁乃が出てきた。
「お。おはよう郁乃」
「おはよー」
2人の挨拶にも、ちら、と視線を向けたのみで。
「おはようこのみ。ついでにバカも」
「扱いがぞんざいだな」
苦笑する。歩けるようになっても、貴明に対する態度に変更はない。嫌われているとまではいかないが、相変わらず自分は「姉につきまとう悪い虫」レベルであるようだ。

「でも、別にいいよお礼なんて。たいしたことしてないし」
「そんなことないよ! 書庫を残せたのも郁乃に桜を見せてあげられたのも、たかあきくんのおかげだし。それに、郁乃がリハビリを頑張れたのだって……」
「ちょ、姉貴! 余計なこと言うなっ、こんなバカに!」
「どうしても俺の名前は『バカ』なんだなあ」
隣であはは、と笑うこのみと声を合わせる。さすがにこれは慣れた。一往は先輩であるとは言え、「河野先輩」と呼ばれるのもなんだか妙な感じだし、この程度は聞き流すくらいじゃないと、郁乃の相手はできない。

「もぅ、郁乃ダメだよ。いい加減そんなことばっか言ってちゃ」
「ふん。こんなのはバカで十分よ」
「うぅ……郁乃……」
「ちょ、や、泣くことないじゃない! ああもう、わかったわよ」
「ほんと?」
ぱぁっと顔を輝かせる愛佳の急激な変化に、貴明とこのみまでが言葉を失う。
目を見合わせて思った。凄い変わりようだ、と。
「く……また姉貴に騙された」
「ふふ、郁乃。じゃあちゃんと昨日約束した通り、ね」
どうやら昨日、姉妹の間で何か話し合いがあったらしい。珍しく愛佳が郁乃に対して強気に出ている。
「わ、わかったわよ」
変わった光景だよなあ、なんて暢気な感想を抱きながら遣り取りを見ていた貴明に、郁乃が向かい合う。
ずびっ、と指を突きつけ、
「いい、あんたの為じゃないんだからね。姉貴が言うから仕方なくなんだからね」
「はいはい……って、んん? 何か聞いたことあるような」
首を傾げながらも貴明は予想する。
言動が愛佳よりも由真に近い郁乃だから、「河野貴明」とフルネームで来るか。それとも、普通に「河野先輩」だろうか。或いは「貴明」かも知れない。
いずれにしても覚悟だけはしておくか。

が、次の瞬間、予想は大崩壊を起こした。

「あ、ありがとう。……お兄ちゃん」
「……へぁっ?!」
貴明、呆然。
まさかそう来るとは。
「な、え、い、郁乃?」
「なに、お兄ちゃん」
「いやなんでお前、そ、そそそんな」
あわあわしつつ顔は真っ赤。
そんな貴明を、このみが見逃すはずもなく。
「あー、いくのんずるい! 私も私もー」
「何よこのみ。べ、別にいいじゃないの。他に呼び方なんてなかったし……」
後半は視線を伏せつつ呟くように。
いやいや、他に呼び方なんてあるだろう。ていうかその呼び方は明らかにおかしい。というのがその場にいたほぼ全員の心の声だった。
だいいち、貴明以上に耳まで真っ赤にしておいて何を言うか。

「うー。いいもん、私だって」
くいくい、と貴明の制服を引っ張って振り向かせる。

「タカくんお兄ちゃん」
「混ざってるぞ、このみ」

ぎゃあぎゃあと騒ぐ3人を見ながら、ちょっとだけ引いて見ていた環は呟いた。
「なるほど。思わぬところに伏兵がいたというわけね」
それにしても、と。

「本物のツンデレ(生)……追加オプションで妹属性……おかえりなさいおにいちゃん……ぐふぅっ」
視線を下げて足元を見ると、そこには血まみれの愚弟の姿。
こめかみを押さえつつ吐き出した溜息は、次の言葉とともに朝の空気に溶けた。

「本物は違うってことね」
このみの妹属性は本物だし、目の当たりにした郁乃のツンデレも本物だ。
さて、では自分は何で行こうか。幼馴染、姉、優等生、良家の子女、どれをとっても本物なのだからいくらでも考えようはあろう。まあとりあえずは、バカだけどもこういうことだけには詳しい愚弟を使うことにしようかしら。
そんなことを考えながら、地面に転がった雄二を蹴り飛ばす環だった。

「けっ、姉貴の真の属性はドSだろうが……」
「あらぁ? 何か言ったかしら雄二?」
「ななな、何でもありませんすぐに起きますですハイ!」
「まったく。突っ張りきれないなら最初から言わなければいいのに。でも、そうね」
嫌な予感がした。
姉がこういう表情をする時は大概、碌なことにならないのだ。……主に貴明が。
「ドSねぇ……ふふ、うふふふふふふ」

向こうで言い合うこのみと郁乃、気づかれてないとでも思っているのだろうか、2人の隙を見計らってはさりげないアピールをする愛佳、火中の栗宜しく赤くなりながらわたわたする貴明、そんな風景を見ながら何やら立案して口角を上げる環。

いつもの(?)登校風景。まったくもって今日もヤツらは無駄に元気だった。