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完全に桜は散り終わり、梅雨入りはまだなものの確実に上がりつつある温度と湿度のダブルパンチに加え、聞こえ始めてきた中間考査の足音にも怯えるある日。
昼休みの教室は学食や購買へ走る生徒、彼らを尻目に悠々と弁当を広げる者、どちらにも入らない、貴明や雄二のように手ぶらでどこかへ出て行って他の男子連中から怨みの篭った視線を背中で受ける者、雑多な様相を呈していた。
そんな中、いつもなら学食へのんびりと歩く愛佳が「どうしようどうしよう」と呟きながらおろおろしている姿に、ちょうど屋上で待つ環とこのみのところへ行こうとした貴明が気づいた。
「どうしたの、小牧さん?」
「ほぇっ?あ、たかあ……こ、河野くん」
書庫だけという約束の彼の名前を呼びそうになって慌てて訂正する。教室では割ときっちり約束を守っていた愛佳なだけに、よほど焦ってるんだろうなあ、と貴明は思った。
「ん。どうかしたの。また何か頼まれごと?」
「えーと、その」
反応ですぐにわかる。申し訳なさげに上目遣いな愛佳に、ちょっとだけクラっときてしまった貴明はさり気なく視線を逸らした。
「あー、やっぱりそうか。それで、そんなに大変な用事なの。何だったら手伝うけど」
「や、や、いいですいいですぅー。用事そのものは大変なことじゃないから」
「用事そのものは、ってことは別のことが問題なわけだ。それで、それは何」
「あう」
視線を戻して真っ直ぐに愛佳を見つめる。貴明自身もそうだが、愛佳は特にこれに弱いのだ。どうせ素直に話すような彼女じゃないから、ここは手っ取り早く弱みに付け込むことにした。
「その……郁乃とお昼一緒に食べる約束してたんだけど、先生に呼ばれちゃって」
おずおずと話す小動物系委員長にふむ、とひとつ頷いて、
「ちょっと時間がかかりそうだから郁乃に伝えたいんだけど、職員室に早く行かなきゃならない、と」
即座に理解した貴明が後を繋ぐ。確かに郁乃の教室は職員室とは反対にあるけれど、それくらいは先生も許容するんじゃないかなあとは思ったが、まあその辺は委員長だし、とクラスの中では完全に定型句となった理由で自分を納得させた。
「じゃ、俺が郁乃に伝えておくよ。学食で待ってるように言えばいいのかな」
途中で口を挟みそうになった愛佳を見て、すぐにどう伝えればいいかを尋ねる。でなければどうせ遠慮するに決まっているから。
「ううん。お昼ぎりぎりになりそうだから、先に食べててって」
「りょーかい」
「ごめんね河野くん」
「いいって。ほれ、早く行った行った」
「うん。ほんとにごめんねー河野くーん」
「いいってば」
「ごめんねー……わきゃっ」
「だから前向いて走れってばよ」
振り返りっては謝る委員長が誰かにぶつかり、いつものようにごめんなさいを繰り返す姿を見ながら貴明は溜息をひとつつくと、
「さて、んじゃ郁乃の教室に行くか」
踵を返して郁乃の教室に足を向ける。

「ごーめーんーねー……きゃんっあ、すいませんすいません」
「……だからもういいってばさ」

ToHeart2 - お姉ちゃんは心配性

「なあ、そんなに怒るなって」
「怒るわよっ!」
「うーむ、郁乃は執念深いなあ」
「そういう問題じゃないでしょうがっ!」
すたすたと、ではなくどすどすとガニマタで『私怒ってます』と全身で表現する郁乃の半歩後ろをついていきながら、今度は貴明が謝っていた。
「だから、悪かったってば」
「ほんとに反省してるわけっ」
「してるしてる。だからお詫びに昼をおご」
奢るから、と言いかけた貴明の目の前で、ピタリと郁乃の足が止まる。
「郁乃?」
「足りない」
「へ?」
「お昼くらいじゃ足りないって言ってるの」
「えーと。それはデザートもつけろ、と」
「それくらい自分で考えなさいよね」
「くっ……この強欲娘め」
ぼそり、と呟いた言葉を聞き逃す郁乃ではなかった。
ゆっくりと振り返り、
「な・ん・で・す・って?」
「そりゃ悪かったとは思うけど、そこまで怒ることじゃないだろうが」
貴明としては「そろそろ機嫌治せよ」くらいの軽い気持ちで言ったのだが、郁乃にとってはそれで済む問題ではなかったらしい。
「反省の色が見えないわね」
「いやだから悪かったとは思ってるってば。でも、そんなに怒るほどのものか?このみだってよくやってるぞ」
そう、実際のところ貴明にはどうして郁乃がここまで怒ってるのかよくわからなかったのだ。このみだけでなく、珊瑚や別のクラスの花梨、由真だってよくやることだし。愛佳だけはきっちりと使い分けてはいるが。
ただ、確かにあの時の郁乃の教室の雰囲気は妙だった。
それに今、目の前で真っ赤になって怒る少女も、何となくただ怒っているだけのようには思えない。
うーむ、と貴明は肩を怒らせる郁乃の前でほんの数分前のことを反芻してみる。

『郁乃はいるかな』
ちょうど前のドアが開いていたので、貴明はそこから覗き込む。既に学食へ向かっているかも知れないと思いつつ、とりあえず教室から寄って見たのだがどうやら正解だったらしい。
数人のクラスメイトと話している郁乃の後ろ姿を見つけ、安堵した彼は、下級生が上級生の教室に入るのとは逆だからまあいいだろう(このみや珊瑚はまさしくそれであるにも関わらず、遠慮もへったくれもなしに入ってくるが)とは思うものの、やはりどこか躊躇いを感じて誰かこっちに気づかないかと見渡してみる。
が、生憎と気づきそうな生徒はおらず、かと言ってずかずか踏み込むのも気が引けて仕方なくドアのところから呼ぶことにした。
『おーい、郁乃ー』
ざっ!
『うおっ?!』
予想だにしなかった反撃にあい、怯む貴明。
なんだか後輩たちの視線が痛い。それなのに音はない。
さっきまでこの四角い空間を満たしていた昼休みの喧騒、学生らしいざわめきは一体何処へ?と疑問を感じてしまうほどに異様な時間が創出される。
女子たちは好奇心丸出しでこちらを見つめてくるし、男子生徒たちは妙に痛い視線を投げかけてくる。
な、なんだこの教室は。
してはならないことをしたのだろうか、いや、別に郁乃を呼んだだけだしなあ。
思わず数歩下がってしまった貴明が救いを求めて郁乃へ視線を飛ばすと、ちょうどこちらを見ていた彼女と目が合った。
良かった、と心中で呟いて、
『郁乃』
ちょいちょい、と手招きをする。その瞬間、静謐で満たされていた異次元空間に日常が、いやこれもまた非日常なのだろうがざわめきと言うには生易し過ぎる喧騒が湧き上がった。
郁乃の方へ数歩進んでいた足が更に下がり、恐らく腰まで引けているだろう。両隣の教室からも何事かと顔を覗かせる生徒が数名、好奇心でいっぱいの目でこちらを見ている。
『ちょ……おい、郁乃、こっち来いって』
何が何やら。混乱した貴明は慌てて郁乃を呼ぶが、周りの女子生徒に、何かを怒鳴り散らしている郁乃はなかなかやって来ない。何を言っているのかまではさっぱり聞こえやしなかったが。

ようやく駆け寄ってきた郁乃を引き連れて、いや郁乃に引き摺られてと言った方が正しいかも知れないが、何とかあの妙な教室から抜け出してきたのが数分前。
どうしてあそこまで大騒ぎになるのかは理解し難かったが、どうやら原因が自分の言動にあるらしいということはわかった。だからこうして謝っているのだが。
「いやまあ、俺に原因があるんだろうからそれは悪いと思うんだけどな。お前のクラスだって相当変じゃないか?」
普通ならそこまで騒動にはならなかったろう。けれど郁乃のクラスは、というより郁乃は普通の転校生ではない。
闘病生活とリハビリを経て復帰した健気さと、その容貌から彼女の人気は女子にも男子にも相当な高さを誇っていた。単なる転校生ではなかったのだ。いやまあ、事実はどうあれ。
姉ほどではないにしろ、年相応に男子に対して照れがあることやそもそも病院と家の往復で同年代の男子に不慣れなこともあって、ほとんど話をしない郁乃を名前で呼んで手招きをする上級生の男子がいた、という事実だけで騒ぎになるのはある程度仕方ないと言える。
「あんたねぇ、ちょっとは空気読めって言ってんのよ」
「や、空気読むって言ってもなあ。普通あんなことになるとは思わないって」
心底そう思った。貴明のクラスにこのみや珊瑚、花梨に由真が来たときだってあんな騒ぎにはなら……
「ごめん、俺が悪かった」
あんな騒ぎになった。特に雄二とか。
そのことに思い至った貴明が謝ると、今度はその謝意の違いに気がついたのか、郁乃も少しだけ表情と声を和らげて、
「いいわ。今回は許してあげる」
助かった、これでデザートの件もうやむやに……と思っていた貴明に、ただし、と人差し指を突きつけて、
「デザートは譲らないからね」
「ちっ」

「どうした郁乃。デザート頼んでもいいんだぞ」
「あんた、わかってて言ってるわね」
「何のことだ?学食でデザート頼むなんてことなかったから、どれがいいかなんてわからない。だから郁乃の好きなやつにしていいって言ってるじゃないか。優しいお兄ちゃんだよなあ、俺って」
そう、貴明は学食でデザートを頼んだことなどない。それはもちろん、健康な一般男子生徒ならばそんなものを頼むより定食のご飯を大盛りにしたり、おかずを一品余計につけたりする方がいいという、ごく当たり前な理由の他に、
「学食で何を頼めって言うのよ」
「だが要求したのはお前だ、郁乃」
にやにや、と笑う貴明にぷち(ぶち、ではない)切れた郁乃が地団駄を踏みながらきぃっ!と怒る姿を見つつ、
「うーむ。果物をお預けされたボリビアリスザルのようだ」
「なによ、それっ」
「知らないのか?哺乳綱霊長目オマキザル科リスザル属の猿で、ボリビア他中南米に多く見られる……」
「知らないわよっ!」
『きぃっ!』から『うっきぃっ!!』に進化する郁乃。いや、それが進化なのかどうかは微妙だが。そんな郁乃にけれども貴明は、
「ほんと、良かったよなあ、郁乃」
寸前とは全く異なる視線を投げかけた。声も揶揄するようないつもの軽い口調ではなく、噴火中だった郁乃の耳にもそれは優しく聞こえたから、郁乃も思わず中途半端な怒りの表現のままたじろいでしまう。
「なによ、急に」
「うん、ほんとに良かった」
「な、何なのよ、人のことじろじろと見て……きゃっ」
むぅーっと下から睨む郁乃の頭に貴明の手が伸ばされ、わしゃわしゃと撫でる。
不意打ちにぴくんと体を震わせた郁乃だったが、それでも撫で続ける貴明の手を拒もうとはしなかった。
「ほんと良かったよ。郁乃が元気になって。凄く嬉しい」
言葉が途切れ途切れにしか出てこない。貴明はそんな自分を不甲斐なく思ったけれど、本当に心の底から出てくる言葉ってそんなものかも知れない、と自分の語彙力のなさを正当化した。
初めて出会ったのは病院。
それも相部屋ではなく個室であることとその部屋に全く不自由していなさそうな様子が、彼女の病気の特異性と入院生活の長さあるいは頻繁さを物語っていた。「同情するなら金をくれ、いやむしろ寄越せ、つーか姉貴から離れろ」な郁乃だったから、そして貴明もなぜかそのことにはすぐに気づいたから下手な同情はしてこなかったけれど、それから毎日のように愛佳に付き合って、しばらくしてからは愛佳がいなくても自然と足が郁乃の病室に向いていた。
そうして彼女の退院、リハビリ、初登校とすべてに付き合ってきた貴明だから、生まれてからずっとの家族には遥かに劣るものの、やはり郁乃の退院と回復は自分のことのように嬉しかったのだ。
郁乃が初めて車椅子なしで登校する朝、小牧家の玄関で何の支えもなしに立っている制服姿の彼女を見て、不覚にも目から汗が出そうになったのは秘密だけれど。そんなことばれようものなら、郁乃に何言われたものかわかったもんじゃないし。
「ほんと、嬉しいよ。約束通り、色んなとこに連れてってやるからな」
その気持ちが家族に似た感情なのかどうか、そんなことは貴明にだってわからない。いや、郁乃のことを好きだという感情が存在していることにはとうの昔に気づいてはいるが、今のこの気持ちがそれだけかどうかと言われるとそうでない気もする。

複雑に入り混じった、けれど傍から見ても好意でしかない気持ちで郁乃の頭を撫でていると、
「じょっ」
「じょ?」
俯いてしまった郁乃の口から奇妙な言葉が漏れる。
じょって何だ?
「じょ、条件の修正を求めるわ!」
「条件の修正?」
はて、何のことだ。全身を使って怒りを表せるようになった郁乃の姿が嬉しすぎて、つい先ほどまでの会話をすっかり忘れてしまった鳥頭な貴明だった。
「だから、デザートじゃなくて、別のにしなさいって言ってるの」
相変わらず俯き加減で、郁乃が怒っているのかどうかは見えない。でも、なんとなく声のトーンが怒っているわけではなさそうに聞こえた。
「ん、ああ、そのことか。いいぞ別に。何が欲しいんだ?バニラアイスか、肉まんか、それともタイヤキ、いちごパフェに牛丼か?」
「誰が『えぅ〜』に『あぅー』に『うぐぅ』に『だおー』なのよ」
「最後の一人はどうした」
「……うるさいわね、ていうか何で食べ物ばかりなのよ」
「いや、そこはホレ、やっぱり愛佳の妹だし」
微妙に現実的な貴明の言い訳に、うぐぅと黙るしかない郁乃。もちろんほんとにそんな風にないたりしないけれども。
「とっとにかく!条件変更よ、いいわね」
ずびし!と郁乃。貴明はと言えば、どうせ本気で学食でデザートだなんて考えていたわけでもないので異論があるはずもなく、
「そりゃ構わないが、できるだけ同じ程度の出費で抑えてくれると助かる」
「出費、ねぇ。幾らくらいまでならいいの」
「そうだなあ」
しばし考える。健康的な男子学生である貴明がそうそうデザートの値段なんてわかるはずもない。ごく稀に環と一緒に行ったり(この表現が妥当であるかどうかは彼の友人である雄二としては異議を挟みたいところではあるだろうが、貴明本人としてはこの表現で済ませておきたい。そりゃもう男の沽券に関わることだから)、このみとアイスクリームを買い食いしたりということはあるが、環と一緒の時は大概環が払ってくれるし、このみの場合は店に入ってまで食べるようなものでもない。
見舞いに通っている時、郁乃と愛佳にアイスやお菓子を買って行ったことはあるが、それとも違うだろう。
「んー……これくらい、か?」
自信なさげに片手を広げる。色々思い出そうとしてみたものの、デザートをわざわざ店で食べる場合の金額がちっともわからなかった。
恐る恐る、という感じで広げた手を見た郁乃の表情は、呆れ顔から次第にむっつりしたものに変わり、
「あのねぇ。今時何を奢ろうと思っているわけ」
「そうは言ってもなあ。そういう店に行ったことが……あるけど払ったことはないし」
後半はこっそりと。嘘はいけない、うん。
「え、なに」
「なんでもない。とにかく目玉が飛び出るほどの金額にならなきゃ何とかなるだろ。郁乃が決めていいよ」
「ふぅん、そう。だったら」
郁乃はここで言葉をとめた。
なにがいいだろう。ラ・カスタのスイーツはいいけどちょっと遠いし、沙羅は美味しいけど種類が少ないし、カンデラはこいつの財布じゃ無理よね。新宿のヒルトンでデザートバイキングってのも捨てがたいけど、完全に足が出るだろうし。そうすると、カフェ・ド・セリアで手を打つか……。
腕組みをしながらうんうん唸る郁乃を、貴明は不安げに見守る。いや、これからの自分の財布のことを思って切なげに見守るの方が正しいかも知れない。

「そうか、この手があった」
「ん、どうした郁乃。決まったのか」
尋ねる貴明に、郁乃は得意そうな顔で、
「日曜日、午前10時に駅前」
「はい?」
「だーかーら、明後日の午前10時に駅前集合だってば」
「えーと。デザートじゃなかったのか」
「そうよ?別に今日行くとは言ってないし、それに大丈夫、あんたの財布にも優しいコースを考えてあげるから」
「ちょ、待て、コースって」
慌てて問い返す貴明に、けれども郁乃はひらひらと手を振りながら教室へと足を向け始めていた。
「じゃあね、明後日遅れたら殺すわよ」
その後姿を呆然と見送っていた貴明が次にはっとして気づいたのは、
「やばい……このみ達を待たせたままだった」

慌てて屋上に走った彼を、郁乃に奢る金額の3倍出費予定が待っていたのは言うまでもないことだった。

「で、どうして俺はこんなところにいるのだろう」
周囲を見回しながら貴明は独り言にしては大きめに呟く。
「なによ、何か文句でもあるわけ?ちゃんとご要望通りあんたの財布には響かないように、自分の分は自分で出してるじゃないの」
彼の呟きを聞きつけた郁乃が、片手に持ったチケットをひらひらさせながら言う。そのチケットには映画のタイトルと高校生料金である旨が、映画の内容に相応しい色合いとレイアウトで印刷されている。もちろん、そろそろ定期考査があることを考えれば、郁乃はともかくとして貴明が日曜日にふらついていることは決して爽やかに笑って見逃せることではないのではあるが。

「でもまあ、それもいいか」
目の前のちっこいのに視線をやりながら、貴明は思った。出かける前に彼の成績を心配した環が、彼と同じかそれ以上にぎりぎり綱渡り状態の雄二をドナドナの牛以下と思えるような引き連れ方をして現れ、それにただ単に幼馴染が集まるからという何で部屋にいて外のそんな様子がわかるかお前はと突っ込んでしまいそうになる嗅覚で嗅ぎつけたこのみが……いやまあ、その辺りの事情はいい。というかあまり思い出したくない。誤魔化すのにどれだけの体力と気力と、今後の出費予定を重ねたかを思い出すのはあまりにも辛すぎる。
「ポップコーンとコーラはちゃんとあんたが出すのよ」
「映画にポップコーンとコーラって。郁乃、お前はいったいいつの人間だ」
「なによ、しょうがないじゃない。何となくの知識でしか知らないんだから」
そうか、と貴明は思ったが郁乃が同情を嫌うことはわかっているから表情には出さなかった。
「しょうがないな、それくらいなら奢ってやるよ。でも別にポップコーンじゃなくてもいいぞ。何か欲しいものあるか」
それに何より、郁乃と2人でいられるというのは彼にとっても不満のあることではない。郁乃がどういうつもりで映画にしたのか、それは貴明にはわからなかったけれど。
「あんたに任せる。私が好きそうなの買ってきてよ」
「それって売店の全部ってああいえ、なんでもアリマセン、ハイカッテキマス」
「そ。じゃ、よろしく」
すたすたと歩いていく郁乃の背中に、でもな、と貴明は呟いた。
「さすがにこのタイトルはどうかと思うぞ、郁乃」
彼の手に握られた、さっき買ったばかりのチケットには『ピンク・ノーベンバーを追え!』と書いてあった。

なんでこんなのを上映しているんだと思ってしまうような映画は、予想通り詰まらなかった。あの有名映画のパロディであるにも関わらず、内容は掠りもしないし。とは言え、そもそも映画をあまり見ない郁乃なら当然なのだが、隣で何がおかしいのかわからないといった様子で不機嫌になるのは勘弁してもらいたかったが。
「だいたい、決めたのは郁乃だろ」
映画館を出て歩きながら貴明は郁乃のご機嫌を取っていた。なんか、つい一昨日もこんな光景があったような気がする。
「わかってるわよ。あーもう、こんなことならちゃんと姉貴に聞いとくんだった」
「なんだ、愛佳には何も言ってないのか」
「そうよ。だって、何となく悪いじゃない」
「なにが?」
「なにが、って。そりゃ恋人を取られちゃったなんて思われたら嫌でしょうが。幸い、今日は由真さんのとこで用事があるみたいだったから、はちあわせちゃう危険性もないし。余計な波風立てる必要はないでしょ」
郁乃なりのカマかけだった。
我ながら子どもっぽいとは思うけれど、それに貴明と愛佳が付き合ってるわけじゃないってのも知っているけれど、それでも貴明の口からちゃんと否定の言葉を聞いておきたかっただけ。
「それ、前にも言ったというか何回も言ってるような気がするけどな、俺と愛佳は別に付き合ってないって」
溜息まじりの言葉もいつもと同じ。それだけで普段なら満足して追及を止めるのだが、今日は2人きりで出かけている、しかも映画を見てこれから喫茶店にでも行こうかというウレシハズカシな流れのせいか、彼女の追及は止まらなかった。
「どうだか。だいたいあんた、他にも女の子がいっぱいじゃない。どれかに手をつけたりしてんじゃないの」
「お、おいおい、なんだよ『いっぱい』って」
焦ったような貴明の声を背中で聞いて、郁乃は足を停めて振り返る。ばっ、と両手を広げて数え上げながら指を一本ずつ折っていく。
「幼馴染のお姉さん、同・妹、しかもお隣さん。由真さんに姉貴、生徒会長と前生徒会長、久しぶりに再会した小学校の同級生、自称宇宙人、自称宇宙人の追っかけ、1年生の双子、メイドロボ、その2、その3」
両手をたたみきって、更に片手が広がる。全部で15人。
「いやいやいや、それおかしいから。ていうか宇宙人の追っかけとかその2とかその3って。いや何となく誰のことだかはわかるんだけどさ」
そもそもどうしてま〜り○ん先輩を知っているのかとか、その辺の突っ込みは入れない方が無難だと思って避けた、賢明な貴明だった。
「これだけいて、どれか直球ど真ん中ってのはないわけ?ぜ〜んぶ揃ってんじゃない」
ああ、あともう一人いたか、友達が。口の中で小さく呟きつつ郁乃はもう一本、閉じた片手の親指を上げる。
「なんだか親父くさい言い方だな。うん、でもまあ彼女らと友達なことは認める。友達じゃないのも中にはいるけど……て、をいっ!そのもう一人って雄二かよ!」
そこは突っ込む。ついでに親指にも。
「その親指も止めろ、中指も止めなさいって」
えーもう煩いなあとか言いながらも素直に下ろす。だいいち、さっき数えてた時はちゃんと人差し指から広げていたくせに。
「でも、どれかはいるでしょ。好みの子が」
再び歩き始めながら、郁乃は動悸を感じていた。
どうしてだろう、別にいつもと同じような会話なのに、今日は変にどきどきする。
「……いない。その中には」
そしてそれは、貴明も似たようなもので。
郁乃の追求だっていつもよりちょっとしつこい程度なのだが、やっぱり場の雰囲気なのだろうか。彼女の言葉に何が込められているのか、変に勘ぐってしまう自分に苦笑してしまう。ただ自分が深読みし過ぎているだけかも知れないのに。
それがわからないから、こうしていつもなら絶対に言わない余計は一言を追加してしまう。

つまるところ、勇気がないんだろうな、と思う。
ぴたり、と足が止まった郁乃の背中を見て、貴明は何か言葉を続けようかと思ったのだけれども、結局言葉が見つからなかった。開きかけた口をそのままに、どこか間抜けな表情で郁乃の髪を見つめる。
膠着状態に一石を投じるつもりはなかった。
バランスを保ったまま、ちょっとした口喧嘩をしたりする、このみや環とは違う関係でいるままでも良かった。
ただ、それだけでは満足できない自分もいて、今までは常に愛佳がいたから踏み出すことをしないで居られたけれども、今日はつい口が滑ってしまった。いや、本音のところが出てしまったと言うべきだろうか。

2人とも、このまま会話の糸口を引っ張って手繰り寄せるか、それとも何事もなかったかのようにいつもの日常を続けていくかを計りかねていた。
手繰り寄せた先に、何もなかったらどうしよう。
けれども、はっきりさせたい。郁乃と、貴明とこのままの関係を続けていくだけでは嫌だ。
探りあいみたいな会話の端っこだけなのに、2人は隘路に嵌ってしまっている。

もしかしたら、彼も、彼女も自分のことを。
もしも、彼が、彼女がどうとも思っていなかったら。
どちらにしてもIFでしかないことを、延々と考え続けてしまう。その焦りと不安が少しの会話ににじみ出てしまって、けれどもその先に進む勇気はなくて。

聞きたいけれど聞けない。
言いたいけれど言えない。
そんな曖昧でいい加減で、どうしようもなく精神衛生上よくない雰囲気に先に倦んだのは郁乃だった。

「じょっ」
「じょ?」
立ち止まって、背中を向けたまま郁乃が呟く。
これまたどっかで見た展開だな、と思いながら貴明が問い返す。
不安でどうにもならない焦れた状況から、郁乃がひょい、と緊張感を外すかたちになった。
「じょ、条件の変更を求めるわっ」
「え、変更って……お前、さっき修正版の条件を実行したばっかだろう。実行済みのものを変更するってのは横暴じゃないか」
「うるさいわね。男がこれくらいのことでごちゃごちゃ言わない。お金かからなきゃいいんでしょ」
実際は多少の金がかかろうが、貴明にしてみれば好きな女の子と一緒にいられるのだ。口ほど嫌がっているわけでもないし、むしろ喜んで受け入れる。ただ、それを素直に表現するには時間と勇気が必要だったが。
「ん、まあな。それで、どんな修正するんだ」
とは言え、ちょっとだけ身構えるというか、心の準備。なんだかんだ言って郁乃のことだから、珊瑚や花梨のように無茶な要求をしてくるとは思っていないけれど。と、珊瑚や花梨が聞いたら怒りそうなことを考えてみる。
貴明は郁乃がさっきまでの緊迫を外したことと、彼女の雰囲気がいつものように戻ったことでがっかりしたと同時に安堵もし、つい「食べ物か何かかな」と思ってしまっていた。

けれど、郁乃の条件は、
「……から」
「は?」
「だから、あんた……から」
「あの、すまん郁乃。ちょっと聞こえないんだが」
じり、と一歩近寄る。それほ雑踏が激しいわけでもないし、さっきまで背中越しでも郁乃の声は届いていた。そんなに凄い注文なんだろうか、と不安が勝ってくる。
「うわっ!」
「きゃあっ!」
くるっ、と急に振り向いた郁乃と顔が急接近。
「ちょ、ちょっとあぶ、危ないじゃないのっ」
「ご、ごめん。き……急に振り向くと思ってなかったから」
お互いに胸を押さえながら真っ赤な顔でちょっとだけ離れる。微妙に開いた爪先同士の距離が、それでもさっきより近い。
郁乃も貴明も、しばらく視線を彷徨わせていたが、ちらと見た瞬間にぶつかり合う。
「あ、そ、そそ、それで郁乃、じょ、条件の変更って」
「そそそ、そうね。……ふぅ。こほん」
ひとつ咳払い。息を静めて、
「あんたにも同じ目にあってもらうから」
「……んんん?」
何のことかわからないまま妙なくぐもりを口の中で唱える貴明に、
「教室であんたがしたこと、よく思い出してみなさいよ、たかあき」
「へ?」
そう言っていつもの笑顔を見せて身を翻す。
「教室で……呼ぶ、えーと、あれ?え?今郁乃、俺のこと名前で……っておい郁乃、ちょっと待てって」
慌てて追いかける貴明の目も笑っていた。

「くぅっ。あともうちょっとだったのにぃ」
「あのさあ。言いたくないんだけど」
「うぅぅぅ、2人とも勇気だよ!もうちょっと勇気を出すんだよっ!」
「はぁぁぁぁ。せっかくの休日に呼び出されて来てみたと思ったら、これだもんね。なんでこんなデバ亀みたいな真似を、このあたしが」
「おいちゃん物陰から応援してるからねっ!」
「誰がおいちゃんか。ていうか聞きなさいよ、愛佳っ!」

証拠←ほんとにあります。