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「ほんと、面白そうなことにはすぐ顔を突っ込みたがるんだから」
溜息混じりに言う久美に、ルリは何と言えばいいのかわからず曖昧な笑いを浮かべた。
初夏の太陽はそろそろ2人の白い肌を容赦なく焼き付け始める位置にある。
それでも日焼けには何故か殆ど無縁な2人は、あまり気にせずに正門への長い坂道をのんびりと歩く。
ルリも久美も、朝に強いわけではないのだからいつもなら早足になるところだが、今日は明人と賭けをした現代社会の返却があるらしく無駄に早起きしたラピスに叩き起こされたため、そのまま久美の家に寄った。
余波を喰らった感のある久美だったが、「あら、今日のテスト返却って確か」と言い始めた同居人兼保護者の言葉にそれ以上追求されることを恐れて慌てて飛び出してきた。
そのラピスは気が急くあまり先に行ったが、恐らくHRの1時間前には教室でそわそわしているのだろう。

「まあ、あと1年の辛抱だけど。3年になったら理数系はなくなるから学校で会う機会なんてほとんどないだろうし……」
それはそうだけど。
ただ、あの人がそう簡単に大人しくなるかな、学校で会わないってだけで家では会うというか一緒に暮らしてるわけだし……と思ったけれどルリは辛うじて口には出さずにしまっておいた。
その代り、これもルリが本心からそう思っていることではあるが、こう言っておいた。
「それだけ、先輩のことが気がかりなんですよ」
学校を出れば「久美さん」と呼ぶこともあるが、校内で「先輩」と呼ぶことに抵抗なくできるようになった瑠璃に、一番驚いたのは当の本人だった。
軍隊のように階級が存在するわけではないのだから、言い慣れた……と言った時、明人はさすがに嫌そうな表情をしたのでそれからは言ってないが、「〜大佐」や「〜中尉」のような呼び方はできない。
かと言って、「〜さん」と呼ぶ慣習はあまり学校という場ではないようだ。
「〜先輩」と呼べばいいのだということはある程度の前知識でわかってはいたが、そう呼ぶのは学校という場所にほぼ限定された呼称であり、その自分とは無縁な世界だった場所での常識であったことが何となく気恥ずかしさを覚えさせたのかも知れない。
「先輩だって、好きなんでしょう?」

期末テスト、7月のある一日。

「ルリちゃんも自然になったね。先輩って呼び方が」
ルリの質問に照れくさくて答えられないことを誤魔化すためなのだろうか、久美はあらぬ方向へ話を曲げようとした。そして、わかっていながらもあまりにもタイムリーな話題に、
「……改めて気づかせないでください。そりゃ、半年経てば慣れます」
と言いつつもあまり慣れていないんじゃないの、と久美が聞き返したくなるような赤い顔で返す。
「期末、どうだった?」
お互いこの暑い中で照れてしまうような話題は好ましくない、ことは明確で。
ところで、と前置きを置いてから久美は話題を変えた。
「……って、まあルリちゃんには聞くまでもないか」
「そうでもないですよ。私、現代文苦手です」
「ふぅん、そうなんだ。ああ、そう言えばラピちゃんもそんなこと言ってたけど」
「あの子の場合は、単なるサボりです。授業中に内職なんてやってるからですよ」
「姉妹揃って国語が苦手ってのも、あれよね。明人さんに『仲がいいのは構わないけど、そこまで仲良しにならなくたっていいのに』くらい言われたんじゃない?」
久美の笑いを横目で見ながら、こんな人じゃなかったのに……環境は人を変えるって本当なんだ、と、心中で自分をにやりと笑いながら見つめる『あの人』を想像しながらも反撃する。
「先輩は物理Bがぼろぼろだったそうですね。化学じゃなかったのが救い、ですか」
「あう……ど、どこでそんなことを」
「さあ」
「はっ。あの人ね……」
「ご想像にお任せします」
実は、化学Bが戻ってくるのは今日の午後だったりする。そのことを思い出し、「大丈夫よね、あれだけ勉強したんだもの……だ、大丈夫よ、そう大丈夫……かしら……いえきっと大丈夫……じゃないかも……」と心中の葛藤を無理矢理押し隠すかのように、
「で、ラピちゃんの内職って何なの?」
「それが、小説を書いているらしいんです」
「小説?」
はあ?としか表現できないような口調で久美が聞き返す。
「だって……国語の授業中に?」
「ええ、生意気なんです。国語なんて先生の感想や解釈を暗記するだけの教科だ、なんて。それが納得いかないようで」
やれやれ、と言う風に肩を竦める。
去年の夏に暑いからとばっさり切ってしまった蒼い髪は、肩の下に届く程度まで伸びてきてもツインテールにはせず、後ろで軽くリボンで纏めている。
それが少しだけ肩に押し上げられて落ち、さらりと音が聞こえたような気がした。
「うーん……判らないでもないけど。全部が全部そうだと言うわけじゃないと思うし、特にラピちゃんには国語は必要な気がするんだけど。あ、おはよ」
緩い坂道を登りきると反対の坂道を登ってくる生徒がちらほらと正門の周辺に見え始める。その中に見知った顔を見つけて挨拶をしながら久美は続けた。
「それに、よりにもよって国語の授業中に小説なんて、ね」
「まったくです。そもそも本末転倒です」
ぷうっと頬を膨らませるルリに、久美は微笑を禁じ得なかった。

この2年程の付き合いではあるけれど、波長が合うとでも言えばいいのだろうか。久美はルリを妹のように思っていた。
そして、ルリが赤月たちの誘いを断ってこのS西に入学したのは、普通の学生生活を送りたいというのももちろんあるだろうけれど、久美がいるのなら初めての場所でも安心だから、という気持ちがあったと考えるのは自信過剰だろうか。
一度そのことを尋ねた明人は、『秘密です』と笑って逃げられたらしいが。
ルリがどう思っているかはともかく、久美が妹のように思っていることだけは、とりあえず確かなことだ。
そして久美がルリをそう思っていることと同じように、ルリにとってのラピスもまた、妹のようなものなのだろう。ただ、ルリとラピスの性格の差なのか、それとも今まで育ってきた環境のせいなのか。
ルリはどうしても困ってしまった時に久美に相談に来る。それらは服装のことや学校でのことなど、微笑ましく思ってしまうほどの内容が多いし、そもそも素直で手のかからない可愛い妹だ。
少し寂しくはあるけれど、大きな悩みが今までのところなかっただけかも知れないし、ルリの学校生活全般(時に……恋の悩みもあったりするけれど)に渡っての相談相手が自分だけであることは嬉しいし、困らせるようなことも全くしない。
が、ラピスはあの性格だ。
理攻めにしようとしても、同程度に理論的な2人が妥結点を見出せるはずもないし、ルリよりも感情的になりやすいラピスが癇癪を起こすこともままある。
そんな時は決まって久美のところへ駆け込んでくるのだが、そんなラピスの扱いについて相談にやってきたルリとはちあわせ、再び戦争勃発。それも一度や二度ではない。
結局、怒ったルリに負けじとやり返すラピスの間を取り持つのは、いつの間にやら長姉のようになってしまった久美の役割となり、泣き真似をして久美の後ろに隠れるラピスにルリの怒声が飛び、「まあまあ」と宥めつつ「ラピスも、わかった?」で事は終結するのである。まあ、週に1、2度の恒例行事のようなものね、そう久美は達観している。
駆け込み寺状態ではあるが、やってくるのが必ず久美1人の時に限られているのは恐らく2人とも無意識のうちに選んでいるのだろう。
……去年、一度だけ『あの人』がいる時にやってきて、ギャフンと言わされたことを覚えているに違いない。

今日辺り、また私は駆け込み寺になるのね。
そう思いつつ、けれどそれはとても、
「楽しみ、なのかな」
「え?」
「何でもないよ」
全く、嫌ではなかった。

世話好きというわけではないと思う。
ただ、偽りとは言え。
姉妹どころか家族すらいない自分が、妹のように接することのできる関係を持てたことが純粋に嬉しかったのだ。
白く光る空を仰ぎながら、久美は「まあ、でもさ」とルリを宥める言葉を捜しながら続けた。
「赤点にはならないんだからいいじゃんじゃないかな。それにルリちゃんだって、ラピちゃんの気持ちがわからないでもないんでしょ?」
「それはそうですが、私は最低限授業はちゃんと受けてます。それに……」
「あっ、そうか。だからかあ」
突然思い出したことで声をあげる久美に、愚痴を途中で切られてしまったルリは不満と怪訝が入り混じった表情を向ける。
「この間から家にやたらとあった小説がなくなってるのよね。あれって、ラピちゃんが持っていってるのかな」
得心したように頷く久美だが、ルリはあからさまに嫌な表情を向けた。
「はあ……あの子はまったくもう」
「別にいいんじゃないかな、あまり読まない小説ばっかりだし……あ」
「なんです?」
「ふうん。ラピちゃんももう中学3年生だし、そういうことに興味を持ってもいい年頃かもね」
1人納得する久美に、珍しく苛ついた様子でルリが尋ねる。
「だから何なんですか」
そんなルリに苦笑を返すと、
「うーん。なくなってる小説がね、全部少女小説なの」
「はあ?」
「ほら、よくあるでしょう。『先輩!』なんて瞳をきらきらさせて両手を胸の前で組んで縋るような目つきで……」
「ちょ、ちょっと先輩」
ご丁寧に再現まで加えながら話す久美に、ルリはちょっと恥ずかしくなったらしい。
慌てて胸の前で組んだ久美の両手を下ろさせると、
「だけど先輩がそういうのを読むなんて知りませんでしたよ。先輩の部屋の本棚って、料理とかお裁縫の本ばかりだったですし」
「私の趣味じゃないよ」
「え?」
「私の本じゃないもの」
「え、じゃあ……まさか……」
「うん。お姉ちゃんの」
涼しげな顔で答える久美とは対照的に、ルリは驚愕の表情を貼り付けたまま。
しばらく炎天下で固まる。
「……そ、そう言えばクマさんのぬいぐるみだとかハンカチとか抱き枕とか沢山持っていましたね……それに、いつだったか明人さんに学生服を着せようとして……」
「あはは。そんなことまでしてたんだ」
「笑い事じゃありませんよ。ほんとに大変だったんですから」
「ふーん、私は最初からそうだったからあまり変だとも似合わないとも思わないけど。ルリちゃんはずっと前から知ってるんだもんね」
「はい。私が軍を辞めるまではさほどそういった部分は出ていなかったし、出ていてもあまり会う機会が多かったわけではないですから、気がつかなかったんですが」
「私も昔は、結構そういう本も読んでたけどね」
難しい顔のルリに、久美は片手を揚げて陽射しを遮りながら苦笑した。

「そう言えば」
「ん?なあに?」
昇降口に前に着き庇の陰に入ったところで、おもむろにルリは口を開いた。
新校舎と旧校舎を結ぶ渡り廊下の1階にある昇降口から正面の、中庭の向こうに見えるクラブハウスを越えたグラウンドから運動部の朝練の声がする。左手の5階建て、旧校舎に教室があり右手の新校舎には職員室や化学実験室、音楽室などの特別教室が配されている。
室内用のサンダルに履き替えて足を止めた2人を、そろそろ増えてきた登校する生徒たちが追い抜いていく。
そんな流れを横目で見ながら、ルリは呟くように続けた。
「どうしてこの学校に来たんでしょうね」
「さっきルリちゃんが言ったじゃない。私のことが気がかりなんじゃないかな」
即答する久美。
「でも、先輩はそう思ってない、ですよね?」
「う……ん。まあ、ね」
「なら、どう思っているんですか」
「そうねぇ。来年はラピちゃんもここに入学するでしょう?あなたち2人をいじって遊びたいんじゃないかな。もちろん私がいるから、って理由も少しはあると思うけれど」
「……ラピスと2人で騒動を起こす様が眼に浮かぶんですけど」
「えーと、それは……まあ、私は1年の辛抱だし、来年は間違いなく文系クラスだから。頑張ってね、ルリちゃん」
あっさり言い放って逃げを打つ久美に、縋るような目つきをするとルリは真顔でこう言った。

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「留年してください、先輩」
「む、無茶言わないでよ」

瞬間、蝉の鳴き声が止まる。
久美はこの後教室で受け取る化学の予想される成績とその結果、ルリは久美がいなくなった後の1年を確実に理系クラスで過ごす自分を想像して、同時に溜息をついた。
それは再開した蝉の合唱に溶けて真夏の空へ吸い込まれていった。

「先生」
開きにくい引き戸をガラリ、と勢いよく開けるとすぐ目の前に座る白衣に声をかける。
「あら、何かしら?点数ならまけないわよ」
「ち、違いますっ。ちょっといいですか」
テストの返却期間なので、次の授業開始まで間がある。先生に対して失礼ではあるけれど、ちょいちょいと手招きをして廊下に呼び出した久美は、まだ返却と解説授業の続くクラスが多いらしく人気のまったくない周囲を確認してから口を開いた。
「ちょっとお姉ちゃん。ラピちゃんに変なこと吹き込まなかった?」
朝、ルリから話を聞いて恋愛小説がごっそりとなくなっていることに思い当たった久美は、同時にそのきっかけが何であるかも正確に見抜いていた。そして、そんな久美の意図を、いつかは突っ込まれるだろうと予測していたらしくイネスもまた正確に理解していた。
「変なこととは何よ、失礼ね。私は純粋にラピスの将来、希望を考慮したからこそ……」
「何を貸し出したの」
「……ふ、普通の本よ」
「リストは?」
「作ってないわ、そんなの」
「リスト」
「作ってないってば」
「出して」
「だから」
「一ヶ月、外食だけになりたいの?」
「ごめんなさい」
元々が食堂の娘で、更にホウメイや明人から手ほどきを受けている久美の料理は、下手な料理人顔負けである。また、外食、と言ったところで彼女たちのマンションの近くには碌な店がなく、外食=ファミリーレストランという構図になってしまう。
この手を出されて久美に強く出られるイネスではなかった。
久美もまた、月面で母親をその後の心労で父親を失って2年前にイネスに引き取られた直後こそ遠慮していた様子もあったが、最近ではこの手をしばしば使って強く出るようになった。
ルリやラピスに対して、またクラスの友人たちに対しても穏やかな久美だが、イネスだけには強気に出ることをイネスは好ましく感じていた。ルリよりも2つか3つ上に見えるほどにこにこと穏やかに接する久美もまた本当の久美なのであろうが、どこかで別の感情を発露させる場所があってもいいと思う。
そして、それが自分であることについて、久美がようやくイネスを本当の家族と認めてくれたことなのだろうと思うと嬉しかった。15歳になるまで父親という本当の家族と過ごしてきた久美だから、一線を引いて接してくるか、或いは依存しないほどに大人であるかのどちらかなのかも知れない、そう思っていたから。
結果としてはそのどちらでもなく、ごく自然にこうして姉妹の関係を築いている。
久美を引き取った経緯やそれからの2年間で積み重ねてきたことが無駄ではなかったのだ、と確信できるようになった今ではこういった遣り取りさえ(現在進行形で追い込まれてはいるが……)楽しい。

データチップを受け取ると、「最初は素直ないい子だったのに」「この底意地の悪さはあの女狐のせいね、だからあんなところでアルバイトするのは反対だったのよ」とかぶつぶつ言っているイネスを無視し、スカートのポケットからカードを取り出すとスロットに差込みウィンドウを開く。
流れていく文字を眺めていた久美の表情が呆れたものになっていき、
「お姉ちゃん、これは一体どういうことなの?」
「社会勉強?」
「聞かれても」
「うう……久美の突っ込みが鋭くなっていくわ……ボケキャラだと思っていたのに」
「『聖カトレア学園生徒会物語』『先輩といっしょ』、これくらいならわかるけれど……『秘密の卒業式』『真夏の渚〜ママには内緒ね〜』、小説家になるのに、こういう本まで読む必要があるのかしら?」
「ほら、やっぱり食べて行くためには売れないといけないでしょう?そのためには様々な分野の読み物を満遍なく読んで、一番お金になるような話を書かないと……」
尻つぼみに小さくなっていくイネスの抗弁はしかし、呆れきった久美の口調で覆い被せられた。
「この間明人さんが、『ラピスがやけに性知識について聞いてくるので困る』って私に助けを求めてきたけど……こういうことだったのね」
はぁ、と溜息をひとつ。
そしてイネスに向かって最後通告。
「一週間、家事担当」
言い置くと踵を返して教室に戻る。
「く、久美……そんな、お慈悲を……」
背後からイネスの声が聞こえるがお構いなし。
それに。
「もう、しょうがないなあ。お姉ちゃんは」
どうせ家事は結局自分がやることになるのだ。
帰ったらこの後の化学の成績で立場は逆転するに決まっているのだし。
どうしても苦手な化学の結果に思い悩みながらも、職員室から旧校舎へ続く渡り廊下の2階を歩きながら久美は知れず微笑みを浮かべていた。

こんな時間はとても好きだ。
テストの返却も終わり、帰宅部のルリは同じく帰宅部な久美と並んで歩いていた。
夕焼けが長い夏の一日を象徴するかのように2人の影を長く伸ばし、住宅街の小さな公園に申し訳程度に植えられた樹木からはそれでもひぐらしの鳴き声が聞こえ始めている。子どもたちの遊ぶ声と溶け合って、それは彼女たちの足の歩みと共に少しずつ小さくなって。
風がほんの少しだけルリと久美の髪を揺らす。
2人に会話はない。

帰宅部にも関わらずこんな時間に帰路を辿っていることは珍しくない。放課後の学校でおしゃべりをすることは日課のようなものだから。
ルリが天河家の家事当番でない時、そして久美はイネスの帰宅が遅くなるとわかっている時ならば、大体今日のように放課後の教室で他愛のない会話を楽しんでから家路につく。
放課後の教室と言っても、後輩のルリが先輩の久美の教室へ入ることもまたその逆も、どちらにしても何故か躊躇われるものだ。だから彼女たちはその時々によって場所を選びながらおしゃべりに興じる。春ならば正門までの桜並木にあるベンチ、梅雨時には空いている教室やクラブで使われていない被服室に視聴覚室、夏には風の気持ちいい旧校舎の屋上の日陰。
今日空いていたのは被服室。
話題は、期末テストの結果についてと夏休みの予定。
以前の自分だったら、無駄な時間を過ごしていると感じていただろうとルリは思う。いや、以前の自分なら、だけでなく恐らく久美とでなければ今でもそう思うことはあるのではないか。
久美がどんな人でどういった経緯でイネスと暮らすようになったのか、をルリは知らない。
知っているのは、あのナデシコで初めて木星蜥蜴の正体が人間であると知った2197年12月の月面、明人がボソンジャンプの末地球から月面へジャンプし、そこで交戦するまでの期間にお世話になっていた食堂の娘であること、その戦闘の際に母親を失いその3年後に父親と死別したこと。
専修科で調理を専攻していたので、その後も月面で家業の食堂を守っていたが火星の後継者の乱があった後イネスに引き取られて高等学校へ1年次の中途から入学した。高等科からや予科学校を通っていればスムーズに行けるのだが、転入扱いの中途入学は試験も厳しい。浪人しているわけではなく、年齢通りに入学して17歳で高等学校1年生になっていることから、久美が相当な努力をしたであろうことはわかったが具体的に聞こうとすると「あの頃のことは思い出したくないの……お姉ちゃんが、お姉ちゃんが……」とぶつぶつ言い出すし、ルリにも久美に鬼のような試験勉強をさせるイネスの姿が容易に想像できるのであまり聞かないようにしている。
ただ、はっきりしているのは。
いきさつは知らないが、イネスと久美がまるで本当の姉妹のような関係を築いていること。そして、そこに至るまでは決して平坦な道のりではなかったこと。
だから自分やラピスが、久美とイネスのように、久美に対しても本当の姉妹のように接することができるのだし、その雰囲気を久美が身につけたのだということ。
それだけが判っていれば十分だと思うし、大切なのは今とこれからだとルリは考えているから、それ以上のことを久美から聞き出そうとは思わない。
それはラピスも同様らしく、明人とずっと一緒にいたのだからイネスと同居になったいきさつくらいは知っていようがそれ以前のことを聞こうとはしない。
ただ、明人と久美に対してはルリに対してとは異なる甘え方をする。それはもう、無条件の甘えというか。
ラピスの姉を自認するルリとしては心中少しだけ不満もあるけれど、自分とラピスの間にもそれなりの信頼関係はあるのだし、明人や久美との関係に張り合うことが意味のないことだということもわかっている。
だから、いつものように喧嘩……傍から見れば可愛らしい姉妹のじゃれ合いになるらしいが……をしながらラピスの、ルリとでしかできない感情の発露をともに経験していっているだけ。

「夏休みは、大丈夫だね」
住宅街を抜け、静かに佇む駅が向こうに見え始める頃、久美が口を開いた。
ルリは駅前のロータリーを右に折れて線路沿いの上り坂を、久美は方向は同じだけれど少しだけ離れていて隣駅が最寄なので電車を使う。その距離は、ラピスがルリとの喧嘩の後、自転車で10分以内に久美の部屋へ到着できる距離。
「はい。でも、先輩の方が忙しいのでは?エリナさんがそんなに簡単に休ませてくれますか?」
「うん、大丈夫。幾らなんでも社員食堂のバイトのシフトにまで口は出さないよ。エリナさんだって忙しいんだから」
ルリは知っている。
エリナが久美の有能さに目をつけ、大学卒業後にはネルガル出版に採用しようとしていることを。
高等学校への中途入学も伊達ではなく、どうやら久美にはひらめきがあるらしい。文章能力だけでなく空間把握能力、要するにデザインでも高校生とは思えないセンスを発揮することがあり、美術部や工芸部、CGデザイン部からの勧誘が未だに途切れていないようだ。
そしてエリナはそれを編集かデザインの部門で伸ばそうと思っており、イネスは科学の分野でのひらめきを育成したいと思っている。
当の本人は……調理師か栄養士になりたいと思っているようだが。
だから当然、エリナは暇でないとしても久美の勤務シフトくらいは把握しているだろうし、イネスはイネスでエリナとは子どものような関係であるからして、エリナが久美の休みについて難色を示せば大喜びで賛意を表すだろうし、逆にエリナが休みに許可を出せばもっともらしい説教つきで反対する姿が想像できる。
そしてその結果、明人が仲裁に借り出されることも。
そんなちょっと先の未来図を知ってか知らずか、いや予想はしているのだろうけれど、にこにこと夕陽に照らされた微笑みをこちらに向けている久美を見ながら、
「先輩って……ナデシコに合いそうですね」
「え?」
「何でもありません」
「?そう。じゃあ、ラピちゃんと明人さんにも伝えておいてね。2泊だから大丈夫だと思うけど、基本的には明人さんの予定に合わせるからって」
「はい、ではイネスさんにはお願いしますね」
そう言ってから、ふと思いついて、
「エリナさんも誘ったら如何ですか」
イネスもエリナも行くのだ、ということになれば仲裁する明人の無駄な労力は省けるだろう、そう思って言ったのだが。
「うん、それはいい考えだけど……いいの?ルリちゃん」
「何がですか?」
「エリナさんを誘うと、自動的に赤月さんも来るよ?」
「……ま、まさかキャンプで奇抜な格好をするとは……おも、思えませんから」
「動揺してるね」
「う、だ、大丈夫です」
入学式の紋付羽織、5月の新入生オリエンテーションでの旅行にわざわざ見送りに来た際の燕尾服と、赤月の奇抜な服装は久美の記憶にも新しい。ルリが気になるから、というのもわかるが、なぜあれほど派手というか場違いな格好になるのだろうと常々疑問に思っていた。
最大の被害を蒙っているのはルリだから、同情しつつ今回はエリナを誘うことも避けていたのだ。
「じゃあ、お姉ちゃんに伝えておくよう頼んでおくね」
久美自身は面白い人だ、と思っているだけなのでルリが前言を撤回する前に楽しみを確保しておくことにした。
「はい……」
「じゃ、また明日。楽しみだね、家族旅行」
そう言って手を振り、駅の階段を登っていく久美を見送りながら。
ルリは思っていた。
自分やラピスのように、最初から親のぬくもりを知らずに育ってきたのならば。
半ば諦め、半ばは自然に気付かずに済んでいる。
最初から無いのならば、それほど意識しないで済む。
けれど久美は、15歳になるまで家族と暮らしていたのだ。
初めから不在であることが当然であることと、存在することが当たり前のものを失う喪失感ではあまりにも大きな違いがあるのではないか。
そしてそれを気にしない風に「家族」という言葉を使えるのは、久美の強さ、なのかも知れない。
いつも穏やかな微笑みを浮かべながらルリやラピスを見守り、イネスとふざけ合いながらも絆を生み出し、その裏にある大きな悲しみや苦悩をごく自然に押し込めたり霧散させたりしながら。
こうして普通の生活を送っている。

だから。
だから、ルリもラピスも久美のことが大好きなのだ。
だから憧れるのだ。
長く伸びた自分の影を見つめながら、ルリは自分もまた久美のように強くなりたい、そう思いながら家路につく。

心中、どこか別のところではイネスから借りた妖しげな小説類を没収してラピスと喧嘩し、飛び出して行ったラピスのことをすぐに電話で久美にお願いしないと、と頭を痛ませながら。

four seasons.
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