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素直になるとか、正直な気持ちってほんと難しいと思う。
小牧郁乃は真剣な表情の後ろで、そんなことをぼんやりと考えていた。
それが対人関係になればなおさらだ。
正直に相対したからと言って、相手が納得するとは限らないし、素直に受け入れたからと言ってそれがハッピーエンドに繋がるとも限らない。
今相手が正直に言って欲しいと思っていて、そして自分が素直になった、そんな双方の態勢が合意していなければ「素直」とか「正直」とか言う言葉がポジティブな動作と結果を作り出すことはないんじゃないだろうか。
そしてそんなタイミングって言うのは、実際のところそれほど多くはないような気がする。
もちろん、郁乃の数少ない社会経験からの推測でしかないのだけれど。
「私は、たかあきくんの正直な気持ちを知りたい」
だから今、その稀有なタイミングがこの場で展開され、それどころか自分がその当事者になっているというのはとても貴重な経験であるように思う。
目の前にいる彼は、最初驚いたように目を見開いていたが、その言葉に押されて俯く。
自分のその「正直な気持ち」を言葉にまとめようとしているのか、それとも今さっき郁乃が考えていたように、素直に言っていいものかどうかを判断しようとしているのか。
いずれにしてもそんな猶予期間はそれほど与えられなかったし、彼もまた、格別に長い時間を必要ともしなかった。
「たかあき、くん……」
今ひとたび自分を呼ぶ声に、彼は顔を上げる。
それは、曖昧で浮ついた色が完全に排除された大人の表情だ、と郁乃は思った。
だからもう自分が何かを言う必要はなかったかも知れない。けれど自然に、彼の名が郁乃の口をついて出ていた。
「……貴明」
声に何かが含まれていないだろうか。なぜか郁乃は場違いなことを思った。
そして彼がゆっくりと口を開く。
「俺は……」
ToHeart2 - moratorium(前)
思えば初めて会った時から、何となく見透かされているような気がしていた。気がしていたどころではなく、実際にそうだったのだが。
「こいつじゃないよ、郁乃。い・く・の。『全然育ってないけどね』」
にやり、と笑って見せる。貴明はその瞬間、何か言いたげに口を開きかけたが、そのまま次の言葉待をつことにした。
「知ってる?こういう言い方すると姉はホントに悲しそうな顔するの。せっかくプレッシャーに感じてくれてるんだから、期待に応えるべきだと思わない?」
「ああ、そうだな『郁乃』」
名前のところにアクセントをつけて言う。今度は郁乃が口を開きかけた。
「せっかくプレッシャーに感じてくれてるんだから、期待に応えるべきだよな?」
「……ふん」
言ってからにやり、とさっきの郁乃と同じ笑いをして見せた貴明に、むっつりと黙って睨みつけてやる。
おかしい、と郁乃は思っていた。普段ならここまで言うと、大抵は気まずくなって黙り込むか、もしくは慌てて他の——殆どは郁乃の病気のことや体調、それに姉以外のこと——話題に切り替えるかするのに。そして、その慌てふためく様を見て内心でせせら笑ってやるのが、病床の、この気が塞ぎ込んでしまう病室で過ごさなければならない彼女の、密かな鬱憤晴らしでもあったのだ。
それがどうだろう。
この男は初めて会ったのだと言うのに、郁乃の毒舌に怯んだ様子を見せたのは最初だけで、こうして切り替えしてくる。しかも気まずげな表情ひとつ見せず。
「言っとくけど」
「何ですか、お兄ちゃん」
けれどもここでこちらが引く訳にもいかない。郁乃はわざと呼び方を最初に戻してみるが、それでも貴明が表情を変えることはなかった。
「俺が『せっかくの命を何となく過ごしている』ってのは認めるよ。それから、郁乃の辛さをわかってやれないってこともわかってる」
おや、と思った。
同情や無関心は幾らでも見てきたが、言葉が合っているのかどうかはわからないけれども「正しい同情すらできない」と言ってきた人間は初めてだ。
けれども、そんな興味を完全に押し込めて、郁乃は無関心な目をただ貴明に向けていた。
「だけど、郁乃が愛佳の何をばらそうと俺は愛佳の力になってやろうと思うし、どんだけ憎まれ口を叩いても、俺が郁乃を嫌うことにはならないぞ」
「はあ?」
呆れているのか、それとも今の言葉の内容がわからなかったのか。口を半開きにして間の抜けた問い返しを発した郁乃を見ながら、貴明はひとつだけ、決心していた。
愛佳がどういう風に自分のことを思っているのか、妹だからと言って郁乃が言った言葉を鵜呑みにしても理解したことにはならない。確かに、色んな人の手伝いを嫌な顔ひとつしないで引き受けている、そこに「自分がいらない子なんだと思わないよう必死」なことが背景にあるというのは、わからなくもない。
理屈はわかる。頷けもする。
けれども、それだけでその人物像が正しいと判断するほど、甘い教育を環から受けてはいなかった。
ここは素直にタマ姉に感謝すべきなのかなあ、と考えながら貴明は再び口を開いた。
「はっきり言えば」
ふむ、と少し考える。ずばりと言っていいものなのかどうか、何となく心に浮かんだのはやっぱり環の顔で、習慣って恐ろしいと思いながらその脳裏に浮かんだ環に了承を求める。
「小生意気なガキが、人のいい姉に駄々をこねてるだけだ。だとしたら、1年大人である俺が、同じ立場で郁乃と喧嘩するこなんて、できない」
「随分な言い草ね。そうやって人を上から見下すような態度をとること自体が、大人な対応じゃないってことに気づいていない、ってのも哀れなものね」
無感情を『装う』郁乃の言葉に、貴明は内心苦笑した。
「人の話は最後まで聞けってば。今の時点での俺の印象としては、だ。って言っても、まだ会ってから数十分も経ってない。だから第一印象だけで判断なんてできっこない。そこで」
「はいはい、そこで?」
「郁乃がどんな子なのかわからないし、だとしたらその郁乃の言葉をすべて鵜呑みにすることもできない。つまり、今までの発言が本音なのかどうか、それすらもわからない。だとすると、これから少しずつ、郁乃のことを知っていくしかない」
「迷惑なんですけど」
「まあそう言わず。袖すり合うも他生の縁って言うじゃないか」
「袖すりあってないし。ていうか、すりあいたくもないわよ」
「冷たいなあ、郁乃」
「慣れ慣れしく呼ぶな」
「なら代わりに俺のことも、お兄ちゃん、のままでいいぞ」
「交換条件になってないでしょうがっ!」
完全に貴明のペースになっていた。きーっ!と噛み付く姿も、これまでの冷静で酷薄な言動とはまるで異なるものだったし、きっとこれも郁乃のすべてではなくてひとつの本当の姿なんだろうと思う。
「まあそんなわけで」
「どういうわけよ!」
「俺としては、郁乃のことをもっと知ろうと思う。もちろん、愛佳のこともだけど」
「結局、そっちが狙いなわけじゃない」
「や、別に狙いとか何とかってわけじゃないぞ。ただ折角知り合ったのに、憎まれ口の叩きあいで終わるってのも寂しいだろ」
ふ、と由真の捨て台詞が頭を過ぎる。
あれももしかしたら、これからお互いを知っていく上で必要な台詞なんじゃないか、と思いながらも、それは穿ちすぎだよなあと即座に否定する。きっとアレは、単なる口癖だ。
「あのな」
「なによ」
「よくある質問なんだけど、『もの凄く性格が悪くて美人と、とてつもなく性格がよくてブスと、付き合うならどっち』ってのがあるんだけどな」
「女性蔑視」
「なら、美人ってのを美男子に変えて考えろ。で、だ。俺の幼馴染がその答えに間髪いれず『美人』って答えたんだよ」
「ふぅん。類は友を呼ぶってところかしら」
どうやら郁乃は、貴明の一言一言に噛み付かないとどうにもならないらしい。ただ、その言い方がさっきよりも随分マシになってきている、と貴明は思った。
警戒してさっさと嫌われてしまえ、というものから、何となくだけれども掛け合いを楽しんでいるような感じに変わっている気がする。もちろん、そんなことを口に出したら、それこそ今度は徹底的に嫌われてしまうだろうから口にはしないが。
「……まあ、誉められる回答じゃないけどな。理由が『そもそもブスとは口を聞かねぇから、性格の善し悪しなどわからん』だったし。ああ、言っとくがそいつだって本気でそう思ってるわけじゃないぞ」
「あんたの友達のことなんてどうだっていいわよ。だから擁護する必要もなし。おわかり?」
はいはい、と貴明は肩を竦める。何をどう言ったって郁乃の態度はこんなものなんだろう。問題はそれがどこまで本気なのかを、こちらが見極められるかどうかじゃないだろうか。
「で、俺はその質問の答えは『付き合ってみなけりゃわからん』なんだな。だから」
少しだけ身を乗り出して、郁乃を正面から見据えてみる。
なによ、と言いたげなつまらなさそうな表情を浮かべた郁乃に、
「だから俺は郁乃に付きまとおうと思ったわけだ」
「……ストーカー」
「そんな上品なもんじゃないなあ」
「ストーカーが上品なのか、あんたの頭の中では」
「や、だから俺は、そうだなあ……蛍光灯に群がる虫と言うか、蜂蜜にたかるクマと言うか、磁石に吸い付く砂鉄と言うか」
「無生物じゃないのよ」
「とにかく言いたいことは、だ」
はあ、とため息をついて呆れきって話す言葉も持たない、といった感じの郁乃。それでも貴明の話を聞こうとしているだけ、最初に比べれば凄い進歩だと思った。
「俺は郁乃に興味がある。話したいと思う。それは愛佳のことでも何についてでも構わない。このまま、一回だけクラスメイトの妹の見舞いに来た酔狂なヤツで終わってしまうのも嫌だしな」
「じゃあそう思わないから、もう来なくていいわよ。それにあたしはあんたとなんか、話したいことなんてない」
にべもなく断られる。
けれども、郁乃をもっと知るために関わりを持とうと決心した貴明の意思を変えることはできなかった。
「なら、勝手に来て勝手にしゃべってく」
「それじゃあ、あたしを知ることにならないじゃないのよ」
ダメだ、こいつのペースに乗せられちゃ。そう思いながらも、結局郁乃は言葉を返してしまっていた。つくづく突っ込み側の人間であることが恨めしい。
「ほら、こうしてしゃべってくれるだろう」
にやり(郁乃視点)と笑う目の前の男。
いったい姉は、こんな男のどこがいいと言うのだろうか、郁乃は心底そう思った。
「はあああっ、もういいわ。勝手にしたら」
大きくため息をついてバサっと毛布を引っ被ると、郁乃はベッドに沈んだ。背を貴明に向けて、もうこれ以上あんたに付き合う気はこれっぽっちもない、という意思表明をする。
けれど、これで諦めるようなやつじゃないんだろうな、ということも頭の片隅では思っていた。
「あれぇ?郁乃、寝ちゃったの?」
ちょうど戻ってきた姉の、能天気な声がやけに気に障った。
「ごめんね、たかあきくん。郁乃の相手してもらっちゃって」
そのまま本当に寝てしまった郁乃の病室を辞去し、静かにドアを閉めて病院を後にする。バス通りに出たところで、不意に愛佳が謝った。
「どうして?楽しかったよ」
「えっ」
「え、て。なんでそこで意外そうな顔をするか」
「あ、や、え、えとえとえとえとっ!」
「もの凄い動揺してるな」
わたわたと両手を振りながら動揺する愛佳に、貴明は笑って、
「毒舌」
「ひぅっ?!」
「かなり毒舌だね。いや、ちょっと違うか……愛佳にはちくちくと苛めてるって感じなのかな、あの様子だと」
貴明の苦笑に、愛佳ははあっと大きく溜息をついた。
「やっぱりそうだったんだ。ほんとにごめんね、たかあきくん。でも、本当はあの子……」
「わかってる」
がっくりと肩を落として、けれども後半はちゃんと顔を上げて真っ直ぐ話す愛佳の言葉を、貴明は遮った。
「郁乃がああいうヤツだってこと、それがあいつの一面でしかないってことに俺が気づいて怒らないってこと、愛佳にはお見通しだったんだろ?でなきゃ、わかってて連れて来るわけがないもんな」
貴明がそう言って足を止めた途端、陽が落ちかけたバス停にジジ、軽い音が鳴った後で明りが灯る。一瞬だけ眩しそうに目を細めた愛佳は、貴明が何でもないと笑って言ってもまだ申し訳なさそうに身を竦めていた。
そんな愛佳に、言葉を捜す空白を埋めながら彼は時刻を確認する。
「んー……もうあと、4,5分ってとこだね」
「うん」
「気にしなくていいって。楽しかったのは本当だよ?……まあ、毒舌喰らったのも事実ではあるけどさ」
言いながら、病院に連れて来られる前から感じていた疑問を、ここで聞いていいものだろうかと思案する。きっと、いいタイミングなんじゃないだろうか。
「あのさ、聞いてもいいかな」
「えっ?あ、はい、なんでしょう」
「愛佳、敬語、けいご」
「あ、えーと、な、なに?」
敬語だろうが何だろうが、あまり変わらないな、と思いながら貴明は疑問を口にした。
「あのさ。……どうして俺を連れてきたのかな、って」
愛佳の様子から、郁乃が貴明に対しても憎まれ口を叩くことも、そしてそれに貴明が怒らないことも承知していたのは確かだ。とは言え、彼には愛佳がどうしてそう思ったのか、だいたい名前で呼び合うようになったのもつい最近の、特訓のためだし、それ以前では必要最低限のこと以外でさほど話をしたこともない。だから、どうして信頼されたのかが良くわからない。
郁乃はきっと、見舞いに来る客全員に対してああなんだろうけれども。
答えを待って愛佳を見るが、彼女の口は重かった。というより、言っていいものかどうか、考えているようだった。
「郁乃が、ね」
病院の方角から見舞い客のだろうか、数台の車が過ぎ去ってから愛佳は口を開いた。
「あたしがたかあきくんと書庫の整理をしている話をしている時だけ、いつもと違ってたの。普段ならあまりあたしの話に興味なんか示さないんだけど、たかあきくんの話の時だけ『それで?』とか聞いてきて」
「うん」
意外だった。
郁乃が愛佳の話に興味を持つ、ということではなくて。それは、郁乃が実は姉のことを嫌ってなどいないということがわかっている今となってはむしろ当たり前と思う。意外なのは自分の話題に興味を持たれたということだった。
「だから、もしかしたらたかあきくんには、少しは心を開いてくれるかな、って。勝手にそう思っただけだから、外れる可能性も高かったんだけど……」
「愛佳にしては大胆な賭けだね」
何となく貴明には想像できた。彼には兄弟がいないが、でもいたとしたらやっぱり多少は気になると思う。とりあえずということで、このみに置き換えてみれば——つまり、このみが異性の友人の話をしたりすれば、やっぱり気になるのだから。
「他に郁乃に話すことって、由真の話とかじゃない?」
貴明の言葉に、愛佳は目を丸くする。
「わかるの、たかあきくん」
「まあ……なんとなく」
苦笑しながら、やっぱりそんなところだろうな、と思った。多分、郁乃にしてみれば姉が自分の退屈を紛らわすためか時間を埋めるためか、どちらにしても同じ女の子の話であれば適当に相槌を打っていれば済む程度のことなのだ。
けれど、これが異性の話となるとわけが違う。今までずっと同性しか出てこなかった姉の会話の中に、突然現れた「たかあきくん」。しかも恐らくは、2人の間でそうだったように、郁乃に話す時にもきっと「河野くん」から「たかあきくん」に変わってしまったのだろう。
これまた例えがこのみになってしまうのだが、このみが「誰それくん」の話をしていても、そいつがどんなやつなのか、このみに悲しい思いをさせないやつなのか気になるというのに、下の名前で呼び始めたら居ても立ってもいられないだろうと思う。
貴明だけじゃなく、雄二だって環だってそうに違いない。環がそういう会話をし始めたのであれば、彼らの中には「タマ姉なら自分たちの誰よりもしっかりしているから大丈夫」という暗黙の了解があるから心配しないだろうけれども、このみとなるとやはり心配でたまらなくなってしまうのだ。
こっちがしっかりしなきゃ、と思っている相手だと、そんなものじゃないだろうか。
郁乃にとって愛佳は、姉ではあるが、何だかぽやーっとしているし頼りない存在なので、妹の自分こそがしっかりしていなければならないと考えても不思議ではない。……と、容易に推測できてしまうことは、愛佳にはとてもいえないが。
「なるほど、ねぇ」
「え、え?なにが『なるほど』なの?」
「いや何でも。こっちの話」
顔中に疑問を貼りつかせている愛佳に、強気だった郁乃の表情が重なり、これからはちょっと郁乃の見舞いに行くのが楽しくなりそうだ、と不謹慎なことを考えてみる。
郁乃対策も見えたかな、と思ったところにエンジン音を響かせながら、バスが見えてきた。
中編へ続く。