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「なんだ貴明、今日も病院か」
「ああ、悪いな。タマ姉とこのみにもよろしく言っといてくれ」
「かまわねぇけどよ。随分続くな」
「見舞いってだけじゃないしな。あれだ、雄二とゲーセンに行くのと同じようなもんだ。友達と会うのに頻度は関係ないだろ」
「まあな。んじゃ、先帰るわ」

ToHeart2 - moratorium(中)

あまり良好とは言えない最初の出会いから数週間、足繁く病院に通う貴明の姿があった。
「よ、郁乃」
「また来たの。あんたもたいがい暇人ね」
相変らずの毒舌は変わらず、いや寧ろ遠慮がなくなったようにも思えるが、貴明はそんな郁乃の態度を気にも留めずベッドサイドの椅子に腰を下ろす。遠慮がなくなったということは、姉妹である愛佳ほどではないけれど、少しは近しい人間だと思ってくれているような気がしたから。
……初対面でも遠慮がなかったような気がしないでもないけれども。
「愛佳は遅くなりそうだってさ」
「ふーん」
「お。さり気ない姉妹の愛情を垣間見た」
「どこがよ」
「いや、何となく。ところで……」
薄々気づいてはいたが、やはり郁乃は愛佳が好きらしい。イヤよイヤよも好きのうち、とはいうが、彼女の場合はただ単純に甘えたいだけだろう。貴明がこのみをいじるのと、立場を入れ違えた関係なのかも知れない。
もちろん、それ以上に何か理由があるのかも知れないのだが、それは彼女たちと未だ付き合いの浅い自分が知り得ることではない。
「来週手術なんだって?」
先ほど、すっかり慣れてしまった来院者名簿に名前を書き込んでいるときに、ちょうど通りかかった郁乃の担当看護師に聞いたことだ。
「うん」
「それほど大掛かりなものじゃないって聞いたけど……実際はどうなんだ」
「聞いた通りよ。簡単なものじゃないけど、別に命に関わるほど大袈裟なものでもないわ」
「ふぅん。良かったな、これでちゃんと目もよくなるんだろ」
「まあね。……不安でしょ」
目が良くなれば、元々貧相なあんたの顔が更にはっきり貧相に見えてしまうから。そう続けようとして郁乃は笑う。
にやり、と。
この顔が出てくると、きまって次の言葉は辛辣なものになる。そうわかってはいるのだが、だからと言って貴明に有効な迎撃手段がないこともいつものことだった。
だから彼は諦めて素直に尋ねる。
「なにが?郁乃が良くなるんだから、いいことだけだろう。体もよくなるんだし、これで一緒に出かけることもできるな」
どうせいじめられるのなら、正直に思ったことを言おうとして言った言葉だったが、本人の思惑と違いなぜか郁乃にダメージを与えたようだった。
「な、ばっ……そ、そんなのは姉とやりなさいよね」
「?どうして愛佳と出かけなくちゃいけないんだ」
「うるさい!そんなこと自分で考えろ!」
「……はあ。そうですか」
怒りなのか何なのか、貴明には判然としなかったが、赤い顔をした郁乃は怒鳴るとそのままぷいっと横を向いてしまう。このまま放って置いて、自然と郁乃の機嫌が治るのを待つか、或いはそのまま郁乃が寝てしまうかのどちらかなのだが、今日に限っては郁乃が手術をして治る可能性が高いという事実が、貴明を饒舌にしていた。
「でも、愛佳は休みの日も忙しいし。ていうか女の子と出かけるなんて高等テクニック、俺にはできん」
「じゃあ、あたしは何だってのよ」
それは効を奏したようで、機嫌の良し悪しはともかく、そして視線は相変らず背けたままだが郁乃が反応する。
「えーと。そうだなあ……妹?」
少し考えて出した貴明の返事は、どうやら郁乃にとっては思わしいものではなかったようだ。後姿でもわかるくらいにがくっとうな垂れ、はああっと大きくため息をついた。
まあ、この男にそういうことを期待して無駄だってことはわかってるけどね。
そう思いつつも、自分自身がどうしてそんなことを考えているのか、までは頭が回っていない。そもそも、何かしらの返事を期待していることが、郁乃にとっては驚愕の事実であるというのに。

貴明にしてみれば、郁乃はイコールこのみ、であった。もちろん、このみはこんなに可愛げがなくない、というよりちっこくて明るい子犬みたいな妹なので、同じちっこくても吐き出す言葉は毒まみれ、態度は全身総毛立ったハリネズミ、な郁乃とはまるで違う系統ではある。
それでもこうして、時には頼まれごとの山に埋もれて来られない愛佳の代わりに、買い物などまでしてやりつつ毎日のように病院に通っているのは、ただクラスメイトの妹の見舞い、だけでは終わらない何かがあるわけで。
それが何であるのかは、未だはっきりとはしていないのだが。
「でも、郁乃は治ったら行って見たいところとかって、ないのか?」
どうにも郁乃の機嫌を直すことには失敗したようなので、とりあえず同じ流れのままだけれども話題を振ってみる。
「……別に」
「間があったな」
「そりゃ、考える時間くらいはあるわよ」
「ということは、行きたいところが沢山あるってことだよな」
時々鋭いわね、こいつは。そう思って郁乃は視線を貴明に戻した。
何を言われても怒らないのは最初に会ったときからずっとだ。だからつい、郁乃も遠慮がなくなってしまうのだが、自分だってそんなことを言いたくて言っているわけではない。それはそう、あれだ、姉に対するのと同じで、近しい人間だから甘えてしまっているのだろう。
そう考えるのはいいのだが、やっぱり『どうして貴明にそういう態度をとるのか』までは考えが及んでいなかった。
「そりゃね。殆どの時間を病院か家のベッドで過ごしていれば、だいたいどんな場所でも『行ったことのない場所』になるでしょ」
「そうかあ、なら治ったら色んなところに連れてってやるよ」
貴明の言葉に、思わず郁乃は彼の目を凝視してしまう。
その黒い瞳の中に嘘偽りやその場しのぎの軽薄な色はなく、今の彼の言葉が心から言ったことだということははっきりとわかった。
だからと言って素直に頷くようでは小牧郁乃ではない。
実の姉にすらあれだけ辛く当るのだから、他人である貴明にそうほいほいと懐くわけにはいかないのだ。小首をかしげてちょっと考え、再び貴明に向き合った郁乃の目には、いつものいたずらな光が戻っていた。にやり。
「じゃ、マインツの大聖堂」
「どこだそれは」

いつもの帰り道。
愛佳が来るまで学校のことや「今日の愛佳」、主にドジ話だが、とりとめのないことを話しながら待ち、愛佳がやってきて郁乃の身の回りの世話が終わる頃にはだいたい面会時間いっぱいになっている。
相変らずの「毎日来なくていい」を挨拶代わりにして病院を出ると、太陽が傾き始めていた。
「時間通りだね」
半歩遅れて歩く愛佳を振り向いて、腕時計を確認した貴明が言う。いつものことだから、バスの時刻はしっかり覚えている。わざわざバス停で時刻表を見るまでもなかった。
「え、あ、うん」
ぼんやりと貴明の後姿を見ていた愛佳は、少し遅れて返事を返す。何となく、微笑みかける貴明が眩しかった。
「どうしたの、疲れた?今日は何の手伝いだったっけ」
いぶかしげに問いかける貴明に苦笑を返すと、
「ううん、違うの。別に疲れたってわけじゃなくて、ちょっと考え事してただけだから」
「考え事?」
「うん……」
歯切れが悪い。どうしたのか、と問う貴明の目線に気づき笑ってみせるが、それも無理やりだった。
「愛佳?」
気になった貴明が声に出して尋ねる時には、彼らの足はバス停に到着して止まっていた。
バスが来るまで3分、今日は学校に戻る用事もないので降りるのは2人とも駅前。乗車時間は凡そ8分程度というところか。いつもはこの十数分の会話を楽しむのだが、今日の愛佳は珍しく黙り込んだままだった。
郁乃の手術が気になっているのだろうか、と貴明は思ったが、さっき病室でも話したように手術そのものは大きなものではない。身内としては「手術」という言葉だけでも構えてしまうのかも知れないが、愛佳もそれほど大袈裟に考えてはいないようだった。
施術を受けるのは郁乃だからそれに配慮して、ということもあるだろうが、その時の愛佳は無理をしているようにも見えなかった。
ではいったい、何が愛佳を無口にしているのだろう、と彼は今日一日の愛佳の様子を振り返ってみる。

朝。
雄二とともに教室に入った彼を出迎えた愛佳は、2人きりの時以外では以前のように呼び合うという約束通り「おはよう、河野くん、向坂くん」と出迎えてくれた。
昼。
このみや環たちと一緒に食事を摂る貴明と雄二には、昼休みの愛佳の様子はわからない。今日も恐らく由真と学食だったのだろうが、戻ってきた彼らの目には5時限の化学の教材運びを手伝わされ、手伝いを申し出た2人に「や、や、大丈夫ですからあ〜」と遠慮するいつものいいんちょしか映らなかった。
放課後。
HRが終わり、愛佳の席に寄った貴明に「今日は用事があるから遅くなるって、郁乃に伝えてもらえますか」と申し訳なさげに頼んだ彼女にも、いつもと違う様子はまったく見受けられなかった。

と、なると、病院に来てからということになる。
先に着いた貴明が郁乃とバカ話—郁乃にしてみれば面倒だから適当に相槌を打っているだけとなる—をしていたところにばたばたと入ってきた愛佳が郁乃に静かにしろ、と叱られしゅんとなっていたのが最初。
それから、郁乃の世話をしようとして煩がられたり、手術の話をしたり。その途中でも自分で持参したマイ・お菓子へ伸びる手が止まらなかったのも愛佳にとっては不名誉なことかもしれないが、やはりいつも通りだった。

はて。
俯き加減に貴明の背後でバスを待つ愛佳に、探る目を向けてもわかるはずがない。郁乃は郁乃でわかりにくいところもあるが、今日の愛佳は更に手強かった。
——雄二やこのみは判り易すぎるので問題外、環は別の意味で問題外だ。
はて、そうなると。
「あのさ、俺、何か悪いこと言ったりしたかな」
覚えはないが、病室での会話で下手なことを言ったりしたのかも知れない。そう思って尋ねた貴明の言葉に、愛佳は大きくかぶりを振って、
「や、や、そんなこと、全然ないですよぅ」
「でも……」
「ほんとに、ほんとに何でもないんですって」
「だけど」
「ほら、今日は体育があったでしょ、だからちょっと疲れてるだけですから〜」
にっこり、と。
そうは言っても何となくだが貴明にはそういう疲れには見えなかった。それに、
「でも、敬語になってるし」
「あうっ」
気が動転すると相変わらず敬語なところはまるで進化がないので、ある種の嘘発見器というかバロメータになる。指摘した貴明に、愛佳は観念したのか薄く笑ってみせた。
「力になれるかどうかわからないけど、何か悩んでることとか困ってることがあったら話してみてよ。できるだけ力になるからさ。ああ、もちろん話せないことならいいんだけど」
「うん……そう、そうだよね」
何かを決心したかのように、口の中で呟き何度も頷く。
よくわからないが、話してくれるのなら絶対に力にならなきゃ、と貴明は身構えた。口約束でも約束だ。違えるようなことはしたくないし、例え力になれなくても全身で受け止めなきゃならない。
……と、そう環に教育されていた。調教と言ってもいいかも知れないが。

「あ、あのね」
調教された自分にトホホ、といい具合に落ち込んでいた貴明の目に、真剣な表情の愛佳が突然割り込んでくる。
頭を切り替えて、しゃっきりと彼女の目を見つめ返す。さすがにこんな時に照れたりはしない。
「あの……えっと」
もじもじと、なかなか切り出せない愛佳だったが、貴明は我慢して待つ。
陽の傾きが、バスの時間が近づいてきていることを示している。沈むかどうかという瀬戸際、この時間帯になると太陽の傾き方が早い。残照で愛佳の横顔を照らしながら落ちていくオレンジを視界の端に収めながら、1本や2本は逃しても問題ないかな、と思っていた。
それくらい愛佳はついぞ見たことがないほどに真剣な表情をしており、軽い気持ちで受け流せない雰囲気を作っている。

そして、愛佳は愛佳で、困っていた。
言い出しかけた以上、何でもいいから言葉を紡がないと間がもたない。真剣に聞こうとしてくれている貴明にも失礼だろう。そうは思うのだが、事が事なだけにそう簡単に切り出すこともできない。
貴明を郁乃のお見舞いに連れて行った時には、こんなこと考えもしなかった。ただ、書庫でのことも含め色々と手伝ってもらったり、去年からの付き合いで貴明ならば郁乃に腹を立てたりしないだろうと、それなりに貴明の人柄を感じ取ったうえでのことではあった。
けれど、貴明自身を知っていることにはなっていなかったのだ。
いや、正直に言ってしまえば、貴明自身のことよりも自分のことがもっとよくわかっていなかった。

どうして書庫の整理を手伝ってもらったのか。
どうして恋人の真似をするように頼んだのか。
どうして郁乃の見舞いについて来てもらったのか。
どうして、こんなことを考えるようになってしまったのか。

後付の理由ならば、ひとつだけを除けばいくらでも付けることができる。
たまたま手伝ってもらっていたのが恒常化しただけ。
異性が苦手だという弱みを妹の前で見せたくなかっただけ。
郁乃にも、学校へ通う前にできるだけ他人に慣れて欲しかっただけ。
最後のひとつだけが答えを出せない。他の3つの答えならばすぐに出てくる——もちろん、それが正しい答えであるのかはわからないけれども——のに、最後のひとつはどうしても理由を探し出すことができない。
それは、正しく言えば理由を探すことができないのではなく、自分自身がよくわかっていないから。きっとそう。
ふわふわとして、かたちを持たないままに自分のこころにわだかまっているそれが、ここ数日の愛佳を惑わせていた。自宅の部屋にいても、バスに乗っていても、教室でも書庫でも。時間を追うごとにその曖昧さがはっきりとしてくればいいのに、そう思うのだけれども、愛佳の願いとは裏腹にそれはますます靄がかかったように朧になっていく。

——嘘だ。
自分は嘘ばかりついている。
郁乃に偽りの自分を見せているのもそう。
本当の自分を学校でもありのまま見せればいい。異性が苦手で、ちょっと触れただけでも驚いて逃げ出してしまうような、情けない自分を見せてもいい。それが家族なのだから。
書庫の閉鎖を貴明に言い出せないのもそう。
CDの貸し出しは図書委員のレベルで決まった話ではない。学校としての決定である以上、図書委員でもない自分がこれ以上頑張っても、書庫を書庫のまま残せることはない。図書委員長に鍵を返し、貴明にはその事実だけを伝えればいいのだ。きっと彼は怒らない。怒らないで、ただ寂しそうに書庫から去っていくだけだ。
そんな貴明の姿が想像できるから、自分は嘘をつき続けている。いや、それもまた誤魔化しでしかない。
ただ貴明との接点がなくなってしまうから、それが理由。
単なるクラスメイトになってしまえば、クラス単位での行事などで一緒のことをする以外、彼との接点などないも同然になってしまう。それが嫌なのだ、自分は。
書庫にしても郁乃にしても、それを理由に貴明との繋がりを求めているだけ。
ほんとうに嘘ばかりだ、自分は。
自分でもわからない、なんてお笑い種だ。わかっているのにわからないフリをしているだけではないか。
郁乃をダシに使っていることへの罪悪感から、わからないフリをして自分を誤魔化している。
最低な姉だ。どんなに郁乃のことを、心底から姉として心配している部分があろうと、妹を貴明との接点の口実に使っている事実は消えたりしない。それを色々な仮面で覆い隠そうとしている、卑劣さもまた。

「愛佳?」
黙り込んだままの愛佳が、俯いたので心配した貴明が声をかける。バス停の明りだけで彼女の様子を探ろうとするが、微かに上下する肩以外には、何も読み取ることができない。
「愛佳、どうかした」
もう一度、声をかける。
その響きにようやく顔を上げた愛佳に、
「……愛佳、泣いてる、の?」
「えっ?」
慌てて手を目の下に当てる。濡れた感触。自分でも気づいていなかった涙が、溢れ出していた。
「あ、や、ち、違うの、別に泣いてるわけじゃ」
言い繕っても、バス停の明りに照らされた涙はどうしても隠せるものではない。自分よりも先に貴明が気づいたくらいなのだから、彼ははっきりと愛佳が泣いている姿を見ている。
それなのに「泣いているわけじゃない」と言っても仕方ないだろう。
けれど彼女は、そう言うしかなかった。彼は優しいからきっと、この涙の訳を聞かないでいてくれる。聞かないまま、自分を気遣ってくれる。そんな優しさが、自責の念にかられている今の愛佳には辛かった。
止まって、お願い。
そう心中で唱え続けるが、一度あふれ出した涙は一向に止まる気配を見せなかった。そしてそれが益々、彼女の心に哀しい気持ちを降り積もらせていき、
「愛佳っ?!」
慌てて呼び止める貴明の声と、近づいてきたバスのエンジン音を背に、愛佳は駆け出していた。

「よ、郁乃」
できるだけ明るく言ったつもりだった。
「姉に何をしたのよ」
だが、返ってきたのは、ここ最近ようやく耳にすることがなくなりつつあった、初めて会った頃の刺々しく冷たい口調だった。
やっぱり、そうは思ったものの口には出さず黙っていつものようにベッドサイドにあるパイプ椅子に腰掛ける。何から話せばいいのか、いやむしろ何を話していいのか皆目見当もつかないが、とにかく郁乃の反応から愛佳が今日ここに来ない、もしくは自分が帰った後に来るのは確実だ。と、すると今日は早めに帰った方がいいかも知れない。
そんなことを考えている間も、郁乃の厳しい視線は貴明を捕らえて離さなかった。
「何があったのか、俺が聞きたいくらいだよ」
ふう、と溜息をついて郁乃に答える。それは貴明の本音だ。

朝、教室で会っても挨拶すら交わせなかったし、休み時間に話しかけようとしたものの何を話せばいいのかわからず、貴明からも話しかけることができなかった。放課後になって書庫に行こうと病院に行こうと、何となく交わしていたアイコンタクトもなく、チャイムが鳴ると同時に愛佳はそそくさと出て行ってしまった。
一往、書庫に寄っては見たものの、鍵は開いておらず図書室で委員の子たちに聞いても来ていない、ということだったので一人で病院に足を運んだのだ。
「嘘、もしくは事実の欠片だけね。あの姉が遅くなるどころか来ないなんてこと、今までになかったんだから」
「愛佳、来ないって?」
驚いた貴明の質問に、鋭い視線のまま軽く頷いてみせる。
「そうか、来ないのか」
言葉に出してみると、より事の重大さが現実味を帯びて感じられてきた。郁乃の言う通りなのだろう、どんなに忙しくとも愛佳は毎日、たとえ数分だけでも顔を出していたに違いない。それが来ない、ということは。
「さあ吐きなさい。事と次第によっては生かしておかないわよ」
「恐ろしいことを平気で言うな。だけど、俺にだってわからないんだって。本当に」
「嘘じゃないでしょうね」
「どうして俺が嘘をつかなきゃならないんだ。誓って何もしていない。ただ……」
「ただ、何よ」
思わず口に出してから、しまったと思った。郁乃が食いついてくることくらい予想できたのに、つい口をついて出てしまった。
諦めた貴明は、じっとこちらを責めるような冷たい視線に溜息をつく。
「昨日、ちょっとな」
「何かしたの」
郁乃の目が細くなる。視力の低下で時折こういう目をするが、今回のはもちろん普段のそれとは訳が違った。
慌てて両手を振って、
「いやいや、俺は何もしてない。帰り道に愛佳が何か言いたそうだったんだけど、結局聞けなかったってそれだけだよ」
愛佳が何も言ってないのだから、彼女が昨日のバス停で涙を流したことを貴明が口にすることではないだろう。見舞いに来ないという時点で、彼女に何かあったことくらい郁乃にはわかってしまうわけだが、だからと言って全てを話してしまうというのも気が引ける。
とは言え、こうして姉の心配をする妹に黙ったままなのも心が痛い。どっちつかずなまま、もやもやした気分を貴明は抱え込んだ。
郁乃の方は、言い訳を聞いて胡散臭そうな表情を一瞬だけ浮かべたが、黙ったしまった貴明にそれ以上突っ込むことをせず細めた視線だけを流していた。

郁乃の心配も尤もだが、貴明も昨日の愛佳の態度をずっと気に掛けていた。
どうして。
どうしてあそこで泣いたのだろう。
彼女が何かを伝えようとしていたのは確かだと思う。ただ、それは簡単に口に出せる言葉ではなくて。何度も逡巡して、ようやく口を開きかけたけれども、あと一歩の勇気がなくて言い出せなかった、そんな感じだった。
郁乃の病気のことではないだろう。
昨日は手術の日程が決まって、どちらかと言えば貴明と郁乃はいつもより友好的で、明るい雰囲気で話していたのだから。愛佳だって途中からやってきて話に加わったが、特に変わった様子もなく病室は終始、楽しいままだったのだ。
その前、学校での愛佳も変わりなかった。朝も昼休みも放課後も。
貴明の思考は昨日と同じループを辿り始める。
朝の教室、昼休みの廊下、放課後の昇降口。
そして病院での会話、帰り道、総合病院の大きな正門を潜った夕日の中、薄暗くなっていくバス停。
行き先表示の灯りに微かに光った、涙。

ダメだ。
どうしてもわからない。今日のうちに無理にでも愛佳をつかまえて聞いておけばよかったのだろうか。
……いや、そんなことはできっこない。
実際、彼は今日も何度か愛佳に声をかけようとして掛けられなかった。がそれは、2人のタイミングが合わなかっただとかそういうことが根本的な原因ではなく、貴明が直前で躊躇ってしまったことの方が大きい。
喉まで出かかった彼女の名前を呼ぶ前に、いったい話しかけて何を聞けばいいのか、何を言えばいいのかわからなくなってしまい、そしてそのまま後姿を目で追ってしまうだけだったのだ。
けれども、もし彼が愛佳を呼び止めることができたとしても、話ができたかどうかは怪しい。
授業中や教室を去り際の愛佳をちら、とだけ見た彼の目には、沈んだ彼女の表情が映ってしまっていたから。それはいつものからかわれた時の困った顔や、クラスメイトが帰りのHRで愛佳の言葉に耳を貸さずにさざめいている時の表情とはまるで違う、見ている貴明の胸が痛くなってしまうような憂いを含んでいた。
由真に聞いてみようとしたが、それも止めてしまった。
どうしてだか、愛佳は由真にも何も話していないのではないか、という気がしたから。
彼女は貴明に何かを告げようとしていたのであり、それはだから、貴明が自分自身でそれが何であるのかを察してあげなくてはならない、そんな気がした。
けれど、貴明にそんなことができるかと言われると、否と言うしかない。
彼は彼女を、まるで知らないのだから。
愛佳が毎日、どんな気持ちでこの病室に足を運んでいたのか。
どうして書庫を残そうと奮闘したのか。
どうして彼を郁乃の病室に連れて来たのか。
何が好きで何が嫌いで。
日々をどんな気持ちで過ごしているのか。
推測して答えることはできるかも知れない。けれど貴明はそのすべてに裏づけを持たせることも、その答えすべてに自信を持つこともできなかった。
郁乃の病室に連れてきたことにしても、彼女の口からはただ、郁乃が書庫と自分の話に興味を持ったから、としか聞いていない。郁乃が興味を持った、なら愛佳はそれでどう思ったのか、どう考えたのか。
そういうことを考えていなかった。
よくもまあ、力になれることならなりたい、だなんて言えたものだ。
愛佳のことをよく知りもしないで、知ろうともしないで彼女の力になどなれるはずもないではないか。
もしかしたら愛佳も、それがわかっていたから彼に何も言わず走って行ってしまったのかも知れない。

貴明は自嘲気味に笑う。
それはほんの微かな唇の動きだけだったが、郁乃はそんな微妙な変化を見逃すほど甘くなかった。
「なによ」
鋭い声が飛ぶ。
彼女はまだ彼を信じたわけではない。ただ貴明が懊悩していたようだったから、それに合わせただけ。姉に何かしたのだったら、思い出すのも嫌なくらいの目に合わせてやろうと思っていたが、姉のことについて考える時間だけはくれてやろうと、その仏心から黙って待っていただけだ。
「いや」
なんでもない、と言おうとして貴明は顔を上げる。愛佳を心配することと、貴明への不信と怒りとをごちゃまぜにしたような複雑な表情で郁乃は貴明を見ていた。
その表情を見て彼は言葉を変えた。
「俺はやっぱり他人なんだな」
郁乃は答えない。何を今更、そう言いたげだ。
「愛佳が何を悩んでいるのか、まったくわからない。そもそも、俺ってあまり愛佳のことを知らなかったんだな。愛佳のことをよく知りたいとか言っておきながら、これかよ」
大きく溜息をついて項垂れる。
その姿をじっと見ていた郁乃だったが、それで何となく何があったのかを推察した。
「あんたもちょっとはマシなのかもね」
「え?」
再び顔を上げた貴明の前には、さっきよりは険を和らげた郁乃の顔があった。

よく考えてみれば、こいつが姉に不埒なことをするわけがないか、そう郁乃は思った。信用した、というよりはそんな勇気はないと小馬鹿にした考えではあったが。
彼が姉のことをよく知っていないというのは本当だろう。それについて異論などありようもない。子供の頃から一緒だったわけでもなければ、お互いを深く知るほどの付き合いでもない。まして姉は引っ込み思案ではないけれども、自分のことを進んで話すような人間ではない。あの姉のことを知ろうと思ったら、彼の方からよっぽどアグレッシブに進んでいかなければならないだろう。
そして貴明に、それほどの思いはなかった。
それはそれで郁乃にしてみれば、そんな気持ちで姉に近づくな、と言いたいところではあるが、貴明は今回のことでそんな自分に気付き、悩み、更に前へ進もうとしている。
固く握り締められている手を見て、それはわかった。
それだけは評価してやっても良いだろう。
「あんたはどうしたいのよ、これから」
だから聞いてみた。
貴明が姉や自分と、これからどういう風に付き合っていきたいと思っているのか、そこだけは確認しておこうと思ったから。もしこれで、姉から聞いていたように「女の子は苦手だ」を免罪符と逃走呪具代わりにしようものなら、姉のためにもさっさと切り捨てるべきだ。

「郁乃を怒らせるようなことはしないよ」
ひどく遠回りな言い方にも聞こえるが、貴明の偽らざる本心だった。
言葉だけで格好いいことを言っても、行動が伴わなければどうにもならない。愛佳の力になりたいし、そのために彼女のことをもっと良く知りたい。
同時に、郁乃を大切に考える気持ちも彼の中には存在していた。
愛佳と郁乃、どちらも悲しませたくない、そんな思いがこの言葉には込められていた。
「ふん。いいわ、信じてあげる。あんたは姉を落ち込ませるようなことをしていない」
「郁乃」
あっさりと信用されたことで呆けたような顔をする貴明に、
「まあ、あんたが姉に何かできるとは思ってないわよ。恐らく、こんなとこでしょ」
そう言って郁乃は、想起できる昨日の帰り道であったことの郁乃版予測を開陳した。
「姉が何か言いたげにしていたのを、あんたは気づいた。だから『どうかしたのか』と聞いたけれど、姉は明らかに誤魔化してる様子で遠慮する。でも」
ベッドに起こしていた体を後ろに投げだし、ぼふ、と枕に背中を預ける。
「決心したかのように姉が何かを言いそうになった。でも結局言えないまま逃げ出した。そんなとこでしょ」
「……凄いな、郁乃」
心底から驚き、目を丸くして貴明は嘆息する。
もしかしたら愛佳は電話で何かを言ったんじゃないかと思うほどだった。
もちろん、病室に電話はないし、愛佳は今日来られないことをナースセンターに連絡し、担当の看護師がそれを伝え聞いて郁乃に知らせたのだが。
「もしかしたら」
腕組みをして宙を睨む。
「泣いてたんじゃない」
「はぁ。お前、ほんとうは見てたんじゃないのか」
「べつに。ただ」
「ただ、なんだ?」
「なんでもない」
「おい」
今度は郁乃が言葉を濁す。これ以上は自分が言うべきことではない。

結局のところ。
郁乃にはわかっていた。いつからかは忘れてしまったけれど、姉の会話の端々にあがるようになった「たかあきくん」。書庫と授業と休み時間の世界から、突然現れた男の名前。
それが姉の口から出てくることがまず驚異だったし、それだけでなく、どうやら姉は隠し通せていると思っているようだが、異性が苦手な姉が彼に書庫の整理を手伝ってもらっているという。
中学の頃からよく名前が出てくる由真でさえ書庫の整理は気が向いたら時々、という程度なのに、その「たかあきくん」とやらは毎日手伝っているようだ。毎日、姉の会話の中に出てくるようになったから。
彼女の記憶にある限り、姉が男子の名前を口にしたことはない。あるとすれば、あれはそう、確か小学校の頃に誰ぞのお別れ会で男子の誰かと司会をやった、というくらいだ。
両親ともに一人っ子でない小牧家には親戚だっているし、愛佳や郁乃と年の近い従兄弟もいる。体調が良ければ郁乃だって親戚の集まりに出たりもするし、彼らと会話をしないわけでもない。もっと小さい頃は年下の従兄弟を小突いたりした記憶もうっすらと残っている。
だが、姉がそういうコミュニケーションをとっている姿を見た記憶はない。話しかけられれば答えるが、自分から積極的に話しかけることはしないし、今思い出してみれば不自然なほどに距離を置いて会話をしていた気がする。
だから郁乃はとうの昔に気づいていた。
姉の愛佳は、異性と接することを苦手としている、と。
そんな姉の会話に、突然出てきた「たかあき」。
目の前にいる、どうということのないこの男の名前。
それだけの事実で十分だろう。
自分には理解できないが、こんな風采の上がらない男を、どうやら姉は気に入っているようだ。いや、今更言い繕う必要はない。姉はこの男が好きなのだ。
どうして、どこがいいのか、なんて聞くだけ無駄だろう。恋愛どころか異性にまったく縁がなかったせいで、姉のような異性恐怖症(が正確な言い方であるかどうかはわからないが)にはならかなった郁乃には、完全に理解の範疇外ではあるが、そんな郁乃ですら人が人を好きになる理由に明確さなどあり得ない、ということはわかる。

だから、姉がここへ来ない、でも貴明はやってきたということが何を表しているのか、それはもうはっきりとわかってしまった。
貴明が来るということ自体はわからないでもない、というよりこのお節介な男は最初に宣言したことを律儀に守り通しているから、姉にだって今日彼がここへやってくるだろうということは察することはできたろう。
そして肝心な姉が来ない、ということは姉は貴明がここに来ることがわかっていて、病室で会ってしまうことを避けたいという理由で「今日は見舞いに行けない」という連絡を寄越したに違いない。でなければ、雨が降ろうと槍が降ろうと、それこそ体育祭などで疲れていたとしても、面会時間に間に合う限り見舞いに来ていた姉が、看護師の言によれば「何も理由を言わずに」ただ今日は来られない、とだけ告げるなどはおかしい。
自分から好きな男との間をおかしくしてしまうような姉も姉だが、
「こいつもこいつよね」
ぼそり、と。貴明には何かを言った、程度にしかわからなかったようで、
「何か言ったか?」
「べっつにー。何でもないわよ」
呆れた顔をする郁乃だったが、姉以上に異性どころか同性とすら接触が少ない自分が、その程度の事実で姉が恋をしたという確信を持ったのはなぜなのか、その本当の理由には相変わらず自分ではまったく気付いていなかった。

b_list.jpg(497 byte)   後編へ続く。